・適切な分量の怒りを持つことについて。


自分の抱いている怒りが人間として表明するべき自然な感情だったとしても、それが他人の負の感情と共鳴して、群れになって、別の感情に変質していくのは好ましいことでは無い。
政府の不正を追求する記事を新聞や雑誌で読むのと、何十人、何百人もの人たちが怒っているのをインターネットのコメント欄などで見聞きするのは、情報としての肌触りが違う。
「そんなに怒りを振り回していたら大衆の支持を失うだけだよ」と冷笑したいのでは無い。怒りを抱くことや不正に抗議すること自体は問題が無い。むしろ声を上げなければならない義務がある。
その一方で負の感情が、自分たちに処理できないほどに過剰になる。

街頭のデモであれば怒声は空気に解けて最後には消えるが、ネットでは怒りや負の感情が電子空間に堆積して、消えること無く留まり続ける。負の感情は群れのように寄り集まって、コントロールできないものになる。その過程に危うさを感じる。
タイムラインなどに怒りを表明したツイートが大量に並び、互いに響き合い、意見を異にした他者と不協和音を起こし、それが消えること無く継続する。ネットの言葉は叫ぶよりも長く留まるが、活字媒体よりも寿命が短い。
本来であれば減衰して消えるだけだった怒声が、電子空間の中で長い間持続するようになった。地縛霊のようにその場所に留まり続ける負の感情は、互いに寄り集まって群れになり、自分たちが知っている怒声とは異なったものに変質していく。
たとえ正しい言葉を語っていても、それが適量かどうかは別の問題だ。怒りや正義が供給過多になって、人間が自然に抱けるだけの怒りのキャパシティを大幅に超過している。それに対して「正義感の中毒になっているやつは危ない」と距離を置くのは自然な反応だと思うし、怒りや正義感を抱くこと自体を忌諱(きき)しかねない。
適切な分量の怒りと正義感を抱ければいいのだが、それが困難になりつつある。人間として当たり前の怒りを抱いただけでも、ネットワーク上で他者の感情と共鳴し合って、生身では受け止められない規模の怒りに膨張する。
怒りの感情は供給過多なのだから、わざわざ自分が怒る必要も無い。そう思うのもひとつの適応だが、怒るべき時に怒れなくなる危険がある。
代替案としては感情をあらわす表現の拡張だ。言語以外にも絵文字やスタンプを用いることで、テキストコミュニケーションの無機質さを補完してきた。それと同じ文脈で、感情表現を細分化する必要がある。具体的に言うと、漫画文化が築き上げてきたデフォルメ表現を流用するのが手っ取り早いだろう。
おねえちゃんはとっても怒っているんだからね!ぷんぷん!(頬をぷくーっと膨らませながら)……といった具合に、怒りを表明しつつもより穏やかなものにしていく。
怒るのが駄目だと言っているのではない。負の感情や怒りもネット上ではコンテンツとして扱われ、ねこ動画や美少女イラストと戦わなければならなくなる。
その環境に最適化した、より建設的で、人に害を及ぼしにくい「怒りのようなもの」が我々には必要ではないのか。