アメーバや成形肉になる世界。


SNSをやめた理由の一つは、自分の言葉を失ってしまうそうだったからだ。簡単に情報発信ができるプラットフォームを使っている間に、自分の言葉や振る舞いが平板なものになっていく。
自分の言葉がまとまった文章ではなく、細切れの断片になる。他人の喋っている言葉と判別ができないほど、言葉の響きや字面が似通ってきて、自分と他者の境界線が曖昧になる。最後にはSNSというアメーバ状の生き物に取り込まれてしまう。「私」という個人が、ある出来事について言葉を発するのではなくて、「SNS」の流行を構成する一つの細胞でしか無くなる。
コメント欄やSNS、まとめサイトは、どこの誰ともしれない人たちの断片的な言葉をつなぎ合わせて、ひとつの記事に加工している。それは屑肉を集めて作られた成型肉のように見える。
アメーバ、成形肉。どの言葉も、私たちが確固とした個人ではなくて、輪郭線を失った部品になっていくイメージがある。私たちはゆるやかに人間性を剥奪されていく。顔を失って、ネットの流行を形作る水滴のひとつになる。骨を取り除いてすり身にした魚は食べやすい。それと同じように、個人をバラバラに切り刻んで、骨を抜いて、消費しやすいように加工している。
それが今のインターネットではないのか?
一人一人の複雑な側面をもった人間は求められておらず、コンテンツとして簡単に消費しやすい単位にまで「私」が細切れにされる。理解不能な他者に歩み寄る必要もない。多面性のある人間は、一面的なキャラクターに切り分けられる。

・肌にあった言葉の使い方。

それが嫌だったので、自分の使いたい言葉を自分の意思で選びたいと思った。
たとえそれが社会のスタンダードとかけ離れていても、自分にとって最適な言葉を使って、最適な長さで、最適な構成で、最適な言葉の布置で、言葉を積み重ねていったほうがいい。
私は彩度の低い言葉を、ハッチングを重ねるようにして書き込んでいくのが好きで、あまり感情的な言葉、強い言葉を使いたくない。
あまりにも響きが強い言葉は、言葉全体のバランスを崩してしまう。しばしば、インターネット上を飛び交っている言葉は彩度が高すぎて目にするのが苦しい。短い文字数で刺激的なことを言うためには、現実を過剰にデフォルメしたような言葉を使うのが適している。それは世界を白と黒に分断するようなわかりやすい価値観だったり、レッテルを貼ることだったり、斧で切断するような強い調子の言葉や、言葉遣いであることが多い。
それが私にとっては、「言葉の彩度が高すぎる」ように感じられる。景観を破壊する蛍光色の看板みたいな言葉の使い方だ。
それらの言葉を見聞きするたびに影響を受けて、自分自身の言葉を見失ってしまうときがある。問題は自分にとって心地いい言葉を取り戻すことだ。言葉の使い方、組み立て方、バランスの取り方、これらのものが総合的に組み合わさって、言葉の全体性(ゲシュタルト)を形作っていく。
自分にとって心を許せる言語環境を探して、(無いなら作って)、身体に染み渡る言葉を読み聞きして、なるべく静かで落ち着いた言葉や、まっすぐで癖のない言葉を使うこと。
言葉も色彩も音も、全体のバランスを取るように心がける。部分が正しいのではなくて、不格好な部分もあるけれども全体的にはだいたいバランスが整っているようにする。
その繰り返しの中でしか、自分の言葉を取り戻していくことはできないのかも知れない。