明日に向かって捨てろ!


・明日に向かって捨てろ! インターネット編

インターネット機能制限祭りという奇祭をしていた。
今日日、ちょっとした電子機器を購入すれば、確実にwebブラウジング機能とSNS連携機能が付いてくる。これは時間と集中力を惜しみなく奪っていくサイバー寄生虫であり、意志薄弱者への死の宣告だ。インターネット捨てたい……ちょっとした時間にブラウジングするのをやめたい……。そんな切実な祈りから生まれたのがインターネット機能制限祭りである。

デジタルテクノロジーのうち良い部分だけを抽出し、邪悪な要素は遠ざける。
ペアレンタルコントロールを駆使し、入力するのが面倒くさいようなパスワードを設定を設定し、自分をネット社会の魔の手から守る。これがインターネット機能制限祭りである。自制心に関しては5歳児レベルなので、自分で自分を管理しなければならない。もはやkids向けのインターネットに引きこもった方がいいのではないのかと、真剣に検討するレベルだ。
おれはコウノトリがキャベツ畑から生まれると信じている純粋無垢な美少女なので、無修正ハードコアポルノなんて観たりはしない。そんなあたいのコウノトリ幻想を守る最後の砦としてporn blockerを導入する。
porn blockerを導入したら、ポルノだけではなくてSNSも動画サイトもオンラインゲームもその他不適切に思われるサイトも天鳳もまとめてブロックできると知る。おれは15歳の誕生日に、悪い魔女に呪いを掛けられた。その呪いとは、無意識に天鳳にアクセスしてしまって何時間も麻雀を打ち続けるというものだった。気が付けば朝で、手に入れたものは虚無と一瞬の快楽。得意な役は放銃だ。
この呪いから自分の身を守るためにフィルタリング機能を導入したまでは良かったのだが、firefoxがアップデートしたでadd-onが使えなくなってしまった。おれはこれからどうしたらいいんだ……。

・そこで手に入れたのがRaspberry pi2だ。

自制心がミジンコレベルしか無いので、Raspberry pi2を使うことにする。chromeやfirefoxなどのブラウザは満足に動作しない。軽量ブラウザなら動くが、動画は再生できない。容量は8GBのmicro sdカード、wifiのついていないので有線LANで接続しなければならない。
スマートフォンの方が圧倒的に高性能だが、この不便さが逆に快適さを生む。マシンパワーが貧弱すぎてやりたいことができない。だからこそ無駄がそぎ落とされていく。それがRaspberry pi精神だ。気軽に動画が閲覧できない。が、そもそも気が散らかるだけなので、誘惑は少ない方が良い。複雑なレイアウトのサイトを表示できない。が、無駄なサイトを観て時間を無駄にせずに済む。
しかしこのRaspberry piも3B+になり、クアッドコアのCPUが1.4Ghzにまでパワーアップしてしまった。これが意味することはただひとつ。ブラウザで天鳳が動くようになってしまった。天鳳が動くようになるとどうなるのか。インターネット依存症への急行片道切符を手にしたも同然だ。

・sudo leafpad /etc/hosts

その対策として主要な検索エンジン、SNS、精神的に悪影響を及ぼすであろうサイトをブロックすることにした。Linuxの場合、/etc/hosts というファイルを編集することで特定のURLへのアクセスを制限できる。それに加えて、五分おきにhostsファイルをもとに戻す設定も加える。もしこのhostsファイルをいじって特定のURLにアクセスしたとしても、五分ごとに強制シャットダウンされる仕組みだ。中国の情報検閲に匹敵するレベルの自主的インターネット制限だ。
シリコンバレーの企業がユーザーのサイト滞在時間を引き伸ばすために、ありとあらゆる心理学的・脳科学的な手法を導入する今日昨今である。カジノやスロットで用いられるのと同じようなテクノロジーがいたるところに応用されている。倫理もなければ道徳基準も確立されていない野蛮なインターネット時代において、自分の身を守れるのは自分以外にはいない。

・明日に向かって捨てろ! SNS編

言葉の使い方が分からなくなっていた。
SNS入門!みたいなタイトルの書籍を読んでいたが、すっかり時代に取り残されていてついていけない。
インターネット上の対人関係を円滑に進めるために、口当たりのいいまろやかな振る舞いをしなければならない。具体的にはですます口調で丁寧な言葉遣いをする。政治宗教、女児向けアニメ、攻め受けなどのデリケートな話題はしない。相手の主張や妄想を否定しない。(これは統合失調症患者のカウンセリングをするときに使われるテクニックだ。妄想がいかに非現実的なものなのかを説得しようとすると、患者はこれまでよりも強く妄想を信じ、正当化するようになる)、などなどの穏やかなキャラクターメイキングをするのが、このポストアポカリプスを生き残る秘訣だと書いてあった。
不用意な失言と、反社会的な言動を避けるだけでも致命傷は回避できる。
そうやっておれは、毒にも薬にもならないノンアルコール飲料みたいな人格を運用しているあいだに、自分が存在している意味を見失った。炎上しかねないアルコール濃度の高い文章でも、場合によって心の傷口にぶっかけて消毒することができるし、ときおりはアルコール中毒になったりする。そんな塩梅を無視して、火が付かないように心のアルコール濃度を下げている間に、おれは政治的中立・日和見・なんでも相対主義・事なかれ主義のくっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっっそ、つまらない人間になってしまった。
「この話題は人を選ぶからパス」「この発言も人によって不快に思う可能性があるから言わない」「美味しそうなご飯の写真も、自慢に見えていけすかない」「相手がどのように発言を受け取るのかわからないので、少しでも誤解される余地のあることは喋らない」
自分が何を伝えたいかよりも、そんな自己保身よりの判断を優先するようになった結果、おれは何一つとして言葉を語れなくなった。 歪んだ心のあたいはどこに行ってしまったの? ここにいる作り笑いを浮かべた人間は誰なの?

・markdown形式で簡易ホームページを作る話。

 そうしてインターネットひきこもりかつSNS難民になったおれは、HTML手打ちでホームページを作ることにした。
 この時代にHTMLのホームページという形式を選んだのは、タイムライン形式が苦手だったからだ。相手のホーム画面に、自分の発言が垂れ流されるのはどうも気持ちが悪い。他者のタイムラインを、自分の歪んだ思考で汚染することに居たたまれなさを感じる。
 それ以外にも、SNSが中心になった現在のインターネットが、窮屈に感じられる場面が多くなったのも大きな要因だ。タイムライン形式によって、過去の発言を遡ることが難しくなった。発言は140文字程度の短文に切り刻まれてしまう。他者と交流するにはいいのだが、ややこしい話題や社会問題を議論するためのプラットフォームではない。
 企業の作ったネットサービスの手のひらで、イイね!を飴に、炎上を鞭代わりにして調教されているような気分になったので、SNSからは数年ほど距離をおいていた。サービスを自主的に利用しているのではなくて、システムに振り回されている。ビッグデータやアフィリエイトに奉仕する養分になって、受動的にインターネットを消費している。おれたちはインターネットサービスの消費者や顧客ではない。Facebookもtwitterの取引相手はおれたちではなくて広告主だ。おれたちは広告スポンサーに売られる商品であり、養分であり、注意力と時間を惜しみ無く奪われ続けられるだけのデジタル家畜に他ならなかった。

 その問題を解決するために、前時代的インターネットに頼る必要がある。
 この場所こそが我々の新しい隔離病棟であり、赤ちゃんの素肌よりもデリケートな精神のための居飛車穴熊である。でも居飛車穴熊は思ったよりも端攻めに弱い。

・markdownから静的サイトジェネレーターでblogを生成する。
 まずはmarkdown形式で文章を書いて、htmlに変換する。cssは可能な限り最小限にして、インターネット黎明期にあったような何の飾り気もないサイトにする。デザインやフォントを凝りすぎるときりが無いので、このあたりはなるべく適当に済ませる。SNSと連携するボタンを設置しない。
 このあたりの条件を満たしたweb1.0的サイトを作り、延々と文章を書き込んでいくのだ。
 当初はこのページをHTMLで作っていたが、のちに静的サイトジェネレータなるものが存在すると知る。これはmarkdownで書いた文章からブログを生成してくれるというものだ。このサイトはhugoというツールを使って構築している。

・明日に向かって捨てろ! デジタル機器編

・自分の魂にあったデジタル家電を探し求めるのは、現代の巡礼(ピリグラム)だ。
 永遠の都に到達するまでを描くジョン・バニヤンの『天路歴程』のごとく、己の魂に馴染んだデジタル家電を探し求める。それは長い旅路だ。いくつものデジタル機器を手に入れる過程で、様々な機会が増えて身動きが取れなくなってしまった。スマートフォンがあればだいたいのことはできる。だが、オールマイティーというのは裏を返せば何もかもが中途半端だということだ。微妙に使いにくかったり、バッテリーが持たなかったりする。その弱点を補うために充電用のモバイルバッテリー。スマホでは文章が読みにくいので電子書籍リーダーや、すべてのライブラリを収納した音楽プレイヤーを持ち歩く。旅行のときにはやっぱりいい写真が取りたいのでデジタルカメラをカバンに入れ、どこでも文章が書けるようにpomeraを携帯する。
 デジタルになって以降、ウォークマンもフィルム式のカメラも持ち歩く必要が無くなったのだが、徐々におれたちは重くなっていった。ものが増え始めるのは何かが間違っている証拠だ。確かに効率化している。それぞれの用途に適した端末を手に入れている。なのに持ち運びやすい端末をいくつも持ち歩くことは、何かが間違っている。
 そのことに気が付き始めたときに、おれはメルカリやラクマで古いデジタル機器を処分するようになった。
 貧乏人が辛いのは、買ったものを容易に処分できないことだ。金持ちの幸福は何かを手に入れられることにあるのでは無く、どうせあとで買い直せると思って簡単に捨てられることにある。貧乏人はこうはいかない。なけなしの金で買ったものは自分の人生の断片を切り売りして手に入れたものであり、どんな不必要なものでも、捨て去ることは汗水垂らして働いた自分自身の否定であり、自傷である。故に貧乏であるが故に重くなっていき、捨てなければならないものを捨てられず、軽やかさを失っていき、最終的には死に至るのだ。

 デジタル機器を処分した結果、ヒップスターPDAというツールをよく使うようになった。これはメモ用紙をダブルクリップで挟んだだけのメモ帳だ。ローテクの極みに思えるが、よく考えて欲しい。高度な製紙技術やボールペンの製造技術が必要である。もし仮に文明が崩壊した場合、自分で紙を作ることも、インクやペンを調達することも不可能になる。また人類は石版に文字を刻むことから始めなければならないとすれば、メモ用紙をダブルクリップで挟んだだけのアナログなツールも最新技術の結晶とも言える。

・明日に向かって捨てろ! スマートフォン編

 スマートフォンを捨てた。
 正確にはso-netの0-simを契約して、維持費をゼロ円にしたまま放置している。この格安simは月に500mbまでなら無料だが、メールやメッセージのやりとりができるぐらいの速度しか出ない素敵なサービスだ。外で大容量データの送受信をする習慣が無い人間にとってはこれとないサービスである。
 そのため現時点での連絡先がprotonmailとtelegramとsignalしかない。
 googleやgmailは10年以上にわたって個人情報を渡し続けてしまったために、完全に性癖をgoogleに握られている。どうにかしてgoogleのサービスからの脱獄を企てているが、アカウントを閉じてもデータは永久にgoogleに残るのだろうと思うとそんな気も失せてしまうよね……。

・明日に向かって捨てろ! Line編

lineのアカウントを削除して、そのあとに「どうしてlineやめたの? 死んだかと思った!」と電話がかかってきて、同調圧力に屈して再びlineアカウントを作ったものの、一ヶ月後になんか集中力が細切れになっているのを感じて再びアカウントを削除した。たぶんLINE脱走兵に思われている。
対外的には「いやー、ネット依存気味なのでガラケーに戻したんですよねー」と言い訳をしているが、実際にはSNSやLINEの設計思想が気に入らないというのが理由だった。これは邪悪な機械だ。 そうしておれはLINEだけじゃなくてblogもtwitterアカウントもfacebookもほとんど削除して、ソーシャルひきこもり状態になった。
あることないことを延々と書き殴ることはできるのだが、他者とのキャッチボールを想定して会話を続けられない。というよりも面倒くさい。両手でボウリング球を持ってぶつけ合うみたいな殺伐とした言語コミュニケーションしか知らない闇の住人なので、短文をやりとりする文化が性に合わない。
なんというかテキストエディタを開けばそこがおれのステージで、キーボードを叩けば奏でられる精神のバイブレーション!それでは聞いてください!おれの魂の底からあふれ出るリリック! 「ポッピンQ感想文!!」みたいな文章しか書けなかった。

・メッセンジャーはsignalとtelegramを使っている。
 基本的に政府や企業を心の底から信用していない。信じられるのはオープンソースソフトウェアの暗号化アルゴリズムだけだった。現代の日本では表現の自由があり、情報の検閲は禁じられている。しかし民主主義や自由もわずか数世紀の歴史しかもたない脆い思想に過ぎない。いつ失われてもおかしくはなかった。
 憲法が改正され、中東やアフリカばりの抑圧的な国家になった場合を想定して動く必要がある。アメリカからは情報検閲システムであるPRISMを輸入し、中国の言論統制ファイアウォールである金盾を凌駕する情報統制システムを築き、国内で官製フェイクニュース産業を育成し、ネット世論を巧みに操る。人工知能技術を駆使して、履歴書の顔写真から「あ、こいつ、反政府デモに参加してますよ。youtubeの映像の端っこのほうに映ってます」というような検索が可能になる。プリキュアシリーズは国策プロパガンダになり、自己犠牲が尊いものとして扱われるようになる。そして立憲民主党、日本共産党の公式ウェブサイトにはtor経由でなければアクセスが出来なくなる。そういう時代がやってこないとも限らない。
 こういう統合失調症患者の妄想みたいな未来を思い描いていたのだが、実際に文字にしてみると本当に「電波が私を集団ストーキングしている!」と言っている人と大して変わらないことに気づく。気が狂っているのは俺なのか。むしろいつから自分が正常だと思い込んでいた。
 もし俺の気が狂っているとしても、実際に人権が抑圧された暗黒時代がやってくるのだとしても、オープンソースの暗号化アルゴリズムだけは決して変わらない。仮に通信の自由も思想と良心の自由も踏みにじられるものだとしても、暗号化アルゴリズムによって無理矢理に自由をつかみ取るというのがインターネット・デモクラシーというものだ。

・明日に向かって捨てろ!  Amazon編

ネットでの買い物が辛い。辛いというよりも、購入に至るまでに、レビューやコメントベンチマークや評判を比較検討したり、通販サイトで安く買える所を探したり、これを買っても本当に後悔しないかと思い悩む労力が辛い。
1クリックでものが買える時代だからこそ、冷静な判断をしなければならない。おれはこの買い物をして本当にいいのか?……ということを延々と考えてしまう人なので、おれはネットショッピングに向いていない。
選択肢が多くなればなるほど、情報を吟味する負担が増していく。かと言って勢いに任せて買ったものの、ろくでもない商品を掴まされたことは腐るほどあった。おれはもしかしたらネットショッピングを信頼していないのかも知れない。
実物を手にとって眺められないからこそ、人のレビューに頼らなければならない。そういう商品の買い方は、もしかしたらあまり好ましくは無いのかも知れない。

ある本に数百円安いだけのサイトを探して喜んでいるようであれば、お前は情報弱者への道を歩み始めているといった趣旨の文章が書いてあった。意味もなくショッピングサイトを見て、無数の選択肢に翻弄されるのは情報弱者の証だ。
そのような理由があり、amazonをブロックリストに入れた。ネットに繋がっていれば、いつでも買い物ができるのはよいことではない。今日は街に出て買い物をする日で、家にいるときは完全にオフ、というような切り替えが不可能になってしまったこの世界で、おれはどうやって生きていけばいいのか。

・明日に向かって捨てろ! 検索エンジン編

・検索エンジンをduckduckgoに変更する。
 検索エンジンにアクセスできないようにした。googleだけではなくbingもyahooもstartpageも、主要な検索エンジンにアクセスしようとするたびに、パスワードを入力しなければならない。

・検索エンジンを使わない努力。
 知らなくていいことまで簡単に知れる時代だ。検索エンジンに尋ねれば、それらしい答えが返ってくる。この世界で一番美しいのは誰?
 しかし知らなくてもいいことを知らないままでいる、というのもまたひとつの知の形だ。何でも知れる時代においては、何を知らなくてもいいのかを見極めていかなければ、情報の海で溺れて死ぬことになる。指数関数的にネット上の情報は増える。誠か嘘か分からない情報をより分けて、事の真偽を明らかにする。ジャンクの混じった情報から使えそうな情報をより分ける。早急に調べる必要が無いことを調べて、不必要に時間を浪費している。
 この世界の情報の99%には読む価値が無い。触れなくてもいい情報、無くてもいいもの、知らない方が幸福な情報を選り分けることが、おれたちに課せられた新たなるメディアリテラシーだ。

そうして彼はそれからも、多くのものを捨て続けた。アルコール飲料、日本語のメディア、感情、政治思想、金……およそ人間が捨てられると思わしきものはことごとく捨ててしまった。はじめは不要な電子機器や、集中力を削ぐアプリを捨てようという趣旨で始まったこのコーナーも、回を追うごとに物質的なものから、抽象的なものを捨てるコンセプトへと変わり始めた。

・明日に向かって捨てろ!

 しかしそれでもなお、言葉、現世、肉体、心、魂、命、自分を自分たらしめるものを、おれは捨てられなかった。禅仏教の師からは「迷いを捨てよ」と言われたが、捨てられなかった。旅の途中で、おれは大工をやっていたおっさんに出逢った。彼は民衆のために命を捨ててしまったが、おれはやつの仲間だとわかるのが恐ろしくて、「あんなやつは知らない」と何度も否定していた。
 ふとおれは思い出した。
 おれは昔、断捨離に関する本を読んだことがあった。「ものを捨てることで欲望や執着から解放され、より良き人生を歩んでいくのです」的なことが書いてあった。おれはひとしきり関心したあとで、最後のページに目を通した。
 そこには「断捨離は商標登録されています。無断で使用することはできません」と書かれてあった。そのときにおれは反射的に本を床に叩きつけた。「それは一番先に捨てなければならないものだろ! 捨てられていねぇ! お前は何一つとして捨てられていねぇ!」と叫んだ。実用書に、最後の一行ですべてをひっくり返される驚愕は必要としていていない。
 明日に向かって捨てろ!と意気込んでみたまではいいものの、何も捨てられていないことに気がつく。電気にもテクノロジーにも依存している。
 まだ旅は途上だ。おれが何もかもを捨てるまで、旅を続ける。過去を捨て、記憶も、自分自身の名前も、何もかもを手放すために旅をした。しかし、直におれは言葉を捨てるだろう。そうなればこの先、おれは喋れなくなり、旅路を記せなくなる。

・明日に向かって捨てろ! 言葉編

 捨て去ろうと思っても上手に捨てられないものの筆頭が、心や言葉だった。頭の中はガラクタのような想念で埋め尽くされている。使い物にならない言葉や考えを、自分の財産のように見なして、言葉を捨てることを躊躇っている。
 おれたちは言葉=自分であるかのような錯覚を抱いている。積み重ねた言葉、抱いている考え、その総体や量を、自分の心や魂であると勘違いしているけれども、これは心の生み出した老廃物でしか無い。
 人が喋っている言葉のほとんどは、糞か抜け落ちた毛か剥がれ落ちた皮膚のようなものだ。
 心も言葉も際限なく無限に増えて、それが自分の所有物であるかのように見なす。おれたちの世界は言葉に依存している。自分の思いを伝えるのは言葉で、他者がどのような考えを抱いているのか、どのような人柄なのかを理解するのも言葉に依存している。そのことでおれたちは、不当にも言葉の価値をつり上げてしまって、言葉が分泌物、排出物でしか無いことを忘れてしまっている。
 おれたちは「所有する」という考え方に慣れ親しみすぎている。失っていくことよりも、得ることの方に重点が置かれる。おれたちの世界は常に、何かを所有するためのノウハウに満ちあふれている。が、所有したと同じ量だけ、おれたちは重くなっていった。身動きが取れなくなっていった。
 おれたちは捨てていかないといけない。食べた分と同じだけ、何らかの形で排出しなければならないのと同じように――

ここで言葉は途絶えている。男は言葉を捨てた。残っているのは、彼の足跡だけだ。それも直に、風に吹き払われて消え失せるだろう。