『聾の形 漫画・劇場版感想文』


・隠れ発達障害児マンガとしての『聾(こえ)の形』

週刊少年マガジンの漫画が生理的に苦手で読めない。
『このマンガのトラウマが酷い』の頂点に君臨するのは、悪い奴がドラッグでラリったおっさんに尿を飲ませるシーンだった。「喉が渇いたのなら、飲み物をあげますね〜」と言いながら、笑顔でジッパーを降ろして放尿する作品だ。その漫画が載っていた雑誌が少年マガジンだった。マゾ向けえろまんがを読むようになった今の自分なら、かつてのトラウマに立ち向かえそうな気がするのだがタイトルを思い出せない。
それで漫画版・聾の形についてだ。
障害者とのボーイ・ミーツ・ガールとの触れ込みで話題になった作品である。かたわ少女などの障害ヒロイン大好きっこである。この作品であれば週刊少年マガジントラウマを癒すことができるに違いない。そう思って手に取ってみたが、実際には隠れ発達障害児マンガだった。
この時点で一巻しか読んでいないのだが、これは聴覚障害者と健常者のストーリーには見えなかった。主人公の男の子が明らかに、未診断の隠れ発達障害児にしか見えない。割と重度なADHDっぽい挙動をしているし、親ならすぐに精神科に連れて行って知能検査を受けさせるレベルだ。

空気が読めない。やたらと聴覚障害の少女につっかかる。補聴器を破壊するし、退屈を紛らわせるためにスリルを追い求めている。それが原因で周りからハブられて、友達を失って、どん底に叩き落とされている。
主人公の男の子は確実に何らかの発達障害を抱えている。だが本人も気がつかないし、周りもただのトラブルメーカーだと思っている。途中からこの物語は、聴覚障害者である硝子と発達障害の主人公の話では無いのか?と勘ぐっていた。
聴覚障害者を小馬鹿にしていた主人公が、発達障害だと診断されて途方に暮れる。それをかつていじめていたはず硝子ちゃんが手をさしのべるところからストーリーが始まるに違いないと思っていたのだが、ウィキペディアの人物紹介を見る限りだとそんな展開は無いみたいだ。
自分は作劇の都合で人の悪意がブチ込まれる展開が苦手なので、二巻以降が怖くて読めない。この二人は週刊少年マガジンじゃなくてまんがタイムきらら系列かスクエニあたりに亡命させよう! 絶対にそっちのほうが幸せになれる! 密航ルートは俺が手配する!……ぐらいのことは思っていた。
NHKの連続テレビ小説「マッサン」で、金髪外人嫁の作った味噌汁に、誰かが大量の塩を入れるという展開だけでも動悸がしてくる。
悪い作品だと言っているわけではない。極端なまでに悪意描写が苦手なだけだ。
聴覚障害は実際に目に見える障害だが、発達障害は作中の主人公みたいに「空気の読めない困ったやつ」扱いされる。「誰か主人公をケアしてくれ……。問題児扱いで放って置く場合じゃねえだろ! そのうち脱法ドラッグに手を出して破滅ルートに一直線だぞ、このキャラは!」という不必要なお節介に駆られていた。
発達障害らしき人間が、周りから気づかれること無く症状が悪化して社会から孤立していく漫画だ。すでに誰かが指摘していると思って、「聾の形 発達障害」で検索したが何も出てこなかった。なのでこのエントリを書いた。
繰り返しになるのだけれども、怖くて二巻以降が読めない。
ちなみに私の週刊少年マガジン恐怖症を癒やした漫画は『星野、目をつぶって』です。

・劇場版 聾の形。

※物語の核心に触れたネタバレがあります。

上記のトラウマを抱えながら、劇場版・聾の形を観た。
ひとしきり物語の展開に心を揺さぶられたあとで冷静になって考えてみると、これはノーマライゼーションが行き届いていない日本社会と公教育の敗北だと思い至る。何のサポートも無いまま聴覚障害者が公教育制度に放り込まれて、周囲の大人(主に担任)はまったく理解力が無い。『デミちゃんは語りたい!』の先生に比べると事なかれ主義のクソ野郎だ。
登場人物たちが苦難を乗り越えてハッピーエンドになるのだが、素直に感動していいのかわからなくなってしまった。周囲の環境や大人があらかじめ先手を打っておけば避けられたトラブルが多いというのが正直な感想だ。
ノーマライゼーションが行き届いていない環境と、社会の手助けと理解が得られないまま、一番弱い人間に負担が集中する。明確な悪役がいるのでは無くて、負担が集中した一点から順番に潰れていく。
最初は障害者をピュアな美少女として描いて、おたくから涙を搾り取るつもりだろ! おれにはわかる。One~輝く季節へ~のオープニングムービーを作っていたのも京都アニメーションだ。あのゲームにも障害者美少女ギャルゲーヒロインが出てきた。
硝子ちゃんは自分を追い詰めながら生きているので、観ていて辛かった。優しいヒロインではなくて、ハンディキャップを抱えている以上、これ以上周囲のお荷物にならないように振る舞わなければならないという呪いが掛けられている。自分が存在しているせいで、両親や石田に迷惑を掛けている。だからいいこになろう、優等生になろう、誰にも迷惑を掛けないように生きようと思っている。
問題は、その苦しみが周囲からはまったく見えないという構成だ。
石田が自殺するまでの過程はオープニングで丁寧に描く一方で、硝子ちゃんは何の脈絡も無くいきなり自殺未遂をする。これは脚本がいきあたりばったりなのではない。人間が自殺するときには周囲に苦しい部分を見せない。何の伏線も張らずに突発的に死ぬ。
耳が聞こえない障害で、他人と上手く意思疎通できない。そのことで硝子ちゃんは、「周囲の人が苦しむのは、自分が存在しているからだ。私はこの世界に存在していてはいけない。今すぐに消えるべきだ」という歪んだ認知を抱いてしまった。
石田が硝子ちゃんに優しくする度に、それが罪の償いか、同情でしかないように感じてしまう。一人の女の子とでは無くて、聴覚障害者の硝子としてしか扱われない。自分がいなければ、石田の人生を台無しにすることは無かったのかもしれない。
別に硝子ちゃんが自殺未遂をしなくても、別の部分に負担がかかるだけだ。自罰的になるのは硝子ちゃんだけではなくて、登場人物のほとんどが「自分のせい」だと思っている。
石田は自分が硝子ちゃんをいじめたのが悪いと思っているし、硝子ママは自分が子供を産んだのが悪いと思っている。長女は聴覚障害で、次女は不登校で、おそらく別居か離婚状態で、障害者年金と祖母の老齢年金とパート収入と養育費しか収入源が無い。あきらかにキャラクターデザインが人生に疲れている。
たまたま一番最初に問題が表面化したのが、硝子の自殺未遂だっただけだ。
そのことを念頭に置かないと、美化された障害者が脚本上の都合で何の脈絡も無く自殺未遂しているようにしか見えない。
作中で自殺未遂が起こってから、ようやく周りの人間が騒ぎ始める。その前に心配してくれ。気がついてくれ。大事になる前に対策をとってくれ……と思いながら観ていた。そのあとになって、なんかいい感じに人間関係が改善してハッピーエンドになる。でもその展開に対して、素直に感動していいのかわからなくなってしまった。
この作品を観て感動したと言うのは、24時間テレビの障害者ドラマを見て感動する人間と変わりが無いのではないのか? 不幸な人間のいい話を端から見て、インスタントな感動を消費しているだけだ。このストーリーを「いい話」にカテゴライズするのは問題がある。

さんざん批判めいたことを言って恐縮だが、観るべき作品だと思う。漫画版のストレスフルな展開は緩和されてる。うんこ頭野郎だけが作中で数少ない心の癒やしであり、ギャルゲーの親友ポジションなので無条件に心を許してしまう。
「こえのかたち」は必ずしも、耳が聞こえるとかちゃんとした発音で喋れる言葉を意味しない。硝子ちゃんが自殺未遂をするまで、彼女の本心には誰も耳を傾けなかった。障害を持っているけれども前向きな女の子を演じるしか無かった。一人の人間としての硝子ちゃんではなくて、『聴覚障害者の硝子』でしか無かった。
硝子ちゃんが石田に好きだと伝えたのは、聴覚障害者としての私では無くて、一人の女の子として扱われたかったからなのだが、それも上手に伝わらなかった。
自殺未遂を通じて、初めて石田と硝子ちゃんは「自殺するぐらいの苦しみを共有する仲間」になった。石田は硝子ちゃんと家族を傷つけた。だから自分はいじめられて当然だし、この世界に存在していること自体が害悪だと思っている。硝子ちゃんも、障害者として生まれたことで周囲に余計な負担を掛けていて、自分がいなければ問題がすべて解決すると考えている。
物語の終わりで、石田の家で硝子ママが髪を切っているシーンが好きだ。ここでようやく硝子ママは長年抱え込んできた苦しみから解放される。
それでもやっぱり「自殺するはずだった人間が、たまたま生き残った話」ではないのかと思うのです。ノーマライゼーションが行き届いていれば誰も苦しまずに済んだし、周囲の理解があれば自殺未遂にまで追い込まれる必要は無かった。
漫画版の感想にも書いたが、「まんがタイムきらら系列に二人を密入国させれば、誰も不幸にならずに済んだのでは?」というのが個人的な感想だ。物語のカタルシスを得るために、少年少女を劣悪な環境に突っ込む必要は無い。耳の悪い女の子がメインヒロインの苺ましまろみたいな作品であれば、「オタクは障害者を性的に消費している」と難癖を付けられて、炎上するだけで済む。
我々に必要なのは障害者感動ストーリーでは無くて、障害を持った女の子が毎日を楽しく過ごす日常系百合アニメにちがいない。