もろもろ感想文


・Ingress戦記・となりの不審者さん編

Ingressも身元が明かされない状態で真夜中にポータルを破壊していたころが楽しかった。 バス停近くにある謎オブジェのポータルを破壊しようとしたときに、敵陣営が抵抗し始める。敵は半径数メートルにいるはずだが、みんなスマホをいじっていて特定できない。おれがIngressをやっているときには目視で20メートルを測定できたし、これはエージェントにとって必須スキルだった。ハンター×ハンターのグリードアイランド編でも呪文を使うために距離感覚を覚えるのは地味に重要だ。
おれのプレイしていたエリアではポータルの数が少ないため、独特のゲームバランスが成立していた。とりあえず数分歩けばたくさんのポータルからアイテムを回収できる都会とはまったく違う。まず第一に高ランクエージェントがポータルをシールドで固めるので、低レベルエージェントでは手足が出ない。そのため第一次世界大戦の塹壕戦のような膠着状態が数日にわたり続く。それまでは山奥のポータルにModを刺しながら、地味に経験値を稼ぐ。
週末になると、廃人高ランクエージェントが県外でアイテムを補充し終えて、膠着した状況を打開しにかかる。ここからが肝だ。ポータルが少ないため、敵の行動をある程度予測できる。待ち伏せをして、敵がポータルを破壊して気が緩んでいる隙にすべてを持って行く!……というような戦いができるのが田舎だった。獣の足跡を読んで罠を仕掛ける狩猟みたいだ。

でもGoogle+でユーザー同士のなれ合いが始まったり、イベントでエージェント同士が肩を組んで写真を撮っているような和気藹々とした雰囲気になってから心が離れてしまった。不審者と書いてエージェントと読む。深夜徘徊。* やっぱり夜行性、一番です。それがIngressユーザーだった。午前四時ぐらいに神社にいってアイテムを補給しようとしていたら、真っ暗な境内に人がいる。スマホのバックライトでホラー映画さながらに顔が下から照らされていて、破魔矢の持ち合わせがあったら脳天にブチ刺しているぐらいの恐怖を覚えたのだが、おれもその不審者の一員だった。
ポケモンgoがリリースされ、位置情報ゲームはメジャーなものになった。このへんのポケストップはみんな、おじさんが申請したものじゃよ。
深夜徘徊する不審者の時代は終わった。不審者meets不審者。Ingressアニメ見ていて当時の記憶を思い出した。むしろゆるキャン△みたいなノリで、女子高生が観光名所で美味しいものを食べながらIngressするようなやつのほうがよかったのではないか。


・『民主主義の死に方』を読んだ。

『民主主義の死に方』によれば立憲民主主義の社会を支えているのは憲法でも無ければ法律でも無い。相互的寛容と自制心だ。
競い合う政党がお互いを正当なライバルとして受け容れるという相互的理解。組織的特権を行使するときに政治家は節度を保たなければならないという自制心。この二つの不文律によってアメリカの民主主義社会は機能してきた。本書ではこれを「民主主義のガードレール」と読んでいる。独裁者やポピュリストが国政のハンドルさばきを間違っても、ガードレールの強度が十分なら、脇道に脱線せずに済む。
しかし社会が二極化することでガードレールが弱体化し始めた。異なる立場の人々が互いを敵対視し始めることや、政治家が「合憲・合法的だがあまりにも道義に反したラフプレー」に手を染めることで、民主主義を成り立たせていた二つの不文律が機能不全に陥ってしまった。

この本を読みながらなぜかアイカツのことを思い出していた。アイカツはアイドルをモチーフとした女児向けアーケードゲームおよびにテレビアニメだ。現在ではアイカツフレンズが放送されている。このブログを読むような人間にはわざわざ説明する必要の無い項目だ。
アイカツの世界観にはライバルはいるが敵はいない。
敵に勝つために上履きに画鋲を仕込んだり、権謀術数を巡らせて相手を陥れるような展開は無い。勝つために手段を選ばないという発想が、アイカツの世界には無い。勝つにしろ負けるにしろ、互いの人格を認め合って真っ正面からぶつかる。それがアイカツだった。

「『アイカツ!』って、悪いことを考える人が1人もいない。敵がいないんですよ。邪悪な心に支配されて、悪役に変わるような作品もあるじゃないですか。それも好きなんですが、『アイカツ!』はそれがない。みんないい人なんですよ」

政治的な話題に言及する度に、我々は互いを敵対視する文化に飲み込まれていく。立ち位置が異なる人間が共存しなければならない同胞ではなく、排除するべき敵になる。政治は合議形成のためのプロセスでは無くて、敵対する相手を罵り、中傷し、完膚無きまでに叩き伏せる胸くそ悪いものになる。
その価値観が内面化する度に民主主義の脱線を防ぐガードレールが弱体化していく。民主主義を守ろう! おれの気に入らない糞野郎を叩きのめせ!……という言説それ自体が、守ろうとしているはずの民主主義を衰弱させていく。それでは我々はアイカツの世界から遠ざかるばかりだ。
『アイカツフレンズ』の主人公・友希あいねは、どんな人間とも友達になれる。「目指せ友達百万人!」と、「どーんとこい!」を口癖にしている。無敵というのは、敵対する相手をすべて力で叩きのめすことでは無い。敵を作らないことだ。敵がいなければ戦う必要は無くなり、あらゆる力は意味を失う。
民主主義社会から相互的寛容と自制心が失われている。そう言われても、失ってしまった感情がどのようなものなのかを我々は思い出せない。それが残っているのはアイカツかけものフレンズだけだ。人間とけものもフレンズになれる時代だが、人間は人間を生きたまま丸呑みにする。
我々が今問わなければならないのは、「どうやって民主主義を守るか?」ではない。「相互的寛容を自制心をどうすれば取り戻せるのか?」だ。言い換えれば「どうして我々はアイカツの登場人物のようにまっすぐ生きられないのだろう?」ということでもある。その問題の糸口を探るために、アイカツシリーズを観るのがもっとも手っ取り早い解決手段だ。
しかし問題はアイカツの量である。アイカツシリーズは一年分のシリーズを追うだけでも、25分×約50話=20.8時間かかる。無印アイカツシリーズ、アイカツスターズ、アイカツフレンズを一気に視聴すれば、一週間あればなんとか追いつける計算だが、これはおすすめしない。一週間に一度アイカツを見るというリズムに身を浸し、生活とアイカツが一つになる経験が我々には必要だからだ。
それに比べれば『民主主義の死に方』は300ページぐらいしか無いのですぐに読める。「全世界独裁者カタログ」、「アメリカのネトウヨ・クソサヨク列伝」「ドナルド・トランプ観察日記」みたいな内容だ。

※追記

それはそうとアイカツ!の再放送が始まるのでまだ観ていない人類は要チェックだ。魂の救済は金では買えない。しかし一週間に30分のアイカツ!鑑賞は、いつかおまえを導く光になる。


・異常なものと戦うときに、自らの異常さが露呈する。

「A3」というオウム真理教のノンフィクション小説がある。これはオウム真理教という異質な集団と対峙する過程で、日本社会の歪みが浮き彫りになっていくという内容だ。オウム真理教について取材をしていたはずなのに、「オウム真理教に対して、異常な組織だというレッテルをはりつけて排除しようとする日本社会」の異様さに問題意識の焦点が移っていく。
レイプ犯が不起訴になったり、政治的な発言をした芸能人が激しいバッシングに遭ったり、権利を行使した労働者を同じ立場の同僚が「会社に謝れ」とたしなめたり、公共の電波でヘイト発言が垂れ流されたり、外国人労働者が奴隷同然として扱われる。枚挙にいとまの無い事例にいちいち反応するのが疲れてしまった。
暴力的な組織が権力を振りかざして、思想と言論を抑圧するのならまだ納得がいく。だがそれとは違って、同じ立場の人間から「目をつけられるから黙っていろ」と口を塞がれる。その空気が気持ち悪くて、日本人にも日本社会にも関わりたくねえなと思っていた。


解剖 加計学園問題――〈政〉の変質を問う | 朝日新聞加計学園問題取材班 |本 | 通販 | Amazon

『 解剖 加計学園問題――〈政〉の変質を問う』をざっくり気味に読んだ。
ただの「モリカケ」や忖度の問題ではなくて、内部告発制度や公文書管理、特区制度、国会の形骸化、マスメディアの反応などの病理が浮かび上がる事件だった。起きた出来事を俯瞰して見るのでは無くて、「モリカケ」という言葉で矮小化・風化してしまう。本としてまとめられていなかったら、自分も終わった出来事として忘れ去ってしまっていた。
野党はモリカケ問題に有権者がお灸を据えるのか否かを選挙の争点にしていたけれども、汚職や忖度だけの問題ではない。汚職としてのわかりやすい側面と、多岐にわたる日本社会の構造的な問題が絡み合っているので、本質がわかりにくくなっている。


・となりの吸血鬼さん追憶編

となりの吸血鬼さんは灯が死んだあとのソフィーが、昔の出来事を思い出しているという設定で見ると悲しい。夏の夜空に花火が打ち上げられる度に、ソフィーは灯のことを思い出す。「花火なんてすぐに消えるからコスパが悪い」と言ったソフィーに、灯は「そんなことないよ。一瞬で消えてもずっと思い出に残るから」と返した。
永遠娘を読み込んで、ロリババアものには不可避の別れについて思いを巡らす。徐々にかみ合わなくなっていく時間。その度に自分が人間の世界には相容れないと思い知らされる。永遠娘文脈でとなりの吸血鬼さんを見ると、日常アニメに擬態した悲しい話になる。
吸血鬼として生きるのは辛い。生きていく時間を重ねる度に、自分が人間だった頃の記憶を忘れていく。体温は冷たい。人間の血を求めるのは、少しでも人間だった頃の暖かさに触れたいからだ。血を吸う度に、人に触れる度に、人間だった頃の懐かしさが戻ってくる。もう人間としては生きられないから、人間との対等な関係など望めるはずもないから、血を吸う以外に方法がない。
でもそれ以外のやり方で、灯はソフィーに人間らしいものを与える。吸血鬼にならなかったら得られたはずの、当たり前の日常。当たり前の幸せ。当たり前の人間の温かさ。そういうものが少しずつソフィ-・トワイライトに染み渡っていく。

・となりの吸血鬼さん最終話を観て泣いていた。
60年後。老婆になった灯に、最後の別れを告げるソフィー。EDソングの「HAPPYストレンジフレンズ」がオルゴールアレンジで流れ始める。その「君だけ少しテンポがずれても」のところで涙腺が決壊する。死ぬ直前までソフィーの心配をする灯。自分の命が残りわずかなことよりも、これから一人で生きていかなければならないソフィーを心配する。
ソフィーは灯といるときだけは吸血鬼では無くて、年相応の女の子に戻れる。吸血鬼になって奪われてしまった人生も青春も、灯が与えてくれた。それだけで嬉しいと思うけれども、やっぱりテンポがずれていって、自分だけが年を取らずにいる。
灯りが死んだあと、日光を浴びて灰になりたいと思うソフィーだが、灯との思い出まで消してしまいたくない。あの頃の思い出を抱えながら生きる。
そういう光景や、となりの吸血鬼さん4800回目(四百クール目・百周年)を幻視してしまう体質だった。


・クッキークリッカー攻略スレ

クッキークリッカーは数字への執着を高濃度で形にしたゲームで、数字の増減に一喜一憂し始めると死ぬようにゲームデザインされている。数が増えていくことが気持ちよくて、増やすことだけが唯一の目的になる。他のゲームならば飽きるポイントがあるのだが、クッキークリッカーは次から次へと拡張する要素が増えていくので、いつまでも数字の増減に囚われることになる。秒速で一京枚ものクッキーを焼けるようになっても、魂は満たされない。
もしクッキークリッカーに飽きても、私たちはクッキークリッカーの代わりにレアカード、金、アクセス数、ページビュー、フォロワー、いいね、娑婆現世での影響力を増やすクッキークリッカーの亜種に巻き込まれる。
すくなくとも自分はゲーム脳で、モンスターを倒してレベルを上げたくなるし、クッキークリッカーでは何億、何京ものクッキーを焼く。獲物や木の実、稲の収穫量の増減は人間にとって死活問題なので、数字を増やしたい本能が遺伝子に組み込まれている。それはディスプレイに映し出された実体の無い数も例外ではなく、SNS上に表示された数字を増やしたくなる衝動に駆られる。
ネット上でたのしい人間関係を築くことよりも、数字を増やすことに拘泥してしまうし、現在のインターネットやSNSには数以外に客観的な評価ができないから、どうしても数字に依存せざるを得ない。
最初はただクッキーが増えていくのが楽しかっただけなのに、数を増やす妄執に囚われて、自分が本当に何をしたかったのかという初期衝動を失う。その執着を手放して、無心でクッキーを焼けるようになったときがクッキークリッカーのラスボスを倒すということだ。


・スカイリム市町村論。

Skyrimはタムリエル大陸の一地方であるというよりかは、岩手県スカイリム市だと考えた方が体感尺度にぴったりとくる。そう考えると迫り来るドラゴンの脅威も、市町村に熊が出没した的なイベントなのかもしれない。岩手県は熊が多いので、市の防災無線で出没情報が流される。スカイリム地方にも熊や狼が出たり、岩手でも空き屋に浮浪者が住み着いたりするので、スカイリム=岩手説も間違いでは無いだろう。
壮大な世界観と広いマップを駆け巡るという触れ込みにどきどきしていたのだが、歩いて行ける距離に施設があるために町を歩いている感覚になる。隣町へ交易に行くために何日も歩いたり、途中の宿場町で休憩しながら目的地を目指さなければならないというスケールを想定していたせいもあり、だいたい徒歩圏内なので「同じ市町村の少しアクセスの悪い場所に歩いて行く程度の面倒くささ」でゲームを進めていくことになる。それ故に、「もしかしてこれはスカイリム市だと思った方がいいのではないのか?」という、世界観の壮大さを根底から台無しにするようなことを思っていた。
スカイリムでは大陸で最も標高の高い「世界のノド(Throat of the World)」という山があるのだが、気分的には岩手県三陸地方でもっとも標高の高い山である五葉山みたいなものだ。
エベレストぐらいにきつい場所なのにプレイヤーは軽装のまま、ハイキング気分で登頂してしまう。リアリティを追求するほど、どこかで設定と皮膚感覚に齟齬が生まれる。これをリアリティ不気味の谷と呼ぶ。
ゲームもリアリティを追求するほど、想像で補完する余地が減っていって不自然な部分が目立つようになる。ドットゲームの場合は、隣町までは歩いて数分でも現実だと一日以上は歩きっぱなしの距離なのだろうと考えて、自分の脳内で設定や世界観を補完できるのだが、スカイリムではそれが難しい。
リアリティのある描写と、ハードスペックや開発規模の制約、縮尺で表現された世界の間に齟齬が発生し、広大な世界のはずなのに狭く感じる、という奇妙な感覚が生まれる。
しかしスカイリム市町村理論を適用すればすべてが解決する。これはどきどきポヤッチオやルーンファクトリー、ぼくのなつやすみと同系統のゲームだ。そう思い込みながら蝶々さんを捕まえたり、道に咲く野花を摘み集めたり、その辺の山賊を炎による追加ダメージ付きの斧で火だるまにしていた。


・シムシティ2000、あの日夢見たディストピア

昔、シムシティ2000をやっていたときの自分はすてきな市長で、市民が幸せになれる町を作るために尽力していた。だが市民は「消防署を作れ!」と要望を出して、その通りにすれば次は「警察署を作れ!」と言い始める。要求が受け入れられて当たり前だと思っているらしく、感謝の返事も何も無い。財政が枯渇して市民の要求に応えるのが難しくなると、新聞で激しいバッシングが始まる。 最初は人のために頑張っているつもりだったのに、こいつらはろくに税金も払わないのに声ばかり大きくてやっていられねぇ!そう思ったおれは、暗黒市長になった。闇落ちである。税金を極限まで上げ、逃げられないように町の周囲を工事でかさ上げして壁を作り、公共施設はすべて破壊し、老朽化した原子力発電所を爆発させて放射能まみれにする。その上で災害を発生させて、何もしない。犯罪率と失業率がうなぎ登りになり、夢も希望も無いディストピアを作り上げようとした。
ゲーム・デザイナーのウィル・ライトも、独裁政権を運営するゲームを発表しないものかと待ち望んでいるのだが、その気配は無い。反対勢力を金の力で潰したり、マスメディアを買収して腐敗政治を報道させないようにしたり、歪んだ歴史教育を行う学校を設立してこどもをマインドコントロールをしたり、革命勢力の中に密偵を送り込んで一網打尽にするなどのコマンドを駆使して独裁政権を運営するのがゲームの目的だが、そういうのは現実でもうおなかいっぱいだな……という気持ちにもなる。