たぶんプロレタリア文学っぽいやつ。


「あ……んっ……ちゅぱ、ちゅぱぁっ……」
 作業場に設置されたジュークボックスから、なぜかエロゲのフェラチオ音声が垂れ流される。低賃金の非正規雇用部隊――通称「傭兵」によって設置されたジュークボックスにはそれぞれが仕事中に聴きたい音楽データが日夜突っ込まれ続け、民族音楽から前衛音楽、エレクトロニカ、エロゲBGMを無作為にシャッフルする魔物と化していた。
 仕事中にエロゲのBGMを聴きたいと思った傭兵がサントラをぶち込んだまでは良かったが、それと同時に特典の18禁ボイスまでHDDに収められたことには再生されるまで気が付かなかった。
 このジュークボックスは仕事が修羅場の時に、使徒が攻めてきた時のテーマを再生し始めるという点では、非正規雇用部隊の中で最も空気を読めた。

ハナから労働基準法を守るつもりのない低賃金ブラック企業と、真面目に働くつもりがない非正規雇用者が集まる地獄。それが俺たちの戦場(しょくば)だった。労働基準法を守らない無法には、好きなように働くという無法で対抗する。それが俺たち低賃金非正規雇用部隊――通称「傭兵」だった。
「正社員(あいつら)は一兵卒だけれども、おれたちはその辺からかき集められた傭兵か民兵ですよ」と誰かが自嘲したことから、いつの間にか傭兵という呼び名が定着していた。けれどもどちらかと言えば中東のテロ組織みたいな人材しかいない。
 無法者は無法者を呼ぶ。低賃金非正規雇用部隊には、ミュージシャン、舞台俳優、イラストレーター、文章書き、CGデザイナー等の、まっとうな日本の労働環境では働けないようなアウトサイダーたちで構成されていた。多分、頑張ればこのメンツでエロゲを作れた。
 仕事中にアニソンが垂れ流される。誰かが民族打楽器を演奏し始める。仕事をしながら音楽を聞くのではなくて、音楽CDを聞く余力で仕事をする。歌う。休憩時間にアニメ鑑賞会が始まる。職場の床に山積みにされるコミックLO。暇つぶしにエロマンガ談義。誰かが職場にアクアリウムを持ち込み、熱帯魚が飼育され始める。
 始業時間の2分前にタイムカードを打刻して、終業時間の10秒後に颯爽と勤務時間の記録を終えて風のように去る。「始業時間にはすでに仕事に取り掛かれるようにしておくのが社会人の常識? そんな世迷い言はおれたちには通じねえぜぇっ!ヒャア!!」……と言った勤労意欲の持ち主がほとんどだった。
 当然のことながら、経営者と正社員からは白い目を向けられていた。
 ならず者たちを矯正するために、どっかの企業のベトナム支社に勤務経験のある有能マネージャーがやってきた。
「東南アジアの人間は勤労意欲が欠落している。あいつらは天気がいいという理由で仕事を休むし、気がついたら従業員の一割ぐらいが消えている。そんな胃が痛くなるような人材マネジメント環境に比べたら、日本は天国ですよ」と言っていたこの男も、俺たちの勤怠状況を見て大声でブチ切れた。
「おめえええら真面目に仕事するつもりがあるのかよおおおお!!!」
 ☆無☆い☆で☆す☆
 長時間労働を余儀なくされている現代日本だったが、このならず者の集団だけは、「仕事は飯を食うための手段でしかない」「人生は短い。俺には他にやるべき事があるので長時間働くなんて正気の沙汰ではない」「楽しくなければ働けない」……という、東南アジアレベルの緩みに緩みまくった労働観を発揮していた。
 あと、天気がいい日に無断欠勤するのは素敵なアイデアだと思った。

 しかしこの治外法権も長くは続かなかった。
 速攻定時退社を信条とする非正規雇用部隊と、終電間際まで働く正規雇用部隊は犬猿の仲で、なんとかして非正規雇用部隊に規律を叩き込もうと躍起になっていた。
 これまでに非正規雇用部隊は「ひとりでなんでもできるもん遊撃方式」によって仕事を回していた。業務内容はおおまかにいって「くそしんどい仕事」「しんどいが音楽を聞きながらできる仕事」「楽な仕事」「仕事をするふりをして無限のサボタージュ戦略を採用できるオアシスのような仕事」などに別れており、ルーティンを組んでクソしんどくてクソ面倒くさい仕事をこなしていたのだが、この遊撃方式に異変が起きた。
「分業方式にして生産性を高めよう!」
 この一言により組織改革が行われ、クソしんどい仕事専門職と楽な仕事が切り離された。クソしんどい仕事には非正規雇用部隊の中でも選りすぐりのエースアタッカーが選ばれたが、生産性が上がる前にエースアタッカーが鬱病になって出社拒否を始めた。
 RPGで例えると、「強敵から大ダメージを受ける」→「馬車に戻って回復する」→「体力が回復したら、ダメージを受けた仲間と交代する」→……といった感じで回していた業務だったのだが、効率化の名の下にダメージを回復を封じられたのだった。
 モダンタイムスのような過酷な環境に精神を蝕まれて、「Fxxk you!」と大声で叫んで職務を放棄するエースアタッカー(ハーフ)。映画以外でFxxkなんて初めて聞いたぞ……。

「革命を起こしましょうよ」
 そう言ったのは、ミュージシャンのチェ・ゲバラだった。チェ・ゲバラのTシャツを着ていたからこう呼んでいたが、時代が時代ならばレジスタンス側で指揮を執っていたはずの逸材だ。
 俺とチェ・ゲバラは音楽の趣味で意気投合していた。苺ましまろの影響で、俺はエレクトロニカをipodに入れていた。そのプレイリストを見たチェ・ゲバラは「お前、結構いい趣味してんじゃん!」と言った。趣味が良いのは俺じゃない。ばらスィーだ。
 ちなみにチェ・ゲバラは「今日も仕事中にアルバムを3つは聞くぞ!」とノルマを立てていたし、ipodにはジョジョの奇妙な冒険スタンド元ネタプレイリスト(部数別)が登録されていた。
 弊社ビル屋上の踊り場で、うんこ座りをしながら秘密会議を重ねる。
 法テラスに相談するか、労働基準局に垂れ込むか、それとも簡易裁判でちょろまかされていた休日出勤の割増賃金を取り戻すか。勤労の義務は必要最小限かそれ以下にしか果たさないが、労働者の権利はフルスペックで行使する。それが俺たち非正規雇用部隊だった。
 当時はプロレタリア文学の蟹工船が流行っていたが、社会主義や共産主義なんて言葉も思想もほとんど知らなかった。割に合わない労働はしたくないという偽らざる衝動だけが俺たちの胸の中で燃えていた。
 こうしてチェ・ゲバラと俺の秘密結社的労働組合風味の何かが結成された。いや、労働組合という概念は無かった。ただ法の力を行使して、いかに自分の利益を引き出すのかという短絡的な欲望しか俺たちには無かったのである。
 労働意欲はアジア人以下、権利意識は西欧人以上。亜洋折衷の魔物である。
 俺たちは戦った。一度、資本主義の魔の手に屈したかのように白旗を上げた。アクアリウムとジュークボックスは撤去され、空調管理の音だけが響く無味乾燥な職場が生まれた。アフリカの民族音楽には、労働のための歌がある。日本の職人も、西欧化される以前は歌いながら仕事をしていたと言われている。歌と労働は密接な関係にあった。もうこの場所にあるのは労働ではない。時間を切り売りして小銭を稼ぐと同時に、人間性が奪われていく苦役だ。
 俺とチェ・ゲバラは仕事を辞める直前に、割増賃金やなあなあにされてきた社会保障費の支払い、溜まった有給休暇の一括取得を求めた。
「君たち非正規の屑に権利は無いんだよ」と優しく諭す、アウシュビッツ監視員のような人事に、労働基準法が印刷されたA4用紙を叩きつける。
 ちなみに雇用保険を払っていなくても、辞職する直前に遡って納付できるぞ!
 俺たちにできるのはこれだけだった。仕事の引き継ぎはろくにしなかったが、まだ働いている非正規雇用部隊のために有給の取り方、社会保障に加入する方法、遡って雇用保険料を納める方法、割増賃金の計算法、簡易裁判の起こし方を記した.docファイルをこっそりとメールで送った。
 面倒くさくて簡易裁判は起こさなかったことだけが、ただひとつの心残りだった。
 仕事を辞めたあとに俺とチェ・ゲバラは居酒屋で酒を飲んだ。
「次はどこに行くんだ……?」
「さぁ? しばらくは失業保険でゆっくりと暮らすつもりさ」
 チェ・ゲバラは言った。
 それから数年後、俺たちが辞職したあとに非正規雇用部隊は不況の煽りを受けて事業を縮小したと聞いた。労働基準法ドキュメントファイルは脈々と受け継がれ、多くの人間が権利を行使した。その結果として労働条件が改善されたわけではなく、有給が発生する半年を境に解雇してからまた雇うというダーティな方式に移行したらしい。
 楽園は失われた。もうエロゲ音声を再生するジュークボックスも、熱帯魚のアクアリウムも無い。それは日本の闇に片隅に、ほんの少しばかり存在を許されていただけに過ぎない。
 それでも俺はあの労働環境がグローバルスタンダードだったと信じている。俺の属していた非正規雇用部隊の面々は、定時になれば――定時にならなくても帰る。
 非正規雇用部隊はほとんどが日本人離れしていて、社会の常識よりも自分のことを優先する人間しかいなかった。
「俺が楽しくなければ、人生は楽しくない」という価値観を抱えて生きていた。日本の労働文化からすれば評価対象外だが、奴らの方が健全で真っ当な感性を持っているように思えたんだ。