ようじょ首相!
ある朝、日本国総理大臣が目を覚ますと幼女になっていた。
幼女首相である。未来を担うこれからの世代はまだ投票権を持っておらず、発言もままならない。しかし首相が幼女になることにより、この子が大人になる頃にはどんな社会になっているかと、人々は思いをはせずにはいられなくなり、自ずと数十年先の未来を見据えなければならなくなる。
また日本には女性の国会議員が少ないことが問題視されていたが、首相が幼女化することで女性議員の比率が大幅に向上した点も、先進的な取り組みとして国際社会にアピールできた。オーストラリアでは女性首相が産休を取って話題を呼んでいたが、本邦は世界初の幼女首相だ。
「そんなむずかしいほうりつなんてわからないよぉ!」(※床に仰向けになって、じたばたじたばた!)
国会中に幼女首相が駄々を捏ねる。理解力が女児レベルにまで低下してしまった幼女首相である。煙に巻いたような議論では納得しない。わかりやすい言葉で、イラストを交えて説明しなければ幼女首相は何も理解できないし、難しい漢字も読めない。停滞する審議と、いらだちを募らせる日本国民。やはり、幼女を首相にするのは無理があったのか……と誰しもが思う最中、あの男に白羽の矢が立った。元こどもニュース司会者の池上彰である。
子供にもわかりやすいように、ニュースをかみ砕いて伝えることに関しては右に出るものはいない。国会はにわかにこどもニュース風になり、幼女首相に法律の趣旨を納得させるためにあらゆる映像メディアが動員された。
幼女首相が政策を理解すると同時に、これまで政治経済に疎かった大多数の日本人が啓蒙された。なんとなく法律や国際問題がわかっているような面をしていた日本人だが、実際には誰も詳しいことなど知らなかった。幼女首相向けの政策説明は、回り回って日本国民全体のリテラシーを向上させ、市民の政治参画を促したのである。
幼女首相はお花や小鳥が大好きだった。「やだー、せんとうきや空母なんてかわいくないから、いや!」日本の国防政策や防衛大綱のほとんどをキュートではないという理由で破棄する。幼女首相の価値観は平均的な女児と同じであり、きらきらしたものやパステルカラーが好みだ。
「えふ35?なんかより、きれいなお花をたくさん咲かせようよ♪」
幼女首相はこれまで国防費に費やされるはずだった数兆円で、日本中にお花畑を作った。
この政策には日本国民も黙っていない。国会前には連日連夜に及ぶ大規模デモが行われ、幼女首相の退任が要求された。左は「幼女政権を許さない!即刻退陣!」と叫び、右は「幼女首相の頭の中は正真正銘のお花畑www」とさんざん馬鹿にした。しかし幼女首相のわがままは聞き分けのない幼女級だったので、強行採決を駆使して『日本をお花でいっぱいにする法』を可決した。
東京中に植林が行われ、至る所が花畑になった。当然のことながら、植物は二酸化炭素や、コンクリートが反射する熱を吸収する。そのことで東京のヒートアイランド現象が緩和され、二酸化炭素の排出量が削減された。気温は下がり、東京オリンピックの懸念事項だった炎天下の問題は解決された。
東京は地球温暖化対策の国際的モデル都市になった。東京は皇居を中心とした花時計のような都市デザインになり、景観問題が改善した。当初は幼女特有のただのわがままだと思われていた『日本をお花でいっぱいにする法』は、21世紀の環境問題を視野に入れた政策だった。これまでマイナスだった幼女首相の支持率は400パーセントにまで上がった。(※NHK世論調査より)幼女首相が国民を納得させるためにくれよんで自由帳に書いた『日本をお花でいっぱいにする法がすてきなりゆう』は、ノーベル平和経済環境文学賞を受賞した。
幼女首相はこれまでの政治家と同じように汚職事件を起こしたが、被害額は軽微だった。お客さん用の茶請けからキャンディやロッテのチョコパイをこっそりポケットに入れたり、国民に黙って自分の部屋で捨て猫を飼っていたりする程度だった。国有地を何億円も値引きして売却したり、政治資金パーティの収支報告をごまかしたりはしないのだ。
幼女独裁政治(ヨウジョクラシー)時代
人々は幼女首相による、幼女独裁政権を盲信した。
初潮前の少女を神聖視するネパールのクマリ、文明に汚染されていない子供こそが正しい判断ができるとして、専門知識を持たない子供を医者にしたクメール・ルージュ、ユング心理学における童子のアーキタイプ、コミックLO編集部、無垢な子供を神聖視する価値観はこれまでにも存在していた。その文脈から鑑みれば、政治の幼女化も決して奇異なことではない。ましてやロリータに対して比較的寛容な日本社会は政治の幼女化を穏やかに受容した。
しかしこれが幼女独裁政治(ヨウジョクラシー)時代の始まりであり、民主主義の終わりだとは人々は気がつかなかった。
ポピュリズムが蔓延し、反エリート・反エスタブリッシュメントの嵐が吹き荒れる現代社会。移民とテロリズム、貧富の格差を解消できずに民衆の信頼を失っていく各国の政治家たちは、己を幼女化することよって下落した支持率を回復しようとした。幼女化することは現代政治にとって必要不可欠なスキルになっていた。まず可愛い幼女になれば、みんなが優しくなる。幼女相手に辛辣な口調で罵声を浴びせるわけにはいかないからだ。
国際社会は民主主義をかなぐり捨て、幼女独裁政治体制へと移行しつつあった。20世紀は資本主義と共産主義の対立だったが、21世紀は民主主義と幼女独裁政治が覇権を欠けて競い合う時代だ。
地球環境に優しい政治思想が、必ずしも人間に優しいとは限らない。幼女独裁政治によってもたらされた価値観は、これまで人類が慣れ親しんできた価値観とは相容れなかった。産業革命も資本主義も関係ない。環境保護と生態系保護、多様性の維持を是とする幼女独裁制は、これまでの資本主義社会のことを何も考えていなかった。
「くるまはたいきをおせんするから、だめ!」「せまいケージの中で飼育される家畜さんはかわいそうだから、だめ!」「そんなにおさかなさんを乱獲するのは禁止!」
幼女特有の価値観から生み出される環境保護政策は、ホモ・サピエンスが今後も地球上で存続していくためには必要不可欠な行動だったと言える。しかしあまりにも急激な社会制度の変化は自ずとひずみを生む。経済活動が停滞することで二酸化炭素の排出量が激減し、資源の濫掘や消費が緩やかになる一方で、グローバル経済は完全に破綻した。経済は成り立たなくなり、恐慌の嵐が吹き荒れた。際限なく地球資源を搾取することで成り立っていた資本主義社会は崩壊した。
幼女恐慌時代の到来である。もはや人類は70億人の人口を養っていけるだけのカロリーを生産できなくなっていた。民は飢え、残った食料を争い合う。骨肉相食む略奪の時代が始まった。しかし幼女により引き起こされた災厄を鎮めるのも、幼女以外にはなかった。
アメリカ幼女大統領の「お菓子がいっぱいなる木が欲しーな!」の一言により、バイオテクノロジーの研究開発に多額の資金が投下された。お菓子のなる木は不可能だったが、ゲノム編集技術を駆使することにより、太陽光を効率的にカロリーに変換できる植物が人工的に生み出された。
これは過酷な環境でも根を張り、すくすくと育っていき、ロッテのチョコパイみたいな味の果実を実らせる。経済の崩壊で餓死寸前だった人々は、チョコパイの木から食べ物をもぎ取って飢えを凌いでいた。これは新大陸で発見されたジャガイモが、ヨーロッパに輸入されたことに匹敵する歴史的なターニングポイントだった。食べ物を手に入れるために労働力を売り渡す必要から、人類は解放された。おなかが空けば、その辺に生えているチョコパイの木の実を食べればいい。
・ホモ・ヨウジョス
全世界的な幼女独裁政治により、ホモ・サピエンスはこれまでとは異なった淘汰圧に晒されることになった。狩猟採集と農耕文明では生存に必要な遺伝子は異なる。狩猟採集の場合は、周囲の環境に耐えず目を配れるような遺伝子が有利に働くが、農耕社会に適応するためには邪魔になる。かつて狩猟採集で有利だった遺伝子を持つ人間は注意散漫なADHDといったレッテルを貼られ、単純な農作業を苦にしない人間がより繁殖しやすくなる。
幼女独裁制の時代においては、これまでの男性中心の社会で必要とされてきた要素が不必要になった。しょせん、雄の使命は己の遺伝子を次世代に残すことである。そのために雌に自分の強さをアピールすることが至上命題になる。力の誇示、過剰な闘争心、男性ホルモンの分泌、所有や競争に優越を覚える感性――数千年にわたる人類社会は、これらの特性に影響を受けてきた。
動物が角の大きさを比較する代わりに、絶え間のない軍拡競争が生まれた。猿が縄張り争いを繰り広げる代わりに、地球を舞台に国境線を塗り替える戦争が始まった。このような男性ホルモンに影響された暴力的な時代は、幼女独裁制において終止符を打たれることになった。
より幼女的な特性を持った男性の遺伝子が環境に適応するようになり、かつて狩猟民族の特性だったものがADHDになるのと同じプロセスをたどり、男性中心社会で美徳だったものは障害として扱われるようになった。
ここが人類史の分岐点だった。かつて現行のホモ・サピエンスとネアンデルタール人が枝分かれしたように、今度はホモ・ヨウジョスとホモ・サピエンスに霊長類は分かれた。
ホモ・サピエンスと幼女人類の生存競争は火を見るよりも明らかだった。身体の維持に大量のカロリーを必要とする人間に対して、小柄で、脳が消費するエネルギー量が極端に少ない幼女人類。後者は少ない資源でも効率的に生存することが可能であり、これまでの人類を養うための巨大かつ破壊的な経済活動を必要としなかった。かつての人類は飢えて死ぬか、幼女人類になって生存する以外には選択肢はなくなった。
私は人類最後のホモ・サピエンスとして、この記録を書き残している。我々はどこで道を間違ったのだろう? あるいは我々は進化の流れを前に滅び去る運命だったのだろうか? 初めて歴史に幼女人類の萌芽が芽生えたとき、我々はそれを危機だとは受け止めなかった。ただ一つだけ言えるのは、ホモ・ヨウジョスが生まれなければ我々ホモ・サピエンスは核戦争によってこの地球ごと消滅していたと言うことだけだ。
ホモ・ヨウジョスは生殖行為による繁殖を必要としない。この時代では、幼女人類はキャベツ畑から生まれる。AIが現在の地球が養える人口と資源量のバランスを計算して、生殖に頼ることなく人工的に幼女が生み出される。飢えで苦しむ限界まで無計画に繁殖する旧人類とは、根本的に異なった社会が構築されていた。
窓の外を見る。幼女人類たちが花冠を編みながら、にこやかに笑いながら暮らしている。おなかが減ったらチョコパイの木の実を食べて、眠たくなったら眠る。苦しみも無く、争いとも無縁だ。むろん、ちょっとしたけんかはあったが、すぐに仲直りした。
私はこの場所が旧約聖書に語られたエデンの園に違いないと思った。原罪を知ることのない人類の姿があった。そこにいたのはアダムとイブではなく、幼女だった。