月歯町奇譚
##・月歯町奇譚・月歯町象足通り2-335-6 かじきハウス102号室
「月歯町象足通り2-335-6 かじきハウス102号室」というのが、この町に住んでいる魔法使いの名称だ。多くの人は住所だと勘違いするし、実際にアパートの一室に他ならない。
魔法使いとは個人の名称を指すのでは無い。力のある魔法使いがこの世界に存在しているのでは無くて、力のある場所にいる人間が魔法使いになる。ピッチャーマウントに立っている人間はピッチャーになり、バッターボックスにいる人間はバッターになる。彼らが野球選手としてどのような力量を持っているのかどうかは関係が無い。その場所に立っているだけで、相応しい役割を求められる。
それと同じ理由で、かじきハウス102号室の入居者は魔法使いになる。
どんなに力の弱い魔法使いでも、無人であるよりはマシだ。
先ほどの野球のたとえで言うと、私たちは世界の危機というチームと試合をし続けている。君はこれから野球選手としてバットを振らなければならない。
世界の危機は甲子園出場常連の強豪校みたいなもので、私たちは地区予選敗退の弱小校だ。常に敗北しているのだが、試合を投げ出すわけにはいかない。一点でも失点を抑え、一点でも多く点数をもぎ取ることが当面の役割だ。
そんなに気負わなくてもいい。満塁ホームランを打って逆転しなければならないわけではないし、君にそんなことは求めてはいない。極端な話、何もできずに三振してしまっても構わない。
「自分なんていない方がいい」だなんて思わないで欲しい。人数が揃っていなければ、野球というゲーム自体が成り立たなくなる。それと同じように、いまここに君がいなければこの世界というゲームそのものが止まってしまう危険性がある。
だからここを無人にしないためにも、かじきハウス102号室は極端に安い家賃で貸し出されている。
臆さなくてもいい。君一人だけにすべてを任せるわけでは無い。こちら側の野球チームにいるのは君だけでは無い。隣町にも、隣の県にも、世界中の至る所に私たちのような魔法使いが暮らしている。そういう意味では私たちは野球チームのようなものだ。
これから君はまだルールを知らない野球に参加するみたいにして、魔法使いの世界に足を踏み入れる。私も、他の魔法使いも、最初は今の君と同じように戸惑っていた。だが直に慣れて、不安も治まるだろう。
君はバッターボックスに立つ。背筋を伸ばして、バットを持つ。目をつぶってはいけない。相手の球に目をこらして、力一杯スイングするんだ。失敗するだろうが、いまはそれでいい。メンバーが揃わずに不戦勝しなければ、それで当面の目標はクリアしている。
くれぐれもデッドボールには気をつけて欲しい。
幸運を祈る。
##・月歯町奇譚・完全善意おじさん
「きもいけれども性欲や下心はなく、ただ純粋な善意から人に優しくするおじさん」は月歯町の天然記念物です。生理的に気持ち悪いですが害はありません。かつてはこの世界に広く存在していた「完全善意おじさん」は、現在では幻獣の一種だと考えられています。理由のひとつに、外来種の「善意を装っているが、最終的には性交に持ち込みたいおじさん」によって、完全善意おじさんの住処が失われていったことがあげられます。また、完全善意おじさんは人を疑う事がないので、欲に塗れた人間の餌食になって生息数を減らしていきました。
月歯町の完全善意おじさん保護区では、数少なくなったおじさんが今もなお暮らしています。誰かの幸福を願って自己犠牲を厭わないのも、完全善意おじさんの特徴です。
彼らは月歯町の天然記念物や絶滅危惧種として保護されていますが、本当の意味で守られているのは私たちの方かも知れません。見返りを求めない完全な善意がこの世界には存在するのだと、完全善意おじさんは私たちに確信させてくれます。
##・月歯町奇譚・遺失記憶とメニュミィル
月歯町駅前には遺失記憶回収を行っている少女メニュミィルがいる。驚くほど存在感が薄いというのが第一印象だ。目をこらさなければ、そこにいるのかどうかも確信が持てなくなる。短く切られた髪は、色素の薄い金色で、プラスチックの玩具と思わしき髪飾りを付けている。
彼女は毎朝、こぼれ落ちてしまった記憶を集め、それを成型して偽の記憶を作り出すことを生業としている。人間は日々、大量の記憶を忘却している。ほんのわずかの価値ある記憶だけが脳に留まり、それ以外の思い出は外側に排出される。普通の人間には記憶の排泄物は見えない。だが記憶回収業者である少女の目には、頭からこぼれ落ちた記憶がはっきりと映る。
失った記憶を拾う行為は、厳密に言えば遺失物横領である。しかし本人も失ったことに気がつかず、またそれがメミュミィル以外の誰にも目に見えないものだとすると、彼女が記憶の遺失物を横領したと証明することは極めて困難になる。「失われた記憶を回収している」と言われても、彼女はただ駅前を歩いているだけにしか見えない。
遺失記憶のほとんどは当たり前の幸福な日常である場合がほとんどだ。特別に幸せだった一日ではなくて、何度も繰り返される、記憶する価値がないぐらいの穏やかな日常。いつも食べている好物や、そこにいて当然の人と交わした、他愛もない会話。幸福であるが、記憶するほどの価値がないと脳が判断した記憶たちだ。
「記憶に残るのは、大切な1日だけなんです。それ以外のことは全て、遺失物として忘れられてしまう。だから私の元には〝何でもない、ありふれた1日の記憶〟が沢山集まってくるんです。でも本当に大切な時間は、記憶されないぐらいあふれていて、幸せなものだと私は思うのです」と、メミュミィルは言った。
遺失記憶はドロップに似ているという。多彩な色でほのかに煌めいていて、氷が溶けるようにゆっくりと消え失せてしまう。その前に遺失記憶を回収して、専用の容器に入れる。彼女の場合は、遺失記憶をドロップのようなものだと認識しているので、空のドロップ缶に入れることにしていた。
回収を終えた後には、遺失記憶の加工を行う。まずはじめにするべきことは、記憶から特定の個人情報を抹消することだ。遺失記憶にはそれを捨てた本人の人格や、プライバシーの侵害となる情報が含まれているため、それらをすべて入念に取り除かなければならない。
加工記憶を販売するのは、過去を持たない人々だ。自分自身の過去や、己が何者なのかを捨て去ってしまった人々が、月歯町には少なからず存在する。国籍や戸籍を捨ててどこか別の場所に逃亡するのと同じように、自分自身のすべてを捨て去って誰でもない人間になろうとした人々だ。彼らは「誰でもない難民」と呼ばれることが多い。自分自身であることに耐えられなくなり、生まれた場所も、これまでの記憶も、自分が何者なのかを特定するための名前をも捨て去って、月歯町に亡命してきた。
この街にたどり着いたときに、彼らは空っぽだった。何の記憶も無い、無から湧き上がってきた蜃気楼のようにおぼろげな存在に他ならない。自分が誰なのかもわからなければ、どこに帰ればいいのかもわからない。過去がない人間には、向かうべき未来もない。「誰でもない難民」はその名の通り、自己を喪失しているからだ。記憶を何も持っていないからこそ、失われたものを埋め合わせるために加工記憶を必要とする。
メニュミィル自身も、自己のすべてを捨てて月歯町に亡命してきた「誰でもない難民」である。彼女には名前もなければ記憶、これまで生きてきた痕跡というものが何一つとして無い。無かったからこそ、それを自分自身の手で埋め合わせなければならなかった。
メニュミィルというのは、誰かが観た夢の中に出てきた人物の名前だった。夢の遺失記憶には、彼女によく似た少女が出てくる夢が残留していた。それがただの他人の空似だったのか、誰でもない難民になる前の彼女を知っている誰かの記憶だったのかは定かではない。しかし彼女はメニュミィルという名前の響きが気に入ったので、自らをそう呼称するようになった。
私が彼女と会う度に、これまで存在しなかった過去の思い出をメニュミィルは語ってくれた。小さな頃にプレゼントされた釣鐘草の話だったり、家族と一緒にステーキを食べに行ったが、肉がかみ切れなくてさいころ状に切ってもらった過去を話してくれた。それは遺失記憶をつなぎ合わせて作られた偽の記憶で、所々でエピソードが矛盾しているところがあったが、それを喋っている彼女は幸福そうだった。
私とメニュミィルはよく会食をしたり、喫茶店で紅茶を飲んで他愛のない話をしたりした。
天気のいい日に散歩をしているときに、メニュミィルは落とし物に気がついて後ろを振り返った。無くしたのは荷物ではなくて、私たち自身からこぼれ落ちた遺失記憶だった。彼女はそれをドロップ缶に入れて、溶けてしまわないように回収する。ありきたりな日常の記憶は加工されて販売されることなく、ドロップ缶に入ったままだ。
##・月歯町奇譚・二束三文質屋
月歯町にはどうやって利益を出しているのか理解できない店がいくつもある。私が二束三文質屋と呼んでいる店もそのひとつだ。
二束三文質屋は質草と引き換えに金銭を貸してくれる店だが、私たちが知っている質屋とは多少趣が異なる。あなたが高価な黄金や宝石を持っていったとしても、二束三文質屋の店主ははした金しか貸してくれないだろう。
ではどのような質草を用意すれば、二束三文質屋の店主は気前のよく金銭を貸してくれるのか? その答えは簡単だ。「あなたにとって命と同じか、それ以上に価値のあるもの」を質に入れることだ。たとえそれが他の人間にとって二束三文の価値しか無かったとしても、それを手放すことがあなたにとって耐え難い苦痛であるのならば、質草としての価値は高くなる。
ただひとつ残った親族の形見や、忘れられない思い出を想起させるアクセサリ、市場価値が無いにも関わらず、強い思いの込められた道具に二束三文質屋の店主は価値を見出す。彼の商売道具である「価値の秤」に質草となる商品を乗せて、反対側に貨幣を置いていく。釣り合いのとれた金額を手渡すという単純な方法によって、質草の価値が算定される。
このような奇妙な商売が成り立っているのには理由がある。月歯町には人間の感情を食べることでしか生きられない人々が住んでいるからだ。「感情喰らい」と呼ばれる彼らは、道具に込められた感情の強さや、かつて起きた出来事を自分自身が体験したかのように味わえる。普段は人の会話や文章、物語などから摂取できる感情を摂取しているため、二束三文質屋がいなくても餓死することは無い。しかし人間が贅沢な食事を時折するように、彼らもかけがえのない記憶や感情を食べたいと思っている。
店主は感情喰らいたちを得意客として、二束三文の質草から利益を得ている。店主自身も感情喰らいの一人であり、人の感情が好物だ。その中でとりわけ気に入っているのは「わずかな金銭のために貴重なものを手放さなければならない時の屈辱に歪んだ感情」であるという。
##・月歯町奇譚・同質町移住案内
人間には同質の集団で固まりたいという欲求がある。それ故にすべての人間には「同質な集団の中で異質なものを恐れること無く過ごす権利」が基本的人権として認められることとなった。差別が起きるのは、私たちが異質なものを排除しようとするからで、この行為自体は何ら咎められるものでは無い。問題は多様性を受け容れられる人間と、異質なものに対して激しい拒否反応が出る人間がいることだ。
差別を許容するべきだと言っているわけではない。人は生まれつき「異質なものを排除して、同質な人間に囲まれて暮らしたい」という本能を持っている。それを権利として認めたものが同質権であり、同質町はその理念に基づいて建設された。ここでは同質の人間同士が、互いを脅かすこと無く生活できる環境が整っている。
同質町では同じ性質を持った人間に囲まれて、同じ思想、同じ価値観を共有することによって、異質なものを受け容れずに生活することが可能になる。
同じ国籍の人間だけが暮らす区域、同じ政治信念や宗教を信じるもの、同じ人種、同じ言語話者。このように様々な同質性によって町は分割されていて、私たちは自分が望んだ区域で自由に暮らしていくことができる。
残念なことに同質町でも異質な要素は無くならないが、差別は存在しない。同質町で守らなければならない掟はただ一つだ。「他者を排除するのでは無くて、自分自身を他者から排除すること」である。
差別感情が生み出されるのは、異質なものが目に触れるせいだ。そのときに差別対象を排除するのではなく、同質町の中にもうひとつ「同質者のための生活区域」を作り出す。そうすることで私たちは差別感情を持ったままで共存している。
異質なものと触れ合う機会が無ければ、差別や軋轢は原理上起こりえないからだ。
同質町の基本理念と方針は、最初は上手く機能していた。だがそれも一時のことだった。同質な人間が顔を合わせているあいだに、彼らは互いの異質な面を無視できなくなった。たとえ国籍や人種、思想が同じだったとしても、ささやかな違いが気になり始める。
自分と完全に同質な人間はいない。以前は同じだと思っていた人間も、時間が経てば異質な他者に変わり果ててしまう。他者を排除していった先に残ったのは、無数の人間がたった独りで暮らしている独房のような町だ。
住人は孤独から逃れようとして、自分と同質である誰かと繋がろうとするのだけれども、その試みは常に失敗に終わっている。
##月歯町奇譚・ローカルヒーロー・幸せなやつは絶対殺すマン!
幸せなやつは絶対殺すマンは月歯町のご当地ヒーローである。彼は幸せな人間を殺すために生まれた正義のヒーローだ。
恵まれない境遇にいるときには、当たり前の幸せに傷つけられる。普通の人間が、普通に生きている中で手に入れられる、ごく普通の幸福。努力によって円満な家庭を築き上げていたり、他者から承認され、ささやかな幸福を得ている。
しかし不幸な人間は、当たり前の幸福によって傷つけられる。Facebookで同級生がバーベキューをしている集合写真を投稿していたり、美味しいもの食べていたりするのを、外側から眺めているだけでも、自分には手が届かない幸福を見せつけられているようで胸が痛くなる。
当たり前の幸福がもたらす暴力から弱者を守る正義のヒーロー。それが幸せなやつは絶対殺すマンだ。
もちろん逆恨みだってことは百も承知だ。他人の不幸を呪っても何にもならない。わかっているのだが、幸せなやつを呪うことしかできない日もある。今日も、同胞である幸せなやつは絶対殺すマン二号とともに、ささやかな幸福を得ている人間と戦い続けるのだ。
一号と二号は親友でありながらも、互いを見下していた。自分と同じか、それ以上に不幸な人間がいるということが嬉しくて仕方が無かった。自分よりも不幸で惨めな人間がいて初めて、他者に優しくできる。二人の中が良かったのは、心の底では「こいつに比べたら自分の方がマシだ」と思っていたからだ。
幸せなやつは絶対殺すマン二号は非モテ戦士を名乗り、自分を愛さない女性全般に激しい憎悪を向けていた。だが突然、幸せなやつは絶対殺すマン二号はブログに「大切なご報告」というタイトルの記事を投稿した。マッチングアプリで出逢った女性と婚約したと発表したのだが、一号は「なんでおまえは声優きどりなんや……」と思っていた。
自分たちはずっと不幸なままの同胞でいられるのだと、一号は漠然と信じていた。しかし二号は実際には幸福な世界で生きられる人間だった。幸せなやつは絶対殺すマンでいる資格は無い。
この世界にはどうやっても、幸せになれない人間が生まれる。一号もそうだったし、先代の幸せなやつは絶対殺すマンも、先々代も、みんな不幸なままで死んでいった。他者の不幸を呪っている人々のために幸せなやつは絶対殺すマンは戦い続けたが、彼が守った人々もいつかは幸福になる。それでいいのだと、幸せなやつは絶対殺すマンは思う。不幸に自分の居場所を見つけてしまったら、人は幸福になれない。
夕暮れの街並みには静かに明かりが灯り始める。その一つ一つの明かりの下に人間が住んでいて、幸福な暮らしをしているのだと思うと、幸せなやつは絶対殺すマンはやりきれない気持ちになる。それと同時に、あの明かりの中にも鬱屈して、他者の幸福を呪う自分のような人間がいるはずだ。彼らのために戦わなければならない。そう思った幸せなやつは絶対殺すマンはマスクを被った。
ヒーローが顔を隠すのは正体を明かさないためだけではない。
留まる事なく流れる涙を誰にも見せないためだ。
##月歯町奇譚・月歯町ローカルアイドル・不幸ちゃん
月歯町のローカルアイドルである不幸ちゃんは、その名の通りいつも不幸だ。
人見知りで、目が濁っている。握手会をするときにはファンの手を触れなければいけないことを恐れているが、金とファンサービスのためにだけ無理矢理に恐怖心を押さえつけて、引きつった笑いを浮かべてくれる。
僕たちは不幸ちゃんのファンで、彼女がいつまでも不幸に留まり続けてくれることに対して安堵感を抱いている。これまで僕たちはこの世界で自分が一番不幸な人間だと信じていた。この世界には自分以上に不幸で、恵まれていない人間などいるはずがないと思っていた。だが、僕たちは不幸ちゃんと出逢うことよって、心の底から初めて、他者を哀れむという感情がわき上がってきた。
僕たちは始めて、他者に対して優しくできると知った。自分よりも不幸な人間がいて、僕たちにも善性が備わっているという実感を得た。
アイドルの仕事はファンに元気を分け与えることだ。不幸ちゃんは僕よりも不幸だから、それに比べたら今の僕が陥っている現状など、不幸と呼ぶにはおこがましい。そう思うと、自然と活力と勇気が湧き上がってくる。不幸ちゃんが不幸であり続ける限り、僕たちの幸福は永久に続く。他のアイドルのように恋人ができたり、入籍して脱退するという幸せは、僕たちを裏切り、傷つける。不幸ちゃんには決してそんなことは起こりえないから、安心して不幸ちゃんを愛でることができる。
不幸ちゃんが生け贄であることを僕たちは知っている。元々、月歯町には処女を生け贄として捧げる古い儀式があったと聞く。その非近代的で野蛮な風習は数十年前に廃れたのだが、ローカルアイドルという形で蘇った。アイドルという仕組み自体が、若い少女の犠牲と苦労の上に成り立っているが故に、人身御供に近い構造を持っているのかも知れない。要するに不幸ちゃんは月歯町のローカルアイドルであると同時に、他者の幸福のために捧げられる生け贄なのである。
誰かがこのシステムを覆して、不幸ちゃんを生け贄から解き放つ。そのことで不幸ちゃんが幸せになってしまったら、僕たちは不幸せな境遇をそのまま受け止めなければならなくなってしまう。僕たちが醜い人間であることは承知している。不幸ちゃんが不幸で居続けることだけが、自分たちの幸福感を約束してくれる。
「それは百も承知だけれども、不幸ちゃんには幸せになって欲しいよね」
不幸ちゃんファンクラブのミーティングで、僕は会員たちに打ち明けた。
「だからって不幸ちゃんが幸福になったら、彼女はもう誰にも見向きもされない。幸せなアイドルなんてこの世界には掃いて捨てるほどいる。逆説的ではあるが、不幸ちゃんは不幸であり続けることで、アイドルとしてこの世界に留まっていられるんだ。だから不幸ちゃんは不幸でないといけない」
会員ナンバー03番が唾を飛ばしながら早口で語った。彼の言っていることは正しい。月歯町の皆は不幸ちゃんが不幸で有り続けることを望んでいるし、彼女自身もその境遇を受け入れている。僕たちは不幸ちゃんに支えられているし、不幸ちゃんもファンである僕たちに支えられている。それは歪んだ共生関係だったが、そうする以外にはさえた手段が思いつかなかった。
「そんなに幸せなアイドルが見たいのなら、隣町の幸福ちゃんファンにでもなればいい。私たちは幸せになりたいやつの邪魔はしない」
ファンクラブ会長が釘を刺した。
幸福ちゃんは隣町のローカルアイドルだ。愛想もよく、努力家で、出会った人みんなにポジティブな幸福のエネルギーを分け与える正統派のローカルアイドルである。いちど幸福ちゃんのライブに行ったことがあるのだが、正直言ってしんどかった。頑張っていて、才能があって、運命にもほほえまれているような人間が輝いている。あまりにも眩しすぎて、その光の前では自分が不幸であるという実感が色濃くなる。彼女の前では、僕は何も持っていないのも同然だ。
だが僕のように不幸ちゃんのファンで居続けられる人間は少数派だ。最初は不幸ちゃんに慰められていた人間も、他者の不幸に居場所を見いだす自分たちの姿がいたたまれなくなり、不幸ちゃんのファンではいられなくなる。そして幸せで輝いているアイドルを応援するために旅立っていく。
いままでもそうやって、不幸ちゃんファンクラブは多くの会員を失ってきた。特にとなりの人角町の幸福ちゃんには多くのファンを奪い取られている。
しかし、数奇なことに不幸ちゃんファンクラブの会長は、第十四代目の幸福ちゃんである。すっぴんではあるが、顔の形は紛れもなく第十四代目の幸福ちゃんだ。だが幸福オーラは微塵も感じられない。目の下にはクマができていて、眉間にはしわが寄っている。肌は荒れていて、かつて彼女がアイドルだったとは誰も思わない。
不幸ちゃんと幸福ちゃんはご当地アイドルとしてしのぎを削っている競合相手のはずだが、どうしてこうなったのかを順を追って説明していこう。
幸福ちゃんはファンに感動や元気を分け与える。だがそれは彼女自身の魂を削って生み出されたものである。彼女は人を幸福にするが、彼女に幸福を分け与える人間は誰もいない。皆に元気を分け与える度に幸福ちゃんは徐々に衰弱していき、誰も幸福にできなくなったあとはアイドルを引退させられ、どこかへと消える。それが幸福ちゃんたちのたどる運命だったと言える。月歯町の不幸ちゃんと同じように、ローカルアイドルの起源は神に捧げられる人身御供なのである。
幸せと元気を与えきった幸せちゃんは、最後には役に立たなくなって消え去る。先代の幸福ちゃんがその真実を知ったのは、元々持っていた幸福をファンに分け与えてしまった後だった。人を幸福にできないアイドルに見向きするファンは誰もいなくなった。ゴミのように捨てられ、省みられることもなく、第十四代目の幸福ちゃんは無期限活動停止になった。
すべてを失った元・幸福ちゃんは失意の中で不幸ちゃんと出会った。不幸ちゃんのライブを観て、まだ自分の境遇の方がましだと思い込んでいるときだった。そのときに初めて幸福ちゃんは、歪んだ形ではあったもののアイドルから元気や勇気を貰った。それから元・幸福ちゃんは正体を悟られないようにして不幸ちゃんファンクラブの会員として活動し始めた。彼女の正体が判明することもあったが、熱心な活動によって僕たちの信頼を勝ち取り、満場一致でファンクラブの会長の座に上り詰めた。
アイドルだったという共通点から、誰よりも重い感情を不幸ちゃんに対して抱いていて、朝が明けるまで「いかに自分が不幸ちゃんによって人生を救われたか?」を話し続ける。厳密に言えば救われてはいないのだが、彼女が自殺せずにこの世界にしがみついていられるのは紛れもなく不幸ちゃんのおかげだ。
「そんなに不幸ちゃんが好きなら、二人でユニットを組んだらよくない?」
僕は思いつきを口にする。不幸ちゃんと幸福ちゃんのユニットはぴったりだと思った。全国人身御供ローカルアイドルも、数が増えすぎて戦国時代に投入している。今後も不幸ちゃんの活動を続けていくためにも、早急なてこ入れは不可避だった。
「私にはその資格はない。本当のところ、私は優越感のためだけに心の底で不幸ちゃんの不幸を喜んでいる。そんな醜い人間が不幸ちゃんのパートナーとして、隣に並べる資格があると思う?」
「醜くてどうしようもない、自分のことしか考えていないような人間のくずだからこそ、不幸ちゃんの隣に立てるんだよ」
「私には不幸ちゃんを幸福にはできない」
「そんなことははじめからする必要はないよ」
僕は最低の提案をしている。不幸ちゃんと元・幸福ちゃんがユニットになったからといって、彼女たちが幸福になるわけでも、不幸が和らぐわけでもない。彼女たちは罵り合い、傷つけ合って、これまで以上に不幸になるだろう。幸福になるために一緒になるのでは無い。二人で手を繋いで深い不幸の淵に沈んでいく。そのためのユニットだ。
不幸ちゃんと元・幸福ちゃんが新生ユニットを結成してから、僕はファンクラブの新しい会長になった。相変わらず、ここには他人の不幸を喜ぶ人間の屑が集まってくる。
全日本人身御供ローカルアイドルのトーナメントが始まった。その名の通り、全日本から集められた人身御供ローカルアイドルたちが競い合ってナンバーワンを決める。新型コロナウイルスの蔓延と史上最悪の経済危機、地球温暖化などの諸問題を解決するために日本社会は生け贄となるアイドルを求めた。その時代の流れに呼応して人身御供ローカルアイドルブームが訪れたのだ。
次の対戦相手は三眼町の四肢欠損ローカルアイドル・だるまちゃんだ。身体障害者がアイドルに挑戦するというストーリーによって人気を博しているが、所詮は人身御供ローカルアイドルだ。彼女は健常者が気持ち良く涙を流すための感動ポルノとして消費されているに過ぎない。
不幸ちゃんと元・幸福ちゃんが姿を見せて、ステージに立つ。みすぼらしい服を来た彼女たちがつたないトークを始めると、観客たちからは失笑が漏れる。憧れの対象では無くて、人から見下されるために存在しているのが人身御供ローカルアイドルの役割だ。好奇心の目に晒されて、蔑まれ、屈辱の時間が始まる。不幸ちゃんの震えた手を、元・幸福ちゃんが握る。
二人が作り上げた新曲のイントロが鳴り始める。曲を依頼していた作曲家には前日に逃げられた。この会場にたどり着く前にも、乗っていた夜行バスは運転手の過重労働に起因する居眠り運転で、ダムに突っ込んだ。不幸ちゃんはついうっかり親戚の連帯保証人になったせいで借金が600万円ほど増えた。元・幸福ちゃんはさきほど通り魔にナイフで腹を刺されていて、ここに立っているのも精一杯だ。これはそんな過酷な状況の中で生み出されたものである。
「地獄の底にだって、ぜったい、君についていくよ」
##月歯町奇譚 おちんちんの旅 ある朝に目を覚ますと、おちんちんが旅立っていた。 「遠い世界を見てきます。探さないでください」と、床に並べられた陰毛で書き置きが残されていた。窓を開けると風が入り込んできて、おちんちんのメッセージは宙に舞った。 以前から自分に男性器があることに違和感を持っていて、おちんちんとはよく喧嘩をした。「女の子になりたかったんだ」とおちんちんに告げると、彼は「そうか……」とだけ呟いた。その数日後にはおちんちんは僕の元から去って行った。 このようにして僕はおちんちんを失い、女の子として生活し始めた。心残りなのは、僕がおちんちんの存在を否定したから彼は去って行ったのではないのか?ということだった。間接的に「お前は必要ない」という心ない言葉を投げかけて、おちんちんを傷つけたに違いない。その罪悪感で膨らみ始めた胸が疼いた。 僕が完全な女の子になってから数ヶ月が経った日のことだ。行方不明だったおちんちんからエアメールが送られてきた。アフリカの部族から、立派なペニスケースを譲り受けた写真だった。成人になり、一人前の戦士になった部族の若者に贈られる品だ。便せんには彼の陰毛が紛れ込んでいた。張りと艶のある陰毛を見る限りでは心配する必要がないほどに元気そうだった。 一皮剥けて雄々しくなった彼は、もはや僕と一緒にいた頃のおちんちんではない。ペニスと呼ぶに相応しい成長を遂げていた。 それから定期的にペニスから手紙が届いた。 性転換手術の際に切り離されたおちんちんたちの暮らす集落、金の力に任せて百のおちんちんを体中に移植しようとしている石油王との決闘、不当な手段で集められた奴隷おちんちんを解放した瞬間などの写真がアルバムに増えていった。 僕が最後にペニスを観たのはSNSで拡散されている動画だった。ウクライナ侵攻でロシア軍から放たれたミサイルが病院に直撃した。患者が逃げるまでの時間を稼ぐために、勃起したペニスで崩れ落ちる天井を支えている。すべての医者と患者が避難し終えたのを見届けて、ペニスは瓦礫の山に飲まれた。それが僕が観たペニスの最期だった。 ペニスは死んで英雄になった。でも僕は彼が死んだとは思っていないし、遺体も見つかってはいない。あんなことで死ぬような軟弱なペニスではないことは僕が一番知っている。 今もどこかで彼は人助けをしているに違いない。もし君がどこかで僕のペニスに出会ったとしたら、その時には伝えて欲しいことがある。僕はおしゃまな金髪お嬢様としての道を歩み始めた。このまま帰ってこなくてもいい。 お前も自分の信じる道を行け。
##月歯町奇譚「VRさきゅばす社員☆でりばりー」 202X年。日本でもVRオフィスが普及し始め、本格的なリモートワークが始まった。しかしジェンダーギャップ指数が156ヶ国中120位(※2021年)の日本では女性差別やセクシャルハラスメントが常態化しており、VRオフィスも例外ではなかった。 VRオフィスで日常的に繰り返される性的な嫌がらせを撲滅するために、ひとりのバ美肉おじさんが立ち上がった。「おっさんのセクハラを一手に引き受けるために、おれが巨乳サキュバス秘書になれば問題を解決できるのでは無いのか?」そう思い至った彼は、VR人材派遣サービス「さきゅばす社員☆でりばりー」を起業する。 「さきゅばす社員☆でりばりー」はセクシャルハラスメントが蔓延する企業に、バ美肉サキュバス社員を派遣することによって、従業員へのセクハラを一身に引き受ける。当初は各方面から非難を浴びた。女性差別だ。肉体を商品化している。メタバース経済への悪評を広める、「VR風俗?」などという理由で大炎上した。 「VRさきゅばす社員☆でりばりー」に登録されているスタッフは全員男性で、新入社員研修では男女差別の歴史とジェンダー平等の理念を教わる。巨乳サキュバス社員が優しく、「あっ♪ おさわりはダメですぅ~♪ 訴えちゃいますよー♪」と諭し、モラル教育を施すのが標準オプションだ。一人のサキュバス社員がいることでセクシャルハラスメント被害に遭う人間が一人でも減るのなら、それがこの企業の存在意義だ。 人間の意識はそう簡単には変わらない。だが社会は一歩ずつ変えていける。