自己紹介をする気が無いので、代わりにスロウスタートの一ノ瀬花名ちゃんを紹介する。


自己紹介とはいっても、自己の概念があいまいなので紹介できるようなものはない。自閉スペクトラムの人間は自我の境界線が曖昧であり、生涯にわたって自分が何者であるのかを探求し続ける。
人間世界の言葉を喋るときには、それが台本であるような感覚になる。人間の世界で、人間の役を演じる。台本は与えられていないので、その舞台の上でそれらしい振る舞いをでっち上げなければならないのだが、その結果として生み出されるのは「まがいものの自分」だった。
人間の世界で、人間を演じ続けている間に、その偽物の人間に自分が飲み込まれてしまう。一つ一つの言葉を喋るたび、身体を動かすたび、それが自分の皮膚とは馴染まない異質なもので、着ぐるみに近いものに感じられる。
背中に付いたチャックの部分から、もうひとりの自分が流れ出してしまうときもあるのだが、それは人間の台本を演じる上では邪魔なものだ。
そういう風に考えると、精神を病むまで一直線だ。まず確固とした自我がない。自分が流動体という感じがする。自分が形を失った水のようなものになって、どろどろに分解されていく。
でも人間の世界にいると、流動体であり続けるのは難しい。常に自己を固形化して、かたちのある人間にならなければならない。設計図通りに作り上げられたコンクリートの建築物みたいに、自分というものを日々築き上げなければならない。延々とリスト化された「私は○○である」の積み重ねが「私」になる。その価値観に違和感を覚える。 「私は○○である」という言葉を発した瞬間に、それが自分を縛る呪いになる。仮面を被っている間に顔と仮面が一体化して離れなくなるみたいに、「私は○○である」という自己定義の虜囚になる。それは私にとっては不自然なことに思える。自分が何者か分からない以上、自己紹介は不可能だ。自己紹介、おわり!

……というわけにもいかないので、アニメ・スロウスタートの一ノ瀬花名(いちのせ はな)を紹介する。以下ハナちゃんと呼ぶ。このハナちゃんは呪いにかけられていて、自分の目に見えるものをマイナスに変換してしまう。

友達から誕生日プレゼントのアクセサリーを貰うのだが、「ありがとう! 鞄につけようかな? でも鞄につけたらぶつけたときに壊れちゃうかも……」と言う。この子は何かを手に入れたときに、すぐにそれが壊れてしまうことに怯える。アクセサリも人間関係も常に、壊れること、失われることを前提に物事を考えている。幸せを、そのまま幸せだと受け止められない認知のゆがみを抱えている。ただの引っ込み思案の女の子ではなくて、魂の根っこの部分が病んでいる。家のねじが外れたぐらいで、もしかしたら家が崩れてしまうのではないのか?と怯えるマイナス思考の囚われ人だ。 そのハナちゃんに友達は「壊れても、私が直してあげるから」と言う。
ここにおれの魂の欠片がある。一人称が私からおれに変わった。これは文章のテンションで変わる。おれはおれじゃない。一ノ瀬花名だ。これからおれをハナちゃんと呼べ!……とまでは言わないが、まずこんな感じだ。あとは日本の昔話に「人間と鬼の間に生まれた子供を人間の世界に連れてきたら、自殺してしまった」という片子の話がある。これもおれの魂の欠片だ。

自我を拡散させる。
自己紹介は限りなく長くできる「私は○○である」のリストだ。「私はAである」「私はBである」「私はCである」……と、私についてを網羅的に語っていって、イレギュラーな振る舞いを許さない「私」を完成させる。
それを「自我を一点に収束させる」と呼んでいる。
自我を一点に収束させるために文章を書いているのだが、そんなことをする必要は無いのではないか? むしろ反対に、自我を限りなく拡散させていって、自分が何者か分からなくなるような正体不明の文章を書いた方が楽になるのではないのか。「おまえが何を考えているのかよくわからない、ということがよくわかった」というような種類の文章だ。
これまで自分の形を求めて文章を書いてきた。私は○○である、という宣言であるような文章を積み重ねていけば、それがいつか自分の輪郭になるのでは無いのかと思っていた。客観的に見て整合性がとれた自己像を、他者にわかりやすい形で指し示す。「私は○○です」と一言で言い表せるようなわかりやすい取っ手がなければ、他者を理解する行為は難しくなる。
自我を拡散させるというのは「私は○○です」という言葉の拒絶だ。私は○○です、と語った瞬間にそれが不適切になる。そういう言葉を語ることを恐れないことだ。
自分が何者なのかも、何を考えているのかも分からない。でもおもちゃ箱みたいに散らかった私の中から、予想もしていなかった言葉が出てくるのは楽しい。