・ディスコミュニケーションの話法について。


僕たちの社会にはディスコミュニケーションの話法が蔓延している。互いを理解するために言葉を使うのでは無くて、「いいからお前は黙っていろ」と圧迫したり、言葉への信頼を損なわせるような言葉が使われている。それがディスコミュニケーションの話法だ。
ある言葉を聞いたときに、「こいつには何を言っても無駄だ」と思ったり、批判される恐怖を思い描いて喋りたいことが口にできなくなる。あるいは生命力を削がれていくような負の言葉を投げかけられる。対話への意欲が損なわれていくような種類の言葉を、僕たちは日常的に浴びている。
コミュニケーションへの意欲を減退させるために用いられるものはすべて、ディスコミュニケーションの話法に分類される。
デマや誹謗中傷、クソリプや人格攻撃のたぐいは、コミュニケーションへの信頼性を破壊することを目的としている。こいつらとは話しても無駄だ。言説には耳を掛け向ける価値は無い。相手にしても疲労するだけだ。得られるものは何もない。非生産的で、何の意味も無い。そう思う度に コミュニケーションのチャネルが閉ざされていって、言葉が使い物にならなくなっていく。

社会に流通している言葉が、対話のためではなくて敵対する人間の黙らせるために先鋭化している。
どのような信仰、政治的立ち位置、思想信条でも、自分の言いたいことだけをぶつけ合って、対立する人間の口を塞いで反対意見を封じ込めるだけのゲームに巻き込まれている。耳を塞いで、自分の主張だけをぶつけて、汚い手段を使ってでも相手を黙らせる。
その価値観に浸っていると、相手の言葉に耳を傾けることや、異質な価値観を理解して納得することは敗北にカウントされる。
目先の論争に勝つためには、対話の土台を破壊するのが効率的だ。相互理解するためのプロセスを積み上げるのではなくて、対話の土台を破壊して、意図的にディスコミュニケーション状態を作り出す。そうして相手をうんざりさせて「こいつには言葉が通じない。金輪際、関わり合いになりたくない」と思わせられれば、目先の論争には勝利できる。
たったそれだけの勝利のために、対話の土台は破壊されて、言葉への信頼性が失われるのは好ましい取引では無い。ディスコミュニケーションの話法が蔓延している場所では、否定的な言葉や、重箱の隅をつついて揚げ足をとるような言説、人を傷つける罵倒の危険にさらされる。
言葉は怯えた小動物のようなもので、身の危険を感じる場所で本心を隠さざるを得ない。本心をたどたどしく口にするのは、自分のいちばん脆い部分をさらけ出すことと同じで、言葉を発する場所に対する信頼が無いといけない。
思想や価値観が異なっているのは問題では無い。互いに理解できない価値観を抱えたまま、対話不能に陥っているほうが深刻だ。
「自民党を支持しているやつは政治に無関心なアホ」だとか、「野党に投票しているやつは反日勢力に洗脳されたカス」みたいな物言いで、敵対する相手を煽って、分断が深くなる。
そうなると「どうせこの人たちは自分の思い込みで現実を歪めているだけだから、私の言葉をまともに受け取らない」と思って、まともに取り合うのが馬鹿らしくなる。
対話への意欲と希望が根こそぎ奪われたときにディスコミュニケーションの話法は完成して、言葉が無意味なものに変わり果てる。