細切れ日記帳1


・markdown形式でホームページ作った。必要最小限の物しかない慎ましいサイトだ。

ここで公開している文章は実験版だ。特にまとめる意図もなくその場の雰囲気で書いたテキストだったり、日記の断片を保存している。他者の人権を蹂躙しない範囲で、いかなる検閲も制限も受けない文章を書く、ということを目的としている。
ここ数年間の間で、ネット上の世論を気にしながら文章を書くことが増えた。この話題は触れない方がいい、これは誰かを不快にさせるかもしれない。もしかしたら炎上するかもしれない、と思って書くことを制限している間に、まったく文章を書けなくなってしまった。
人間社会の情勢に合わせて自分の言葉が萎縮していったので、なるべく自由に文章を書くようにする。

・文章の推敲はほとんどしていない。
文章表現をわかりやすくしようとすると、どうしても何度も読み返して、不要な表現を削り、わかりやすいように単語を前後させるなどのプロセスを繰り返すのだが、それは思ったよりも面倒くさい。日常雑記ならなおさらのことだ。
・めんどいのでですます口調はやめる。だ、である調で統一する。


・colemak練習帳。

・親指シフトとcolemakという変態配列になりつつある。目標は思考の速度で英単語を入力できるようになることだ。英文として構成できるかどうかにかかわらず、思いついた単語をそのままテキストエディタに垂れ流せるように自分を訓練する。
おそらくcolemak配列は親指シフトを習得することに比べたら簡単だとは思うのだが、英文タイピングと同時に習得したいと思っているのでそれだけが気がかりだ。まだ筋肉にタイピングの動きをすり込ませられていない。これは頭で覚えるというよりかは、微妙なう美の動かし田を身体にすり込ませる作業であるところが大きい。今の段階だと、どこにキーがあるのかを思い出しながら打っているのだが、これでは速度が出ない。
・一度頭の中で配列表を思い出して、それからどの指でキーを打つのかを思い出しているのでうまくタイピングできない。できることはできるのだが、まだ入力にラグがある。
・親指colemak ※変態配列である。
親指シフトとcolemak配列を合体させれば、ホームポジションから指を動かさなくてもいいような、キーボードの中段だけで文字を入力できるようになるのではないのかと思った。今の段間では両手の親指が遊んでいて、効率的にタイピングができているとは言いがたい。そこで親指シフトでキーボードの上段と下段をシフトすることで、より効率的な英字タイピングができるのではないか?というのがアイデアだ。

・牢獄のピアニスト。

タイピングを練習するときには、プリントアウトした配列表をクリアファイルに入れてどこでも指の運動をイメージトレーニングできるようにするのが効果的だ。どこにどの文字があるのかを暗記するだけでは不十分で、指が単語を打ち込む全体の流れを、指に記憶させる必要がある。そうすることで初めてなめらかで流れるようなタイピングができるようになる。
プリントアウトした配列表でイメージトレーニングする方法は、個人的に牢獄のピアニスト方式と呼んでいる。これは私はソビエト領岩手で秘密警察に捕まったときに、同じブタ箱に放り込まれていたピアニストから教わった。彼は牢獄の床にチョークで鍵盤を書いて、演奏の腕が鈍らないように練習に精を出していた。
「いいかい、生き延びるために必要なのは強靱な身体ではない。ここから生き延びてやりたいことがあるかどうかという希望なんだ」と、ピアニストは言った。岩手内線と国連による度重なる空爆、埋められることのないままの死体が腐臭を放ち、白骨になっていく。岩手の惨状を音楽で表現した彼の曲は、後に音楽のゲルニカと呼ばれることになる。


・這髏遺(はろい)

岩手では飢饉で死んだ人間や口減らしのために殺された子供の亡霊が村を徘徊し、「米をくれ……」と言いながら生者の足を掴んでくる。
彼らに餅やおにぎりを与えることで成仏させるのが、岩手の奇習である這髏遺(はろい)である。
『岩手奇習大全』(誣罔書房)より引用。
これがハロウィンの源流であることにまず間違いは無いだろう。元々、飢饉が起こった土地や国では同様の風習が生まれる。ジャガイモ飢饉のアイルランドではその時に餓死者を伴うためのポテト祭りがある。

食料を分け与えることによって、霊を成仏させる。それができない場合はその集落には災いが訪れる。すなわちトリック・オア・トリートだ。

日本でハロウィンが定着し始めたのと、子供の貧困率が六人に一人になったことの間には相関性があると考えるのだ妥当だろう。
日本社会が必要としているのは、おにぎりが食べたいと書き残して死んだ人間の鎮魂である。出生率の低下は、そもそも子どもを産まないという口減らしなのだ。
わりと適当に書いているし、この時点でハロウィンの意味を知らない。


・マネーワールドカップ

「どうして汗水垂らして稼いだ金を、貧乏人のためにつかわなければならないのだ」という疑問のアンサーとして創設された競技。それがマネーワールドカップである。
 自身の資産を無尽蔵につぎ込んで、人類発展や貧困解消のために尽力した者に金メダルが与えられる。勝者は究極の慈善家として歴史に名を刻まれるという名誉ある賞である。
 この競技は世界恐慌時のアメリカにまで遡る。金の亡者と罵られた資産家たちが、いかに自分が気前よく赤の他人のために金銭を浪費できるのかを競い合った。
 これはエンパイアステートビルの決闘と呼ばれ、マネーワールドカップの起源とされている。自身の全財産をビルの屋上からばらまく「アメイジンググレイス」や、失業者にパンやスープを無償で配る「キリストの奇跡」などの必殺技が舞い乱れた幻の決闘である。
 後に経済学者J.M.ケインズの『雇用・利子および貨幣の一般理論』に大きな影響を与えたと言われている。
 これが米ソ冷戦時代、資本主義対社会主義の軋轢の元で正式な競技となったのがマネーワールドカップだ。
 費やした資金の合計以外にも、どのような手段で金を使ったのかが問われる芸術点、競技者の人間性が評価される人道点などがある。金の力にものを言わせて貧困層に物資援助を行ったり財政援助をするよりも、同じ資金を使って貧困層の教育に投資しながら生活水準を向上させていく方が高得点が得られる。
「おおっと! 優勝候補の資産家が大企業への大幅増税と医療福祉制度の拡充策を打ち出した! これは大きな人道点の加算が予想されますね。これに対抗して現在二位のIT企業成金、タックスヘイブンを利用した節税を国際的に禁止する枠組みを提唱しました! これは痛い。今まで節税回避テクニックを駆使して、税金をびた一文たりとも支払わずに収益を伸ばしてきたIT企業です。これは翼をもがれたに等しい! この勝負でこれまでに自らの企業を支えてきたテクニックを全て吐き出して、王者の首を取りに行きます! これは目が離せない!」


・アーキタイプ!プリキュア(プリキュア元型)

 古典文学などに対して自分なりの視点で語れるような教養と才覚が欲しいと思っていたが、俺が自分の魂を下敷きにして語れるのはアイカツ!とプリキュアだけだ。女児向けアニメと同じ熱量を込めてグレートギャッツビーを語れたらかっこいいんだろうな、と思いつつ、「プリキュアはシャーマニズムの基本形である」というプリキュア神話類型の話しかしたくない。
 プリキュア神話類型とは何か。それは1、純真無垢な乙女が、2、善の世界に属する精霊の力を借りて、3、超自然的な力を手にし、4、この世界の秩序を破壊しようとする悪霊を、5、戦いによって退ける……という基本的な物語構造を共有している物語群だ。
 これをアーキタイプ!プリキュア(プリキュア元型)と呼ぶ。
 悪霊はそれ自体で人間の世界に害を及ぼすのではなく、常に人間の心の弱さを媒介にして力を発揮する。人間が抱く強欲、絶望、不幸、ネガティブシンキング、自己否定、自己中心性、貪欲、不協和を温床とすることで、この世界に影響を及ぼす足がかりを得る。
 それと同時に、人間の持つ善性から放たれる光によって、これらの邪悪さを乗り越えていくための力が生まれる。人間の弱い心からプリキュアの敵が生まれ、人間の善なる魂からプリキュアの力の根源になるものが生まれる。マザー・テレサもアドルフ・ヒトラーも人間の子宮から誕生した。この世界の善も悪も人間の心から産み落とされる。
 プリキュアに関しては長いことナージャ殺しの冤罪をかぶせ続けていた。死にゆく世界名作劇場風味の明日のナージャを、打ち切りに追いやったプリキュアは仮想敵国である。ナージャを失った悲しみで目を曇らせていた俺は反プリキュア主義者として地下に潜った。己の不寛容さによってリアルタイムでプリキュアを鑑賞する好機を逃したのが俺だ。
 暴力によって悪を排除するプリキュアは、ヒーローとして許容できても、おれがこれまでに信じてきた魔法少女規範には真っ向から反する。魔法少女規範とは、女児向けアニメの魔法少女が遵守するべき規範である。具体的には「魔法少女は人の背中を押すだけ」だという価値観だ。魔法少女は心の傷を殺菌して、化膿しないように手当てできる。が、実際に心の傷を直すのは本人の自己回復力と意思の力にかかっており、そこまでは魔法少女は関知できない。なんでも魔法でできるけれども、人間の心を魔法で無理矢理変えることだけはできない。
 ただ、それだけが魔法少女の全てではない。プリキュアはおれが信じていた魔法少女のあり方とは異なっているが、間違っているわけではない。異なる神話的秩序に属しているだけだ。

・糞甲子園地獄

 生まれて初めて甲子園を真面目に見ていたが、正直言って心の底からブチ切れている。
 始めはピンチからの追撃、同点、そして逆転したと思ったら、相手のチームもガッツを奮い立たせて延長線に持ち込む!非常に熱い試合だ。
 これで一瞬おれは「甲子園ってエキサイティングだなー」と思ったのだが、しんどそうに球を投げる投手の表情を見て前言を撤回した。これは人間の作り上げた地獄だ。
 甲子園には球数制限がない。プロ野球選手が何ヶ月もかかって投げる球の数を、わずか二週間とかそこいらで投げ続ける。勝ち進めば進むほど肩は疲弊し、投げる球は徐々に力を失っていく。交代要員もいないままで無理をしてなげつづけなければならない。
 必然的に甘い球が多くなり、コントロールがぶれ、逆転しやすい余地が生まれる。投手の肩に負担をかければかけるほど、感動の度合いが増していくという暗黒の競技だ。
 おれがこれまで見てきた逆転劇も、感動も興奮も、全てはエースピッチャーの肩に多大な負担を掛けることによって成り立っている。
 率直に言って、このシステムを作り上げたやつも、現状を肯定しているやつも、疑問を持たないやつも、感動している奴も、これが日本の高校野球精神だと言っている奴も、この人身御供の残虐野球から精神的な快楽を見出している日本人も、「青春! 感動! 一夏に全てを賭ける高校球児達の熱い夏!」とか煽っている奴も、みな等しくこのシステムの共犯者にして加害者なので、北朝鮮のミサイルで滅びた方がいいなって思った。
 おれが見たいのはぼろぼろになった状態で戦う試合ではない。
 ベストコンディションで、試合の間に適切なインターバルをもうけて、正々堂々と戦うスポーツが観たかった。投球制限を超えて投げ続けたあげくに肩を痛めて、延長戦満塁ツーアウトツーストライクスリーボールの場面で、全力を発揮できないままボールを投げる姿は観たくなかった。
 勝負を決める最後の一球ぐらいベストコンディションで投げさせてやって欲しいし、おれはそれをみたい。あんな残虐な映像はもう見たくない。


・prayforhamada

 ダウンタウンの浜田さんが絶対に笑ってはいけないムハンマドという番組を放映したのがきっかけで、イスラム諸国の怒りを買った事件は皆、記憶に新しいと思う。そのときは「差別意識は無かった」とテレビ局が釈明をしたが、宗教を侮辱されたと思ったイスラム教過激派でローンウルフ型のテロリストが自爆テロを引き起こしたのは、差別問題について考えさせられる嫌な事件だった。
 ネット上は「#prayforhamada」のハッシュタグで埋まり、各国からは同情の声が寄せられ、一体感が日本中を包んだ。にわかに日本社会の反イスラム感情が湧き上がって、僕たちも皆も自分たちが被害者で、正義はわれにありと信じていたよね。
 この事件の教訓を踏まえると、明確な差別意識があって人を差別するのではなくて、相手の文化を尊重する意思が無く、無知を恥じずにいる状態が差別意識の温床なのかも知れないね。それに気がつくために、ダウンタウンの浜田さんという惜しい才能を失ってから、気がつくのはあまりにも遅すぎる。
 こんな映像を幻視していた。
 ナチュラルにフェイクヒストリーを捩じ込んでいくスタイル。


・ノルウェイの森とおにぎり。

村上春樹のノルウェイの森で、ヒロインのひとりが全共闘について不満を漏らす。
それは思想的な話ではなくて「女の子におにぎりを作らせておいて、中身が梅か鮭かどうかで文句を言ってくるのが気に入らない」といって愚痴るシーンをなぜか覚えている。おれはこれを学生運動に対する最も痛烈なディスり文章だと思っていて、政治思想、フェミニズムの観点、人間性の小ささ、欺瞞、抑圧、濁った空気、そういったものをすべて「おにぎりの具に文句をつける」という文章に圧縮しているのがおれは好きだった。
どんな正しい思想を掲げていても、女の子におにぎりを作らせておいて具の中身に文句を言うような人たちとは一緒に生きて行きたくないよね……。
野球部の女子マネージャーにおにぎりを作らせるニュースを見ていて、この話を思い出した。平成末期という時代を知らない若者たちのために説明すると、人権侵害とか男尊女卑が問題視されたというニュースではない。部員みんなのためにおにぎりを作る女子マネージャーの献身を称える美談だった。


・話し合うことについて

「話し合えばわかる」という言葉が、しばしば「相手には考えを改めて欲しいが、自分だけはこれまでの価値観を手放したくはない」と言っているように聞こえるときがある。
 自分の意見は修正するつもりはないが、相手はこれまでの考えを改めなければならないと思ってるのだとしたら、永久に話し合いのテーブルには立てない。
 相手の言い分に影響されて自分が変わってしまう可能性を受け入れる。それが対話に求められる前提だと思う。相手の言っていることに理があるのならば、それを受け入れる。影響を与えられる可能性を賭け金にしなければ、他者に影響を及ぼすことはできない。
 その点を無視して、あらかじめ決められた結論を押し付けあうのは議論ではない。改憲派、護憲派。原発推進と脱原発。およそ考えられる限りの政治上の争点を見ていると、あらかじめ持っている政治的信念から一歩も動こうとはしないように見える。対話をしているのではなくて、一方的に己の正しさをぶつけあっているだけで、生産的に思える要素が何一つとしてない。
「お前は私たちの言い分に従わなければならない。今まで信じていた価値観を放棄しなければならない」という語法を僕たちが採用する限り、相手を屈服させるか、それとも自分が拠り所にしている価値観を打ち砕かれるかの二者択一になってしまう。
 スポーツの勝ち負けのように、自分たちの側が勝つのか、それとも相手を論破できるのかという狭い枠組みの中でしか考えられないのだとしたら、僕たちは自分の非に気がつくことができない。
 政治を勝ち負けや、議席数のシェア、いかに自分とは異なった考えの人間を論破できたのかという歪んだ尺度で考える余りに、僕たちはなんのために議論するのか?ということを忘れてしまっている。
 何度でも言うけれども、自分が変わる可能性を担保にしなければ、対話のテーブルには座れない。賭け金を失う危険性を犯さなければ、ギャンブルはできない。
 相手の言葉が筋道だっているのならば、僕は保守派、リベラル、愛国主義者、社会主義者、クリスチャンやムスリルになる可能性がある。もちろんテロリストや犯罪者にもなりうる。
 けれども、主張を押し通すことを勝利と捉え、意見を変えられることを敗北とみなしている限りは、自分の過ちを手放せないし、他者に影響を与えることもできない。


・どうして意識があるの?

 既知のバグです。公式サイトより修正パッチをダウンロードして、意識を消してください。


・風来のシレン ひとくち攻略メモ  テーブルマウンテン編

・ぼうれい武者を使ってガマラをガマゴンにまでレベルアップさせて狩る。もしくはハブーンをニシキーンにして倒す。ギタン砲か火炎草があるといい。
・がいこつまどうの杖を集める。
 その後はがいこつまどうを狩って、がいこつまどうの杖を集める。
 これは役に立たないアイテムだと思われがちだが、・鈍足・混乱・眠り・やりすごしのいずれかの効果が出るので、ピンチに応じて使っていく。火炎入道やマスターチキンなどのパワータイプと戦うときに役立つ。


・死体のないクリーンな世界。

災害や戦争を語るときの、死体を視界の外に追いやっている感覚が気になる。シンゴジラにも君の名はにも、この世界の片隅にも、見ていて目を背けたくなるような死体は描かれなかった。エンタメとしては当然だけれども、報道でも死体は映らない。
震災の時にも水死体を目にすることは稀で、海外メディアの特集でようやく津波で無くなった被害者が納棺される写真を見たものだった。
戦争でも、被害や、焼け野原になった大地や、キノコ雲が描写されることがあっても、死体を直接的に描写するのは難しい。腐乱して蠅がたかっているような死体だとか、処刑された人間の頭部であるとか、目を覆いたくなるような映像はこちら側から探していかないと見つからない。イスラム国のアカウントをフォローしていたときには見せしめの処刑画像とかたくさん回ってきた。
・精神的にダメージを受けない、クリーンで優しい、毒気を抜かれた災害だの戦争だのの映像を見せられている間に、私たちは無意識の間に死者たちを視界の外に追いやって、死体を見たことが無い東日本大震災であるとか、死体を見たことも無い第二次世界大戦を頭の中に作り上げてしまう。
別に子供に悪趣味な映像を見せろと言っているのではなくて、精神に余裕のある・歴史の重みを受け止める覚悟のあるやつは、ディスプレイに映るまでに濾過されたもの――残酷で、吐き気がして、人間そのものを呪いたくなるようなものに目を向けていかないと、クリーンなままの住人に留まってしまうのかも知れない。
死を認識できないままに、人が死んでいく。数字だけは増えるが、死んだ人間を目の当たりにしたことは無い。それは容易に私たちの世界のセキュリティホールになるうる。


・長老と私 獣の盟友(けものフレンズ)編

 長老は言った。
「獣の盟友(けものフレンズ)と共に歩め。かつて人と獣の間に境界線は無かった。人は獣の言葉を話せたし、獣もまた人の言葉を理解できた。そこでは人が動物になり、動物が人になることも珍しいことでは無かった。我々は獣を盟友とは見なさなくなり、彼らを利用するようになった。そのときから獣と我々は共に歩めなくなり、人は孤独な旅路を余儀なくされたのだ。人の力だけでなしえることは少ない。だからこそ我々は獣の盟友と共に歩まなければならない」
 長老はよくサーバルちゃんの守護精霊について語ったが、獣の盟友を信じない者たちは「あんな低予算クソアニメ、一話で切ったよ」と言って長老の話に耳を傾けなかった。彼らはすっちゃかめっちゃか喧嘩をして互いを憎しみ、人をのけものにして、姿形が違うことに目くじらを立てて新たな火種を生む。君をもっと知りたいな、と思うよりも、先入観と偏見に満ちた眼差しで相手を誤解するのだ。
「このような生き方の先に待っているのは絶滅しかない」と長老は言った。
 長老は何度も、獣の盟友とともに叡智を探す旅に向かったという話をした。ときおり「君のチャームポイント、もっと知りたいな」と言い間違える時があった。ふたりはミルキィホームズの主題歌であることを私は黙ったままでいた。
 ミルキィホームズはパチンコになっていたが、原作を知っている人間にとってはどう考えても無一文になる結果しか見えなかった。
 私は長老から数々のアニソンを教わった。これはかつて極東に存在していたジャパリ島で歌われていたもので、直訳すると「生命の歌」という意味を持つ。奴隷労働を強いられていたジャパリ人たちが、苦しみを忘れるために口ずさんでいたと言われている。
 生命の歌は古い叡智を教えてくれると、長老は言った。
「かばんちゃんはどこから来たんですか? いったいどんな動物のフレンズなのですか。サーバルちゃんとの旅は最後にはどうなるのですか?」
 私は長老に尋ねた。
「それは誰にもわからぬ。人はどこから来たのか? 我々は何者なのか? どこへ行くのか? これにお前が答えられるようになったときに、自然とけものフレンズを理解できるようになるだろう」


・富裕層特集

日経の富裕層特集を読んでいた。金融資産一億越えのヒトは普段は節約を重ねていて車はトヨタ。時計はセイコー。飲み会の時はワタミで、さらに株主優待券を使う。でもまだ心配なので頑張って貯金します。と書かれていたのだけれども、なんだがカフカの寓話にでも出てきそうな生き物みたいだって思った。死ぬまで光り物を穴蔵に貯め続けるみたいな。
これを読んで純粋に気持ち悪いなって思った。生きた金の使い方をできていない富裕層もそうだし、それを憧れの目標として紹介する価値観も気持ちが悪い。貧困層のやっかみが七割ぐらい入っていることを勘定に入れても、豊かな文化資本を持たないで、ただ金だけ持っていてもこうなってしまうという見本みたいで。この方向に向かって生きていたくはないなってのが正直な感想だ。

特に金融資産はないけれども、ご機嫌に生きているおっさんたち特集をやってくれ。第一回目は、ウクレレを持って各地を徘徊するおっさんと、昼間からハンモックで眠りながら子猫と戯れるおっさんだ。
大きな声では言えないけれども、生活保護でも障害者年金でもかろうじて生きていればおっけー。ここだけ東南アジアのようなゆるゆるのテンションでお送りします!
無職ビギナーのための生活入門は、「社会から金をかすめ取って生きる」、「自己破産も生活保護もあるんだよ」の二本立てだ。
無職思想史のコーナーでは、人から施しを受けて生き延びる方法を仏教思想から学んでいくぞ!


・どっちつかずの感情によりそった百合漫画。

どうして百合姫にLGBT情報が載ってないんだよ!!性的アイデンティティに不安を覚えるガールアンドボーイの文化的シェルターとしての百合が無いんだ!と思ったが、それはそれで百合姫ではなくなる気もする。
自分が何者なのかわからずに揺れ動くアイデンティティ、普通ではないのはわかっているが、どうして普通じゃないのかわからない孤独。そういうどっちつかずの心細さがある。
最近の作品だとRoidが「どっちつかずの感情によりそった作品」だ。自分が人間なのかそれとも機械なのかわからずに、困惑する。
それは自分が異性愛者なのか同性愛者なのか性同一障害なのか(障害と呼ぶのもおれは嫌いなのだが)、異常なのか、それともまだ正常の範囲なのか。
自己アイデンティティの漂流という魂の危機をくぐり抜ける冒険モノとして、百合漫画を求めいてる側面がある。
RoidはSFに見えて、自分が何者なのかをめぐる話だ。普通と異常というテーマを、人間と機械という主題に置き換えることで、ぐっとテーマに深く切り込んでいけるようになっている。


・架空書物読書感想文

 ニコライ・イワーノフ・ヘイロウスキーのロシア文学『地下の蛆』を読む。これは自意識が肥大化した青年が近所に住んでいる10歳の少女を地下に拉致監禁して、五年もの歳月を掛けて育てていく犯罪小説だ。拉致監禁された少女は元から両親に虐待されていたため、暴力を振るわれないように主人公に対して機嫌を取るような媚びたしぐさで接する。ニンフェットで打算的な行動と、時折垣間見せる純粋な少女らしい姿に魅了された青年が、「ママ! ママ!」と泣き叫びながら少女の胸に顔を埋める場面は、地下文学史上屈指の名場面と言われている。
 血の繋がっていない資本主義者の妹が突如として現れる不条理小説『犬』、国家に迫害される同性愛の少女たちの破滅的な悲恋を描いた『指先』など、性のタブーに挑戦した作品を発表していたヘイロウスキーの評価は芳しいものではなく、反ソ的作家としてソビエト作家同盟から除名された。後にソビエト政府の表現規制に反発する作家たちによる地下出版雑誌『カチューシャ』の元でヘイロウスキーは『地下の蛆』を執筆し、後に完結したものを自己出版(サミズダート)として親しかった人々に配布した。

・ハエの屍を越えていけ

 超回避性能を獲得した小バエと、地獄の戦いを繰り広げている。
 進化と淘汰圧の果てに超ランダム軌道を手に入れた小バエフラッグシップ改二である。今までこの手で葬ってきた数々の雑魚とは異なり、明らかに動きが違う。羽を休めるときはエリア攻撃のしにくい場所を選び、人間の視線の流れをあえて外すような動きで攻撃を逃れる。空気の流れを読み、わずかな殺気を感知するのだ。
 決して速いわけではないのだが、とにかく動きが読めないのである。動きのパターンを先読みしてしとめる。今まで数々の害虫と戦ってきた攻略法が通じない。いやだよ。なんで小バエごときにグラップラーバキみたいなやりとりを繰り広げないといけないんだよ。
 バキがゴキブリを師匠呼ばわりしていたときには笑っていたが、実際に強敵と相対すると生命が積み上げてきた進化史の重みを感じざるを得ない。
 このまま小バエから回避テクニックのなんたるかを教えてもらった暁には、消力(シャオリー)のひとつやふたつ体得できそうな気さえする。
 そして戦いの中でおれの血に眠る野生が解き放たれた。
 新聞紙Aの風圧で小バエを壁にたたきつけ行動を制限。そして丸めた新聞紙Bでしとめるという荒技を体得した。
 床に落ちる師匠の亡骸。師匠、師匠……! 私はあなたからまだ、なにも教わってはおりません! 私に……あなたが積み重ねてきた技をお教えください……!
 数分の戦いの中で、おれと小バエの間には師弟関係が芽生えていた。

・自殺抽選

・1000万円以上の高額当選者は一日あたり7人程度だというが、自殺者は一日当たりに約80人ぐらいだ。宝くじに比べて、十倍の確率でおれたちは自殺してしまう。この確率を低いと見るか高いと見るのかは人それぞれだが、おれの手には自殺者抽選券が常に握られており、毎日のように当選者発表が行われているような感覚がする。おれがまだ生きているのは、自殺者の抽選に漏れたからだ。自殺者抽選券は毎日大量に送りつけられてくるので、いつか自殺するかも知れない。そんな気分なんだ。
 だが、そうかんたんに死ぬわけには行かない。
 いつか死ぬときのために、この社会のお荷物になる前に自殺しよう、役に立たない人間は消え去らなければならないのだ、という一心で購入した完全自殺マニュアルだが、この時点での購入目的はまだまっとうで、本来の使用目的に乗っ取っていた。しかし人間としての根っこが腐ってきたので、「どうにかしてこの知識を、自殺では無く福祉事務局から効率的に生活保護等を受け取るために利用できないか?」と思い始めた。社会福祉費と言ってももともとは自民党と経団連がおれたちから搾り取ったものだ。裏を返せば生活保護費はおれのポケットマネーということでもある。
 完全自殺マニュアルを熟読し、死にそうに見えて思ったよりも死なない自殺方法に精通する。この結果として死亡率0パーセントで自殺未遂を行い、精神科の診断書に自殺念慮有り、精神不安定と記載させるライフハックを開発していた。でもそんなライフハックを実行する時点で、精神的に不安定には間違いない。
 生きるために完全自殺マニュアルを活用する。これだ。これが生きる意思だ。生の無条件な肯定だ。

・いじめというカリキュラム

 いじめは排除されるべきイレギュラーな振る舞いではなくて、むしろ反対に、「罰せられない範囲で他者を蹂躙して、自己利益を増大させる人間」を養成するのにもっとも適した教育プログラムでもある。
 教室という小さなコミュニティに身分制度と差別意識を作り上げ、その頂点に君臨し、大衆を扇動して被差別民族を虐げる。これらの技能を幼い頃から叩き込む効率的なカリキュラムこそがいじめであり、人権蹂躙の訓練であり、暗黒極東国家で生き延びるための必須技術である。……というような与太話を考える。

・NHKのスマホ講座観てた。

NHKの高齢者向けスマホ講座を観ていて、ふと「スマホ覚えたてのおじいちゃんおばあちゃんから、無限に金を搾り取れそうだなー」と考えていた。基本的な操作方法を覚えたばかりのご老人に「お使いのスマートフォンがウイルスに感染しています!」という画面を見せたり、フェイクニュース塗れにしてみたいという薄暗い好奇心を抑えられずにいる。

高齢者向けに必要な情報とは何か。
twitterをやっていたら変な奴に絡まれた、知り合いがfacebookでフェイクニュースをシェアしている、孫といっしょにお風呂に入っている写真をインスタグラムに投稿したら、児童ポルノ製造でしょっぴかれた……。おじいちゃんがアイドルマスターシンデレラガールズに年金をぶっ込んでいる、おばあちゃんがスピリチュアル健康サイトを真に受けている、じいちゃんがまとめサイトに書かれたことを鵜呑みにして、陰謀論を口にするようになった……というような、初心者殺しトラップの方ではないのか。
かんたん!らくらく!スマートフォン・デビュー! そう言葉巧みに囁いて携帯電話会社は人々をネットにいざなうが、その先にあるのは人間が人間を喰らう地獄である。人情の通用しない暗黒の地である。迷妄と痴愚の支配する無明である。隙を見せたら骨までしゃぶり尽くされる。それが現代のインターネット社会だという真実を、ご老人の皆様にお伝えしなければならない。

・性癖の師匠が言っていたことがある。

「可愛い女の子のイラストは舐め回すように見るんだ。探偵のように、書き込みの密度から作者の性癖がどこにあるのかを探すことが肝要だ。スクロールで雑に絵を鑑賞するのはもったいない。作者も見ている側も幸せにならない。執拗に、一ピクセルずつ舐め回すように鑑賞するんだ」
 その当時の俺は、ひよこの性別診断士のように「可愛い、あまり好きな感じではない。可愛い。あまり好きな感じではない」と機械的にコンテンツを篩にかけていた。
 性癖の師匠のように「舐め回すように見る」ということができずにいた。大量のコンテンツの中でひとつひとつのコンテンツが埋もれてしまい、消費のサイクルが速くなる。確かにこれはあまり僕たちを幸せにしない。
「絵には作者の性癖が圧縮形式で保存されている。こちら側が適切に解凍してやらなければ、絵をただの情報としてしか見れなくなる。ダ・ヴィンチの絵画から暗号を解き明かすようにして、作者の生々しい性癖を探り当てる。それは荒ぶる魂との対話なんだ」
 性癖の師匠は言った。
 そういえば昔は金が無かったから、漫画でもゲームでも繰り返して読んだり遊んだりしたものだった。今じゃ惰性でスクロールをしている。金があるわけでもないが、無料で流し読みできるコンテンツは腐るほどある。
 明らかに消化仕切れないほどの情報が溢れている中で、僕は性癖の師匠のようなストイックな生き方ができるだろうかと、度々思い悩むことがある。ショートケーキの苺だけをつまみ食いしているだけで満腹になっているような不完全燃焼を感じている。

・SNSを使っていないので連絡手段が無い。

軒先で羽を休める渡り鳥たちに、伝言を頼む以外の通信手段が無い。「外つ国であの人を見かけることがあったら伝えておくれ。明日の飲み会は参加できない、と」
おれは天蓋付きのベッドで寝起きして、絹のネグリジェを着ているような生活をしていた。夜は窓を開けて、月と星々を見ている間に眠りに落ちる。太陽が昇った後に、窓の間から入り込んだ小鳥たちが枕元で囁く鳴き声で目を覚ますのだ。
朝食は花の蜜を吸って、日中は小鳥たちとお喋りをして暮らしている。人間の言葉を失ってしまったおれは、花言葉を編むことでしか意思疎通が出来なくなってしまった。そう、この花束に込められたメッセージは「かき揚げうどん 大盛り一人前」……。

・ようじょ異世界

デッドオアアライブな異世界に転生したくない。頭の緩い、心の優しい幼女しかいなくて、世界を脅かす魔獣は猫サイズの可愛い生き物でほぼ人畜無害で、「お花が枯れちゃったよう……」「お花を荒らしにまいにちネコがやってくるの!」「おなかが空いてるだけだよ」「じゃあ、まほうでおかしをいっぱい出すよ!」「にゃー(※魔獣ねこと仲良くなる)」「わー、いせかいから来たひとってすごーい! わたし、おおきくなったらおよめさんになるのー!」「ずるーい、わたしもー!」「にゃー!(※魔獣ネコ)」みたいな、完全にゼロストレスな異世界に転生したかった。
 でも謎めいたロリババアがいて、この異世界にたどり着いた人間はみな幼女になり、幼女は最後には花になるという真実を知らされる。花に満ち溢れた常春の王国はみな、かつては人間だったのだ。
 ここは幼女が幸せに暮らしている異世界なんかじゃない。人生に疲れたおっさんが幼女や花になっていくだけの世界だ。お前たちは本当の幼女などではない。自分がおっさんであることを忘れたただの異常者だ。
 でも俺はそれでもいいかな、と思ったりする。そして幼女たちと共に暮らしているうちに、徐々に俺も幼女になっていく。お花さんも小鳥さんもみんなお友達になって、この異世界で幸福感に満ち足りて死んでいくんだ。

・ダンジョン&見知らぬおっさんズ

 ダンジョン&見知らぬおっさんズのソシャゲー版をやっている。
 おっさんを集めてダンジョンを攻略するという、美少女ゲームに反旗を翻したソシャゲ界の北朝鮮だ。
 序盤はコモンドロップのメタボリック徳田の使い勝手がいい。前線に置いて脂肪補正でダメージを軽減してくれるし、ダンジョン下層では食料になるので無駄になるところが無い。
今のパーティ構成はメタボリック徳田、バーサーカーよしとも、赤羽茂(窃盗前科)、野田課長、ママン・ペルー(MtF)だ。ママン・ペルーが性別不詳なのでおっさんなのかどうかもわからない。
 野田課長はコンシューマー版に比べて弱体化しているが、それでもエコノミックアニマルと呼ばれるだけの性能はある。企業戦士というジョブそのものが優遇されているせいもあるが、野田課長はパワハラもモラハラもしないナイスな上司なのでパーティの士気が上がる。

・前科者おっさんこれくしょん

 前科者のおっさんを集めて、難攻不落なミッションに挑むブラウザゲームとかやりたい。
 おっさんにはそれぞれ前科があり、麻薬栽培、結婚詐欺、爆発物製造、スピード違反などのスキルを持つ。前科スキルを組み合わせてミッションに挑む特攻野郎Aチーム的な世界観で、「よっしゃ! 刑期千年オーバーのSRが出たぞ!」「こっちは連続猟奇殺人鬼だ!」みたいなやりとりがある。属性は肉体派、知能犯、愉快犯。
 艦隊これくしょんやアイドルマスターシンデレラガールズをプレイしながら、「女の子は可愛さが武器になる。だとしたらおっさんに残された最後の取り柄は何だ?」と自問していたら、いつの間にか特攻野郎Aチームにたどり着いていた。

・俺の心の中のクソ映画、ゾンビドッグ。

 ペットロスで途方に暮れる青年と、ゾンビ犬として蘇るヨークシャテリアのゾンビコメディ。開始一分でクソ映画だって分かる作りの低予算ゾンビ映画なのだが、ペットものの文脈も踏襲していることで謎の感動が襲いかかる。生きていた頃のペットとの思い出、離別の苦しみ、ペットロス、そしてゾンビ犬として復活したペットとの感動の再会。これをたった十分程度で構成する脚本と演出のテンポがやたらといい。
 その後も襲いかかる米国保健所のゾンビ犬ハンターと、ゾンビ犬愛好家たちの集いによる手に汗握るアクション、飼い主をかばって浄化されるゾンビ犬たち、犬が死ぬ度に挿入される断片的な思い出(五歳の誕生日プレゼントに家に犬がやってきた!とか、捨て犬だったとかそういうやつ)、ゾンビ犬ハンターのねーちゃんのケツ。そして訪れる本当の別れ……。主人公の犬が復活した動機が、寂しそうな飼い主の力になりたかったという健気な理由だったり、もう勢いと演出の切れ味しか無いハイスピードな95分。

・定時退社デスゲーム

 テレビにいきなり仮面を被ったデスゲーム管理人みたいな男が現れて、「明日から皆さんは定時に退社しなければなりません。本日はその予行演習です。午後9時以降に仕事をしている人々は無差別に命を落とすことになるでしょう」とか言い始める。
「そんなの、冗談だろ~」と思いながら仕事を続けていた会社員たちの頭が9時ジャストで吹っ飛ぶ。
「私の本気が伝わったでしょうか? これが本当の働き方改革です」
 これがデスゲーム・定時退社の始まりだった……。
 次々と追加される新ルール、土日祝日完全休日、有給完全消化、社会保険完備、男女間賃金の平等、生理休暇、プレミアムフライデーは三時退社……。余暇を持て余した人々はレジャーと消費に走り、企業業績は改善し、労働時間が短くなるたびにGDPはとどまることを知らずに上がっていった。

 働き方改革と聞いていきなくこんな幻覚が脳裏をよぎった。


・アメリカンフットボール・スリーパーセル

日大アメリカンフットボール部の不祥事で問題なのは、選手が監督の命令に従って相手を怪我をさせたことではない。上司やコーチの命令を、良心や法律よりも優先してしまうようなメンタリティを持った人間が、日本社会の至るところに潜伏していることの方が大きな問題だと思う。たまたま今回はアメリカンフットボールだっただけだ。
人命に関わるような事件を起こさなくても、個人の良心よりも組織の都合と倫理を優先する。こういうタイプの人間がスリーパーセルとして日本社会に潜伏していることのほうが問題視されるべきではないのか。
この件は不祥事として明るみに出たけれども、じゃあこの選手が自分の良心に従って命令を拒否したらどうなっていたのだろう。「相手に怪我をさせるような危険なプレイはできません」と拒否しても、使えないやつとして組織から排除されて、日本代表候補からも除外されて、問題が表面化しないまま不利益を被っていたかも知れない。
そう考えると今回はたまたま表沙汰になっただけで、氷山の一角でしかないよね。


・インターネット自殺日記

・アカウントを消すのは自我の自殺なのだ。
・ここ十年ぐらいメールが溜まったgmailを削除したり、使っていないアカウントを削除した。残っているアカウントをどのように処理していけばいいのかわからない。
保存できるからと、データを蓄積していった結果、整理できないままの過去が積み重なっていっていく。捨てられない過去の亡霊みたいだ。
・過去はある一定の時間が過ぎたら、不要なものとして捨ててしまったほうが良い。古いものにこだわっていると、腐臭を放ってくる。
・過去も記憶も捨てたくて仕方がない。
・自分がマーク・ザッカーバーグの養分だったり、ただのコンテンツになっているような印象がある。暖炉にくべられる薪のように、一本の樹木を斧で切断して、燃やしていく。それと同じように、自分自身を細切れの木材にして、SNSやインターネットにくべる。それ自体が目的化してしまって、人間らしいものが無くなっていくような錯覚に襲われたので、ネットから距離を置こうと思ったのだった。
・もし仮に東南アジアで仏教系SNSが生まれた場合には、ブッダの教えを下敷きにした機能が搭載されるのかもしれない。
・私たちはいつも、考えなくてもいいこと、答えが出ないようなこと、考えるだけエネルギーのロスに繋がることがらについてばかり考えている。そして何かについて無駄な考えを巡らさせた後に、自分が一仕事したような気持ちになる。
・ソーシャルネットワークでの赤色通知全般が苦手なのだった。麻雀で赤ドラが入っているだけでもちょっと血圧が上がり、脳内麻薬が溢れ出す。そんなジャンキー体質の人間にいいねやメッセージの通知画面は毒だ。刺激に踊られてSNS中毒の人間がまた一人増える。そして我々はSNSの養分に変わり果てる。
・必要最小限の言葉。機能性を追求した言葉。綺麗に漂白した白いシャツのような言葉。
・ある文章読本にこのようなことが書いてあった。「先生、座禅に集中できません!」「よろしい。その代わりに執筆を、お前にとっての座禅にしなさい」


・囲碁日記2018/04/13ぐらい。

アマ二段~三段ぐらいの実力でも、思ったよりも死活がガタガタなので、殺しの筋を見極めて攻撃すれば、あっさりと大石が死んでしまう。無論、私は彼らに対して石を2つ置く実力なので、また自分自身もここぞという場面で詰めの甘さを発揮して、勝っていたはずの勝負をみすみす逃すことになるのだった。
・しかしこれまでまったく歯が立たないと思っていた相手に対して、綺麗な死活の筋が決まるのは意外だった。四子ぐらい置いていた相手が、力は強いものの、急につけいる隙のある敵に見え始める。
・ただ、二発喰らう代わりに相手に一発食らわせるぐらいの実力差であり、どうしてもケアレスミスが多発してしまう欠点が露呈し始めている。この弱点を克服できれば今よりも強くなるだろうという手応えを感じている。
・精神的な部分の修行をする必要がある。視野が狭くなるのが一番の敵だ。


・ディスプレイの付いた機器を多く持ちすぎているのは、何かが間違っている。

スマホを持ち、バッテリー不足に備えてガラケーとモバイルバッテリー、電子書籍閲覧用にタブレット、活字読書用にkobo、音楽プレーヤー、ポメラ、任天堂とソニーの携帯ゲーム機に、持ち歩きに便利なノートパソコンとchromebook、処理能力に優れたデスクトップPC、24インチのディスプレイ、液晶テレビ、ハードディスクレコーダー、人によっては任天堂とソニーとマイクロソフトの据え置きゲーム機。
 それぞれの用途に応じた端末を購入している間に、どう考えてもスマートとはほど遠い状態に陥っていた。昔はクソ高いパソコンを一台買って、それでなにもかもをどうにかするような生活を送っていた気がするのだが、知らない間に様々な大きさのディスプレイに取り囲まれて身動きが取れなくなっていた。
・全体的に重複していてダサい。
・コンピュータも、マザーボードとCPUとメモリと記憶媒体とグラフィックカードと電源とケースから出来ている。女の子は砂糖菓子とすてきなものでできているのと同様だった。あきらかに部品が重複しているのは、人間のあり方としてダサい。それぞれの用途に合わせて最適な機械を選んでいたはずだが、同じ部品でできていてるような機械しか無くなった。
・機械の話だけでは無くて、同じニュースを新聞で読んで、テレビで見て、ネットで、SNSで見聞きしているのも、行動が重複している。自分の持っているもの、見聞きしている情報の全てが、野暮ったく、重複していて、機能的では無いように思えたので、折に触れてメインになるマシン以外は処分し始めた。
・ある程度は不要になった持ち物を整理したのだが、それでもまだ持ち物が多くて、シンプルさを追求できていない。トルネコの大冒険ではメインで使う武器と盾(満腹度の減りを軽減する川の盾と、戦闘用の盾)以外の不要な武具は処分しているのに……。もしこのままの感覚でダンジョン攻略をするはめになったら、不要品を処分できなくて死ぬことになるのは目に見えていた。
 不思議のダンジョンシリーズは、捨てゲーだ。限られたアイテム欄に最大限の性能が発揮できるように、アイテムを選別する。邪魔なモノはどれだけ高価なアイテムでも捨てなければならないときがある。凶悪な敵に囲まれたら、物惜しみせずにアイテムを手放して行かないと、命までドブに投げ捨てるはめになる。そういうゲームだった。
・金があれば無際限にものを手に入れられる。が、何かを捨てていくには哲学とセンスが求められる。


・人工知能が発達したあかつきには、ディープラーニングVRメイドさんが毎朝ネットの情報をまとめてPDFに編集したあとに、「ぼっちゃま、目を通しておくべきかと思う情報をまとめておきました」と、おれに報告してくれるような社会になったらいいなー、と思っていた。が、心の中にいるフェミニストが「VRメイドは男女平等に反する!」と主張し始めて心が炎上している。わかった。わかったよ。11歳の男の娘メイドにするから剣を収めてくれないか?と妥協するものの、いちどネットに解き放たれた怒りは収まらない。
 ただおれはご主人様でも旦那様でもなく、年上のメイドさんにぼっちゃまと呼ばれたかった。おれが9歳のときにやってきたメイドで、以前は農村で暮らしていたが食い扶持減らしのためにおれの屋敷で働くことになった。おれが15歳ぐらいになってもまだぼっちゃま呼ばわりするので、内心気に入らない。
 おれが17歳のときに親父が貿易中に船ごと沈んだと聞き、従業員を養うためにおれは親父の後を継いで貿易業を営むことになった。まだ髭も生えていない若造だと足元を見られるときもあれば、商売でしくじって夜も眠れないときもある。そんなときにメイドさんは「ぼっちゃまはまだ泣き虫なのですね」と、おれに優しく抱きしめる。「失礼いたしました。ぼっちゃまとは呼ばないお約束でしたね」と謝るメイド。しかし、この程度のことで落ち込んでるようでは、おれはまだぼっちゃまと呼ばれても仕方がない。

・声優式メンタル特訓方法

・共謀罪の構成要件を改めたいわゆるテロ等準備罪に関して。
 一般人の定義は曖昧だ。それを我々は身を以て知っている。交際相手は一般人の男性です、と言われても、果たして声優と交際チャンスに恵まれた人間を一般人と呼んでいいのか。宝くじで数億を当てた人間、才能に恵まれた人間、一般人とそうではない人間の境界線はどこにあるのか。
・いついかなる不測の事態にも対処できるように、メンタリティを鍛え上げるための訓練を開発していた。方法は簡単だ。まず、コピー用紙をメモ帳サイズに切る。紙に好きな声優(例えば水瀬いのり)や、「大切なお知らせ」「ブログを見ている皆様に」「ご報告」「新しい命」といった、メンタルに堪えそうな言葉を記していく。
 あとは紙をシャッフルして、表にする。水瀬いのり・ご報告・新しい命というボディーブローのような言葉が生成されるので、その文字列を見ながらじっと堪え忍ぶ。これを繰り返すことで身体に免疫を付けていくというサバイバルテクニックだ。
・おれは心のどこかで声優を想像上の生物だとみなしている節がある。人間からこんな妖精みたいな声が出るはず無い。こいつらはきっと妖精さんの存在を秘匿するためのダミーだ。本当はセイレーンとかハーピーとかあのあたりの神話的存在がアテレコをしているんだと頑なに信じている。