政治とアニメ感想文


政治とアニメをテーマにして書いた文章たち


『 がくえんゆーとぴあ まなびストレート! 』

まず政治アニメを語るにあたってまなびストレートについて言及しておきたい。
「体制を変革しようとする行為が政治活動では無くて、自分の半径数メートルの生活圏を少しずつ変えていくのが、地に足がついたデモクラティック(=民衆が力を持った)な政治ではないのかと思う」という発言は昨今の政治事情への言及ではなくて、がくえんゆーとぴあ まなびストレートの感想だ。私が何かしらまっとうなことを言っているときには、エロゲかアニメから影響を受けたことを、社会性フィルターで加工して喋っているときのほうが多い。
このアニメはリベラル左派や左翼政治活動家、自民党政治をぶちこわすことだけが生き甲斐になってしまった人々に是非とも観て欲しい作品で、「半径数メートルを変えること」の意味を私たちに教えてくれる。キャラクターデザインがロリっぽくて辛いかも知れないが、その辺は耐えよう。
まなびストレートは疎外された人間たちが、自分がいられる場所を立ち上げる物語だ。社会を変えるために政治活動をするのでは無くて、自分たちが能動的に生きられる半径数メートルの狭い世界を、自らの手で作り上げていくことに主眼が置かれる。デモクラシーという言葉は日本に輸入されると同時にその意味を失ってしまったのだが、「私たちは、半径数メートルの世界を変えていくことができる」という自己効力感こそがデモクラティックな社会を作り出すための核になる。言い換えれば、デモクラシーとDIYは同義語であり、犬小屋を自分で作ったり壁を補修するのと同じノリで法律を作ったり、場合によっては国家を設立してしまう。まなびストレートには日本人の知らない民主主義のあり方である「主体性を持って、半径数メートルの世界を立ち上げていく」という根源的な政治のあり方が描かれている。
登場人物たちはみな象徴的なアウトサイダーで、主人公のまなびは転校生でひとつの場所に定住できない。みかんはひとりっきりの生徒会で、むっちーはどこの部活にも所属しない助っ人、めーちゃんは人との間に距離を作っていて、ビデオカメラを持ったももはいつも自分が撮る映像のフレーム外にいる。
彼女たちのいずれもが「世界から疎外されている私とその他大勢」という1対4の構図の中で生きているのだが、新しい生徒会を作るという目的を媒介にして、自分たちのいられる場所を作ろうとする。
当初はわくわくできらきらな毎日を実現するゆーとぴあみたいな場所を作るために頑張っていたまなびだったが、8~9話になるとダークサイドに落ち込んでしまう。学園祭の中止を撤回させるために体制側と戦うことを選んだことで、これまでに彼女が語っていた「わくわくできらきらなビジョン」は闘争の言葉に変質してしまった。始めはまっすぐなビジョンを周囲に伝染させていたのに、闘争のタームでものごとを動かそうとしたときにまなびは人を感化させる神通力を失ってしまった。
わくわくできらきらな共同体を作るのではなくて、拳を握りしめて自分の正しさを主張する。何かを作り出すのではなくて、誰かを否定するためにエネルギーを傾けたときにすべての政治活動は創造ではなく破壊になる。人権が尊重される社会を作ろうとしていたのに、いつの間にか「アベ政治を許さない」という言葉を抱えて怒りを振りまく。以前の延長線上だったはずなのに、始まりとは遠い場所に流されている。わくわくでもきらきらでもなくなり、顔からは笑顔が失われ、いらだっている。いつかどこかでみた光景だ。
闘争のタームに囚われて身動きができなくなっていたみんなに、元の姿を思い出させたのももちゃんだった。変わってしまったことに気づけるのは、部外者であり、フレームの外側にいたももちゃんにしかできない役割だった。距離を取っていたから、まなびたちが悪い方向に変化していたのがわかる。この点を踏まえていると、最終話でももちゃんが集合写真に映っているのがより感動的に感じられるようになる。
そこから自分たちの本質を取り戻したまなびたちは、ユーモアと、わくわくできらきらを駆使した戦い方にシフトした。この作品は「OPで校舎にスプレーで落書きをするのが子供たちに悪影響だ」という難癖を付けられて、スプレーが消える演出に差し替えられたという経緯があるのだが、こいつらのやることはいつだって突拍子がなくて、BPOに怒られるようなことだ。
まなびたちは学園祭を自分たちの手で開催することができるようになるのだが、これは基本的にやっていることが二話の「新しい生徒会室をつくる」ことと同じだ。自分たちで決めて、自分たちの能力を活かして、自分たちの責任でやる。すっげえ疲れるし面倒くさいけど、誰かに言われて受動的にやったことではない。そこに自分自身が何らかの形で関わったという痕跡を残せる。あらかじめ用意された世界を受け容れるのではなくて、自分たちの手を世界に突っ込んで変えていく。まなびたちはこの世界をハックしたのだ。
お客様として受動的に楽しむのとは異なり、自分で準備して後片付けもしなくちゃいけないけれども、他の人と分担して、大きないすを運んだ後に「おつかれー、おかしあるよー」って言われて、ああ、こんなめんどうくさいこともまんざらではないな、という達成感を抱いたりする。それで誰かが焼きそばを焼く鉄板をどこからか見つけてきて、「じゃー私が買い出しにいくよー、いっしょにいこー!」とか「調理部で作ったお菓子を持って行こう!」とか、まなびでも操作不能な形で自律的にわくわくときらきらが広がっていく。私はここにデモクラティックな共同体の原型を見た。ふだん私たちが触れている政治的なものは、怒りを振りまいたり、定型的な言葉で喋ったりするような闘争のための政治でしかないが、それはあくまでも半面に過ぎない。どちらかというと政治的なものは鉄腕ダッシュに近い。
最後に「まっすぐゴー」という言葉で文章を閉じようと思うのだが、二話でまなびが軽トラックの荷台で「まっすぐゴー」をやろうとして体勢を崩して、みんなに支えられるシーンがあるのだが、この作品を象徴しているようで好きだ。


『結城友奈は勇者である』

女の子がデスゲームや過酷か環境に放り込まれて、死んだり不具になったりするのを見て涙を流して気持ちよくなるタイプの、言葉にしてみるとものすごい悪趣味な作品たちを特攻魔法少女アニメ群と分類する。女の子たちが人身御供そのものの扱いを受けて悲惨な死に方をする。
『結城友奈は勇者である』は一見するとよくありがちな魔法少女アニメに思えるのだが、個人的には魔法少女アニメの皮を被ったはだしのゲンだと思っている。「戦場から芋虫みたいな身体になって帰ってきて、ただ息をしているだけの人間を近所の奴らは無責任に軍神だと言って褒め称えている」というコマが、『結城友奈は勇者である』のだいたいのあらすじである。
少女たちは日常を人質に取られて戦わざるを得なくて、大切なものを守るために敵に神風特攻魔法攻撃を仕掛ける度に障害者になっていく。その中で愛国ネトウヨ魔法少女が、友達が一人また一人と戦闘で障害者になっていくのに絶望して「こんなクソ社会ぶっ壊してやる!」とブチ切れるあたりが最高にエモい。
関係あるのかどうかわからないけど、以前に靖国神社の遊就館にいったときに特攻で戦死した青少年たちの遺影がびっしりと展示されているのを見て、「死者の魂が冒涜されている」と思ったのね。生きているときには無謀な作戦に命を捧げさせられて、死んだあとも保守派のイデオロギーを支えるために使役されている。死者の魂を安らかに眠らせることなく、「彼らは戦後の日本を築くために戦った誇り高い英霊だ」という物語のために利用し続ける。特攻が間違っていたとか、太平洋戦争をするべきではなかったという話ではなくて、本来であれば鎮められるはずの霊を縛り付けているのが気持ち悪かった。
ロジカルな話ではないが、呪術師が死者の身体を操り続けるのと同じように、死んだ人間の魂を別の目的のために不当に利用している臭いがあった。死者の口を塞いで、操り人形にして、自分たちのイデオロギーに都合のいいことを喋らせる。思想ではなくて、死者の弔い方に相容れないものを感じたということがあった。
『結城友奈は勇者である』シリーズの視聴後に感じるやましさは遊就館から出てきたあとの気持ちに似ていた。世界という抽象的なものは守れるのだが、自分の半径数メートルにいる大切な友達は守れない。その葛藤によって少女たちの身体と精神は二重に傷つけられる。
少女が不幸になるのを眺めて気持ちよくなるタイプのエンターテイメントの暗部に自覚的になって、人身御供を要求する社会を舞台にする点ではまどかマギカよりも好印象だ。キュウべぇにとっては魔法少女は乾電池といっしょだけど、『結城友奈は勇者である』の世界はちゃんと少女が生け贄になっている。


・艦隊これくしょんと鎮魂。

『艦隊これくしょん』を初めて見たときに、これは鎮魂の物語だと思った。死んだ祖霊が祟りになって害を為そうしている。艦娘が巫女やシスターの姿をしているのは、未だに鎮めらずにいる魂を安らかに眠らせるためだ。 戦没者の鎮魂というテーマが、DMMの18禁ブラウザゲームとして現れたのである。
敵対する深海棲艦(しんかいせいかん)は、ゴジラに匹敵するほどの象徴性のある優れたコンセプトデザインだと思う。ゴジラと核兵器、深海棲艦と死者の霊。設定が固まっていないから多様な解釈ができる。少なくとも自分は、艦隊これくしょんを鎮魂の話だと受け取った。
故郷に帰りたくて侵攻してくるのか、自分を殺した敵が憎くて仕方が無いのか、まだ自分たちが生きていると思って戦い続けているのかわからないのだが、深海棲艦は、第二次世界大戦で適切に葬られなかった死者であることには変わりがない。
戦後70年の歳月が経っても日本人は第二次世界大戦を総括し切れなかったために、18禁ブラウザゲームの敵として現世に復活したと考えるのが適切だろう。
サービスが開始した数ヶ月後ぐらいの話だが、北上と大井に魚雷を搭載し、その辺で拾ってきた駆逐艦を弾除けにして運良くボスに魚雷が当たってゲージを削れれば勝ちという非人道的な作戦を実施していたときがある。修復ドッグには空きがないし、資源もろくに無い。それよりかは海に沈んで貰えればいいし、代わりの艦隊はいくらでも手に入るという効率的な邪道戦法だったが、敵の雑魚がボスをかばうようになって効率が著しく低下した。そのときに怪物だと思っていた敵にも、味方をかばうような人間らしさの断片が残っているように思えた。こっちは作戦のために艦娘を海の藻屑にしているが、相手には仲間を思いやる気持ちが残っている。どちらが怪物なのかわからなくなったというプレイの記憶がある。
艦隊これくしょんも18禁ブラウザゲームであるがゆえに明確なエンディングを与えられることなく、いつまでも戦い続け、沈められ続けており、鎮魂にはほど遠いのが現状である。
劇場版では死者の鎮魂というテーマに一歩踏み込んだ感じがあって好感触だったのだが、いつの間にか第二次世界大戦をサブカルチャーとして消費したり、大日本帝国的なものへの親近感を生み出す装置になってしまった。アズールレーンに至っては死者の痕跡が消し去られて、よりマイルドに「かっこいい兵器と可愛いキャラの融合」を楽しめるようになっている。ガルパンも戦争から死が脱臭されて戦車道というスポーツになった。第二次世界大戦が三国志や戦国時代と同じ遠い昔の出来事になり、兵器がガンダムやロボットと変わらないおもちゃになる。死者を弔うのではなくて、死の影を消し去ることによってクリーンな第二次世界大戦のイメージを共犯的にでっち上げた。
「風立ちぬ」の受け売りだけど、人を殺すために作り出されたものに美しさを感じてしまう倫理的葛藤から目を背けたときに、私たちは大きな代償を払わざるを得なくなるのではないか。
そもそもなんで海上自衛隊の艦に大日本帝国と同じ名前がついているのかわからない。同じ響きの名前を与えることで、物質に込められている魂のようなものがインポートされる感覚がある。全く別の二つの艦は「かが」と「加賀」という二つの名前を共有することで大日本帝国的なものに接続してしまう。護衛艦も「かじき」とか「まぐろ」みたいな名称にした方がいいと思っている。同じ名前を持たせることによる呪術性を私たちはないがしろにするべきではない。
艦隊これくしょんのサービスが終わる前には、突如として現れた核爆弾みたいな敵を、ユーザー全員でログインしてライフを削り切ることでエンディングを迎えるような展開になると嬉しい。途中で絶体絶命になるのだけど、これまで敵対していたヲ級とかが味方としてドロップするようになって、生者と死者がともに手を取り合って破滅に立ち向かう熱い展開でサービスを終えて欲しい。


・世話焼き狐の仙狐さん

ブラック企業に疲れた人間は電車に飛び込んで異世界に転生するか、世話焼き狐の仙狐さんがおうちにやってきて好きなだけ甘やかしてくれる。誰も労働環境を変えようとは思わない。
仙狐さんはのじゃロリ狐っ娘で、ブラック企業で疲れた成人男性の家にやってきて、「好きなだけ甘えていいのじゃ~」と優しくしてくれるのだが、それを観て「おれは安易なのじゃロリババアになど屈しない! 仙狐さんはブラック企業の存在を許容する資本主義の補完勢力だ! 粉砕せよ!」と言い始めるようなクソ左翼だった。「会社に行きたくない?数々の違法行為を密告して業務停止に追い込んで、しばらくは失業給付が受けられるようにしておいたのじゃ!これまで働いてきた分、ゆっくりと休むのじゃ!」と言って、この歪んだ資本主義社会に鉄槌を下すに違いないと思ったし、どこかで仙狐さんが国会を燃やすクソコラを見たことがあれば、その作者は私である。
仙狐さん、おねがい!富が一極集中する資本主義社会を是正して! 具体的には高所得者層と法人への課税強化を主張する社会民主主義者の候補を選挙で勝たせて!  おれのかわりに労働者の生き血をすすって不当な富を貪る経団連の連中にトラックで突っ込んでくれ! 頼む!
ここで思考実験をするのだが、白人社会に差別された黒人男性の元に世話焼き狐の仙狐さんはやってくるのか。「白人に差別されて辛い? そんなときは好きなだけ甘えるのじゃー」と言って傷を癒やし、BLMにも発展しなければ差別に対する抗議活動も起きないのだとすれば、世話焼き狐の仙狐さんは差別構造を温存するシステムの一部だと思われても仕方が無い。これは資本主義補完プロパガンダだ!……というようなことを思っているのだが、仙狐さんを目を細めてみると、アイドルマスターシンデレラガールズの櫻井桃華ちゃまの面影を感じるようになってしまった。


・エガオノダイカ

エガオノダイカはもったいないアニメだった。資源SFロボットアニメとしての潜在力が高いが、圧倒的に尺が足らなかった。本来なら本来なら4クールは必要なスケールの世界観を1クールに圧縮したので駆け足での展開になってしまった。
クラルスという万能エネルギーによって文明が支えられている世界が舞台になっていて、機械を動かす原動力であり、食料を生産するためにも使われる。その代償として少しずつ大地は疲弊していき、農地は荒れ果て、戦争の引き金になる。食いっぱぐれた民衆を食わせるためには武力で隣国から資源を奪わなければならないのだが、その戦争でクラルスエネルギーが浪費され、さらに土が枯れて食料生産がままならなくなっていくという負のスパイラルから抜け出せない世界だ。
その状況でクラルスエネルギーから脱却して、いかにして持続可能な社会を作るのかが問題になるという点で、風の谷のナウシカの伝統を受け継ぐ政治イデオロギーアニメである。
「環境と資源を保護して持続的な社会を作るために快適な生活を捨てられるのか、それとも目の前の快適な生活を手放せずに資源を蕩尽するのか?」という誰も答えが出せていない問題に切り込むゴリゴリの政治アニメなのだけど「バルスを唱えるとすべての原発が即廃炉になって、戦争も終わってみんなハッピー☆」と受け止められかねない結末を迎えてしまった。
作り手の側がイデオロギー的なものに傾くことを過剰に恐れてアクセルを踏み込めなかった結果、左翼思想の資源ロボットアニメになるはずが当たり障りの無い反戦平和主義に軟着陸してしまった。姫様が平和思想を振り回すお花畑左翼にしか見えなくなった。尺不足のせいか、日本の戦後民主主義教育が失敗したからなのかは定かではないけれども、ポテンシャルを完全燃焼できないまま終わってしまった。
とはいえ、大破したロボットの中には人間がいて、彼ら一人一人に帰る場所と待っている人がいるということを印象づける演出は上手い。他のロボットアニメなら敵の強さを表現するためのやられ役でしか無いモブたちだが「コクピットの中に同じ人間が乗っている」という肌触りだけは徹底していた。
そもそも100年スパンでの地味な取り組みが要求される資源SFと、ドラマチックな展開が求められるアニメの相性は根本的に悪いのではないのか? それを言っては元も子もない気がするけれども……。
どこまで作品に政治思想を織り込むべきなのかはよくわからんのだが、中途半端なのはよくないし自覚がないのも困る。風の谷のナウシカは宮崎駿の左翼イデオロギーが濃厚だと何かと言われるのだが、じゃあ政治性皆無の戦争アニメってなんだ。
異世界を舞台にした作品で「日本の現代技術を使って中世ファンタジー世界で優位に立つ」という展開をよく見かけるのだけど、個人的には異世界版大東亜共栄圏にしか思えない。「日本から転生した英雄が魔族の手から異世界の国を助ける」ことが「欧米諸国に植民地化された東南アジア諸国を大日本帝国が解放する」という歴史修正主義と同じにおいを感じる。異世界植民地主義だ。

ここからは「こんな熱い展開が欲しかった」という妄想の話になる。
百合SFロボットアニメがあるぞ!という餌に食いついた我々である。生まれも育ちも違う少女たちが、親を亡くしたという共通点で結びついて運命共同体になる。そういうのが大好物なんだ。国の運命を背負って気丈に振る舞うユウキだが、やっぱりまだ子供で精神的にもう限界だった。心が折れそうなユウキを支えるステラおねえちゃんが見たかった。恵まれた王族だと思っていた相手が、孤児で一人きりだった頃の自分と重なってしまうシーンが見たかった。クラルスの真実を聞かされたステラ隊が、軍の命令に反抗してユウキに協力する展開が欲しかった。ロボットの狭い一人用コクピットに、女の子二人が詰め込まれるロボット百合タンデムは必須の要素だ。
他国に亡命政権を樹立するのもいい。逃亡先キャンプで携帯アクアリウムみたいなやつを二人で眺めて、肩を寄せ合って焚き火で暖を取る。一人分のレーションを二人で分け合う。クラルスエネルギーを止めるためにベルデ皇国領の施設に向かうのだが、途中で足を銃で撃たれたユウキをお姫様抱っこしてステラが階段を駆け上がる。そういう展開を砂漠の遭難者が水を求めるように渇望していた。二人の女の子が手を繋ぐと無限のエネルギーが生まれて世界を救うのは、キャロル&チューズディが証明している。


キャロル&チューズデイ。

このアニメは通しで鑑賞しなければならないものだという直感が働き、2クール我慢しているうちに見る機会を失っていたのだが、ようやく全話を鑑賞し終えた。これはぶっ通しで見た方が良い。
政治的正しさに配慮している描写が散見され、白人と黒人カップル、同性愛に寛容な表現が徹底しているのだが、これは海外から押しつけられたポリティカルコレクトネスではなくて、「この世界ではキャロチューの同性婚エンドもあるよ!」という制作陣からの熱いメッセージだ。脚本が赤尾でこさんなので実質的に女児向けアイドルアニメで、心の中でアイカツフレンズ!火星編扱いしていた。国際市場を意識して上品にしているが、骨格はアイカツ!なのでみんな今すぐ観よう。

「音楽に政治を持ち込むな!」という本邦の消極的政治スタンスに対して真正面から喧嘩を売るスタイルで、2クール目はほとんど音楽と政治、社会の話である。とはいっても登場人物が政治的な主張をしたり、お行儀の良いリベラル的な価値観を支持しているのではない。キャロチューを分断しようとする歴史の流れに真っ向から立ち向かう話だ。
奇跡の7分間は『We are the World』のパクリだとか音楽で世界を変えられるはずがないだろとか、否定的な感想もあるのだが、いや、ちょっと待って。これは事実上のキャロチュー結婚式エンドだった。心の目で見れば理解できる。
移民排斥や差別に反対するというのはキャロチューにとっては政治思想ではなくて死活問題である。不法移民排除を訴えるチューズデイのママが大統領になってしまえば、キャロルが不法移民として地球に強制送還されるかも知れない。そうなれば二人は離ればなれになってしまい、出会う前の孤独な少女に戻ってしまう。キャロルにはチューズデイが、チューズデイにはキャロルが必要で、一度握った手をもう二度と離したくない。これからさき、どのような困難が待ち受けていても、健やかなるときも、病めるときも、共に一緒にいることを誓う。誰も私たちの絆を断ち切ることはできない。そのための誓いのような歌を全世界に向けて歌う。百合政治ハイブリッド音楽アニメの最先端である。

・変性意識アニメ視聴法
多くの人類が変性意識状態を駆使してアニメを鑑賞していないという絶望的な事実を知る。まずはテレビかディスプレイの前で座禅を組み、催眠音声の導入パートを思い出しつつ深呼吸をし、全身から力を抜いて、精神を整える。リラックスした状態に魂をチューニングし、現実と虚構の間にある境界線を消滅させ、アニメの世界に魂を投げ入れる。これを私は「物語の魔法に自らかかりにいく」と呼んでいる。
我々は視覚や左脳に頼ってアニメを鑑賞している。物語の整合性を重んじ、作画クオリティに目を光らせ、批判的なまなざしで物語を外側から視聴する。網膜に映し出される映像だけを判断材料にしている。
このような現実的な意識だけではアニメの奥深くには潜れない。一種の変性意識になり、ディスプレイと自分の境界線が消失し、自分がキャロルでありチューズデイになる。そういう経験を通して、初めてアニメの世界に没入したと言える。
第一話ではキャロチューが警官から逃げるシーンがある。走ったせいで心拍数が上がっているのか、それともキャロルと出会ったことで心臓が激しく高鳴っているのかわからなくなる。おそらくその両方だ。チューズデイの感じている胸の高鳴りが自分の心音とシンクロして、背中にキャロルの家のソファーを感じる。
催眠にかかるためには、疑惑や恐怖を持ってはならない。効かないかも知れないという先入観を抱いている人間には催眠はかからない。世界観の矛盾や分析的な思考を叩き伏せて作品世界と同調する。あまり批判的にならずに画面で起こったことをすべて受け入れる。五感を通じてアニメを鑑賞することでしか見えない光景もある。それを追求するのが変性意識アニメ視聴法である。


日常系萌えアニメと政治

日常系萌えアニメを見たときに、心の底から暖かくて柔らかいものがわき上がってきて、幸福感で心臓を包み込まれるという経験をした人間は多いと思う。この感情こそが我々の政治的源泉である。すさんだ心に芽生えた暖かな感情を育むことでしか、私たちは憎悪と分断が支配する暗黒の現代社会を乗り越えていくことができない。
日常系萌えアニメを鑑賞した経験がない方は今すぐにでも見てみよう。ご注文はうさぎですか?、きんいろモザイク、のんのんびよりあたりを押さえておくのがおすすめだ。これらの作品を観ているときに、人間社会のあるべき姿を幻視したり、心が洗われたような気持ちになれば第一段階はクリアだ。
ここからは胸に芽生えた暖かな魂のあり方――絶対きらら感――を政治的実践につなげていく。
アニメ視聴を政治活動だと見なしている。まんがタイムきらら系列のアニメを鑑賞することで、私たちはこの現実社会が不完全であることを悟る。なぜ我々は苦しまなければならないのか、なぜ怒りを手放すことができないのか、なぜ我々はかわいらしい美少女のように生きられないのか?といった疑問が自然と生まれる。まんがタイムきららに描かれている世界に比べると、私たち世界が不具そのものである。そのことを認識することが社会変革の第一歩だ。社会変革を求める政治思想も最初は非現実的なユートピア文学から始まり、徐々に理論を発展させてきた。それと同じように、今はまだ空想的まんがタイムきらら主義とでも呼ぶべきユートピア思想に過ぎないものでも、いずれ社会を変える巨大な渦にならないとは誰にも断言できない。


・恋する小惑星

色々と日本社会の政治情勢に疲れてしまったので、恋する小惑星おじさんになってお星様を見ていた。今はスマホアプリとGPSで簡単に星を調べられるので良い時代になったものだ。昔は低スペックのネットブックしか選択肢が無かったことを思うと隔世の感がある。
まず最初は明るい星を見つけて、星空の骨格を掴むのが良い。そこから芋づる式に他の星座や星の位置を覚えていく。最終的に頭の中で星座の位置をシミュレーションできるようになって、真夏の昼空にオリオンを感じ取れるようになるまで修練を積むことが目的だ。

恋する小惑星はNHKでやっていてもおかしくない青春直球ストーリーだ。
星や鉱物、地理を通じて登場人物のかかわる世界が広がっていく。作品の風通しがよくて、「恋をする=何かを好きになること」で外側の世界につながっている。どんな角度から見ても世界は広がっていて、見つけるつもりもなかった素敵なものに出逢っていく。孤立した星々がつながって星座を形作るみたいに、人と人とがつながっていく。星を研究する学問なんて役に立たない、それよりも手っ取り早く金になるような研究をしろと思っている人間は、この恋することのダイナミズムを知らない。これまでただの石ころや星だと思っていたものにも名前があって、それらを一つずつ知る度に私たちを取り囲んでいる世界の輪郭が少しずつ鮮明になっていく。谷山弘子の学びの雨という歌が自分は好きで、その歌詞を引用すると「知らない言葉を覚える度に、この世界を抱きしめていく」営みこそが学ぶと言うことだ。
この作品は登場人物への眼差しが優しいのが個人的な高評価ポイントである。女の子が星や石、地図とかを見る眼差しが良い。でもその分周囲が見えていなかったり、自分の立ち位置を見失うときもある。そんな中で人間を見ているのが先生で、先輩として、教師として、一歩引いた場所で見守っている。きらら作品にありがちなダメな大人ではなくて、緩いキャラに見せかけて役割をしっかりとこなしているのが新鮮だった。
国際的にはSTEM教育の流れもあり、女性が科学に親しむという内容も時流に適っている。これが科学離れした日本を再び技術立国へと復活させる起爆剤になるに違いないと思っていたが、恋する小惑星にも劣化した日本政治の魔の手が着実に迫っていた。「ぜったい見つけようね!わたしたちだけの小惑星!」という約束を交わしたみらとあおだったが、その裏できら星チャレンジの舞台になった石垣島天文台が国の予算削減で閉鎖されることになった。それだけではなく「軍事技術に応用できるような研究をするなら助成金を出す」という飴と鞭を駆使して、天文学を研究するという役に立たない学問をより社会の役に立つものとして活用しようとしている。
これがどういう意味かというと、将来天文学者になったみらとあおは小惑星を探すこともできず、防衛省から予算を獲得するために軍事利用できそうな技術の研究を強制されるということだ。科学や人文科学を軽視する昨今の風潮が恋する小惑星を支えている物語の背骨を折りに来ている。ゆゆ式事態である。まさかみらとあおの前に国家が立ちはだかるとは思ってもみなかった。

・恋する小惑星おじさんになるための天文アプリガイド。

英語圏の天文雑誌『BBC Sky at Night』のWebサイトをチェックするのもおすすめだ。


カイジ ファイナルゲーム。

カイジ ファイナルゲームを観た。映画の脚本自体はそこまで質が高くない。ギャンブルで勝つためのロジックの組み立て方も雑ではある。しかしこの作品で描かれているのは間違いなく福本サーガの最終章にふさわしいものである。
福本サーガとは「貧乏人がギャンブルで不当な富を貪る連中に一泡を食わせ、この腐れきった格差社会を変革する」というものだ。賭博黙示録カイジのEカードで言うのなら「捨て身の奴隷であるが故に王を討ちうる」の世界観である。すべての福本作品はすべて「奴隷が王を討つ」というシンプルな目的地を目指しているのだが、福本マンガ・リアリティの壁に阻まれて頓挫し続けてきた。
福本マンガには明確な弱点がある。底辺の人間たちが数百万から数億程度の金額を賭けたギャンブルを描き出すのは大の得意だが、ギャンブルの規模が大きくなると途端にリアリティが失われて話が進まなくなる。
『銀と金』では「一国を買えるほどの金……!」を手にする前に連載が終了しているし、格差社会をひっくり返すために国家間ギャンブルに挑む予定だった『賭博覇王伝ゼロ』も道半ばだ。漫画版のカイジは外国人とレンタカーを借りて逃亡生活をしている。アカギに至っては国家とか格差とかいった枠組みの外側にいる。まともに体制側に勝利を収めたのは『無頼伝 涯』ぐらいだ。短くまとまっていて面白いから読もう。
そんな中でカイジ ファイナルゲームは映画という媒体の長所を遺憾なく発揮して福本マンガ・リアリティの壁を越えようとした。正確には実写化によるリアリティの無さを逆に利用して、マンガ媒体では描けなかったリアリティのない展開を、リアリティがないまま、演技と演出とノリだけで押し切ることで成し遂げようとした。構造の隙を突く悪魔的発想……!これこそカイジ精神である。映画版カイジには心理描写の繊細さも無ければ、敵のいかさまをロジックでひとつずつぶちこわしていく快楽もない。だけどカイジ ファイナルゲームには、福本マンガがこれまでたどり着けなかった「一国を買えるほどの金……!」で「虐げられた奴隷が王を討つ」展開がある。それだけでおれは満足だった。福本マンガ総決算的な趣があり、その目的のためにだけ物語が都合よく進行していく。セルフオマージュが満載で、これまでに福本漫画を読み込んできた人間ならこれが福本漫画版アベンジャーズであることが瞬く間に理解できる。
賭博黙示録カイジの原作が始まったのは2000年よりも前だ。バブルがはじけた失われた10年のただ中だったが、まだ経済格差も露骨に広がっていない牧歌的社会だった。しかしリーマンショックが弾け、安倍政権になり、権力者が富を貪り、グローバル資本主義が労働者を収奪して、日本中が帝愛の地下みたいな世界になって、ようやく現実の酷さが福本漫画に追いついてきた。映画と言うよりも福本作品のファンディスク的なものだと思って鑑賞すると幸せになれる。それとオタクにフレンドリーなギャルを完全実写化したみたいな関水渚の演技がよかった。