日記帳



Swans are born of ugly ducklings

「選択と集中」に対抗するために何らかの経済理論をでっち上げられないのかと思い悩む。ウォールストリートの投資家には「金の卵を産むニワトリを見いだすためには、どんなひよこにもえさを与えよ」という格言が伝わっている。どの事業が将来成功するのかどうかは未知数であり、一見すると採算が取れなさそうなものでも簡単に切り捨てるのは、重大な損失になりかねない。
その言葉をマクロ経済学的見地から証明して選択と集中を批判したのが、ケインズ経済学者ヨシヒコ・ウナギザカの『Swans are born of ugly ducklings』(未邦訳)である。彼が提唱した「みにくいアヒルの子理論」を要約すると、「短期的な利潤や効率を追求するグローバル資本主義からは新しいイノベーションは生まれてこない。非効率的なもの、無駄に思えるものや直接的な利益に貢献しないような、一見すると無意味に思えるものの多様性を保持することが逆説的に豊かな資本主義社会を作り出す」というものである。
近著『シンデレラのガラスの靴』では「シンデレラの靴=誰も足が入らない小さなガラスの靴は、中国の纏足文化の影響を受けている」という話を下敷きにして、グリム童話からハリウッド映画にいたるまでの西洋文化が生み出した物語を「纏足された女性=男性社会の都合で奇形にさせられた女性」という観点から説き明かしていく知的スペクタクルである。そんな感じで架空の書物や思想をでっちあげていきたい。

犬のうんこ

政治の話は道ばたに落ちている犬のうんこみたいなもので、確かに誰かが問題にして犬のうんこを片付けなければならないのだが、四六時中犬のうんこの話ばかりだと気が滅入ってくる。政治活動は皆、社会の至る所に落ちている犬のうんこをゴミ袋に入れることであり、そこで「犬のうんこが嫌ならこの国から出て行け!」とか、「みんな犬のうんこを踏むのを我慢して生きているのだから、君も従わなければならない」とか、「犬のうんこを踏むのは自己責任」と言われる筋合いはない。かといって「これが犬のうんこの真実だ!真実を直視して社会から犬のうんこを消し去ろう!」というかけ声とともに、犬のうんこ画像や犬のうんこに関する記事を見せつけられたり、犬のうんこに対して怒りの声を上げる人々の言葉を聞きたいわけではない。
スマートフォンを開く度に世界のどこかで新しく生み出された犬のうんこが目に飛び込んでくる。犬のうんこを取り除くことが政治的に正しいことはわかっているのだが、スカトロ趣味はないので高画質の犬のうんこ画像を発信されても困る。しかしそこから目を背ければ、「おまえは犬のうんこが放置されていることに怒りを感じないか?社会に対して問題意識を持たないおまえのような人間が多いせいで、日本社会は犬のうんこまみれになるのだ!」と批判される。
いつしか人は犬のうんこアパシーになり、目の前に犬のうんこがあってもそれを取り除こうとする意志を失い、犬のうんこを踏み、時には「世の中が犬のうんこだらけなら、自分が脱糞しても誰も気がつかないでは?」とモラルハザードを起こす。あるいは「犬のうんこをちゃんとゴミ袋に入れるなんて、理想主義の左翼でしかない。すべての生き物はうんこをするのであり、この世界からうんこを消し去ることなど到底不可能だ」という詭弁を弄するようになる。
すべての人間が犬のうんこを踏むことなく安心して生活できる社会を作り上げたいという、ごく当たり前の願いは夢想主義者としてあざ笑われる。何世紀も前に生まれた犬のうんこは乾燥し、道にこびり付いてドリルでも持ってこなければ除去できないほどの屈強な犬のうんこになっている。犬のうんこ処理に困った政府は、薄めて海洋放出しようと画策しているし、日本人は古来より犬のうんこと共存してきたという歴史修正主義が人口に膾炙するようになる。そうして誰一人として犬のうんこを取り除くことができないままで、日本社会は犬のうんこまみれになるのだ。
私たちにできるのは、世界中から瞬く間に犬のうんこを消し去ることができる銀の弾丸を待ち望むことでも、有能な政治家が現れて犬のうんこを掃除することでもない。「この犬のうんこは私の飼い犬が残したものではない。どうして無関係な犬のうんこを私が除去しなければならないか」と責任転嫁をしても、犬のうんこが消え去るわけではない。手にシャベルとビニール袋を持って、目の前にある犬のうんこを拾っていくことしかできない。社会は変わらない。自分が拾った分よりも多くの犬のうんこが新しく生み出され、そのたびに自分がやっていることが無意味に感じられる。世界からすべての犬のうんこが取り除けるわけではない。ただ自分が散歩をする公園や道だけは、犬のうんこを踏むという恐怖を抱くことなく生きていけるような、小さな秩序を作り出さなければならない。

きわめて日本人的。

日本社会で育つと、何かしらの信仰や思想を抱くことに対してネガティブなイメージしか与えられない。宗教を信じた結果として地下鉄にサリンをまいたり、政治にコミットしたことで日本赤軍になったりといった極端なロールモデルしか社会が提示できていない。まっとうな信仰心を持って穏やかに生きている人や、バランス感覚のとれた政治思想を持って市民活動にコミットしている人といった、信仰心や政治思想を抱いて生きるロールモデルが極端に少なくて、過激化した人々や、オカルトやスピリチュアル、新興宗教といった偏った事例しか目に見えない。
そうなると政治活動にコミットすることがただデモで大声を上げて暴動を起こすだけになったり、信仰心とともに生きると言われてカルト宗教の末端信者しか想像できなくなる。
極端な事例では無くて、バランスのとれた政治思想や信仰心を持って生きるということのロールモデルか欠落していて、政治や宗教とどういう風に距離感を築いていけばいいのかという目安がない。だから完全に距離を置くか、私生活のほとんどを政治や宗教に注ぎ込むような、ゼロか100かのイメージしか抱けない。それは高校野球に青春をすべて捧げるだとか、企業戦士として私生活を犠牲して猛烈に働くといったロールモデルを、そのまま政治と宗教に適用しているからだと思う。
それ以外の生き方を教えられたことがないから、高校球児みたいにカルト宗教の活動に没頭したり、企業戦士になるかわりに活動家になったりする。依存先が異なるだけで、どう依存するのかという方法に変わりはない。カルト宗教的に部活をするし、過激な政治団体に加入するみたいして企業組織に忠誠を誓う。
どんな組織のなかにいても、信じているものの形が違っていても、日本人の心骨に染み込んでいる行動原理からは逃れられない。日本人的な方法でしか神を信じられないし、政治思想にコミットできない。日本の価値観しか知らないから、他の文化圏にいる人間がどういう風に信じているのかと比較することもままならない。
日本人的であるという点では、保守もリベラルも大した違いは無いように思う。同じような人間の集団の中で育って、均質的な組織風土の中で何十年も過ごして、学校で、家庭で、友人間で、部活で、企業で、日本人的な振る舞いをするように調教されている。
それ以外の価値観があるとは夢にも思わないし、疑おうという価値観自体が生まれない。

福祉としての差別感情

仮に人種差別や国籍による差別が撤廃されたとして、人が生まれ持った知能指数や頭の良さ、能力、生産性、先天的な美しさで公平に評価されるようになったとしたら、それはそれで地獄なのかも知れない。経済的に役に立つのか、社会に貢献しているのか、優れた労働力なのかといった、客観的に測定可能な指標によって人間としての価値が決まる。
そういう意味で国粋主義や差別は、自分がどのような人間であるかどうかにかかわらず日本人(もしくは白人)であるというだけで、一定の自尊心や自己肯定感を与えてくれる。
差別感情が嫌悪に基づくものであるよりも、何かを貶めて相対的に自分自身の価値を高めるものとして機能している。差別感情が自尊心の福祉だったり、単純な娯楽として機能しているのを無視して、「差別はやめましょう。私はおまえたちの自尊心がどうなっても知ったことではないけどね」とだけ言うのは、福祉としての差別感情をないがしろにしている。
差別感情が与えていた自尊心や所属意識、承認、快楽を埋め合わせる別の何かがない限り、差別に依存している人たちを引き離すのは難しい。
高度成長期の時代には企業が金で従業員の自尊心を買っていた。家族を持てるだけの賃金を支払うことで、一人前の社会人であるという自己肯定感や自尊心を与えることができていたのだけど、失われた30年の間に格差が広がって、企業も国家も地域社会も、日本人の自己肯定感を満たせなくなった。その隙間に入り込んできたのが愛国心や排外思想で、自分たちとは異なる人間を軽んじて貶めることで失った自尊心を相対的に満たせるようになった。
右傾化したから差別思想がはびこったというよりも、日本社会には健全な自己肯定感を育むためのシステムが欠落しているせいだと考えた方がつじつまの合う部分もあるのではないか。他者を低く貶めることでしか自尊心を感じられない。いびつな方法でしか自分の価値を感じられない自己肯定感の低さこそが、私たちが抱えている病理なのかも知れない。
相対的に自尊心を満たすためには、自分よりも劣った人間や馬鹿にできる弱者が必要になる。自分が価値ある人間であることを確かめるために、絶えず生け贄となる誰かを探し続けなければならない。

・心が炎症を起こしていない。

ネットから離れたら余計な雑事に煩わされることがなくなったので思考がクリアになっている。なんというかSNSを使って他者の感情に触れていると心が炎症を起こしてしまうのだが、デジタルデトックスのおかげで腫れが引いている感じだ。
他人の言葉は心にとって異物として働く場合がある。免疫機構が病原菌から身体を守るみたいに、不用意に他者の言葉と受け入れないために心の免疫システムが働く。それは正常なシステムなのだけど、SNSの発達で心の免疫が常時稼働して炎症を起こしているような気持ちになる。
心が炎症を起こしているとこの世界を否定的に見たくなったり、他者に対して攻撃的になったり、自分自身が正しいのだという理由が欲しくなる。
炎症を起こしている状態が当たり前になっていて、離れてみてようやくSNSが普及する前の感覚を思い出した。スマホがなかった頃はこんな風に精神が穏やかだった。現在みたいにすさんだ時代ではなくて、匿名掲示板で「LANケーブルで首を吊って死ね!」と罵り合っている程度だった。

永続去勢レジーム

憲法改正や敵基地攻撃能力云々は、国防であると言うよりも去勢された政治的おちんちんを取り戻す話である。第二次世界大戦後に日本は軍事力を失い、軍事的主権を剥奪されて、政治的おちんちんを失ってしまった。憲法9条は右派にとって、軍事力という政治的おちんちんを除去する屈辱的なものである。平和を愛する戦後民主主義は、ペニスを切断されてしまったあげくにアメリカに魂も誇りも売り渡してしまったメス野郎なのだ。
だが自分がおちんちんを奪われた政治的メスであるという事実からは目を背けていたいので、国防のために軍事力の増強が必要だと主張したり、日本国憲法は時代後れだという偽の論点を立てて、自らが政治的に去勢されていることを隠蔽する。時代錯誤の男尊女卑にこだわるのも、それが日本人男性に残された数少ない政治的おちんちんだからだ。アメリカに去勢されたけど、まだ自分は雄々しい人間なんだ、政治的メスでは無いんだ、おちんちんがあり、権力があり、弱い人間に暴力を押しつけることができるのだという幻想を保つために、男らしさの虚構に縋らなければならない。
しかし時代は女装でありトランスジェンダーである。女性的な価値観や感性を取り戻し、男性社会が生み出す圧力を如何にして無力化していくのかが問われる時代だ。経済力や軍事力という政治的おちんちんを振りかざして、影響力を高める行為に固執するのは前時代的である。
政治的おちんちんを取り戻すのでも無く、去勢された事実から目を背けて戦後民主主義がすばらしいものだと受け入れるのでもない。みずからが政治的に去勢されていることを認識して、それをどのようにして発展させていくのか。それが政治的に去勢されてしまった日本にとっての最優先事項ではないのか。

・言葉は簡単に偽るが、態度は覆い隠せない。

南京大虐殺だとか従軍慰安婦問題などの過去の記録が十分に残っていないような出来事について、明確に語れる言葉を私は持っていない。客観的な過去や物証に頼ることができない以上は、何が真実で、何がねつ造か、プロパガンダなのかという区別が付けられない。「そういうことがあったらしい」という不確かな推測を土台にして、不鮮明に思考することしかできない。
でも「今現在の差別的言動が、70年以上前にも繰り返されていてもおかしくない」と考える方が妥当だと思っている。現在の女性への差別は、過去の女性差別とつながっている。外国人技能実習生への待遇や在日韓国人へ態度は、植民地政策と朝鮮人虐殺と無関係ではない。言葉は簡単に偽るが、態度は覆い隠せない。
いまこの瞬間に行われていることは、過去にもあっただろうし、未来にも繰り返される性質のものだと思う。

・アイコン言語。

親にスマホの操作説明をしていた。「送信は紙飛行機のボタンを押す」とか「メールの新規作成は色の付いた+のボタンを押す」といったことを教えるのだが、今のスマホは画面が簡略化されすぎていて慣れていない人には取っつきにくい。
操作方法以前に「アイコンの言語」を覚えないといけない。普通にパソコンを使っているのなら、「送信は紙飛行機」「保存はフロッピーディスク」というお約束に慣れているから大丈夫なのだけど、コンピュータに馴染みがないとアイコンの言葉を一つずつ説明していかないといけない。
アイコンの方がわかりやすい場合もあるけど、説明するときにはめんどい。
どうして設定は歯車なのか、雲のマークはなにを意味するのか。この雲(クラウドサービス)は天気予報アプリの雲とどう違うのか。そもそも送信マークが紙飛行機である必然性がない。もしかしたら画面の隅にいる飛脚のおっさんアイコンをクリックして届けてもらったり、くろやぎさんにおてがみを預けるデザインになっていても不思議ではないし、ポストに入れる方がわかりやすいかも知れない。
アイコンを正しく理解するリテラシーを当然のように見なしているけれども、意識的に学ばないと身につかないものだ。漫画の読み方がわからない子どもについての記事を読んだことがあるが、漫画を適切に読むためには視線を動かすお約束や文法がある。そのうちスマホのアイコンが読めない人たちが生まれて、「電話アイコンって意味不明だよね」と言い出しかねない。
それは固定電話の受話器という太古の遺物じゃよ。


■SNSのたぐい。

Maborotopia - Main Blog(Ja)
Maborotopia_fediverse版 (@metsa@fedibird.com) - Fedibird - Fediverse総合
Framapiaf - Mastodon - 絵を置く場所。
Write.as -短い文章置き場。@metsa@write.as
pixelfed.de - Image @metsa_pic@pixelfed.de
Untitled - tumblr - スクラップブック用途


・Fediverse再開日記。

【前回までのあらすじ】

また性懲りもなくMastodonアカウントを取得した。定期的にSNSアカウントを取得しては削除する行為を繰り返しているのだが、今回はいつまで持つのかわからない。

・ユーザーをフォローしない。
前回のアカウントを消した要因は、タイムラインをチェックするのが辛かったからだ。文字があると満足するまで読みたくなってしまうのだが、SNSの文章はまとまっているとは言いがたい。画面をスクロールすることに虚無感を覚え、発作的にアカウントを削除してしまった。
その失敗経験を踏まえ、今回はユーザーをフォローしない方針で運用する。

・他のFediverseとの連携を模索する。
Blog用途に特化したFediverseのひとつであるWrite.asを使用し、本家サイトのサテライトとして使う。ActivityPubに対応しているので、Mastodonでもフォローできる。それ以外にも実験的にPixelfedのアカウントを作ってみたが、読み込み速度が遅いかも知れない。
・思考を細切れにしない。ブログもやってSNSにも適応して、本を読んで、他人のPostやログを辿って……というのをやっていると、確実に脳みそがキャパシティオーバーになって、またアカウントを削除してしまう。
・本能の赴くままに文章を投稿できるSNSを自分に与えると、反社会的なことをつぶやき始めるのでやめたほうがいい。口は災いのもとなので、なるべく長文でやること。Fediverseは他のサーバーにデータが残る場合があるので、発言を消せばいいというものではない。

・SNS遊牧民族スタイル
下手にタイムラインを作るとフィルターバブルに埋没してしまうので、最初からコミュニティを作らなければいい……という発想に基づくインターネットスタイル。あるひとつの場に留まるのではなくて、他のコミュニティを探しに行くというSNS遊牧民族スタイルだ。なんとかクラスタの一員!という仲間意識を持ったり、持たれたりするのは面倒くさい。

・人と人をつなげるツールとしてのMastodon(あるいはActivityPub)。
フィルターバブルやコミュニティの蛸壺化を促進するツールとしてのマイクロブログやチャットツールではなくて、人や情報をつなげるハブとしての役割の方に将来性があるような気がする。
既存サービスの劣化版やTwitterクローンだけが、Fediverseの持つ真の実力ではないと思う。Fediverseを辿っていくのは、Web1.0のネットサーフィン的な味わいがある。コミケのサークルスペース的というか、みんながバザールの露店にそれぞれの品物を並べているのを、楽しく眺める感じだ。


・Mastodon以外から始める特化型Fediverse探検記。

マイクロブログと根本的に相性が悪いという理由で、海外の分散SNS文化を調べ始めた。Mastodonもタイムラインをある程度完成させると、息苦しさを覚えるようになる。自分で作ったフィルターバブルに閉じ込められて、狭い観測領域に埋没するのが嫌だった。それはFediverse・マストドン国日本語県所属サーバー市の中にある狭いコミュニティ町で一生を終えるようなものだ。
しっくりしないものを感じていたので、Fediverseの海外サーバーを渡り歩き、ドイツの田舎ですてきな風景写真をアップロードしているアカウントや、オープンソースソフトウェアのユーザーコミュニティ、海外アートのローカルタイムライン、ケモナーのコロニー、男性同性愛の肉体が延々と流れてくる場所、オリジナル魔法少女タグなどの異郷の文化と巡り会う旅に出かけていた。
タイムラインをスクロールするような受動的な使い方は、自分には似つかわしくない。スロットマシンを回すみたいに、刺激的な情報が投稿されないかどうかを待つ。そんな使い方は既存のSNSだけで十分だ。
アカウントのフォロー欄を辿っていくことで好きなユーザーや感性に響くアカウントを見つけて、そこから芋づる式にFediverseの世界を渡り歩いていく。このやり方に切り替えたときに、インターネットに探検が戻ってきたという実感を得た。リンクを辿っていくWeb1.0時代のネットサーフィン。あるいは検索結果が汚染される前のGoogleに近い手触りだ。
MastodonやFediverseは、Twitterと同じ使い方をしている限りは劣化Twitterにしかならない。既存SNSの延長線上でFediverseを理解するのは悪手だと思う。Mastodonなどの分散SNSは、Fediverseを構成する一要素でしかない。個人ホームページの時代に、Facebookやスマートフォン、Youtuberを想像できなかったように、2020年の私たちも「これからのFediverse」を思い描けない。
現時点で日本語圏ではブームが去ったように感じられるが、それだけで興味を無くすのはもったいない。この時代に分散SNSを使っている人々なので、尖った人が多い。広告やアフィリエイト目当てに検索結果を汚染するようなユーザーが少ない。それだけでも魅力的な場所だと思う。


・ブログの構成を大幅に変更しました。

・日記帳に突っ込んだままだった未分類テキストを整理しました。
・整理のコンセプトは「Web1.5構造」と「秩序・混沌スペクトラム」です。
「Web1.5構造」は時系列表示に適したブログと、ホームページの長所を融合したものです。インデックスページを作ることによって、通覧性に弱いブログの弱点を補うことを目的としています。
「秩序・混沌スペクトラム」は、書いた文章の属性を秩序・混沌に分類したものです。このブログの場合は、「インデックスの上部は比較的秩序を保っているが、下ほど混沌としていく」という構造になっています。
最初は「Maborotopia・秩序」と「Maborotopia・混沌」に分けようかと思っていましたが、「秩序と混沌の間に境界はなく、なだらかにつながっている」という発想に基づいて秩序・混沌スペクトラムを採用しました。