・素朴な正義感とヘイトの境界線。


正しそうなことをそのまま喋るのはあまり好きでは無い。正しさが言動を正当化する免罪符になって、それを理由にして自己の行いを顧みなくなってしまう。
誰しもが素朴な正義感に振り回されているように見える。おれはクソサヨクなのだが、安倍政権の不正を許せないという感情がある。それは素朴な正義と民主主義、人権などを材料にして正当化を行っているように感じられる。
自分の感情を正当化するために、都合のいい思想や価値観を持ち出して自己欺瞞に陥っていないのかと思い悩むときがある。悪い相対主義にはまり込んでいるのかも知れない。
民主主義や人権、憲法といった言葉を振り回していると、自分が正しい側にいると錯覚してしまう。これらの価値観を否定しているのでは無い。疑いようのない正しさを手に入れたときに、「私は正しい側にいるのだから、手段を選ばなくてもいい」と考えるようになるのが怖い。
現在(二〇一九年)の外国人ヘイトは、根拠の無い偏見と無知に支えられている。これはまだヘイトスピーチとしては穏健な方だと個人的には思っている。偏見が根底にある差別に比べて、明確な理由が与えられる差別は簡単に自らの言動を正当化できる。
ユダヤ人の差別問題でおぞましいのは、「優生学の観点からいって彼らは劣った人種であり、差別されるのは仕方が無い」という科学的な根拠が与えられた点だ。現在ではそれをエセ科学だと一蹴できるけれども、歴史的、宗教的、科学的、政治的な根拠に支えられた差別意識というものを僕たちはまだ経験したことが無い。

ゴキブリや害虫に向けるのと同じ眼差しを人間に向けて、なおかつそれが正義であり神の意志だと信じられるような差別体験をしたことがない。ヘイトは必ずしも反社会的なものではなくて、素朴な正義感を刺激するものとして現れる。そして周りの人間がヘイト発言をするから、自分も同じような言動をしていいんだという空気が瀰漫して、徐々に行動のたがが外れていく。
十五年ぐらい前ならネトウヨがいても少数派だった。匿名掲示板の隅っこで反韓的な書き込みをしている人がいても、「また変なやつが騒いでいるけど、荒らしはスルーで」ぐらいの扱いだった。
どうせすぐにおとなしくなるだろうと軽く見ていたのだが、徐々に勢力範囲が拡大していった。最初はまとめサイトがヘイト発言に染まって、それがSNSに浸透して、最後には現実社会を侵食しはじめるというホラー映画みたいな展開になっている。
問題はそれが素朴な正義感に支えられている点だ。
反韓感情を抱く人々の多くは、「日本人のために使われるべき税金が、別の怠惰な人間のために使われている」と思っている。おにぎりを食べたいと書き置きを残して餓死した日本人に寄せる同情は偽物ではない。悪意よりも、日本を良くしたいという善意が強い。
傷つかない場所に隠れてヘイト発言をするのではない。素朴な善意と正義感、異質なものを遠ざけて安心したいという、当たり前の防衛反応から口にした言葉が、ヘイトスピーチになってしまう。そういう種類の人が増えた印象を受ける。
正義とヘイトのあいだにある境界線が徐々に曖昧になっていて、その二つが区別できなくなる。いまでこそそれをヘイトスピーチと呼べるけれども、10年後にはどうなっているのかわからない。
憎悪(ヘイト)という表現を使っているけれども、正確な表現では無いように感じる。ボタンを掛け違えた正義感と、異質なものに対する恐怖や不安、相手を人間ではないものに見なす偏見のアマルガムみたいな感情だ。
おそらくそれは「ヘイトスピーチをやめよう」という言葉では止められない。ヘイトを肯定するわけではないが、限りある資源を分配するために国籍や人種などで序列をつけて処遇に差をつける行為を、そこまで一方的に責められるのかわからなくなってしまった。
海に放り出されて、一人しかしがみつけない板に何人もの人間が群がってくる。仲良く板を分け合えば全員が溺れ死ぬ。この社会でその板は、雇用や社会保障と呼ばれている。