ヘイトスピーカーのために。
おれはヘイトスピーチのデモ動画を見て、思わず祈ってしまった。差別的な言葉を叫んではいるが、それが憎悪や暴力であるというよりかは誰かに助けを求めているように聞こえた。やつらはヘイトの中で苦しんでいる。でも自分でも苦しんでいるとは気がついていない。
おれはヘイトスピーカーが傷ついた獣のように思えた。攻撃的な言葉を振りかざすのは、他者を攻撃することでしか自分の身を守れないからだ。表面的に見ると紛れもないヘイト発言でしかないのだけれども、おれにはそれがリベラル思想に対する失意の声に聞こえた。
それは「おれ以外のための民主主義とリベラル」に対する呪詛だ。
民主主義を守ろう!差別のない世界を作ろう!(おまえは永遠に差別される側だけどな) 日本国民には最低限度の文化的な生活が保障されているよ!(でもおまえには関係が無い) 人権を大切にしよう!(ただしおまえが不幸なのは自己責任だ。嫌ならさっさと自殺でもしろ)LGBTの権利を守ろう!(おまえの権利はどうでもいいけどな)セクシャルハラスメントをやめよう!(おまえが苦しんでも誰も見向きもしない)移民や難民の人権を大切にしよう!(おまえは最低賃金で働いて、さっさとのたれ死にしろ)
失意に打ちのめされた魂にとって、リベラル思想というのは上記のように聞こえる。
自分は守られる側には入っていない。誰もおれの人権を守ってくれないし、誰にも頼れない。民主主義もリベラルもおれを救わない。あいつらが善人面を装うのは選挙の票集めのためだ。「ヘイトスピーチをやめよう!」といっているのは恵まれた人間だ。人を心の底から憎んだことがない連中の戯言だ。偽善だ。平和だの平等だの口にしているのは、幸福な人間だ。
「いいから黙って他人の人権を守れ。おまえの人権は踏みにじるけどなwwww」という、おれ以外のためのリベラル思想はおれを救わない。
おれに手を差し伸べてくれるのはヘイトスピーチだけだ。リベラル思想はおれを救わないが、ヘイトだけがおれの苦しみを代弁してくれる。
差別思想がおれたちに提供する考えは、至ってシンプルだ。
今度はおれたちが差別する側に回り、利益を享受する。たったそれだけのシンプルな原理には嘘偽りがない。左翼が振り回すような偽善ではない。その一点で考えるとヘイトは力強い。自分を守らない糞左翼の理想論よりも、おれのことを考えてくれるように思える。それは錯覚かもしれないけれども、おれのことに見向きもしない糞左翼よりかはおれの気持ちをわかってくれているように感じる。
外国人を排斥すれば、移民を、少数派を弾圧すれば、やつらに使われるはずだった税金が自分たちに使われるかも知れない。あるいはこれ以上、自分たちから奪われることはなくなるはずだ。
それはヘイトであるよりかは、不公平を訴えるための数少ない方法なのかもしれない。
「あいつらは、外国人は、移民は、こんなにも恵まれている。なのに日本国籍を持ったおれは、どうして生活保護の申請も満足にできないのか?」
その疑問を直接口にはできない。それは自分が保護を必要とする弱者だと認めることだからだ。「私は弱者です。支援をしてください」と訴えられないからこそ、ヘイトという形で誰かをスケープゴートにしなければならない。
ヘイトスピーチデモで感じたのは、暴力的な言動の裏側に隠れている苦しみだった。
「おれを見てくれ、おれを救ってくれ。おれの痛みを和らげてくれ。おれはここにいるんだ。だから、おれの声を聞いてくれ。」そういう風に助けを求めているように聞こえた。それ故に、ヘイトスピーカーは「あいつら」ではなくて「おれたち」だと思った。
おれたちは、自分の抱いている感情に適切な言葉をあてがえずにいる。見聞きする情報の中から、自分の心を代弁してくれるような言葉を探した結果、それがヘイトスピーチだっただけだ。それは問題ではあるが、間違いではない。
ここで「自分はヘイトを肯定しているわけではない」という予防線を張ることもできるのだけれども、それは好ましいことではない。自分もヘイトスピーチ側にいた可能性はある。おれは善人ではない。不完全な人間なので憎悪を抱くのは仕方が無い。憎悪発言の一つや二つ口にしなければやっていられない夜もある。
中東での空爆や人権侵害を憂い、深刻そうな表情をしていたニュースキャスターが、その数分後に「それではぁ、次はスポーツニュースです!」と陽気な声で語る。そういうポーズでしかない善人面をした連中の頭部を、おれは常々からコルトガバメントで吹き飛ばしたいと思っている。
リベラル派の知識人が信用ならない。高学歴のマスコミ関係者が許せない。あいつらはおれの苦しみを知らない。あいつらは生まれつき恵まれていて、才能がある。人から認められて、社会的な地位もある。持たざるものの苦しみを知らないから、あんな糞左翼の綺麗事が言えるんだ。おれと同じ苦しみを味わっても、同じことを言えるはずがない。
違う世界に生きている人間の綺麗後に比べたら、あいつらが否定するヘイトのほうが「おれたちの言葉」だと感じられる。持つものと持たざるものの間にある言葉の断絶を、あいつらには埋められない。幸福な人間の語る言葉はおれたちには届かない。
おれが信じたいのは、ヘイトスピーカーの抱く憎悪が本物であるということだ。まとめサイトのコピペでも、誰かの受け売りをオウム返ししているだけの言葉ではない。感情のこもらない平等と平和を口にするぐらいなら、自分の腹の底からわき上がってくる行き場のない感情を吐き出す方がいい。
それは社会正義の観点からは決して許容できるものではないのだが、文芸的に言えば腰の入った憎悪の方が好ましい。差別発言を無くすのは問題の解決にはならない。自分のヘイトを研ぎ澄まして、より明確で具体的な形を与える。
ただおれたちのうちの誰かが人間の道から外れてしまいそうなら、そのときには止めたいと思う。「ヘイトスピーチを無くそう! 人種差別反対!」と言うつもりはない。許容できない価値観を持った人間を切り捨てるのはおれの望む世界ではない。
憎悪を口にしている間に人間の形を失ってしまうことは珍しくはない。妊婦の腹を笑いながら蹴り飛ばすような人間になってしまうかもしれない。おれは個人の尊重とか人権とかそういう言葉を振りかざしてヘイト発言を止めようとは思わない。
ただおれたちのうちの誰かが、人間の形を失ってしまうのが忍びないだけだ。