Tech日記

・Fluid motion

Ryzen Gシリーズには24fpsの動画を60fpsに補完してくれるFluid motionという機能がある。
これは静止画を高速でスライドさせる演出が多い映像と相性がいい。つまり低予算アニメとギャルゲーOPである。これまでは24~30fpsの壁に阻まれてガクガクしていた映像もFluid motionを使えばなめらかな映像になる。すごい! これ無しでもうアニメ観たくない!


・テクノロジー左翼日記。

テクノロジー左翼なのでオープンソースソフトウェアを中心に使う。
Google Playストアのアプリは広告まみれなので、心底嫌気がさしてしまった。androidで音声レコーダーをインストールしたのだが、基本的なツールにまで広告が表示される。Ad-Freeなアプリを探す方が難しい。この惨状を見て私は悟った。Googleは広告代理店で、androidは我々に広告を見せるために作り出されたOSだ。Googleのエコシステムにとどまる限り、広告から逃れられない。
F-droidでオープンソースソフトウェアをインストールすれば広告地獄からは逃れられるのだが、完全なオープンソースのスマートフォンにするのは茨の道だ。
脱GAFAのスマートフォンを作るのにも様々な流派がある。まず第一はGoogleと名の付くものであればすべて排除しようとする原理主義集団だ。android端末を便利に使うためにはGoogle開発者サービスが必要なのだが、そのインストールを拒絶してオープンソースソフトウェアのみを使う。
問題はGoogle開発者サービスなしで動くオープンソフトウェアは数少ないということだ。
たとえば堅牢なセキュリティで知られるProtonmailのandroid版はGoogle開発者サービスが無いと通知機能が働かなくなる(らしい)。Signalメッセンジャーも同様だ。それを避けるためにはXMPPやTutanotaなどのサービスに頼らなければならない。
最初は脱Google原理主義者として生きようと思ったが、挫折してしまった。LineageOSをROM焼きして、端末の保証は失われ、まっとうに生きている日本人なら聞いたことが無いようなサービスを使い、シェアの少ないメッセンジャーアプリを使う。使うSNSはdiaspora*とMastodonだ。
ここまでやると人間世界との接点を失ってしまう。「快適さを犠牲にしてでもオープンソースソフトウェアで統一しなければならない」と思い、イデオロギーを優先して現実の使い勝手を無視する。ゆがんだ共産主義理論を押しつけて国家に深い傷を残したクメール・ルージュみたいな危険思想OSであり、もはやテクノロジー極左だ。
第二の道は妥協だ。GAFAから完全に逃れるのではなく、中途半端に妥協してGAFAへの依存を減らすというものだ。AndroidはそのままでGoogleにもログインしている。代替サービスを上手に利用し、使い勝手とプライバシーのバランスを探る。これはテクノロジー中道左派である。
ひとくちに脱GAFAといっても様々な道があるのだが、にんげんは思想と実用性の間に折り合いを付けてなんとかやっていくしかないのよね……と思い知らされた。現実をそのまま受け入れるわけにはいかないが、思想が先鋭化すれば現実が犠牲になる。

Read more...

『聾の形 漫画・劇場版感想文』

・隠れ発達障害児マンガとしての『聾(こえ)の形』

週刊少年マガジンの漫画が生理的に苦手で読めない。
『このマンガのトラウマが酷い』の頂点に君臨するのは、悪い奴がドラッグでラリったおっさんに尿を飲ませるシーンだった。「喉が渇いたのなら、飲み物をあげますね〜」と言いながら、笑顔でジッパーを降ろして放尿する作品だ。その漫画が載っていた雑誌が少年マガジンだった。マゾ向けえろまんがを読むようになった今の自分なら、かつてのトラウマに立ち向かえそうな気がするのだがタイトルを思い出せない。
それで漫画版・聾の形についてだ。
障害者とのボーイ・ミーツ・ガールとの触れ込みで話題になった作品である。かたわ少女などの障害ヒロイン大好きっこである。この作品であれば週刊少年マガジントラウマを癒すことができるに違いない。そう思って手に取ってみたが、実際には隠れ発達障害児マンガだった。
この時点で一巻しか読んでいないのだが、これは聴覚障害者と健常者のストーリーには見えなかった。主人公の男の子が明らかに、未診断の隠れ発達障害児にしか見えない。割と重度なADHDっぽい挙動をしているし、親ならすぐに精神科に連れて行って知能検査を受けさせるレベルだ。

Read more...

日記帳・パソコンの技術を習得できる自然な導線が無い問題。もしくはインターネット老人会。

『プーは自分の両手をながめました。プーはこの二つの手のうち、どちらかが右手だということを知っていました。そして、どちらが右か、きまれば、もう片方は左だということも知っていました。けれども、いつもどっちからはじめていいのか、わからないのです。』
A・A・ミルン『プー横町にたった家』


・パソコンの技術を習得できる自然な導線が無い問題。もしくはインターネット老人会。

自分がパソコンを使い始めたときには、遊びながら基本的な操作を覚えられる導線が用意されていた。 コンビニ売りのパソコン雑誌にはCD-ROMが付いていて、フリーソフトや市販ゲームの体験版、アダルトゲームのサンプルCGが詰まっていた。
まず最初に覚えなければならないことは、圧縮されたデータの解凍だ。解凍するためには、どの形式で圧縮されているのかを把握しなければならない。そのためには拡張子という概念に触れる必要がある。DLL(ダイナミックリンクライブラリ)をインストールする場合もある。そもそもなんでWindowsってデフォルトで拡張子を非表示にしているのだろう。
キーボード入力でゾンビを倒すタイピング・オブ・ザ・デッドの体験版で遊んでいれば、タッチタイピングの基礎が身についている。PC雑誌の記事通りにソフトをインストールすれば、それなりにパソコンを扱えるようになるというのは、理想的では無いにせよ恵まれた環境だったのかもしれない。
じゃあこの時代(2019年)で、基礎的なPCスキルを楽しんで身につけるにはどうしたらいいのだろう?……ということについて考えていた。パソコン操作のお勉強ではなくて、おもちゃやゲーム機の延長線上としてパソコンで遊ぶ。
スマホでなんでもできるんだから、わざわざパソコンを使うモチベーションは湧きにくい。そもでもほんとうにPC雑誌が少なくなってしまったなーと、書店の本棚を見て寂しい気持ちになる。


・言葉の彩度について。

数年ぶりにTwitterのアカウントを取得したのだが、タイムラインに流し込まれる言葉の渦を見て吐き気を催してしまった。何人もの人間の言葉が細切れになって、脈絡も無く画面に映し出されている。そのとき話題になっていた時事問題についてのコメントがずらっと24インチのディスプレイに表示されている。文脈を欠いた言葉の断片しかない。思考の流れは断ち切られ、文章の構造を持たない感情の群れになる。そんな感覚を覚えてしまったので、タイムライン型のSNSを使いたくない。
文章にはパラグラフがあって、流れがあって、構造がある。主要なトピックがあり、最初のパラグラフで書ききれなかった部分を補足する文章があり、結論がある。ときには一つの主題を基点にして、まったく異なった話題に転調していくことも珍しくない。
文章の構造性が破壊されて、細切れになった言葉の残骸だけが残される。強い感情を未加工のままで垂れ流したような、彩度の強い言葉だけになる。言葉には色彩があるように自分には感じられる。とげとげしい感情をそのまま表現すると、言葉は彩度が高くなりすぎて調和を失ってしまう。
ぎらついた配色デザインのポスターを見ていると、目に色彩が刺さる。彩度の高い感情的な言葉を目にすると、それが脳みそに不愉快な方法で刺さってくるように感じられるので、SNSで使われている言葉にはあまり近づきたくない。
短い文章で言葉に強度を持たせるためには、どうしても感情的な言葉に頼らなければならない。皆が強い感情のこもった言葉を使うから、過度に感情的な言葉でタイムラインが埋め尽くされる。その感情の群れに飲み込まれるのは、あまり心地の良い感覚ではない。

・これから求められる言語運用スキルは、「感情の群れを操作する」技術ではないのか。
スマートフォンとSNSの普及によって劇的に変わったのは、言葉のあり方だ。これまでは一人の人間が書いた文章がメジャーなものだった。構造があって、最初から最後まで一人の人間が書いた一貫性のある文章を読んでいた。けれども、いまでは「感情の群れ」が支配的な言葉の形になった。何千人、何万人、何百万人もの人間が生み出した断片的な感情が群れになる。
牧羊犬が羊の逃げる方向をコントロールするように、インターネットユーザーの感情を刺激して、群れをひとつの方向へと誘導していく。影響力を駆使して感情を喚起し、自分が望む方向にエネルギーを動員するような言語運用スキルが重要になる。
これまでは自分の言葉を増やすためには、テレビ放送や出版の力を頼る必要があった。でもネット上で自分の影響力を増すためには、他者の感情をハックした方が早い。感情を煽り、群れを操作することで影響力を増す。
「共感が大切」だと言われるのは、それが感情をより効率的に複製できる手段だからだ。
でも自分たちは影響力を行使する側ではなくて、追い立てられる羊の方にいる。何かしらの目的のために動員される側、誰かにとって都合のいい道具の側、操作される側、マーケティングの対象になる側にいると思うのです。


・観念を外部に投影するのをやめる訓練。

※いつにも増して抽象的な話です。
生老病死に関しては逆らっても仕方が無い。生まれ、老い、病気になって死ぬ。それは避けられないことなのだが、問題はそれ以外だ。
なるべく時代の流れには逆らわないようにして生きていきたいし、変えられないものを無理に変えようとするような愚かしさからは逃れたい。でも何が変えられないものであるのかを決めるのは、自分では無い。変えられないものを抵抗せずに受け入れることと、変えられるものを諦めてしまって従属することは表面上は似ているのだが、その区別ができない。
「現実はそういうものだよ」……とはじめから諦めて、すべての理不尽を受け入れられるのならば悩まない。
「こうあるべきだ」という脳内妄想に近い理想を、世界に無理矢理押しつけるから苦しくなる。
「社会はこうでなければならない。今現在の状態は非合理的で間違っている。それゆえに正しく変えなければならない」。そう考えるのは正しいのかもしれない。実現可能性が乏しい理想像を社会に投影しているだけなのかもしれない。努力すれば変えられるものなのかもしれない。現実と理想のギャップから目を背けて、ただ理念ばかりが先行しているだけなのかもしれない。変えられる可能性がないのに、偽物の希望を抱いているだけかもしれない。
でもその区別ができない。「かみさま、私にお与えください。変えられないものを受け入れる落ち着きと、変えられるものを変えていける勇気と、その二つを見分ける賢さを」という祈りがある。神に祈りを捧げるのは、変えられるものと変えられないものを見分けられないからだ。変えられないものを変えられると錯覚したり、逆に変えられるものを前にして最初から絶望する。
「世界はこうでなければならない」や「社会はこのまま変わらない」というのは客観的な価値観では無くて、自分の観念を外部に投影しているだけなのかもしれない。自分の頭の中にしか存在しない正しさを外側に押しつけたり、反対に根拠の無いまま絶望しているのだが、自分では見分けがつかない。それらを変えられるものを変える勇気や、変えられないものを受け入れる落ち着きだと勘違いしていることも十分あり得る。
もしそうだとしたら、自分自身の判断は信用できないのでは無いのか? 頭の中の観念を外部に投影して、喜んだり失意を抱いているだけのように思ったから、自分勝手な判断で見えている世界の性質を決めつけないようにしたいなー、と思った。
何を言っているのかわからないと思うのだが、自分でもまだ整理し切れていないのでややこしい言葉遣いをしているのは理解している。
変えられるものと、変えられないものを見分ける能力が自分には無い。動かせる部分は動かすし、力を入れても容易に動かないものなら放っておく。この世界も可動範囲の中でしか動かないから、動く部分を探してそこだけを動かすことしかできない。


・2019年参院選の雑感(開票前)

7月6日(土)に期日前投票を済ませた。
これは自分の備忘録として書いているので、他人の投票行動をどうにかしようという意図はまったくない。ここ数年は「特定の政党が極端な勢力を持たないようにする。一人区は勝てそうな野党系候補(立憲民主党とか)、比例区は日本共産党に投票する。選びたい候補がいない場合は誰が議員になって欲しくないかを考える。棄権するぐらいならコインの裏表で決める」というスタンスで選挙に臨んでいる。
政治的な話題については「勝手にしやがれ」と思っているし、アイドルグループよりも活動期間が短い政党は信用していない。

・NHKから国民を守る党のムーブが不気味

NHKから国民を守る党の存在感が不気味だが、新聞やメディアを見てもそこまで問題視されていない。野党共闘が実現して与野党一騎打ちの構図になるかと思ったのだが、N国が一人区に候補を立てているので票が分散する可能性が生じている。
「そんな泡沫政党に誰も投票しないはずだ」と考えるのが普通なのだが、常識的な判断が通じなくなっているのが現代社会のトレンドだ。「あんな不動産屋が大統領になるはずがないよ」と思ったらトランプ大統領が誕生して、「過激なポピュリズム政党なんか躍進するはずがない」と考えていたらイタリアで五つ星運動が大勝する。
2017年の選挙で希望の党が野党第一党になりかけたのを鑑みると、NHKから国民を守る党が野党共闘をぶち壊して自民党が単独で過半数を確保。さらにN国が野党第二党ぐらいに躍り出る可能性を否定できない。実際には杞憂に過ぎなくても、風向きの変化で投票先がダイナミックに変化する可能性を孕んでいるので、自分の判断や価値観に自信が持てなくなる。

・希望の党とは何だったのか?
「希望の党とは何だったのか?」という問いが発せられないのが不自然に感じられる。排除発言が無ければ、野党第一党として自公政権と対決姿勢を見せていたかも知れない。政党要件を失って影も形も無くなっているのだが、「誰がどのような理由で支持したのか? 再び同じような現象が起きる可能性があるのか?」という問題提起がなされるべきだと思う。

・閉じた正しさ。

「安倍政権は間違っている」という文章をよく読むし、言っていることには正当性があるとも思う。でもその文章が誰に向けて書かれたものなのかがわからない。安倍政権に対して批判的な人はすでに2015年ぐらいから同じ考えを持っているだろうし、自民党支持者や政治的関心の薄い読者層に読まれるわけでも無い。閉じた場所で消費されるだけの、誰にも届かない正しさだ。
「どうして自分たちは正しい(ような)ことを主張しているのに、その言葉が一般の有権者に届かないのか?」という自省や分析がないことに不満を覚えている。
「自分たちは正しいんだ。間違ってはいないんだ」と思い込むためだけに、正論を消費している。それでいつも通りの正しさを訴えて、いつも通りに順当に敗北するというのを繰り返しているように感じられて、「もう勝手にせーや……」という気分になっている。

・正しく絶望するために。

私たちに必要なのは、正しく絶望することだ。
「民主主義を守ろう! 国民一人一人が政治的関心を持って、政府の汚職を追及して健全な社会を取り戻そう!」と言うのは簡単だけれども、その言葉には何の意味も重みも無い。空虚なフレーズが繰り返されるたびに、「ああ、またいつもの綺麗事ね。おれには興味ないけどせいぜいがんばってね」としか思えなくなる。
実現可能性の乏しい楽観的観測や、根拠のない希望を振りまくリベラルに対して違和感を抱いている。中途半端な希望を無責任に垂れ流す姿勢に嫌悪感だけが募っていって、「実現可能性もないのに大口をたたかないでくれよこんちくしょう、もうだまされないぞ」という気持ちになっていた。
理論上は実現できるのかもしれないし、そうなるのが正しいのはわかっている。でもそれをどうやって実現するのかという過程がすっぽりと抜け落ちているので、遅かれ早かれ失意を抱くようになる。

今回の参院選では年金の持続性が焦点になっているのだが、少子高齢化の構造的な問題を直視していない。経済成長と公的年金運用や法人税と所得税の増税でどうにかなるという話しか聞かない。少子高齢化によって存続自体が無理筋なのかもしれないとしたら、社会保障のあり方はどうなるべきか?……と疑問を投げかけること自体がタブーになっていて、年金制度が破綻せずに済むかのような話になっている。
各自の努力で2000万円の老後資金を準備する必要があるという現実が無かったことにされて、これまで通り安心ですという幻想が垂れ流される。これは別に年金制度だけの問題ではない。現実がどうであるのかよりも、「こうであって欲しい」という希望的観測を優先する。現実認識を歪めて、自分の見たいもの以外が見えなくなるような思考方法に慣れ親しんでいる。

政治に対して失意を抱くのは、正当性のある現実認識だと思う。それを「民主主義を守らなければならない」といった借り物の言葉で、失意を塗りつぶしてしまうのはもったいない。好ましい未来も展望も何一つして見えない。使われている言葉に空虚さしか感じられない。信じるに値する物がない。
その感覚にしかリアリティを覚えられないのだとしたら、失意から始めないといけない。
こうすれば社会はよりよい方向に変わるという希望や、楽観的観測、甘言にすがりたくなるのだが、これは「ポジティブでなければならない症候群」の弊害だ。私たちの社会ではポジティブでなければならない。ただ単に絶望したり失意に浸っていることを許してくれない。無理矢理にでも、ポジティブな姿勢を見せたり、希望を持っているように振る舞わなければならない。でもそれって、悲しいのに無理矢理笑わされているようなものだ。
希望とも願望とも区別がつかないような言葉で現実認識を歪めたり、イージーな方法で絶望感から目を背けるのは簡単なことだ。でも手遅れになるまで無かったことにするのは、いまここで適切に絶望することよりもよっぽど絶望的な選択肢じゃないのか。


・存在しない人間入門

Frederik Davidsen

みんな、はじめまして! このブログの管理人をしているFrederik Davidsenです。
アメリカ合衆国の1482 Eagles Nest Drive Chico, CA 95926で暮らしている47歳です。誕生日は10月6日だよ!

Jens

この子は飼い猫のJens。ベッドの中にもぐり込んでくる可愛いいたずら子猫だ。
これらの情報はすべて下記のウェブサイトを用いて自動的に生み出されたもので、Frederik Davidsenなんて人間ははじめから存在しないんだ! みんなも架空のアイデンティティーを生み出して、インターネット上の個人情報を信頼の置けないものにしよう!


・夢日記 チャラ男と陰キャのBL。

地味な陰キャの子がサドっぽくて、チャラ男が今まで感じたことの無い気持ちを抱いてどきどきしていた。恋をしたての女子中学生のような純粋さで顔を赤らめるチャラ男が可愛かった。
これは本来ならどこかのBL作家に送り届けられるはずの夢だったのではないのか?と思っている。あるいはおれの心の中にBL漫画家ソドム館山という人格がいて、意識下に抑圧されたBL妄想を夢の中に解き放っている可能性も否めない。
みんな心の隔離病棟にBL漫画家の一人や二人監禁しているよね? ジキル氏とハイドのごとく本能だけを羅針盤に生きているような反社会性人格を封印して生きているはずだ。反社会性といえばソドム館山先生はGTAシリーズを見て「なんで通行人を無差別殺傷できる反社会性が売りのゲームなのに、敵ギャングの若頭を拉致して手籠めにするタイプの犯罪は無いんや……なんでや……」と夜中の三時にSNSに投稿していた。18歳未満は購入できないという理由でエロゲー的展開を期待していたソドム館山先生である。
このブログにときおり登場するソドム館山とはいったい何者だ……。


・『弟の夫』

『弟の夫』を読んだ。LGBT問題を扱った漫画だという触れ込みだったが、登場人物が異性愛者ではないという点を除けば、普通の漫画だった。死んでしまった主人公の弟が好きっ!という気持ちが丁寧に描かれていて、登場人物がおっさんであることを度外視すればほとんど百合漫画だった。
社会的なマイノリティである登場人物が、普通に人を好きになって、結ばれて、その人を失って、喪失感を埋めようとする。他の人とは違うあり方で、普通の感情を抱く。その普通の感情や出来事が、住んでいる場所や他者のまなざしによって異常なものになってしまう。


・インターネット砂漠

インターネットに耽溺する理由は、含まれている情報が薄いからだと思う。アプリを開いてSNSの短文を読んでも、「意味のある文章を読んで、まとまった知識を得たぞ!」という満腹感が得られない。好奇心が満たされないから、延々と画面をスクロールしたり、べつのアプリやWebサイトをぐるぐるとネットサーフィン(死語)するのだが、やっぱり好奇心が満たされなくて苦しくなる。
もはやネットサーフィン(死語)ではなくて、水を求めて不毛のインターネット砂漠をさまよっている感じだ。
ネットだけでは無くて連載漫画も、完結した作品を読んだ!という達成感が得られないまま、だらだらとシリーズものを読んでいることが多い。
読めば読むほど、見れば見るほど、乾いていく感覚が強くなる。


・囲碁日記、さまざまな個人的Tips編。

・囲碁の古本購入ガイド。古本を活用する。
囲碁は将棋に比べると棋書が格安で手に入る。囲碁がまったくブームにならないので、需要が乏しく捨て値で売られていることも多い。ブックオフやAmazonマーケットプレイス、フリマアプリなどを駆使すれば、比較的新しい書籍を底値で手に入れられる。
定石書は基本定石を活用するタイプなら何でもいいかも。自分は『囲碁 実戦に強くなる基本定石25 (大竹 英雄 )』を200円で買ってきて読んでいた。わからない定石があったら、定石ライブラリーなどを参考にする。
布石や定石は時代によって少しずつ変化していくので、あまりにも古いものは使い勝手が悪い。だが2000年以降の書籍なら十分に使い物になるし、AI布石を理解するための下地としてもいいと思う。ただ定石は、布石と絡めて理解したほうがいい。
逆に手筋や詰め碁、ヨセなどの分野は30~40年ぐらい前のものでも十分に使える。レイアウトや挿絵が昭和テイストの場合もあるが、中身は一緒だ。
・初心者~級位者向けでバランスがいいのは、NHK囲碁シリーズだと思う。

・生きる。
『山城宏の置碁戦術 序盤50手必勝法 (NHK囲碁シリーズ) 』では、「上手と殴り合いになったらまず勝てないから、なるべく早く根拠を得て生きた方がよい場面もある」ということを教わった。
囲碁で真っ先に覚えなければならないのは、根拠を得て生きることの大切さだ。置き碁をすると上手に根拠を奪われて、生きていない大石を抱えて盤面を逃げ惑う。生きたと思ったときには大差を付けられて敗北するのが、初心者にとっての日常だ。
だが根拠を持てば相手の攻撃に動じることもない。まずは根拠を持って生きることが大切だ。でも「相手を小さく生かして十分」という作戦もあるので、下手に生きながらえようとするのもケースバイケースだ。
おなじNHK囲碁シリーズの書籍には「生きようとするのは転落の始まり」という言葉もある。どっちが正しいんだ、囲碁。


・余計なものに対する執着を減らしたい。

・情報に対する執着
最新の情報にキャッチアップしなくてもいい。1、2週間ぐらい遅れても、一ヶ月後にようやく流行に気がつくような愚鈍さを手に入れたい。新しい情報をすぐさま手に入れられても、そんなに幸福感が増すわけでは無い。災害情報などの生死に関わるもの以外は、なるべく最新情報にこだわらなくてもいいし、時事問題も週に一回まとめて読むぐらいがちょうどいいように思う。

・数字に対する執着
未だに数字に対する執着を手放せない。「AMDの新型GPUアーキテクチャは、これまでよりもワットパフォーマンスが1.5倍ほど改善し、性能が上がる予定です!」とか、「前世代モデルに比べてお値段据え置きで4コアが6コアに増えます! 性能も30パーセントアップです!」と言われると物欲が刺激される。
目的地に着くのが一時間か、それとも50分になるのかという違いにこだわっている。
だけどPCには「したいこと」が「快適にできる、ストレスがたまるが不可能では無い、できない」の三つしかないので、細々としたスペックに拘泥するのは意味の無いようなことだと思った。
PCパーツ屋の従業員に「いまの時点でコスパのいいミドルスペックのマシンを一つ頼むよ。詳しいことは知らないけど、おまえの選定眼を信じる」と言って、金を叩き付けるのがいいのかも知れない。

・ジャンクな好奇心。
でもやっぱりスペック表があったら読み込んで性能を比較したくなる。昔からゲーム攻略本に書かれているステータスの羅列を見るのが好きだった。見開きに細かい文字で数字がびっしりと印刷されていて、リザードンの火炎放射の威力や命中率が書かれている。その一つ一つを知るたびに、世界の成り立ちに手を突っ込んでいるような感覚になる。それが好きだった。
時刻表を読む趣味は無いのだが、これらの無味乾燥に思える数字が噛み合って、ゲームバランスという繊細で巨大な建造物を作り上げていることに畏敬の念を覚える。ただ何事にも限度がある。Ryzenの内蔵GPUには計算ユニットがいくら積まれていると言うような情報を知る度に、好奇心を無駄に空回りさせているような感覚になった。
ジャンクフードを食べるような好奇心に振り回されて、数字に耽溺している。楽しいのはわかっているが、知らなくてもいい。そういう情報に溢れていて、本当に知るべきことから遠ざかっていく。

・必要なものを満たせるだけの欲求。
数を増やしたい、性能のいいPCが欲しいという欲望が頭をもたげてくる。それを叶えたとしても得られるものがそこまで大きいわけでは無いし、棋譜の手直しをする程度なら、そこまでマシンパワーが必要なわけでは無い。だいたいはどうしようも無い判断ミスだしね。
実の無い欲求に駆り立てられるけれども、本当に満たしたい願いのほうはおざなりにしている。当初の動機が「悪手を減らして、一子ぐらい強くなりたい」だったはずだが、いつの間にか「いい環境で囲碁AIを動かしたい」に欲望がスライドしていることに気がつくのだが、それは悪手では?と思うのです。

「水を飲んで乾きを満たしたい」が、「乾きが満たされる快楽を得たいから水を飲む」に変わってしまうのだが、本人はそのことに気がつけない。しばしば僕たちは倒錯した欲望に囚われて、非合理的な選択をする。
今の自分に必要なのは、非合理的な言動を指摘してくれる人工知能なのかも知れない。人間の行動を強化学習して、合理性をチェックして助言をしてくれるソフトウェアがあればQOLが上がるはずだ。
「あんさん、その行動は一時の感情に身を任せているだけだから、よう考え直したほうがええで。まずは深呼吸をして、判断は先延ばしや!」「いまがチャンスや!」……なぜか関西弁なのかは知らないが、技術と人間にはちょうどいい関係性があるに違いない。これがAI信仰になったら自由意志の否定だが、愚かさを客観視できるツールがあるといいと思うよ。


・パブロフのわれわれ

時事問題に反応して良識的なコメントをするのは楽な行為なのだが、思考の怠慢であるような気がした。TwitterをRSS代わりに使っているときに、通り魔事件や政治家の失言があったのだが、タイムラインが良識的な反応や悪を糾弾する言葉で埋め尽くされた。ひとつひとつの発言は些細なものなのだが、似たような言葉や反応が画面に埋め尽くされるのは異様な光景に見えた。
反応がテンプレート化しているせいかもしれない。政治家が失言をしたら全力で批難して構わない。そのこと自体に過失は無いのだとしても、自分たちの反応が自動反射に近いものになっている。
パブロフの犬はベルの音を聞いただけでよだれが出るようになってしまったが、僕たちは政治家の失言を見るだけで定型的な反応をするように条件付けられてしまった。それは思考と呼ぶよりも日々のルーティンが生み出した条件反射でしかないように思ったので、良識的な発言やテンプレートに沿った反応は控えたほうがいいのかも知れない。

・追記。
「画面が似たような発言で埋め尽くされるのが異様に思える」と書いたが、これはあくまでも個人的な感覚だ。逆に、「自分と同じ思考をしている人が、こんなにもたくさんいる」ということに安心感を覚えるユーザーの方が多いのかも知れない。


・正義感や道徳観念を失うという訓練をしていた。

正義感を持ち出して怒りに駆られたり、道徳を他者に押しつけることで苦しくなってしまうぐらいならば、そんなものは捨ててしまった方がいい。
どうせ自分が正義感を振り回さなくても、道徳心が過剰な人はインターネットをさがせばいくらでもいる。日本社会がどうなろうとおれの知ったことでは無いし、地球温暖化でこの世界に人間が住めなくなっても仕方が無い。子供が交通事故で死んでも「こんなクソみたいな世界は生きる価値が無いよね」で済ませるという案配だ。どうせ人間はそのうち死ぬし。
この発想の元ネタは(確か)ひろさちやの『仏教に学ぶ老い方、死に方』だったような気がする。道徳心に照らし合わせて、社会や他人を自分の望むとおりに変えようとするからしんどくなる。世間と道徳、他人に対して意識的に無関心になることで苦しみを和らげるのだ。
「そんなことじゃいけないよ! いっしょに社会の不正と戦おう!」というのが世俗の価値観だし、きっと正しい。でもおれは正義を振り回すこともに、正論にも、何の役にも立たないクソみたいな倫理観念にも疲れてしまったの……。
そんなときに唱える魔法の言葉は「もうどうにでもなれ」である。おれのしったことではない。どうせみんな死ぬから、日本社会も自分も他人もどうなっても構わない。すべてはむなしい。

・Everything is meaningless, but Everything in Its Right Place.

ここのところ虚無感と無意味感に支配されているのだが、仏教的にはこの感情がデフォルトであるらしい。人生は空虚かつ無意味で、何かを成し遂げても、砂の城が波に浚われるように失われてしまう。憂鬱になっているのではなくて、ようやく諸行無常が実感として身についてきたということだ。
ポジティブシンキングで前向きに生きよう!……と言われても、人は老い、苦しみ、やがて死ぬという圧倒的なリアリティの前ではそんな気分にはなれない。
諸行無常で、あらゆるものは空虚で、あらゆるものが無意味で、あらゆるものはいつか過ぎ去るのだというのはどうしようもないことだ。
しかしここでRadioheadのEverything in Its Right Placeが頭の中で流れ始める。すべてはただしい位置にある。空虚かつ無意味で、はじめから存在しなかったかのように失われるのだとしても、それはそれで正しい。
不老不死を求めたり、永遠を探すのは間違っている。過ぎ去る。意味を失う。老いる。死ぬ。そういったことを、Everything in Its Right Placeの精神で受け止められればいいなー、というようなことを考えていた。
そーなると悲しむことも苦しむことも仕方が無い。悲しむだけ無駄だって言うのはわかっているけれども、悲しいんだから仕方が無い。涙がこぼれてくるんだからどうしようもない。泣いても意味が無いとわかっていながらもそれでもなお、こぼれ落ちてくるのが涙だ。ザザ〜ン! 涙は世界で一番ちいさな海ニャ!(※スイートプリキュア 23話)


・天皇アイドル制の理路について

・はじめは天皇を処刑するべきだと思っていたが、人権の観点から考えると許容できない。
・天皇制の問題は政治権力と一体化することによって生じる。そのため、可能な限り政治から距離を置いた天皇制度を模索しなければならない。
・国民の税金で天皇制度を存続させるのは、おのずと権力者との関係が近づくので好ましくない。天皇みずからが国民との関係性の中で、活動資金を捻出していく必要性がある。
・そのためには物販やファンクラブの会費、写真集の出版、ライブのチケット販売などのアイドル・ビジネスモデルを流用し、21世紀の新しい天皇制を作り上げていかなければならない。
・天皇制が真に日本国民に必要とされるものであれば、自然と臣民(ファン)によって財政が支えられる。
・嵐やSMAP、AKBが普通にやっていることが天皇にできないわけないだろ!おまえたちの推しに掛ける気持ちがそこらへんのアイドルグループ以下だっていうのなら、天皇制なんてさっさと潰してしまえ!
……という理由により、天皇アイドル制の成立を目指す。

推しが引退して思ったのは、自分は箱そのものが好きだったのではないということだ。他のファンは箱があること自体が重要で、何の疑問も持たずに箱を推しているのだが、それをとにかく言う資格が自分には無い。でもおれは箱そのものに愛着があったのではなくて、前任の不祥事にもめげずに箱への信頼を回復させようと必死に頑張っていた推しの姿が好きだったんだよね。だから推しが引退したあとに新メンバーが加入しても、以前と同じように推せるわけでは無い。
そもそも大日本帝国とかいうマナーのなっていないファンがむやみやたらにアイドルを布教するから、GHQの手によってグループ解散の危機まで言ったんじゃねーか!という気持ちです。


・Leela Zeroと人工知能と厚みと模様。

Leela Zeroという囲碁ソフトをインストールしていたが、途中で手間取ってしまった。ビルドは問題なく成功したが、RyzenのGPUを動かすためにドライバーを入れる必要があったのだ。
Ryzenはコスパがいいけれども、Intelに比べると不測の事態が起きる場合が多い。ビルドが悪いのか、OSのバージョンか、あるいは自分の知る術も無い不具合があって起動しないのか、判断に迷う。
Linuxはトラブルに遭遇したときに労力がかかるのでしんどい。RyzenもIntelと勝手が違うので、変なところで落とし穴にはまる。こういうときにはWindowsが懐かしくなるのだが、もうマイクロソフトには戻りたくないのだ。
Leelaはalpha goの論文をもとに開発された囲碁ソフトであるという。だがモンテカルロシミュレーションで囲碁ソフトが劇的な進化を遂げた時点で歯が立たないので、そのへんはどうでもいい。
目当ては棋譜解析だ。形勢判断や解析機能があり、自分の打った悪手が一目でわかる。ダイナミックに勝率が変化していくので、どの手を打ったときに形勢が悪化したのかをあとから検討できる。
一つ問題があるとすれば、機械と人間の棋風の違いだ。人工知能はケアレスミスをしないという前提で着手を決める。ギリギリで勝てるが、糸の上で綱渡りをするような繊細さで打っているのかも知れない。
でも自分は人間だ。ケアレスミスをしたり、うっかりするなどの人間が人間であるがゆえのゆらぎを勘定に入れた上で、「多少効率は悪くなるけれども、ミスしにくい着手を選ぶ」ほうが勝率が上がるのかも知れない。
AIを否定するわけではないし、これまでにない発想の着手や定石は面白い。その成果を人間側が取り入れて棋風が変わりつつあるのも楽しい。
でもAIが人間の感性をサポートするツールではなくて、真実を教えてくれる託宣装置(オラクルマシン)になるのだとしたら、それは問題だ。AIの判断を無批判に受け入れて、絶対視するようなAI信仰の入り口に立っている。
囲碁には厚みや模様という概念がある。大きく広げて、そこに入ってきた相手を攻めながら優位を得るという戦略だ。(厳密には違うのだが、そういうことにして欲しい)だがこれは人間の弱さを計算に入れた方法論でもある。大きく陣地を広げれば、相手はやきもちを焼いて無理な手を打つかも知れない。陣地が大きく見えるかも知れない。形勢判断にしくじるかも知れない。人間は間違う。過ちを犯すのだが、それが棋風や個性になる。
AIがディープラーニングの果てにたどり着いた合理的な手と、人間にとって扱いやすい手は別なのだと思う。着手検討機能は「ここは手堅く囲ったほうが勝率が高くなります」と言っても、「間違っていても、ここは大きく模様を広げたいんだ」と感じてしまったから仕方が無い。


・感情喚起システムとしてのインターネット

現在のインターネット上に流通しているのは、情報では無くて感情のように思える。正確には感情をより効率的の喚起するための情報が好まれて、SNSは集団の感情を増幅させるための拡声装置(アンプ)になっている。
価値のある情報を共有して、より冷静になるのではない。手軽な方法で感情を喚起させるためのシステムに飲み込まれて、不当な方法でさまざまな感情を搾取されているような気分を抱く。
さあ怒りを抱きましょう! 正義感を振り回してストレスを発散しましょう! 感動しましょう! 一体感を覚えましょう! 非道徳的な振る舞いをした人間を糾弾しましょう!……というように、常に何かしらの感情を刺激される。そのことに疲労感を覚えてしまった。
時事問題に言及したり、政治、権力者の不正に対して憤ること自体は普通の反応だ。けれどもそのプロセスにインターネットが介在することで、自分自身が感情を拡散する保菌者になる。誰かの投稿した記事を見ていらだちを覚え、その情報を拡散して他者の感情を刺激する。その仕組みが不健全なものに感じられた。
感情を抱くことは悪いことではないのだが、刺激される回数があまりにも多すぎて疲弊する。
主観的な情報によってある種の感情を無理矢理引き出されている。これを自分は感情喚起システムと呼んでいる。
現在のインターネットは客観的な情報を得て、冷静な判断をうながすようなツールとはほど遠い。効率的に感情を刺激するためのシステムだ。ユーザーの感情エネルギーを原動力にして、さらに大きな感情を呼び覚ますような代物になっている。
コメント欄やSNS、スマートフォンは、より人間が感情的になりやすいように設計されている。文章を書いているときにはパラグラフの構成や論理構造に気を配る必要性があるのだが、細切れの文章を脈絡無くつぶやけるSNSでは論理よりも感情の比重の方が大きくなる。
冷静さよりも、怒りや負の感情を媒介にした方が瞬く間に情報が広がる。手軽に怒りたい、感動したい、イージーな方法で一体感を覚えたいというニーズを満たすために生み出された、効率的な感情喚起システム。それがいまのインターネットの姿だ。
自分が日本語のネット環境を遠ざけたいと思うのは、SNS上に垂れ流される感情の量に耐えられないからだ。情報ではなくて感情が流通していて、胸焼けを起こしてしまう。


・この政治BL漫画家が酷い!2019! ソドム館山編

ソドム館山先生の新作BL同人誌『従軍慰安天皇3 マッカッサー陵辱編』を購入した。
第二次世界大戦では天皇制が諸悪の根源として語られることが多い。皇国史観に基づいた侵略戦争によって、日本国民だけでは無く東南アジア全体に災禍を広げだ。しかし、天皇制に翻弄されていたのは昭和天皇自身だったのではないのか?……というソドム館山先生の歴史観から紡ぎ出される渾身の一作。それが従軍慰安天皇シリーズだ。
私の心の中にはソドム館山先生というBL漫画家がいて、トランプ×安倍晋三だったり、プロレタリア×ブルジョア、天皇総受けの18禁ボーイズラブを鋭意執筆してしまうのでちょっと困ったことになっている。天皇もエンゲルス×マルクスも、政治に関わるものならあらゆるものを同性交尾させてしまうソドム館山先生である。政治的正しさも社会正義の欠片もない、ただただ政治家同士を混じり合わせたい!という歪んだ情念のみに支配されているのがぼくたちのソドム館山先生だ!
表現の自由が人を傷つけるのは知っているが、それでも政治BL漫画を描いてしまう。これまでに何度も筆を絶とうとしてきたソドム館山先生だが、気がついたら32ページ分の原稿ができあがっているのである。
ソドム館山先生が戦っているのは、日本の男色文化を闇に葬り去ろうとしている歴史修正主義者だ。女性は国家のために子供を産まなければならないというのは、富国強兵によって国力を増大させる必要性があったからだ。とうぜんのことながら生殖に関係の無い男色文化は明治政府によって抑圧された。
性に開放的だった日本文化と男色の歴史を再評価することで、現代のいびつなジェンダーバイアスに風穴を開ける。……という目的があったのかどうかは知らないが、ソドム館山先生は日本男色国紀を執筆して日本社会に挑戦状を叩き付けた。一部ではボーイズラブ火の鳥と呼ばれている日本男色国紀だが、百田尚樹を筆頭とする保守論壇と血みどろの殴り合いを繰り広げることは目に見えていた。
なんでこんなひどい文章をなかば自動筆記の勢いで、あたいは書き殴っているんだろうな……と、理性を取り戻したのでここで終わりにします。
次回!ソドム館山先生の『狙われた姦房長官・メスイキしているというご指摘はまったくあたらない』レビュー!


・禅バックアップ

容量の少ないストレージを整理していた。ついつい8GBのSDカードをバックアップ用として使い、どこに何のファイルがあるのかわからなくなってしまうし、どのストレージに保存したファイルが最新なのか定かではなくなる。このような欠点を抱えているので、バックアップ用の記憶媒体を減らしている。
本体、バックアップ、バックアップのバックアップの三つがあれば、そのどれもが同時に破壊されるわけではないだろう……という計算で、バックアップファイルを制限する。
ただそれだと天災が起きたときなどにすべての物理バックアップを喪失してしまう可能性がある。コアが複数あるボスを倒すときには、全体攻撃魔法で均等にダメージを与えていくのが定石だ。それを避けるためにコアバックアップをGoogle Driveなどにクラウド保存する。
このデータだけは無くなった死ぬというものを15GB以内にまとめたのが、コアバックアップだ。中身をgoogleに見られるのが嫌であれば、パスワードをかけて圧縮しよう。

以前から言っていることだが、最強のバックアップ方法はすべてのデータが失われても「それが諸行無常じゃよ。人はそのときに手に入るデータを使って生きていかなければならぬのじゃ」という心構えなのかも知れない。
はかないデータに執着し、どれだけ入念にバックアップしても万が一への恐怖が消えない。記憶媒体が4TBのハードディスクになっても、数ペタバイトのMicroSDカードになっても、データを失う恐怖はたえずつきまとう。その煩悩に振り回されるぐらいなら、バックアップしなければならないデータを捨て去ればいいのでは?……というのが禅バックアップの基本コンセプトだ。


・雑な世界観認識をしている。

北欧についてはノルウェー、スウェーデン、フィンランドの三カ国を一緒くたにして、ムーミンの国だと思っている。その程度の雑な世界観認識しかしていない。日韓台湾をまとめてナルトの国扱いするぐらいの暴挙だ。
あとアフガニスタンとイラクとタジキスタンとウズベキスタンあたりもひとまとめにしている。そのうちきのこの山とたけのこの里も、「なんか山のチョコ菓子」でひとくくりにするようになるだろう。
イメージの切り分けが適当かつ曖昧で貧弱なのだが、自分の世界観認識がどの程度の浅さなのかというのは客観的にはわからない。興味が無いから解像度の低い認識のままで、解像度が低いから興味が持てないという負のループを形成している。
自分はこの世界を低い解像度で見ているはずなのだが、そのことに気がつかないままでいるのは危険なことだ。ひとりよがりな認識で、解像度の低い世界に留まったままで、それが何よりも正しいのだと思い込む。そういう種類の愚かさの中にいる。


・ディストピア・ラプソディー

名作ディストピア小説『1984』と安倍政権を重ね合わせる向きがあるけれども、いくらなんでも名誉毀損だ。1984の世界はシステマティックで高度な統治能力を駆使してディストピアを作り上げている。ディストピアを運営するには繊細さが必要だが、安倍政権はその場凌ぎの行き当たりばったりで国益を切り売りしているだけだ。ディストピアに対する不当な風評であるといえる。
安倍政権にはディストピア国家を作ろうという意欲が足りないし、ビジョンもない。共謀罪や安保法制、戦前の権威主義的価値観の復活など良い線を付いているところもあるのだが、失敗国家とディストピアは似て全く非なるものであることを忘れている。
「自由や感情が抑圧されている代わりに、そこそこ物質的な満足は確保できる」などのバランス感覚がディストピア社会には必要なのだが、安倍政権にはそのようなセンスが無い。自由も抑圧されて貧困にあえがなければならないというのは、我々が目指すべきディストピア社会とは異なる。
我々の社会はトップダウン型の独裁ディストピアでは無い。ひとりひとりの日本国民が自律的にディストピア社会を作り出すという、民主主義的ディストピアであるといえる。日本人一人一人が出る杭を打ち、足を引っ張り、幸せになろうとする人間を潰そうとする。誰に命令されたわけでも無く、日本人の骨身に染みこんだディストピア根性によって、暗黒社会が築き上げられる。これが日本独自のゆがんだディストピア社会のあり方だろう。


・思い込みの国で。

東日本大震災の経過を見ていると、問題がすでに解決したという欺瞞を共有することで無理矢理終わらせてしまったように感じられる。原発が廃炉になるまで少なくとも40年はかかるとはじめは言われてたのに、汚染水処理のめども立っていないし、廃炉までのスケジュールも遅れている。それなのに「もう終わってしまった出来事」として扱っている。
第二次世界大戦が終わったものだと信じていたけれども、東日本大震災を処理したときと同じ思考回路で「終わったことにした」のではなのかと疑っている。戦前の組織や文化風土を温存したままで、「日本は民主主義国家に生まれ変わった」と頭の中で思い込むことによって、戦前から訣別しようとした。
それ自体は悪いことでは無いけれども、ソフトウェアの改善だけを追求して組織や風土、国民性、教育、法制度などのハードウェアをそのまま温存した。ある特定の価値観を国全体で共有することで「現実をそういうものだと思い込む」システムは、日本の近代史を貫いている。
日本は大東亜共栄圏の宗主国であるべきだ、日本は反戦平和を掲げた民主主義国家であるべきだ、日本はGHQの軛(くびき)から逃れ憲法改正とともに真に美しい国を目指すべきだ。これらの主張は思想的に真逆だけれども、どれもがハードウェアを欠いた思い込みの産物という点では大きな違いは無い。
ハードウェアをどう変えるのかよりも、「こうあるべきだ」という理念の方が優位になる。 憲法9条は「戦争をしてはならない」というソフトウェアだけれども、「日本はすごい!」と思い込むのと、構造としては同じものだ。
日本社会は「皆があるひとつの物語を心の底から信じることで、あるべき現実の姿を形作る」という手法によって築かれている。民主主義的なプロセスを通じて民主主義国家を成り立たせるのではなくて、皆が「日本は民主主義国家である」と思い込むことで戦後日本社会を作り出そうとしてきた。
その「日本は民主主義国家である」という思い込みの力が徐々に弱くなっていて、それとは別の「日本はアジアの中心で輝くすばらしい国である」という価値観が徐々に勢いを増していく。不用意に日本語メディアに接していると、この種類の思い込みが補強されるように感じられる。


・えろまんが☆フォーチュンテラー

昔、おれはえろまんが☆フォーチュンテラーの技術を学んでいた。
これはコーヒーカップの底に残った痕で未来を占う技法のえろまんが版だ。性器モザイクの大きさや扱われている題材、和姦と強姦の比率、年齢分布などの要素から未来を占う方法だ。
えろまんがは社会の空気や政治情勢、未来への恐れ、無意識の表現規制などの影響を受ける。最先端のクールジャパンカルチャーであるえろまんがを正しく解読する術を身につければ、日本社会の未来を予知できるとするのがえろまんが☆フォーチュンテラーのコンセプトだ。
社会が不安定になれば性器モザイクが大きくなり、権力が強くなりすぎればらぶらぶ和姦が増える。このような傾向から、これから生まれるであろう未来の萌芽を感じ取るのだ。


・無思考主義。

日本社会が右傾化したとか、歴史修正主義者が増えたみたいな思想の話では無い。なるべく思考を使わずに済むようにして、知的負荷が掛からないような現実認識を作り上げる。その行動を繰り返した結果として今の惨状がある。
偏見や差別があるのは明確な差別意識を持っているからでは無くて、偏見で処理した方が楽だからだ。
実際にどうなのかを調べるよりも、自分がどう思うのかを参照にした方が負荷が掛からずに済む。歴史問題を考えるときも、すでに頭の中にある歴史観を使って済ませる。生活保護の話題には「働かざる者食うべからず。不正受給絶対反対!」と罵り、ジャーナリストが国外で拘束されたときには「政府に迷惑を掛けるな!」という言葉を発する。左派も「安倍政権打倒、オスプレイ反対、原発廃炉」というフレーズを繰り返す。
思考のテンプレートを使えば、それ以上考えなくてもいい。
右傾化と呼ぶのは適切では無い。「難しいことを考えなくてもいい言説」が好まれているだけだ。地球の平均気温が一度上がったときに世界経済が被るであろう影響に思いを馳せるよりも、「地球温暖化は中国が先進国の競争力を削ぐためにでっち上げた陰謀論だ!」と言い切った方が、それ以上何も考えなくていい。
現状のままでいい。難しいことは考えなくていい。自分にとって気持ち良くなれることだけを考えていればいい。私の言うことを信じていれば、すべては良くなる。余計なことは考えるな。
ポピュリズム以前に、「頭に負担がかからない思考や思想」が好まれるようになってきたように感じられる。民主主義の反対は独裁制では無くて、「余計なことを考えるな。いいから黙って言われたことをやれ!」主義だ。
考えるべき社会問題が多岐に渡っていて、すべてに対して思考リソースを費やすのは不可能になっている。経済と原発と国防と地球温暖化と憲法と戦争とその他諸々について、同じレベルで論じるのは不可能だ。どうしても「頭に負担がかからない思考や思想」を使って、思考リソースを節約してショートカットせざるを得なくなる。
そもそも情報が氾濫して人間に扱いきれない量になっているよね。


・異常なものと戦うときに、自らの異常さが露呈する。

「A3」というオウム真理教のノンフィクション小説がある。これはオウム真理教という異質な集団と対峙する過程で、日本社会の歪みが浮き彫りになっていくという内容だ。オウム真理教について取材をしていたはずなのに、「オウム真理教に対して、異常な組織だというレッテルをはりつけて排除しようとする日本社会」の異様さに問題意識の焦点が移っていく。
レイプ犯が不起訴になったり、政治的な発言をした芸能人が激しいバッシングに遭ったり、権利を行使した労働者を同じ立場の同僚が「会社に謝れ」とたしなめたり、公共の電波でヘイト発言が垂れ流されたり、外国人労働者が奴隷同然として扱われる。枚挙にいとまの無い事例にいちいち反応するのが疲れてしまった。
暴力的な組織が権力を振りかざして、思想と言論を抑圧するのならまだ納得がいく。だがそれとは違って、同じ立場の人間から「目をつけられるから黙っていろ」と口を塞がれる。その空気が気持ち悪くて、日本人にも日本社会にも関わりたくねえなと思っていた。

解剖 加計学園問題――〈政〉の変質を問う | 朝日新聞加計学園問題取材班 |本 | 通販 | Amazon

『 解剖 加計学園問題――〈政〉の変質を問う』をざっくり気味に読んだ。
ただの「モリカケ」や忖度の問題ではなくて、内部告発制度や公文書管理、特区制度、国会の形骸化、マスメディアの反応などの病理が浮かび上がる事件だった。起きた出来事を俯瞰して見るのでは無くて、「モリカケ」という言葉で矮小化・風化してしまう。本としてまとめられていなかったら、自分も終わった出来事として忘れ去ってしまっていた。
野党はモリカケ問題に有権者がお灸を据えるのか否かを選挙の争点にしていたけれども、汚職や忖度だけの問題ではない。汚職としてのわかりやすい側面と、多岐にわたる日本社会の構造的な問題が絡み合っているので、本質がわかりにくくなっている。


・過現実

SNSを触るのが嫌になり、ゆいいつできるのがマストドンぐらいしかなくなってしまった。Twitterは人との距離が近すぎる。
テレビなどのマスメディアから発信された情報が、SNSを通じて更に増幅(アンプリファイ)される。そしてネットの反応にマスメディアが影響を受ける……というサイクルを「過現実」と呼んでいる。
マスメディアとネットがそれぞれ独立した世界では無くなって、歪な形で融合してしまった。SNSはテレビや時事問題、ニュースのコメント欄のようになり、マスメディアと一体化してしまったように見える。
マスメディアを中心とした現実媒体と、パソコンでのネット文化、ガラケー文化がそれぞれ混じり合わなかった時代に生まれ育った。現実で流行しているものと、ネットで流行っているものは異なっていた。一つの国に、現実が複数ある。これは「複現実」と呼ぶことにする。
マスメディアが嫌になればネットに逃げれば良かったし、ネットが嫌なら現実に触れるという風に、二つの世界を行き来できた。それがいつの間にか、ネットが現実を補強する要素の一つになってしまった。別れていたマスメディアの現実とネットが融合して、現実=インターネットになった。ネット以前の単・現実では無くて、複数の現実が統合されて生み出されたものが「過現実」だ。 ゼロ年代までのネット世界を理想化している部分もあるけれども、インターネットはかつて異世界だった。現実社会こそが主流で、ネットで流通しているものはアマチュアかセミプロのお遊びか、既存の商業ルートでは流通し得ない訳あり品だった。
それが現実に取り込まれて、価値観も流通している言葉も単一化・平板化した。あるいは反対にネットで生まれたいびつなものが、現実を侵食する。それに未だに馴染めずにいる。
たぶんインターネットにサードプレイス的なものを要求していた。日本社会で気軽にアクセスできるサードプレイスがゲーセンかインターネットぐらいしか無かった。それがいつの間にか、他者から攻撃されないように緊張していなければならない場所になってしまった。


・急なフル勃起に!ペニスシボムン錠、新発売!

男性の性欲が社会的に規制されないのか不思議に思っている。
テレビのCMなどで「満員電車内での急なフル勃起! 新しいフニャチン有効成分が強制的にあなたのペニスを鎮めさせ、性欲を抑えます! ペニスシボムン錠!新発売!」みたいな薬品は販売されない。バイアグラは速攻で認可されるのに、あまりおちんちんを小さくすることには関心が無いように思える。逆に奔放な性欲が推奨されているように感じられる。
だいたいの社会問題と犯罪は、男に抗男性ホルモン剤を摂取させてふにゃちん状態にさせれば解決すると思っている。強姦犯罪が不起訴になったり、 アルコールに睡眠薬が混ぜられてレイプされたり、#Metooが政治イシューになったり、恋愛感情をこじらせてストーカー殺人が起きるのもぜんぶ、社会的に規制されていない男性の性欲が悪い。地球の人口が幾何級数的に増えて資源を食らい尽くすのも男の性欲が悪い。ニコチンやアルコールと一緒に規制するべきだし、思春期になったら定期的にペニスシボムン錠を服用した方がいい。女性も男性と酒を飲むときには、こっそりペニスシボムン顆粒を酒に混ぜるぐらいの警戒心があってしかるべきだ。

男性の性欲を野放しにしたMetoo運動では生ぬるい。その過激思想は後に#NOMOREPENIS という政治運動に発展していき、おちんちんを捨て去ることがリベラル派の流行になる。女性ホルモンを注射してかわいいおんなのこになるのが二十一世紀中盤の政治情勢だ。勃起と性欲をコントロールしない男性は社会マナーの無い犯罪者予備軍として扱わるようになる。我々が今生きている現代社会は、性欲が規制されない野蛮な時代だと子供たちに教えられるに違いない。
かつて奴隷制を支持する南部と奴隷解放を訴える北部が対立し、アメリカ南北戦争へと発展した。二十二世紀初頭にはペニスに固執する旧勢力と、ちんちんからの解放を訴える勢力との間で第三次世界大戦が引き起こされるはずだ。

Read more...

The Krita color palette of copic's 322 colors

This is the Krita color palette of copic’s 322 colors. Compared to the default marker palette, This palette has the following excellent features. ・Many colors. ・Colors are organized into groups according to the Copic Color Theory. ・Using RGB approximate value data. Copic Marker Copic Color Theory | Copic Too.com:コピック:ダウンロード Download copic322_color.gpl maborotopia/Krita_resources Install Open the *.gpl file in Krita palettes docker. This file is probably compatible with Gimp and Mypaint.
Read more...

マジカル労基法少女 第24話 『リビングデッド・オブ・和夫マルクス』

「あたいはマジカル労基法少女。労働基準法が存在するアリ労基界から、人間が暮らすナシ労基界で修行を積むことになったの。改めて言葉にしてみると、ナシ労基界という言葉の響きは絶望的ね。マジカル労基法は、人々の働きたくない、定時で家に帰ってさっさと寝たいという強い願いから生み出される奇跡の魔法!
なにわ金融道顔をしている青木雄二の妖精と一緒に、今日もナシ労基界で労働絡みのトラブルを解決しちゃうぞ!
でも一つ問題があって、マジカル労基法を使うには、働きたくないという強い想いの力が無ければいけないの。実家暮らしで無職のおねーちゃん(ブラック企業に数年間働いて、身体も心もぼろぼろになっている。二週間に一回、精神科に通院している)のおうちでお世話になりながら、ちまたにはびこるブラック企業を社会的に抹殺しちゃうよ! マジカル・マルクス・エンゲルス!(※呪文) 長時間残業を強いる企業を、SNSで炎上させちゃえ!」

Read more...

ポリケ

同人活動と政治活動には大して違いがない。まず同人活動は好きな作品やキャラを推す。政治活動は思想を広めようとする。同人サークルを作るのに対し、政治結社や党を結成する。自分の情熱がこもった同人誌を印刷して頒布する。政治思想を広めるべくガリ版で作った政治ビラをばらまく。公序良俗を乱すロリ絵が規制され、体制側に不都合な思想は弾圧される。同人誌即売会やデモ、集会が行われて人が集まる。
政治と同人活動にはこのような共通点があったために、政治のオタク化は驚くべきスムーズさで進んだ。
時は202*年。日本国民の政治リテラシーが急上昇し、人々は同人サークルを立ち上げるノリで政治サークルを作り、二次創作同人誌を作る勢いで政治ビラや自費出版本、その他諸々を印刷していた。
かつてラジオと電機部品の町だった秋葉原は、エロゲとアニメの町になった。そこに目をつけたのが自民党で、選挙のときには秋葉原で演説することで験担ぎを行う。そうしてアニメの町である秋葉原は政治の町に変貌した。
一年に二回、終戦記念日と正月付近にポリティカルマーケット、すなわちポリケが開催され、そこでおのれの政癖(せいへき)を注ぎ込んだ同人誌を配布する。

Read more...

せいじタイムきらら

・まんがタイムきららの日常系アニメを観ているときの穏やかな気持ちを保ったまま、政治経済の話をしたかった話。
選挙シーズンがやってくると考えただけで吐き気を催すようになって久しい。野党のネガティブキャンペーンがはてなブックマークかTogetterのトップページに表示され始めたら、それが選挙シーズンの訪れを告げる合図だ。人々は互いに口汚い言葉をぶつけ合い、そこから距離を置きたいと思っても「ノンポリや中立的態度は黙認と同じだ!」と言われ、ニーメラーの警句が入る。
正気を保つ唯一の手段は、平和と相互的寛容の精神に満ちあふれた架空の政治まんが雑誌『せいじタイムきらら』を心の中で定期購読することだけだった。それはある種の狂気では無いのか?とも思うのだけれども、狂気は別の異なる狂気で中和するしか無い。

Read more...

私に天使が舞い降りた!感想文

私に天使が舞い降りた!を観ていて、「人間は!人間の中でしか生きられない!」と叫んでいた。
狼少女は長い間人間の社会と関わっていなかったから、人間としての心や振る舞い、言葉を学ぶ機会が無かった。みゃー姉は他者との関わりを避けて生きてきたせいで、年相応の人間関係経験値が欠落している。精神年齢がほぼ小学生で、心の成長が止まっていた。それが花ちゃんたちと出逢うことによってこれまで止まっていたみゃー姉の時間が動き始めたように見えて、思わず泣いてしまった。アニメ感想文を読み返しているとしょっちゅう泣いているがこれは事実だ。涙腺が弱いんだ。
みゃー姉は危ない。自分一人でも充足できる空間の中に延々と引きこもれる。閉じた精神を持っている。その硬い外殻をこじ開けるのが花ちゃんであり、小学生への恋愛感情であり、おねロリ百合だ。

Read more...

穏健派ディストピア政党・まぼろしの党

まぼろしの党は人道主義に基づいたやさしいディストピア社会の実現を目指している政党です。これからの時代が核戦争によってポストアポカリプスになるのか、人権が剥奪された暗黒ディストピアになるか、歯止めのきかない経済活動の果てに資源を奪い合うようになるのか否かは、定かではありません。
ですが一番の未来予想は、自らの手で未来を作り出すことです。わたしたちまぼろしの党は環境と動物、資源と人間にやさしいディストピア社会を目指すために積極的な社会改革に取り組んでいきます。

Read more...

陰府歴程篇(7)シンフォニック=レイン

   当時のおれは限界だった。
 このときのおれはある種の狂気に満たされていた。「自分自身を愛するように、隣人を愛せ」と言われても、自分自身をどうやって愛せばいいのかがわからなかった。だから隣人を愛することも不可能だった。自分を傷つけるように、他者も傷つけた。
 これが自分自身の本質的な誤りかどうかはわからないのだが、おれは自分なんて死ねばいいと思っていて、自己破壊的な行動や考えをすることに躊躇いを感じなくなっていた。自分を大切にできない。憎んでいる。死ねばいいと思って、愛想をつかせていた。
 自分に優しくしたり、愛したり、労ったりすることがどういうことなのか、いまいち理解できていない(※現在進行形)。メンテナンス方法がわからないまま車に乗っていたら、いつか不調をきたして事故を起こす。おれも自分をメンテナンスする方法がどういうものなのかわからなかった。
 そんな状態で精神科医に「もう酒と安定剤と睡眠薬を大量に飲んだりしません」と約束できるはずがなかった。「次に同じことをやったら、次は精神病棟に入れることになるからね」と脅される。
 この状況で「人生行き詰まった? ISISで人生やり直そうぜ! 渡航ルートもチケットもこっちで手配しておくわ!」と言われたら、二つ返事で聖戦士になっていた。
 そんな精神状態で名作エロゲ『シンフォニック=レイン』をプレイしていた。

Read more...