ガス抜き政治ポルノ
「政治の話が嫌なのに、どうしても喋らなければならない強迫観念」に駆られている(※枕詞)。それはおれが、どのような方法や思考の癖、バイアスがかかった認識でこの世界を解釈しているのかを知るためでもある。
おれがどういう結論を出すのかではなくて、答えを出すまでのプロセスに興味がある。他者や社会を変えようとしているのではなくて、自分の反応の問題だ。でも本当は社会問題に首を突っ込んで、正論で人を叩きのめすのが大好きなんじゃないの? むろん大好きだ。その中でもとりわけ大好きなのがガス抜き政治ポルノである。政治ポルノだーい好き☆!!
おれは内田樹や高橋源一郎などのリベラル知識人の言説をよく読む。価値観は好ましいし、理屈も通っているように思える。何より読みやすくて自分まで頭が良くなったような気がする。
しかしおれは「やっぱり自民党政治が悪いんだ。俺は間違ってはいない。過ちに気が付かない他の日本人こそが問題なんだ。悪いのは反知性主義に染まった現代社会だ」ぐらいのことを考えて、溜飲を下げている。一時的にすっきりするのだが、それがポルノと同じ消費方法だってことに気が付いてしまった……。xvideosもthis video has been deletedと表示されるし、新聞社のネット記事も配信期限を過ぎると消えている。
他の人は知識人の言説に触れて啓蒙されているとしても、おれだけは別だ。ガス抜きだ。どんな高尚な芸術も、聡明な言論も、おれは低俗な方法で消費してしまう。クラナッハの絵画で、美女がおっさんの首を切断している作品があるが、人間を虫扱いするような冷ややかな眼差しで見つめられると背筋に心地よい電流が走る。(ルーカス・クラナッハ ユディットの勝利 1530年)
プラトンの饗宴も、ソフィストの弁論術に唸るよりも、ギリシャ時代の少年愛文化に思いを馳せていた。成人男性が12歳から18歳ぐらいの少年といちゃいちゃする。少年は年長者に逆らえない。浮世絵(春画ではない)を観るときにも、うなじにフェチズムを見出して楽しんでいるが、対外的には「美術を鑑賞することで教養を得る」ということになっている。しかしその内実はうなじ!少年愛!首切断サド少女!!!だ。あとルネサンス時代のヴェネチアの画家特集を鑑賞するために、西洋美術館にいったのだけれども、キリストの腹筋がセクシーだった。
結論をまとめると、豚に真珠、猫に小判、おれに高尚な芸術である。その割にはプリキュアを観て、「菩薩だ……現代の菩薩がいる……」と涙を流し始めるのでさっぱり基準がわからない。
一時的におれがすっきりするためにだけ、言論を消費する。この姿勢によって、おれは自分自身の手で民主主義をぶち壊している。同じような価値観を持った人々の間でだけ、同じような価値観の言説だけが消費されて、反対側にはまったく届かない。それで仲間内でだけ、自分たちが正しいという確信を強める。この構造が何年も続いていて、おれはこのフィルターバブルの向こう側に行きたいんだって思った。なぜならばこの壁の外には、もっと刺激の強い政治ポルノがあるはずだからだ。