プリキュア帳


※このブログではプリキュアを「人類にとっての普遍的な聖性」といった意味合いで使っています。

・プリキュア律。

割と本気で「プリキュアに喋らせられないことを自身の政治思想にするべきではない」と信じている。もし仮にプリキュアの敵がブルドーザーを怪物化してホームレスの段ボールハウスを壊そうとしているときに、「ホームレスになったのは自業自得だから仕方が無いよね!」なんて言うプリキュアは存在しない。それは完全に悪役側の台詞だ。
ある社会問題を考えるときに考慮されるべきは、政治的な正しさや人権ではない。「その言葉をプリキュアが語るのか?」という尺度だけだ。プリキュアが口にしないような価値観は絶対に肯定しない。もしも自分がプリキュアにあるまじき思想を口にしているのであれば、それは悪だ。
それがプリキュア律の基本的な考え方だ。
なんでそういうことをわざわざ言語化しなければならないのかというと、自身の政治的立ち位置を明確にしないと、優生思想が大好きな差別主義や歴史修正主義者と一緒くたにされかねないからだ。勘違いされるぐらいであれば、GHQに洗脳されたかわいそうな脳みそお花畑の反日左翼だと思われた方がまだマシだ。もっと言えばプリキュアとキリストの区別が付けられない人間になったほうがよい。
プリキュアを観て目から零れ落ちた涙がおれたちの政治思想であり、ゆるゆりを観ているときに胸に広がる暖かい感情の波が我々の思想的源泉だ。
5歳の女児に向かって、真っ正面から訴えられない正義など我々には必要ではない。それがきれい事や理想論だとして、女児に語れない正義には何の意味もない。まっとうな女児向けアニメの登場人物に喋らせられないような価値観を、社会通念として認めるべきではない。
プリキュアはただの子供向けアニメではないし、綺麗事でもない。「この世界には秩序があり、信頼するに値する」という、大人が子供に贈るプレゼントだ。
反プリキュア秩序の満ちたこの世界で生きるには真実は過酷すぎる。わざわざプリキュアは子供だましのフィクションだと言わなくても、セカンドレイプされた性被害者や、悪を為しても裁かれることがない権力者や、頑張っても報われることがない人間や、理不尽な格差が嫌でも目に飛び込んでくる。そのたびに私たちはこの世界への信頼を損ねる。無力さと虚無主義がはびこり、人々から生命力を奪っていく。
人を信頼する。法を信頼する。この世界に決して揺るがないものがあるという信頼を私たちは必要としているのだが、それらはひとつずつ失われていく。差別意識がはびこり、法はないがしろにされ、これまでにすがっていた価値観は崩れ去る。
子供に向かって「この世界は生きる価値があるよ」と言えない思想に意味は無い。それができなければ、生まれなかった人間が一番幸福であるとか、次善の策は今すぐに自殺することであり、それが苦しみを最小限に抑える術だ……と告げなければならなくなる。ぶっちゃけると失意と絶望しか存在しないこの世界でも、おれの心の中にいるプリキュアは諦めない。信じ続ける。それがプリキュアであり、人類にとって普遍的な聖性の顕現だ……。プリキュア……プリキュア……。


・おれはアニメオタクではないのでプリキュアとか熱心に観ていない。

おれはアニメオタクでは無いのだから、プリキュアとか熱心に観ていない。おたく野郎がみんなプリキュアを観ていると思ったら大間違いだ。
最近のプリキュアは「プリキュアという構造」に足を引っ張られているように見える。敵が襲ってきて、変身シーンと戦闘シーンがあり、必殺技バンクがある。この一連のノルマが脚本を回すうえでの障壁になっている。Aパートで足早にドラマを進めて、Bパートで戦闘をするので脚本が不完全燃焼を起こしている。戦いに尺を奪われて、肝心のドラマを描くリソースが奪われる。登場人物の心の動きをなおざりにして無理矢理に進めるので、感動的なシーンが唐突に感じられるときも多い。25分程度の尺で綺麗に起承転結を付けることがアニメ脚本の芸術だと思っているのだが、プリキュアと1話完結型の脚本は相性が悪い。そして我々は禁断の問いを発することになる。「プリキュアである必要なくね?」と。
韓国の魔法少女アニメFlowering heartはその辺をわりと上手く解決していて、「様々な職業に変身して、みんなの力になるよ☆」という方向でシナリオを回している。野球選手として助っ人に入ったり、コンビニ店員がオーディションを受けられるように、変身してシフトを埋めたりするのだ。お仕事スイッチオンであり、おれがハグプリに期待していたものでもある。
ようするに昨今のプリキュアはおおくのものを背負いすぎている。ドラマもバトルもこなし、人間関係の問題を解消して地球を救う。バンダイの販売戦略もやってのけ、政治的に正しいメッセージを発する。それはプリキュアにとって酷なことだ。彼女たちはまだ女子中学生だ。英雄ではなくて、世界平和のために捧げられる人身御供ではないのか。
自分たちが多様性を口にできないからといって、プリキュアに変わって言ってもらうのであれば、おれたちがプリキュアを神聖視するほど、その偶像の重みに押し潰される。それを観て良心の呵責を感じないのか。見て見ぬ振りをすることをおまえはプリキュアから教わったのか?という話だ。


・アーキタイプ!プリキュア(プリキュア元型)

 古典文学などに対して自分なりの視点で語れるような教養と才覚が欲しいと思っていたが、俺が自分の魂を下敷きにして語れるのはアイカツ!とプリキュアだけだ。女児向けアニメと同じ熱量を込めてグレートギャッツビーを語れたらかっこいいんだろうな、と思いつつ、「プリキュアはシャーマニズムの基本形である」というプリキュア神話類型の話しかしたくない。
 プリキュア神話類型とは何か。それは1、純真無垢な乙女が、2、善の世界に属する精霊の力を借りて、3、超自然的な力を手にし、4、この世界の秩序を破壊しようとする悪霊を、5、戦いによって退ける……という基本的な物語構造を共有している物語群だ。
 これをアーキタイプ!プリキュア(プリキュア元型)と呼ぶ。
 悪霊はそれ自体で人間の世界に害を及ぼすのではなく、常に人間の心の弱さを媒介にして力を発揮する。人間が抱く強欲、絶望、不幸、ネガティブシンキング、自己否定、自己中心性、貪欲、不協和を温床とすることで、この世界に影響を及ぼす足がかりを得る。
 それと同時に、人間の持つ善性から放たれる光によって、これらの邪悪さを乗り越えていくための力が生まれる。人間の弱い心からプリキュアの敵が生まれ、人間の善なる魂からプリキュアの力の根源になるものが生まれる。マザー・テレサもアドルフ・ヒトラーも人間の子宮から誕生した。この世界の善も悪も人間の心から産み落とされる。
 プリキュアに関しては長いことナージャ殺しの冤罪をかぶせ続けていた。死にゆく世界名作劇場風味の明日のナージャを、打ち切りに追いやったプリキュアは仮想敵国である。ナージャを失った悲しみで目を曇らせていた俺は反プリキュア主義者として地下に潜った。己の不寛容さによってリアルタイムでプリキュアを鑑賞する好機を逃したのが俺だ。
 暴力によって悪を排除するプリキュアは、ヒーローとして許容できても、おれがこれまでに信じてきた魔法少女規範には真っ向から反する。魔法少女規範とは、女児向けアニメの魔法少女が遵守するべき規範である。具体的には「魔法少女は人の背中を押すだけ」だという価値観だ。魔法少女は心の傷を殺菌して、化膿しないように手当てできる。が、実際に心の傷を直すのは本人の自己回復力と意思の力にかかっており、そこまでは魔法少女は関知できない。なんでも魔法でできるけれども、人間の心を魔法で無理矢理変えることだけはできない。
 ただ、それだけが魔法少女の全てではない。プリキュアはおれが信じていた魔法少女のあり方とは異なっているが、間違っているわけではない。異なる神話的秩序に属しているだけだ。


・昔話とプリキュア・沼宮内伝説編

岩手県には沼宮内伝説という昔話があり、要約するとプリキュア神話である。詳しいストーリーは上記のリンクを参考にしてもらうとして、ざっくりと要約すると、
1,欲深い長者の妻が大蛇と化し、生け贄を要求し始める。
2,くじで主人公が人身御供に決まるが、それを不憫に思った母親が代わりに犠牲になろうとする。「自分のために誰かが犠牲になるなんて耐えられない!」……と思った主人公は大蛇の犠牲になろうと決意する。
3,絶体絶命のピンチの中で観音菩薩が現れ、寄寿姫に「この観音経を唱えて戦うぴょん! プリキュアになるんだぴょん!」と助言をする。寄寿姫の持つ慈愛の心が、衆生の苦しみを聞いて救いの手をさしのべる菩薩の元に届いたのだ。(※独自解釈)
4,神仏の加護を得た寄寿姫はお経を唱えて、大蛇を浄化する。そして村に平和が訪れた。
……という内容だ。人間の強欲や弱さから生まれる敵、慈愛の心と自己犠牲の精神、ピンチの中で超自然的な力を得て、怪物を浄化する。ほとんどプリキュアの脚本と言っても差し支えない。逆にプリキュアが古来より語り継がれてきた伝説の現代版であり、いまこの瞬間に語られる昔話である。


・スター☆トゥインクルプリキュア~「理解する」ことから生まれる疎外。~

スター☆トゥインクルプリキュアを見てて、あまりの恐ろしさに泣いていた。「知的障害者は社会の底辺で清掃業をしているのが、本人にとっても幸せだルン」といったことを、ポップなSF設定のオブラートに包んで視聴者にぶつけてくる。実際には「ララはできの悪い妹だけど大切な家族だルン! 宇宙デブリを回収する仕事はララにはぴったりルン!」といった内容の台詞だったような気がするのだけど、おれにはそう聞こえたんだ……。
それは悪意からではなくて、相手を尊重する気持ちと優しさがあることはわかっている。わかっているんだが、その理解がララを傷つける。優しく、寛容で、人権を尊重してくれる。でも対等の人間として扱ってくれない。
その疎外のテーマは一度で終わらずに、別の形をとって再び来襲する。
ある登場人物は先天的な身体障害者で、生まれつき身体の一部が欠落している。周囲の人たちは「あなたは他の人とは違っているけれども、それでいいんだよ。ありのままの自分を受け入れて。私たちはそれを理由に決して差別しないよ」と語る。
健常者から与えられるのは乞食に施しをするような善意で、その登場人物は語られる言葉と実際の態度のギャップに絶望している。恵まれた人間が……、欠落の苦しみを知らない人間が……、軽々しく「あなたの苦しみは理解している」と口にする……。心の底では自分を哀れんで優越感を覚えているのに……。
台詞はだいたいうろ覚えだが、こんな感じの内容をSFのオブラートに包んでぶっ込んでくるのが今シリーズのプリキュアだ。
理解する。認める。善意を向ける。それが暴力になって人を傷つける。理解することで、理解力のある寛容な私と、理解と保護を必要とする弱い他者という序列を作る。相手を理解するが、対等な人間として扱わない。その態度によって疎外が生み出される。
その中で自己肯定感が失われていたララを、初めて対等な人間として扱ってくれたのが星奈ひかるだった。守られるだけの弱い自分から、誰かと対等に並べる自分になりたい。それがララにとってプリキュアになる意味だった……っ。(ここでキーボードを叩く圧が高くなり、目頭が熱くなり始める)
他者を理解するのは、ある意味でイマジネーションの死だ。他者を完全に理解すれば、彼らが何を考えているのかに思いを馳せなくてもいい。そうやって頭の中に作り上げられた、凝り固まったイマジネーションの檻に他者を閉じ込める。それは理解ではなくて、偏見や先入観と呼ばれるものだ。
涙で前が見えなくなったので、ここで文章は終わりだ。


・スター☆トゥインクルプリキュア、「キラやば」であるということ

2020年1月。イランのソレイマニ司令官が殺害され、アメリカとの軍事的緊張が高まり、SNSでは第三次世界大戦が始まるのではないのかという恐怖が満ちていた。その週のスターティンクルプリキュアは星空連合とノットレイダーたちの最終決戦である。しばしばプリキュアは現実とフィクションの間に布置(コンステレーション※星座の意)を形作る。
スター☆トゥインクルプリキュアのラスボスは、「個人としての自我があるから日本人は道を踏み外す。行き過ぎた個人主義が日本を滅ぼすのだから、憲法を改正し、歴史を修正して、理想の美しい日本を取り戻す!」というような政治的主張を成就させるために、この宇宙を再構成しようとする。
「おまえたちが信じている人権や自我、自由、民主主義はすべて、アメリカのGHQに与えられたものだ!」という敵の主張に対して、「確かに与えられた価値観かも知れないけれども、今は私たち自身が選び取ったものだ!」と反発する話だった。
本当にその解釈でいいのか?と疑問に思うのだが、今作のプリキュアは政治的である。多様性がすてきよね!という薄っぺらい話ではない。宇宙的疎外と宇宙的孤独、宇宙的断絶の話だ。
今までずっと、「極端な意見を持つやつは頭が悪いに違いない」という歪んだイマジネーションを抱いていたのだが、New Scientist誌によると「科学的知識が豊富なほど、政治思想は極端になりやすい」らしい。アメリカの共和党と民主党でも、それぞれ科学的教養がある人間ほど気候変動否定派になったり、肯定派になる頻度が高くなっていく。そうなると極端な思想を抱いている人間ほど、自分が思っているよりも知識があって、IQが高いのでは……?と思ってしまった。
歪んだイマジネーションを自らの手で生み出し、その迷妄に囚われて苦しみ続ける。それが現代人の宿痾だ。だがプリキュアはただ一つの正解を求めるのではなくて、〝キラやば〟を判断基準にしている。何が正しく、何が間違いで、何に論理性があり、何が効率的なのかという世俗の価値観ではなくて、内心の灯る善なる魂の導きに従う。それが〝キラやば〟だ。言葉や論理で説明できるものではなくて、魂の中心にある羅針盤が指し示す方向である。
論理というのはしばしば破滅的に振る舞う。「私は不幸な境遇に生まれたのだから、不幸に留まらざるを得ない」とか「差別されたから人の笑顔を信じられない」、「故郷の星を奪われたから、誰も信頼できない」という風に、「AだからB」という正しい論理的思考で自分を苦しめる。でもプリキュアは「それはキラやばではない」という理由で、歪んだ論理のイマジネーションをぶちこわしていく。その力がスター☆トゥインクルプリキュアだ。
わからないこと、今の自分では理解できないこと、予想もできないことに対して、星奈ひかるは心を開いている。それは「理解した」でも「共感した」でもない。自分の狭いイマジネーションの中に、他者を押し込めない。理解したようなつもりにならない。
その感情とは正反対の位置にあるのが陰謀論だ。

陰謀論は世界を極めてわかりやすく説明してくれます。我々はいろいろな問題を抱えている。それらは見たところは別々の問題であるように見える。『どうしてこんなことになるんだ』と思っているところに、陰謀論は『実は、あれとこれとは繋がっていて、密かな陰謀でこうなっているんだ』というわかりやすい世界観を提供してくれる。そういう『世界認識の方法』は、すごく魅力的なんです」 現代に正統は復権しうるか – 集英社新書プラス

陰謀論はこの世界を、自分に理解できる形に切り詰め、矮小化する。それはきらヤバではない。
わからないということをまず認めた上で、「わかりたい」と願う。理解できないから怖いではなくて、自分の想像が及ばないところにきらヤバが待っていると信じている。わからないから手を伸ばしたい。わからないから近づきたい。
星奈ひかるは現実が小さな常識や見識に収まらないものだと理解している。自分が何も知っていないことを知っている。自分の狭いイマジネーションの外側にあるのは、何だって宇宙だし、誰だって異星人だ。それがきらヤバであるということだ。


・『Hugっと!プリキュア』~剣からハグへ。~

『イエスズは彼に仰せになった。「剣をもとにおさめなさい。剣をとるものは、皆剣で滅びる」』(マタイによる福音書 26:52)

『Hugっと!プリキュア』は悲しい話だった。嫁(プリキュア)を亡くしたジョージ・クライが過去に干渉して、「俺の嫁が死ぬような未来ならぶっ壊してやる!」と世界を変えようとする。
なぜ未来のプリキュアは死ななければならなかったのかを理解するためには、第11話『私がなりたいプリキュア!響け!メロディソード!!』に注目する必要がある。本編でのキュアエールは、メロディソードで敵を倒すことを拒絶する。力で邪悪なものを切り捨てるのは、私がなりたいプリキュアでは無い。そう思ったキュアエールは、野乃はなは、剣を手放して敵を抱きしめる。
ここでプリキュアのシナリオが分岐した。ジョージ・クライがやってきたのは「メロディソードで敵をぶった切ったプリキュアがいる世界」だ。11話でチャラリートを剣で切り捨てたあとに始まる『Hugっと!プリキュア暗黒編』である。
プリキュアは力と正義の象徴になり、トゲパワワを生み出す原因を暴力によって取り除くようになった。とげとげした心を持った人間を片っ端から切り捨てていけば、それで理想の社会が築き上げられるに違いない。そう思ったプリキュアたちは悪を殲滅し、民衆の支持を得た。
しかし力による平和はおのずと反動を生む。暴力と正義をはき違えた先に待っていたのは、とげとげした気持ちが溢れる暗黒社会だった。トゲパワワを力によって消し去っても、新しいトゲパワワを生み出す温床になる。邪悪なものを倒せば、不必要なものを切除すれば、それで社会の秩序は保たれる。プリキュアたちはそう信じて悪と戦うことを繰り返すけれども、暴力による解決はトゲパワワを増やすことがあっても、減らしたりはしない。
主人公である野乃はなのメンタリティは「正しいと思うことを貫き通すためなら、自分がいくら傷ついても構わない」というものだ。これは詳しく語るとネタバレになるので自分の目で確かめて欲しい。
この思考回路はひとつボタンを掛け違えると、「自分は正しいことをしているのだから、周囲と軋轢を生んでも仕方が無い」という歪んだ認知へと変わってしまう。
ジョージ・クライが観た悲劇的な未来は、「正義のために自分が傷つくことを選ぶ」はなの世界線だ。正義を貫き通すために周囲と軋轢を生み、プリキュアが世界を敵に回す存在になり、それでも止められなくなってしまった未来から彼はやってきた。
正義の剣を振りかざしたプリキュアは、民衆の手によってギロチンに掛けられる。それを見たジョージ・クライは絶望する。当初、プリキュアは民衆のために戦う英雄として持ち上げられたが、何も知らない愚民どもはプリキュアを英雄だと持ち上げたその手で、プリキュアを処刑した。
どこでボタンを掛け違えたのかはわからないのだが、なにもかもを間違ってしまった。こんな世界は存在する価値が無い。過去に戻って時間を止め、悲劇的な結末が起こらないようにする。そうすればおれの嫁を、過去のはなを悲惨な目に合わせずに済む。そういういじらしい話だった。
ただ、未来からはぐたんがやってきたことですべてが変わってしまった。
はぐたんが未来からやってこないときのはなは、正義のために戦っていた。自分のなりたい自分になるために正義を貫く。それがはなの知っている唯一の行動原理だった。しかしはぐたんの存在が、何のために戦うのかという前提条件そのものを変えてしまった。正義のために悪と戦うのでは無くて、たとえそれが悪であっても孤独な苦しみの底に踏み込んでいくための戦いになった。
このテーマは劇場版でも一貫していて、正論や正義を手放して、その手で苦しみを抱きしめるための戦いになった。たとえそれが疑いようのない正義であったとしても、怒りで拳を握りしめたままでは誰かを抱きしめられない。弱い部分、誰にも触れられたくない傷、隠し通さなければならない苦しみを理解されるのは、剣で切りつけられるよりも痛い。
キュアエールが振るうのは他者を受け入れるための力だ。


・『映画 HUGっと!プリキュア♡ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』感想文

『詩編88』
神よ、 わたしの救い、 わたしの神、
わたしは日夜、 あなたに叫ぶ。
あなたの前に わたしの祈りを、
あなたの耳に わたしの叫びを。
わたしは悪に押しつぶされ、
いのちは死の国に近づいている。
墓に下る者のうちに数えられ、
わたしの力は尽き果てた。
あなたからも見放された者のように、
あなたの愛から断ち切られた。
あなたは わたしを ならくの底に、
浮かぶ瀬のない暗やみに置かれた。
あなたは親しい友から わたしを遠ざけ、
忌みきらわれる者とされた。
わたしは閉じこめられて出られず、
目は苦しみに弱り果てた。
神よ、 あなたに向かって手を伸べ、
わたしは日ごと あなたを呼び求める。
神よ、 わたしはあなたに叫び、
夜明けとともに あなたに祈る。
神よ、 どうして わたしを捨て、
なぜ 顔を隠されるのか。
あなたは わたしから 愛する友を引き離される。
暗やみだけが わたしの仲間。

『映画 HUGっと!プリキュア♡ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ』を観て泣いていた。情報量の多さに脳が破壊されていて、受け取ったものをうまく言葉にできない。地獄のモチーフとそこにつながれた魂をどのようにして救うのか?という宗教寓話だった。
どうしてもプリキュアを観ると宗教寓話との区別ができなくなって、深い感銘を受けてしまう。たった一時間程度のアニメ映画に、人類がこれまでに積み重ねてきた叡智(メモリーズ)が注ぎ込まれているように思えて仕方が無い。
今回のプリキュアは躊躇う。立ち止まる。悩む。人々が正論と正義を振りかざしているときに、一人で冷静になって考える。共感する。他者の痛みを理解しようとする。とどめを刺そうとする仲間に向かって「待って!」と言える。
おおくの人々はアクションシーンこそがプリキュアの魅力だと考えているが、個人的には、躊躇う力の方にプリキュアの本質が宿っている。アクションはプリキュアの超常能力だが、自らの抱いている正当性を疑うことは人間にしかできないからだ。そのときにはプリキュアはプリキュアではなく、一人の人間として過酷な戦いと対峙する。プリキュアであるまえに彼女たちは人間だからだ。そして人間であり続けると言うことが、プリキュアにとどまり続けるための条件である。人間ではなくなったら、力はただの暴力になる。
「キリストは神の子ではなくてただの人間だ。もしこの言葉に同意するのならば君は唯物論者だ」と言われることがある。ただキリストは人間よりも、人間らしくあろうとした。
今回の敵であるミデンは強敵だ。「これ以上、私の内側に入ってくるな!」と叫び、救いの手も対話も拒絶するために暴力を振る。プリキュアを倒すためでは無くて、世界のすべてを拒絶して孤独になるためにだけ力を振るう。
本作の主人公・野乃はなは、プリキュアとしてではなく、ただ一人の人間としてミデンと向き合う。理解されることの無い他者の苦痛に降りていく。その資格があるのは、傷を負ったことがある魂だけだ。かつて傷ついたことのある野乃はなだからこそ、ミデンの苦しみに近づける。傷の無い人間には、傷ついている人間は救えない。苦しみだけが、断絶した他者を自分をつなぐ架橋となる。
女児向けアニメを観るたびに、自動的にもっとも近い宗教モチーフに結びつけてしまう病気になってしまった。プリキュア劇場版に詩編を感じ取り、最終決戦の演出にヨハネ黙示録を想起する。Go!プリンセスプリキュアでの花が舞う戦闘シーンは、悪魔が仏陀に放った矢がすべて花に変わるシーンを思い起こさせるし、プリキュアのほほえみに菩薩を垣間見る。
絶え間なく注がれる慈しみが、暗闇に閉ざされた魂を救おうとする。幸福を願うその祈りが、絶望に塗り固められた檻を開く鍵になる。永遠に女性なるものが、我らを引き上げていく……。
そうとしか解釈できなかった。


「ライトを持っていないおともだちは、心の中でプリキュアを応援してね!」

心の中でだけ祈りを完結させる。ずいぶんと難易度の高い要求だ。祈りは外形的なものでは無く心の所作である。両手を組んで祈るのではなく、心の底からプリキュアを応援しなければならない。声を張り上げるのでも無く、ミラクルライトを振り回すのでもない。言葉を発すること無く、心だけでプリキュアの幸福を願う。
もしかするとプリキュアは、祈りの秘儀を我々に伝えようとしているのでは無いのか? プリキュアは警告する。ミラクルライトを振り回して周囲のおともだちに迷惑をかけたり、光をのぞき込んではいけない。自分勝手な信仰は他者を傷つける。暗闇だけではなく、強すぎる光もまた人を盲目にするのだ。


・プリキュアと人間。

蒟蒻問答という落語で一番得をしたのは、蒟蒻屋のおっさんから真理を引き出した旅僧だ。相手が何を語っているのかでは無くて「私たちが相手から何を引き出せるのか」が問題になる。たとえ目の前にいる人間がただの蒟蒻屋のおっさんであっても、何か意味のあることを伝えようと信じることによって新しい意味が生まれる。
蒟蒻問答に出てくる旅僧のような態度で我々はプリキュアを観る。これは人間の善性の顕現であると心の底から信じることによって、プリキュアは聖書を超える叡智と真理の源泉と化す。
ただ、その行為を通してプリキュアに対して一方的なイメージを押し付けかねない。その危険性は絶えず心に留めておくべきだ。
女子中学生に聖なるイメージを投影するのはいいことではない。プリキュアで子育てがテーマになったが、それは「女性は子育てをして、限りない愛情を注ぐべきだ。子を守るために自らを犠牲にするのが真の母だ」という古い母親像をプリキュアに投影することと紙一重だ。
プリキュアは人類にとって普遍的な聖性の顕現であることに疑いを挟む余地はないが、その聖なるイメージを担うのは生身の人間には不可能だ。
プリキュアも最終回近くになると天使のような姿に変身して、人類社会を蝕む根源悪と戦う。そのときにプリキュアは、女子中学生が等身大の魂で戦う物語から、非人間的な、神的な、聖なる物語になる。人間の人間による人間のためのプリキュアが神になる。聖なるものは邪悪なものと同じく、非人間的なものだ。
プリキュアに覚醒剤を注射する同人誌があって、「プリキュアは超人的な耐久力があるから、普通の人間にとって致死量になるレベルの覚醒剤を打っても死なないんだ!」というやばい理論が出てくる。プリキュアになると致死レベルの違法薬物を摂取でき、人間だった頃には決して味わえないウルトラミラクルハッピーな体験ができる。
プリキュアだから大丈夫、プリキュアだから負けるはずが無い。プリキュアだからあきらめない。プリキュアなら世界を救える。プリキュアに救世主のイメージを重ねて、次から次にプリキュアに要求するものを増やす。だが「プリキュアだから大丈夫だ!」というのは、「超人的な耐久力があるから、プリキュアには覚醒剤を打っても大丈夫だ!」という同人誌の言葉と理路を同じくする。
その果てにプリキュアは、人間の理想や欲求を背負わせられるスケープゴートになる。善性の理想像を無限に押し付けられる聖母と、惜しみない性欲のはけ口になる娼婦。相反する女性像には「望まれた役割を一方的に押しつけられる存在」という共通点がある。我々はプリキュアを完全無欠な聖なる存在と見なすことによって、逆説的に娼婦に貶める危険性がある。そんなのは私のなりたいプリキュアではないし、望んでいるプリキュアのあり方では無い。
我々に必要なものは非人間的なものでも、神の似姿でもない。重さのある人間だ。プリキュアを人間の領域に留めることが我々の為すべきことだ。
等身大の人間が悩み、傷つき、苦しみながら、もがく物語としてプリキュアを受容し直さなければならない。神でもなく、聖なるものでもなく、我々と同じ人間の物語としてプリキュアを観る。もしそれができなければ、我々はプリキュアではなくて自らが一方的に望んでいるだけの救世主の幻影を死ぬまで見続けるだけだ。


・なぜ我々はプリキュアだという自覚がないのか?~グノーシス的プリキュア視聴経験~

我々は自分たちがプリキュアであるという根源的な認識を失っている。
キリスト教異端グノーシス主義によるとこの世界は悪の神によって作り出された偽りの宇宙であるとされる。その世界の外側には本来の世界の創造主である善の神が存在し、悪に満ちた暗黒宇宙に住む我々に呼びかけている。
我々は元々は善なる神によって作られた存在だが、悪の宇宙に囚われているために悪に染まり、自身が善であることを忘却している。この世界が悪の宇宙であることに気づき、自らが善なる神によって作り出されたものあることを知る。それが叡智である……というのがキリスト教グノーシス主義なのだが、要するにプリキュアの話だ。
おれたちは本質的にプリキュアであるのだが、現実世界の常識によって自分がプリキュアであることに気がつけない。「プリキュアは女児向けアニメだろ?」と思っている奴は、悪宇宙の創造神によって魂を曇らされている。洗脳され、目の前に救済があっても価値の無いものとして退ける。管理国家ラビリンスで生まれ育ったせつなと同じだ。洞窟で生まれ育ったものが、壁に映し出された影を現実だと信じるのと変わりがない。
プリキュアこそが、悪の宇宙に住んでいる我々が忘却してしまった真の人間であり、プリキュア視聴によって真の人間とはいかなるものだったのかを思い出していく。それがグノーシス的プリキュア視聴経験だ。
半分は冗談だが、もう半分は本気で、残りの半分は真理である。