ステラ女学院高等科C3部の感想文。


ステラ女学院高等科C3部(しーきゅーぶ)を観たが、最高の百合アニメだった。ネットでは爆死したクソアニメ扱いされているものの、主人公が闇堕ちする後半から最終回(※12話)までは終始泣きっぱなしでゆらちゃんに感情移入していた。
どこに感情移入したのかというと、ゆらの自我観念の薄さだった。
大和ゆらのキャラクターは方向性がぶれまくるのだが、これは彼女が一生懸命に環境に適応しようとした結果だ。自閉症スペクトラル気味だと自我の観念が薄いので、自分自身を環境に合わせて最適化させてしまう。自分がどうしたいのかではなくて、この場所で望まれているだろうと自分で勝手に思い込んだイメージに向かって、全力で猛突進していく。

ゆらは自分を変えたいと思って髪型を短くするのだけれども、部長のショートカットにそっくりだ。これは百合での「あこがれの人に近づきたいから、同じ髪型にイメチェン」だ。冷静に考えてみると部長のそのらはそこまできめ細やかにゆらのフォローができるような人間ではないし、放任主義前回なのだけれども、恋する乙女の前にはそんな欠点は眼に入らない。鹿島そのらはゆらがなりたいと願っていた「自分の赴くままに生きて、それで周りから認めれている人」の理想像そのものだったからだ。
部長を喜ばせるために大会で優勝したい!という気持ちが最優先になって、それ以外の人間関係や、楽しむという過程が全部吹っ飛ぶ。ゆらの認知世界は歪んでいて、白か黒か、ゼロか百かしかないので、極端な思考と行動を取ってしまう。バランスよく生きればいいと思っていても、ゆらにはそれができない。それが彼女の知っているただ一つの生き方だからだ。
勝利こそが自分の存在意義であると信じ込み、強さのために自分も周囲も犠牲にする。
彼女に与えられる最初の銃は「スコーピオン(さそり)」だ。言うまでもなく自己犠牲の象徴である。ほんとうの幸いのためならば自分の身を焼くことを厭わない。大和ゆらもC3部や勝利という幸福のために、人から認められるために、自分の居場所を見いだすために、自分も周りも傷つける道を選ぶ。その前途を暗示するような銃だ。

・ゆらの二面性について。
大和ゆらの人物造形は特異的で、満面の笑みを浮かべる光ゆらと、眉間に皺を寄せてにらみつける闇ゆらのギャップが激しい。一人の人間に、柔和な人格と人食い虎のような人格が共存している。ほとんど多重人格だ。ゆらのメンタリティは一般的な日常系萌えアニメの主人公にありがちな性格ではない。
この作品を日常系萌えアニメだと考えるのは誤解で、「スターウォーズ」だと考えた方がいい。大和ゆらはスターウォーズのアナキン・スカイウォーカーが下敷きになっている(たぶん)。
アナキンは師匠であるオビ=ワン・ケノービの元で若きジェダイとしての修行を積み、フォースの才能を開花させていく。だが独断的な性格やスタンドプレーといったメンタル面に問題を抱えているアナキンは、実力があってもジェダイ評議会からは評価されない。自分の価値を認めてくれない奴らの元にはいられないと思ったアナキンはジェダイを辞め、暗黒卿のもとでダースベイダーと名乗るようになる。
大和ゆらもサバイバルゲーム部の部長である鹿島そのらに導かれ、サバイバルゲームの世界に足を踏み入れる。勝利を渇望するあまり反則に手を染めた大和ゆらはC3部をやめ、敵対していた明星女学院のサバゲーチームに所属する。
アナキンはかつての師匠だったオビ=ワンと戦い、大和ゆらもそのら部長と戦う。
日常系萌えアニメに擬態しているが、これが物語の本筋だ。暗黒面に目醒めたゆらが、再びライトサイドに戻ってくるまでの長い旅がステラ女学院高等部C3部である。

ゆらが持つ二つの才能について
大和ゆらを支える才能は二つある。「サバゲーを本物の戦場だと思い込む想像力」と「全力で勝ちに行くストイックさ」だ。それらはゆらにとっては同じもので、全力で遊んでいたからこそ、何事も中途半端にできない。なあなあで終わらせられない。周囲に合わせて我を抑えるのでは無くて、自分が納得できるかどうかしか判断基準が無くなる。
ゆらはサバイバルゲームと実際の戦争の区別が付かないまま、戦術教本を読み込んで指揮官としての才能を開花させるのだが、これは彼女の能力の半面でしかない。どんな手を使っても勝ちにいこうとする執念深さではなくて、「ただのゲームを妄想で本当の戦場に変えてしまう想像力」が彼女の本質だからだ。
リアリティを追求することでサバイバルゲームを本物の戦争に近づけるのでは無くて、「白線の外側はマグマだから落ちたら死ぬ」と信じる子供の想像力を周囲にも伝染させる希有な力を持っている。
それがあったから、第三話での「本当の戦場だったら、戦って死ぬのでは無くて投降する」という行動につながった。サバイバルゲームに中途半端だったから戦わずに降参したのでは無い。誰よりもごっこ遊びの世界に浸っていたから、降伏という選択肢を選んだ。
だが「全力」の才能を開花させると同時に、ゆらの中に眠っていたモンスターが目を覚ました。勝利の味を覚えて仲間から賞賛されるうちに、「勝つために手段を選ばないゆら」が大きくなり始めた。それは彼女の自己評価の低さを養分にしながら成長し始めて、優しいゆらを内面から蝕んでいく。
これはサバイバルゲームの話だけれども、いつの間にかゲームが抜け落ちて、ゆらがゆら自身であり続けるためのサバイバルになってしまった。「敵に勝って部に貢献できる限り、みんなにとって価値のあるゆらでいられる。勝てなければ、今までと同じ、周囲から疎まれるゆらのままになる」という強迫観念に囚われて、貪欲に価値を求めるモンスターになる。
そのモンスターをどう処していいのか、そのら部長にはわからないまま手遅れになる。

・言葉の不全性について。
この作品の特徴は「言葉の不全性」だ。意思疎通を行おうとしても、それが自分の望んだ意味は真逆の方向に捻れていく。みんなそれらしい言葉を発して脚本を回しているのだが、それらは表面を取り繕うだけの浅い言葉でしか無い。脚本を批判しているのでは無くて、「表面的な言葉で満たされた日常」があるから、「サバゲ言語で言葉を交わし合う最終話」が生きてくる。
これまで重ねてきた言葉では、十分に伝わらなくてすれ違うだけだった。でもフィールドで銃口を向けあって、そのら部長の行動パターンを推測して、戦術を理解して、BB弾をぶち込もうとする行為を通して、初めてゆらと部長は対話を行う。
これまでは自分のイメージや理想を相手に押しつけるだけだったけれども、目の前にいるのはそのら部長そのものだ。自分のイメージ通りには動かない。
口先だけで「ゆらの気持ちはわかっている」と言われても、それでは納得できるはずがない。行動パターンを先読みされて、戦略と戦術がことごとく潰されて初めて、「ゆらの気持ちを私は理解している」というメッセージが届く。
ゆらの思考回路は歪んでいて、独りよがりで、後先を考えない。それが無ければ、C3部はそこそこ楽しい日常系萌えアニメで終わっていた。みんな適当にいちゃいちゃして、百合っぽい展開があって、先輩が好きな気持ちが最後に伝わって良かったね……という皆が期待していたであろう物語に着陸することも可能だった。だがこれはゆらの物語なので、他人が望むようには生きられない。ゆらは周りが見えていない。自分の思い込みが作り上げた世界の中で生きている。即リー全ツッパのような生き方しかできない。
ゆらが脇目も振らずに必死になった結果として、人間関係をぶち壊してC3部から逃げ出したのだけども、それが無ければ先輩と互角に渡り合う戦闘技術は手に入らなかった。
元通りのC3部には戻れないけれども、銃を向ける敵としてならかつての仲間と向き合える。そういういびつな繋がり方しかできない。でも、それでなら繋がれる。 そのら先輩に憧れている自分も、力を欲して闇に手を染めた自分も、その全部でぶつかっていく総力戦だ。
脚本のつなぎ方には粗が目立つし、視聴者にとってフレンドリーな構成でも無い。欠点は多いけれども、「言葉では伝わらないものを、サバゲーを通して描く」という点は十分に描かれている。
冒頭でゆらが自分をシンデレラに重ねていたけれども、これは玉の輿に乗る方法が記された子供向けのおとぎ話ではない。魔術的な力で死者の国を訪れたシンデレラが冥府の王と踊り、地上へと帰還する話が元になっていると言われる。
死者の国と言えばゾンビであり、サバゲーのゾンビ行為だ。これは死の国の住人になったゆらが再び命を取り戻す物語である。
たぶん部長になったあとの大和ゆらは、何でも無いただのサバゲーフィールドを、面白可笑しく緊迫感に満ちた場所に変えるゲームメーカーになる。ただの銃のおもちゃで遊ぶサバイバルゲームが、想像力を駆使して遊ぶ本当のゲームになる。彼女と一緒なら、エアガンが無くても、輪ゴム鉄砲でも、雪合戦でも、なんでも一緒に楽しめる。そんな素敵なゆら部長になるに違いない。
なんかポッピンQのときもそうだけど、ネットでアニメがクソ扱いされているのが気に入らない。どんなにクソアニメだとと言われても、自分の眼と肌と感性で確かめない限りクソアニメ扱いしてはならない。仮にクソアニメだと思っても、「今の自分にはそのアニメを読み解けるだけの資格が無い」と思うようにしている。