百田尚樹の非凡さと日本国紀について。


日本国紀とその副読本を読んでいてゲロを吐きそうになっていた。詭弁とレトリックの見本市みたいな構成だ。批判についてはリベラル派の方々がさんざんやっているのでここでは触れない。歴史観や政治思想は自分が信じているものとは正反対なのだが、偏った創作歴史だと切り捨てるのは間違っている。
自分の常識や知性・知識がスタンダードなものだと過信しすぎるのが、リベラル派が陥りやすい陥穽だ。よく大学教授の知識人がリベラル左派的な主張をするけれども、彼らが知っているいちばんあたまの悪い日本人は「大学に入学できる知能があって、その財政負担に耐えられる家庭で生まれ育った学生の下位グループ」だ。サンプルが偏っている。
ABCの次が何なのかわからない高校生を想像したことがないし、日本社会の底辺がどんなものなのか知る術もない。現代日本におけるリベラル左派の退潮は、ごく限られた層だけにしか届かない主張をしていることに無自覚な点だ。
その点、放送作家だった百田尚樹は大衆の平均的なリテラシーを推し測る精度が高い。正しいのか間違っているのかという次元ではなくて、「ターゲット層のリテラシーを理解して、彼らが受け取りやすいようなメッセージを発信する」というマーケティング戦略が、左派よりも洗練されている。

日本国紀に書かれている歴史観はわかりやすい。少し読めば理解しやすいように歴史を過度に単純化していることは明白なのだが、文章に独特の快楽がある。
頭に負荷がかからないレベルに圧縮された歴史観を受け取ることで、クリアな見通しを与えてくれるような錯覚が得られる。一言で言い切れる単純な世界観を提供して、余計なことを考える責務から解放される。偽物だってわかっていても、「日本すごい! 中韓最悪!」といった単純な世界観の放つ誘惑には抗いがたいものがある。
たとえそれが偽物だとしても、国民としてのアイデンティティーや歴史観にクリアな価値観を提供する。その一点でも、百田尚樹はマーケティング戦略のツボを心得ている。日本人の平均的なリテラシーを推し測る観察力と、複雑な歴史を消費者が飲み込みやすいように編集する技術、それを商売として成り立たせるマーケティングの才能は、そこいらの左派では太刀打ちできないぐらいに突出している。
リベラル左派は「正しいことを繰り返し訴えていけば、みんなもわかってくれるだろう。なにせ我々は正しいことを言っているからね」という姿勢に甘えてきた。性能はいいが広報に手を抜いた商品のように、戦後民主主義を扱ってきた。でも百田尚樹は「政治思想は商品であり、マーケティング技術を駆使して広めるもの」だという価値観で政治思想市場シェアを奪おうとする。
リベラルは「人間は理性的な存在で、冷静に話し合えばお互いに納得できる妥協点を見いだせるだろう」という世界観で生きている(と思う)ので、思想を商品のように見なせない。それで恒久的なハンディキャップを抱えることになる。
もし日本国紀を読んで納得できないとしたら、それは自分が商品のターゲット層ではなかっただけの話だ。「べつにおまえなんかに理解してもらわなくても、主要なターゲット層に支持されれば問題ない」と割り切って作られている。
日本国紀を批判する層はアカデミックな正しさの次元で戦っているけれども、百田尚樹はそんな狭い戦場は無視してマーケティングに基づいた戦略で新規ユーザーを獲得している。その落差に気がつかない限り、リベラルの退潮は続くように思った。
書かれている歴史観には納得できないけれども、使われている技術やマーケティング戦略については見るところがあるよ。