・『自由からの逃走』とソーシャル家畜化。


AndroidのGoogle Play StoreやApple Storeを眺めていたのだが、「自分が欲しいものでは無くて、誰が買わせたいと思っている商品が多い」といつも思っている。新しくて、売れ筋で、人気があるコンテンツがトップページに表示されていて、話題の作品を適当につまんでいるだけでもそこそこ時間を潰せる。その一方で消費行動が受動的になっているように思えて、あまりいい気がしない。
インターネットが全体的に「誰かが決めたルール通りに遊ぶことしかできないおもちゃ」になっている。AndroidやiOSはオペレーションシステムであると同時に、企業のエコシステムにユーザーを囲い込むためのもので、消費行動を促す導線が巧みに仕掛けられている。

自由に遊べるなにもない野原ではなくて、消費者の行動があらかじめ決められているテーマパークに近い。「このアトラクションで遊んで、お食事はここで済ませて、お土産はここで買ってくださいね」といった導線があらかじめ設計されいる。
安全だが自由の無いインターネットになってしまって、ユーザーは受動的になるように条件付けされる。
「ユーザーはぼんやりと画面をスクロールして、個人情報を渡して、広告を見ていればいいよ。それに飽きたら課金するなり、Google PlayストアやAppleストアで売れ筋のコンテンツを買って時間を潰してね。サブスクリプションもあるし、自分でコンテンツを探す努力をしなくても、レコメンドが消費するべき作品を教えてくれるよ。あなた以外の人が高評価をしているから大丈夫だよ。
GAFAの生み出す新しいインターネットの秩序に身を委ねよう。個人情報だけでは無くて、自由意志もすべてスマートフォンに明け渡そう。それがあなたの幸福だよ。もう何も考えなくても、反射的にタップしているだけであなたは気持ちよくなれるよ。
自分の頭で何も考えなくてもいいよ。SNSで回ってきた言葉をシェアすれば、それはあなたの言葉になる。ただ私が与える快楽に身を委ねて、頭をぼーっと真っ白にして、快楽に溺れるだけでいいの。あなたの貧弱な感性よりも集合知を信じよう。SNSの評価ボタンを押されるのは気持ちいいよね? それがあなたの悦びになる」……という風に私たちはGAFAやその他諸々のIT企業によって、パブロフの犬のように条件付けされる。
それはGAFAだけではなくて、TwitterやLineでも同じだ。「受動的に画面をスクロールしてください。ソシャゲーのボタンをタッチしてその合間に広告を見るか、ガチャに課金してください。それに飽きたらLineのマンガや無料コンテンツで時間を潰して、一企業のエコシステムに取り込まれてください。依存してください」……といった誘惑に常に晒されていて、気がついたら逃れられなくなっている。
現代の畜産業においては家畜に権利は無い。チキンには肥満を促すホルモンが投与され、太った身体の重みで足の骨が折れる。豚はストレスフルな狭いケージの中で死ぬまで飼われ、牛は肉骨粉の混じった餌を食べて狂牛病になる。インターネットユーザーもまたスマートフォンの檻に閉じ込められ、企業収益のための養分になる。
行動心理学の専門知識を持った人間が脳の報酬系をハックして、より依存しやすいようなアプリやサービスを作る。
「スマートフォンの通知の音が鳴ると、あなたはこれから訪れるだろう快楽を思い出して我慢ができなくなる。スマホに触ったら気持ちよくなれるよ。快楽がいっぱい待ってるよ。我慢しなくていいんだよ。理性なんて捨てちゃって、スマホを触っちゃおっか?」といった誘惑に絶えず晒されている。なんで同人催眠音声の暗示パートみたいな文章になっているんだ。
でももしかしたら、催眠音声に身を委ねるようにして、自由意志をテクノロジーに明け渡すのは気持ちの良いことなのかも知れない。そのうち「ご主人(Google)さまに自由を管理されるのが、マゾ犬にとって最高の悦びですワン!」とか言いかねない。ほんらいであれば、ここでエーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』と1930年代のナチズムの隆盛に触れるべきだと思うのだが、それは自分の経験から導き出された言葉ではない。
すべての人間には「ご主人さまに従いたいワン!」という本能がある。私は学術的な知識としてでは無くて、マゾ向け同人音声を聞くことで『自由からの逃走』で触れられていた概念を皮膚感覚で理解した。ご主人さまが喜んでいる姿を見るのが、私の何よりもの幸せになるんだワン……。
しかし、それが本当に我々にとっての幸福だろうか。
マゾ向けまんがにはよく、犬として首輪を付けている男性が出てきて、陰嚢を蹴られたりアナルに色々突っ込まれる。暴力的な内容の作品が多いが、個人的には疑義をはさまざるを得ない。
人間を犬扱いするのは構わないのだが、実際のペットにはこんな酷いことはしない。明らかにペット虐待だ。おれがなりたいのは犬であって、サンドバッグでは無い。
可愛い飼い犬をエアガンで撃って楽しむような愛犬家はいない。マゾ犬を痛めつけて喜ぶのはおれにとってふさわしい飼い主ではない。国家や共同体を破滅に導くような指導者は、どれだけカリスマ性があっても俺たちが従属するべきご主人さまではない。
我々の本質は権威主義に服従するマゾ犬かも知れないが、仕える主人を選ぶことができる。少しでも自分を優しくしてくれるご主人さまを選ぶ。それが権威主義的になりつつある社会や、公共心を欠落したテクノロジーが支配力を強める時代に抵抗するたったひとつの方法だ。