一人称の使い分けについて。
・僕(おれ)が一人称を使い分けるのは、特に明確な理由があるのではない。その日の気分で、おれ、僕、私、あたい……などの一人称を使うので、あまり気にしないで欲しいのです。僕という一人称で語った方がマイルドになるときはそうするし、おれという表現の方がしっくりする場合にはそっちを使う。ですます調も、……だ、である口調も、その時の気分とテンションで使い分けることにしています。
俺、僕、私、わし。固定的な自我ではなくて、一人称を選ぶという過程で、喋りたいことに適切な仮面を被らないといけない感覚になる。俺と僕では語れる言葉の内容も、論理の組み立て方も、勢いも異なってくる。俺という一人称を使うときには、俺の仮面を被るし、僕という言葉を使うときには僕の仮面で喋る。俺は、僕は、私は、わしは、あたいは、おいらは……と、数々の一人称の仮面が用意されている。そのこと自体はあまり抵抗がないのだけれども、ある特定の一人称を使い続けているあいだに、特定の一人称によって自分に浸食される感覚を抱く。 仮面を長い間かぶり続けて、いつの間にか外れなくなってしまった人間のようなものだ。こういうキャラクターで振る舞おう!と思っている間に、そのパーソナリティ以外の振る舞いを周囲が許容してくれなくなる。死ぬまで固定された自己を背負うことになるのは窮屈なので、僕はなるべく自分の一人称や口調を固定させないように気をつけています。
もしかしたら確固とした近代的自我を持ち合わせていなくて、その時々で自分の形が流動的に変わっていくのかもしれない。パーソナリティが分断気味だと書いたのも、自我認識が曖昧で精神的にバグっているのかもしれない。
そういう意味でクラゲはおれの人生の最終形態であり目標であり師匠である。水族館でクラゲを見た時に、おれは衝撃に襲われた。クラゲはあのフォルムを保ったまま何十億年も生き抜いてきた。陸に上がることもなければ、知能を発達させることもなく、水の流れに身を委ねて生き延びてきた。
ここにおれが生き延びるためのヒントがあるのではないのか。人類が目指すべき新たなる進化の可能性を、草げは知っているに違いない。そう思った俺はゴキブリから必殺技を会得するバキのような気持ちで水槽を見つめていた。クラゲ師匠……。