日記帳3・肉!現金!当たる!


・肉!現金!当たる!

パチスロ『魔法少女まどか☆マギカ』のリーチ演出が面白いらしいという噂を聞いて動画を漁っていたのだが、演出が過激で光と色と音の濁流が脳みそに刺さるような感覚を受けた。田舎での単調で灰色な暮らしを塗りつぶす強度の高い刺激として脳みそにすり込まれれば、パチスロ廃人待ったなし!という感じの映像だった。光!すごい光!音!音!音!光!光!光!光!である。
ネットで参考動画を探そうとしたけど、網膜を通じて脳に刺さる感覚が嫌で断念したので、見るなら自己責任だ。
しかしこの感覚には既視感がある。秋葉原のでかいビル高層部にたどり着くと18禁美少女ゲームエリアがあり、ピンク!美少女!パステルカラー!原色!半裸のアニメ絵美少女!という感じの桃源郷が広がっている。あきらかに現世とは相容れない異空間であり、神社仏閣、パチンコ屋、エロゲショップは娑婆との隔絶を強調する空間デザインになっている。
ソシャゲーの演出も、光と音を通じて脳みそに刺さるように作られている。ゲームシステムを理解し始めるとじわじわと面白さが増してくるのでは無くて、画面が光ったりダメージ表記が大量に出たり、過剰な演出で画面が埋め尽くされることで気持ちよくなるタイプの演出が多い。
エンターテイメント全般が、過剰な刺激が脳みそに流し込まれる快楽に依存しているようで、個人的にはこれを演出の二郎化と呼んでいる。手っ取り早く気持ちよさを感じさせるために、情報量を増やして脳みその処理能力をオーバーフローさせる。うまみと糖分と塩と油と化学調味料をぶち込むような手法だ。
でもそういう情報過多な演出に慣れると、雑で大ざっぱな快楽しか受容できなくなるような気がした。大音量の音楽に耳が慣れると静かな音楽では満足できなくなる。単純な味覚しか持っていないと、味が濃くて、油と糖分、化学調味料まみれの料理が一番美味しいと感じる。それと同じように、感性の解像度が低いと微妙な味付けや演出が理解できなくなる。
単純で情報力が過多なものを否定しているのではない。実際に過剰演出も油と糖分と化学調味料の暴力みたいな料理は美味しいし、真夜中にカップ焼きそばを食べてしまったりする。でもインスタントで短絡的な快楽だけじゃ物足りなくなる。


・異質なものをマネジメントする技術。

日本ラグビー優勝と、サッカーワールドカップのピュアジャパンチームと大阪なおみ選手に対する人種差別発言とカルロス・ゴーン拘留と外国人技能実習生や難民への辛辣な対応とその他諸々の価値観や対応に一貫性がなくて、脳みそがバグっていた。このあとにハンストしていた難民がそのまま餓死したという話を聞いて思考がフリーズする。
産経新聞が一面で多様性の勝利だと報じていたけど、日本の国益に奉仕できる人間にだけ認められる多様性のように感じられて、みょーん……という気持ちになる。
「同じ言葉を喋って、同じ文化を共有していて、同じ人種的特性を持っている、極めて均質的な人間が日本人だ」という視野の狭い感覚が自分の中にもある。
外見と言葉は同じでも育った文化が違う帰国子女だったり、同じ言葉で同じ文化を共有していても外見が異なる人への対応が常識化されていないので、不必要なところで差別意識が噴出するのかも。
均質な集団をマネジメントする経験には慣れているけど、異質なものが紛れ込んできたときにどうするべきなのかという知識が無い。だから外国人や障害者、イレギュラーな存在を除去するしか対応策が無くなってしまう。そういえば障害者公務員を大量に採用したけど、活用できなくてぐだぐだになった件もあった。
これは差別の話であると同時に、異質なものをマネジメントする技術が足りないだけでもある。マネジメントする技術が無いから差別意識が生まれて、差別意識があるから運用するノウハウを積み重ねる前に排除するという悪循環になっている。


・ここから2019年10月。


・ひとつのページにその月の日記がびっしり書かれているHTML個人サイトを意識して更新しているのですが、さすがに文章量が多くなってきたので分割を考える。


・他者を矮小化しない態度とキマイラ的現実。

あまり自分の尺度で他者を矮小化しないようにしたい。相手の劣っている部分だけをことさらクローズアップして、その一面だけが相手の本質だと思い込んでしまうような心の動きがある。
ある属性だけに着目して、拡大解釈して、あげつらって、愚かさや間違いだけを強調して、都合良く殴れるサンドバッグに貶める。それは人間的な営みでは無いのけれど、思考のリソースを節約するために、一面だけを見てそれが全体であるかのような錯覚をする。
そっちの方が楽でいいのだけど、目の前の人間を見ているのでは無くて、批判しやすいように戯画化された他者を頭の中にでっちあげているに過ぎない。
よく自分も「ネトウヨ」と十把一絡げにしてしまいがちなのだけど、都合のいい部分だけを切り取って、相手の本質を一方的に決めつけるのは好ましい思考の使い方では無い。
それは相手に配慮しているからではなくて、自分のためにはならないからだ。自分が理解できないものが目の前に現れると、それを理解可能な形に勝手に矮小化して、わかったような気になる。そうやってこの世界を、自分が理解できる形に切り詰める。この行為を繰り返していくと、「他人を馬鹿にして、何かをわかった気になっている馬鹿」になっていくような気がして背筋が冷たくなった。
「あいつらは馬鹿だ」と思うのは簡単だけれども、それは自分自身の正しさを必ずしも証明しない。おれも頭が悪い。狭い世界に閉じ込められて、偏った視野で思考しているのは自分のほうだ。自分自身の作り上げた情報環境に閉じ込めれているのは知っていても、その外側に何があるのかを知らない。
「わかった」のではなくて、わかった気分になっている。世界を客観的に観ているように錯覚していても、自分が理解しやすいように世界を歪めている。スマホの画面を通して世界を見つめると、重要なものが些細な情報になって、些細な出来事が世の中を左右するかのような重大事に思えたりする。
それは自分が作り上げた快適なフィルターバブルでしかなくて、その外側には、想像もできないような情報源や多面的なものの見方があるのかも知れない。でもフィルターバブルは自分自身の限界以上には広がらないから、その中に閉じ込められる。検索すればあらゆる情報にアクセスできるけれど、検索するための鍵が無い。
いま自分たちが見ている世界は、望んで作り出した幻影のようなものなのかも知れない。部分的な真実をつなぎ合わせて作られた、キマイラみたいな現実感の中で生きている。
はじめは他人が考えていることを勝手に決めつけるのはよくないという文章で終わるはずだったのだけど、いつの前にかフィルターバブルが生み出したキマイラ的現実の話になってしまったぞ……。


・Facebook的アイデンティティー

人間はひとつの名前を持ち、ひとつの統合された自我を持ち、社会的に逸脱しないかぎりの人格以外は認められないという西洋的近代自我のありかたを、西洋のIT企業によって押し付けられているのではないのか?……というようなことを思っていた。
Facebook的アイデンティティーと呼んでいるのだけど、プラットフォーム企業が作った「人間として正しいあり方」に従って自分自身を成型していくようなプロセスがある。
明治時代に日本が近代化したさいに、西洋のキリスト教や合理主義的な価値観や道徳観が入り込んできて、そのことで古い性習慣や道徳観が野蛮なものとして排斥された。それと同じように、西洋の人間観で作られたSNSやサービスが普及して、近代の西洋的な人格のあり方がスタンダードになりつつある。
このブログを書くときの数少ないルールは、人格の一貫性を保たないことで、その日の気分と感覚と書く文章の内容によって一人称が入れ替われる。一貫性があって論理的に整合性の取れている人格は、西洋絵画で言うと正確な遠近法で描かれている風景画に近い。そうではなくて、浮世絵やキュビズム的な人格があってもおかしくない。一人の人間がひとつの実名アカウントしか持てないのはつまらない。


・まんがヒューマニズム

日常系萌えアニメはただのオタク向けの低俗な娯楽ではない。手塚治虫から連なるまんがヒューマニズムの正統な後継者だ。そこで描かれているのは単純な勧善懲悪やイデオロギーでは無くて「この一線を越えたら人間では無くなる」という境界線にまつわる話だ。人間と非人間的なものの間に絶えず境界線を引き続ける行為がまんがヒューマニズムであり、戦後民主主義の価値観を底流から支えてきた。
鉄腕アトムの原動力は原子力で、鉄人28号は旧日本軍の秘密兵器だ。それらの技術は利用する人間の意思によって善にも悪にもなる。仮面ライダーの身体は悪の組織によって改造されたが人間の心が残っているし、デビルマンの人間は悪魔以上に邪悪な存在になる。
仮面ライダーに関しては初代の改造された身体では人と触れ合うこともできないという悲哀と、555のオルフェノクが抱える苦悩と、アマゾンズの人間と怪人側の間の葛藤が好きなのだった。悪のために生み出された力を正義のために振るい、あるいは理想と正義のために生み出された力が人間を不幸に陥れる。その二つに境界線はなく、心のあり方次第でめまぐるしく変わっていく……という展開が個人的な特撮ツボであり、まんがヒューマニズムの主要なテーマだと言える。
プリキュアは絶対に「みんなの笑顔は私たちが守る! でも特定アジアだけは別!」とは言わない。もしそんなことを口にすれば、それはプリキュアでは無い。その皮膚感覚を涵養するのがまんがヒューマニズムであり、萌え豚向け日常系美少女アニメはその最新形だ。
2019年夏アニメ『まちカドまぞく』では魔族と魔法少女が争い合っているのだが、新人魔族・シャドウミストレス優子(以下シャミ子)は敵対する魔法少女である千代田桃を助ける。風邪を引いていて寝首を掻ける絶好のチャンスにもかかわらず、シャミ子は桃を介抱する。魔族としてのあるべき姿では無くて、シャミ子自身がどうしたいのかという欲求を行動の判断基準にしている。
オウム真理教の信者だった人へのインタビューが書かれた本を読んでいると、「サリンを撒く前にさすがにおかしいと思ったが、教祖の支持に従うことを選んだ。自分の良心を信じれば良かった」というようなことが書いてあった。
監督の支持に従って相手のラグビー部に怪我を負わせたり、公文書を改ざんしたり、ユダヤ人をガス室に送るなど、私たちには理性や良心よりも組織の都合や権力者の命令を優先するような性質が内蔵されていて、時代と環境が変われば容易に非人間的な行為に手を染めてしまう。
政治的イデオロギーや宗教の教義はしばしば、「この一線を越えたら私は人間では無くなる」というラインを軽々と飛び越えさせる。内なる良心の声を圧殺して、邪悪さの渇望を担がせる。そうならないためには”誰よりも優しく、強く”ならなければならない。(『まちカドまぞく 第2巻』 p110より)
右派が古事記や日本書紀を歴史的事実と見なし、左派が階級闘争史観を通して現実を解釈するのと同じように、我々はまんがタイムきららを人間の真理として扱う。落語の蒟蒻問答において、修行僧は蒟蒻屋の親父の適当な受け答えから叡智を引き出した。そんな感じで我々は日常系萌えアニメにヒューマニズムのエッセンスが詰まっていると信じて、今日もアニメ鑑賞に励む。
それはそうと『まちカドまぞく』でシャミ子が動いているだけで泣くぐらいにドはまりしていて、ついにシャミ子と桃が同棲している予知夢を見てしまった。


・あの日夢見たディストピア

昔、シムシティ2000をやっていたときの自分はすてきな市長で、市民が幸せになれる町を作るために尽力していた。だが市民は「消防署を作れ!」と要望を出して、その通りにすれば次は「警察署を作れ!」と言い始める。要求が受け入れられて当たり前だと思っているらしく、感謝の返事も何も無い。財政が枯渇して市民の要求に応えるのが難しくなると、新聞で激しいバッシングが始まる。 最初は人のために頑張っているつもりだったのに、こいつらはろくに税金も払わないのに声ばかり大きくてやっていられねぇ!そう思ったおれは、暗黒市長になった。闇落ちである。税金を極限まで上げ、逃げられないように町の周囲を工事でかさ上げして壁を作り、公共施設はすべて破壊し、老朽化した原子力発電所を爆発させて放射能まみれにする。その上で災害を発生させて、何もしない。犯罪率と失業率がうなぎ登りになり、夢も希望も無いディストピアを作り上げようとした。
ゲーム・デザイナーのウィル・ライトも、独裁政権を運営するゲームを発表しないものかと待ち望んでいるのだが、その気配は無い。反対勢力を金の力で潰したり、マスメディアを買収して腐敗政治を報道させないようにしたり、歪んだ歴史教育を行う学校を設立してこどもをマインドコントロールをしたり、革命勢力の中に密偵を送り込んで一網打尽にするなどのコマンドを駆使して独裁政権を運営するのがゲームの目的だが、そういうのは現実でもうおなかいっぱいだな……という気持ちにもなる。


・技適マーク回避テク

日本の電波法には技適という謎の制度があり、携帯電話などの電波を発する機械を使うためには技適マークを取得しなければならない。許可の無い端末を使うのは違法であり、現実的に捕まる可能性は限りなくゼロだが処罰される。その一方で外国人旅行者が持ち込んだ携帯電話に関しては、90日間の滞在であればお咎め無しというガバガバな法律だ。
これの何が問題なのかというと、国外で素敵な機械が発売されても日本で持ち込んで使えないということだ。いまどきのデジタル機器にはWifiぐらい付いているのが当たり前だが、法整備が現状に追いついていないので、人目に付く場所でレビューをしたり商品を紹介できない。そうやって日本はデジタル技術の世界的潮流から取り残されて没落の一途をたどっていくのだった。
しかし、先ほども書いたが外国人旅行者が使っても法律には反しない。ということは何とかして日本国外に在住する旅行者を用意して、そいつに商品レビューを行わせれば問題は解決するのでは無いのか。
よく知らんけどパチンコ屋の近くに景品を換金してくれる場所がたまたまあるし、それと同じ理由でたまたま日本を訪れた外国人観光客が、たまたま目的のデジタル機器を持っていて、たまたま自分と知り合いになり、たまたまブログに記事を寄稿してくれた……という体裁にすることで、合法的に技適無し海外携帯端末をレビューできるはずだ。
※このブログでは違法行為を推奨していません。


・真咲・ガイヤールのことを考えながら適当に書いた文章。

真咲・ガイヤール at DuckDuckGo(※注・18禁エロゲーのキャラ)

・不敬文章、クローン天皇編。
もし昭和天皇がGHQに処刑されていたらどうなっていたのかという歴史的IFをよく考えるのだが、最近は「大日本帝国の残党が精神的支柱を復活させるために、ヒロヒトのDNAを強奪してクローン天皇を誕生させるのでは?」という妄想をしている。
マンモスのクローン化に本腰 - ロシア・ビヨンド
絶滅したマンモスを復活させるためにDNAの保存状態がいい細胞を取り出し、クローンとかES細胞とかその他諸々の技術を用いて胚を発生させて、代理母に出産させる。この方法であれば日本の科学技術も発展するし、万世一系的にもおっけーなのではないのかというようなことを考えていた。
様々なネオ日帝(ネオナチっぽい感じ)がそれぞれの組織でクローン天皇を作り出し、血みどろの戦いを繰り広げているんじゃねーのかなって気になってきたし、天皇が単性生殖できるようになれば後継者問題も解決するのではないのかとも思っているし、中国でゲノム編集ベイビーが生まれたことを踏まえて、積極的に遺伝子強化天皇をリリースしていくことで一般臣民と差別化を図っていった方がよい。
ユヴァル・ノア・ハラリ の『ホモ・デウス』によれば、近未来社会では自らの遺伝子を選択的に改良できる富裕層とそれ以外の人間の間で格差が広がっていくという未来予測が語られる。SFの話では無くて、ある特定の病気を引き起こす原因となるゲノムを除去するのであればすでに技術的に可能だ。
それはおいといても、遺伝子強化天皇ってフレーズにはロマンがあるよね。


・地球温暖化と豊かさのオルタナティブ

昆虫食べたい。熱したフライパンでバターと薄切りガーリックを炒めて、キッチンに香ばしい臭いが広がったあたりで芋虫を投入。表面がこんがりするまで炒めた後に醤油を回し入れて、塩とこしょうで味を調える。エビのようなぷりっとした食感と、肉厚な食べ応えは昆虫食だとは思えない。チリソース炒めでエビチリ風にするのもおいしいね!……というような昆虫料理が食べたい。書いていておなかがすいてきた。
なんで唐突に昆虫クッキングコーナーが始まったのかというと、地球温暖化対策と人口爆発への現実的なアンサーが昆虫食の普及だからだ。
地球温暖化を緩和するためには、現在の経済活動や消費そのものをドラスティックに変革しなければならないのだけれども、「地球温暖化対策=経済的に貧しくなることを強要される」のだと勘違いしてしまう。確かに環境に負荷を掛ける牛肉は軽々に生産できなくなるし、これまでのように電力を使えなくなるかも知れない。車社会は見直さなければならなくなって、移動するのも不便になるだろう。経済成長のために地球環境を犠牲にする資本主義は成り立たなくなる。
温暖化探索を冷静に考えると、今の生活を成り立たせている上で享受している「当たり前の浪費」を手放す必要に直面する。地方都市で生活するためには車が必要不可欠なのだが、それは地球温暖化対策には反する。でも数十年先の破滅よりも、車が無いと生活も通勤もできないという目の前の必要性を優先してしまう。
車が無くて牛肉を食べなくても、そこそこ満足のいく暮らしができるという「豊かさのオルタナティブ」を提示できない限り、積極的に地球温暖化対策をしようとは思えない。
環境保護のためにまずい昆虫を食べましょう! 地球の未来のために不便な生活を送りましょう!……ではなくて、「昆虫は安くておいしいよ! 昆虫食べよう!」といったライフスタイルの展望が必要だ。新幹線に乗れば数時間で東京に着くというような世界では無くて、交通機関が退化したせいで東京に行くまではくっっそ遅いローカル線を乗り継がないといけないけれども、地方都市に立ち寄りながら観光しつつ目的地を目指す……というような、スローダウンした世界を受け入れるメリットを提示できるのか。
あと、蝉の脱け殻的なものの中にチョコレートを入れれば、サクサクした食感が美味しいお菓子になると思う。


・嫌韓ヘイト本のコストパフォーマンス。(もしくは政治TCGの可能性について)

ちょっと思うところがあって嫌韓ヘイト本を読んでいたのだが、「論戦をするときに効果的なフレーズを読者に提供する」という点では実用性が高い。「従軍慰安婦は売春婦だ」「植民地支配ではなくて併合だ」といった、単純だが取り回しやすい言説が押さえられている。
将棋の棒銀戦法のようなもので、対策を知らない人間に対して高い破壊力を発揮する。冷静に反論するためには受ける側に知識が必要になるのだけど、準備をしていない状態で「従軍慰安婦がいたという客観的な証拠を出せ」と言われても対応は難しい。
リベラルはヘイト本を低俗なものだと忌避する傾向が強いが、ネット右翼を促成栽培する点では侮れない。「この話題になったら、このフレーズを言えばいい」というテンプレートがあって、嫌韓以外だと「日本はアジア解放のために戦った」とか、「GHQによって反日左翼が日教組を占拠した」といったネット右翼促成栽培パッケージが一通り揃っている。そう考えると、ネット右翼的な言説はコストパフォーマンスの高い政治思想ではないのかと思う。
それに比べるとリベラル的な価値観やトピックは学習コストが高い。問題点を理解するために憲法から原発、基地問題、経済について、手広く学習しなければならない。
嫌韓ヘイトは思想そのものよりも、学習コストの低さによる伝播スピードの速さが長所だ。書かれていることを鸚鵡返しにする支持者を大量生産して、Yahoo!ニュースやTwitter、その他SNSのコメント欄を埋め尽くす物量作戦で攻める。
トレーディングカードゲーム風に言えば低コストの軽量クリーチャーを大量に召還して物量で攻めるウィニー・デッキだ。

以前は高コストのリベラル派政治クリーチャーを召喚して、マスメディアとの連携で発言力を増幅するコンボが有効だったのだが、ネット右翼デッキはマスコミの影響力を弱めつつ、SNSで軽量政治クリーチャーを生み出して高速展開する。リベラル派は後手に周り、民主主義のライフはゼロになる……というのが、昨今の政治トレーディングカードゲーム「ポリティカル・アンド・ギャザリング」のトレンドだった。
以前までは「こんなクソみたいな歴史修正主義なんて誰も信じないよ」と甘く見ていたのだが、内容そのものよりも学習コストや伝播力の方が本体だった。嫌韓ヘイトが受け入れられるのではなくて、感染力が強くて取り扱いやすいという理由で、なんとなくヘイト発言ができてしまうという環境そのものが、ヘイトスピーチの強さなのかも知れない。最近ではそう思っている。
もし対抗するのであれば、トレーディングカードゲームの戦略から学ぶ必要があるのではないのか。相手の行動を制限して勝利を収めるロックデッキ、もしくは呪文を主体にして相手のライフを焼き尽くすバーンデッキなどの戦術の中に、リベラル派が政治トレーディングカードゲーム「ポリティカル・アンド・ギャザリング」を生き延びるヒントが隠されているような気がしないでも無い。

デッキ集 - MTG Wiki
ロック - MTG Wiki
バーン - MTG Wiki


・インターネット自殺日記+その他近況。

またインターネット自殺期がやってきて、マストドンのアカウントを削除してしまった。定期的に携帯電話を解約したり、SNSやLineアカウントを消すことが多い。自分が存在していることに耐えられなくなって、アカウントを消しては作り、またアカウントを消している。
アカウントを削除したら集中力が戻ってきて、積んだままだった『死の家の記録(ドストエフスキー)』と『人はなぜ戦争をするのか エロスとタナトス(フロイト)』、『嵐の王・第一巻(カイ・マイヤー)』を読了できた。
自分はSNSとは相性が悪い。画面に映し出される大量のツイートを観ていると、気にすることが多くなりすぎて意識が散漫になる。本だと最初にぱらぱらと全体をめくって、分量や内容、構成などをざっくりとチェックできて、これから読むコンテンツの全体像を俯瞰できるのだが、SNSだとそれが不可能になる。終わりが無く、パラグラフの構造も無い言葉の羅列が延々と続いて、エネルギーを惜しみなく奪われる。
SNSから離れると、これまで拡散していた意識が一点に集中し始めて、ちょうど虫眼鏡で太陽光を集中させるような感覚になる。

How to Break Up with Your Phone: The 30-Day Plan to Take Back Your Life: Catherine : Amazon.com: Booksという本を読んで、スマートフォンのアプリを整理した。「生活に便利なアプリ」と「場合によっては必要だが、時間を浪費するだけのジャンクアプリ」、「いますぐアンインストールするべき」に分類するなどの、スマートフォン依存症を和らげるトピックが載っている。
途中まで読んでいて、そこまでやるのならフィーチャーフォンの方がいいのでは無いのか?……と思い至り、KaiOS搭載端末の購入を計画していた。
これはSmart feature phoneというジャンルで、低価格でありながらもメールやSNSアプリが使える。バッテリーの持ちもいい。問題は日本に輸入しようとすると、4000円の端末に対して送料が2000円ぐらい取られることや、そもそも日本へ発送していないこと、対応しているSNSアプリが日本ではマイナーなこと、日本語には対応していないこと、日本の電波周波数に対応していない機種も多い……などの多重苦を背負うことになる。
日本人であるという理由だけで、最新デジタル機器から排除されるのが切なくて枕を濡らしていた。


・選択肢の多さに惑わされる。

情報が多くなるたびに、選択肢を吟味するコストが馬鹿にならなくなる。
選択肢が少ないときには迷わずに済む一方で、逆に選択肢が多すぎると、「本当に自分が選んだ選択肢が正しいのか?もっと他に最適な方法があるのではないのか?」と迷う。そうやって、もしかしたらあるのかもしれないし、無いのかもしれない最善な選択肢を探して、時間と労力を無駄遣いする。
どこかに問題をイージーな方法で解決してくれる魔法の杖や銀の弾丸があるような気がして、そういうものを探し続ける。もしかしたらあるのかもしれないし、見つからないのかもしれない。でも、いまここにはない魔法の杖を探すことを言い訳にして、覚悟を決めて腰を据えられなくなる。
よそ見をせずに馬鹿の一つ覚えみたいな視野狭窄さで突き進むには、選択肢の誘惑が多すぎる。
手持ちの道具と不完全な資源、間に合わせの方法、そのときにできる最善で、準備ができていないままどうにかする!……という気概が無くなっている。あるいは反対に、選択を放棄してあらかじめ用意されたテンプレートに頼り切りになる。
無数の選択肢がある状態で、惑わされずに馬鹿の一つ覚えを貫くのは難しいのだけれども、それができないと様々な可能性に目移りをしてなにもできなくなる。


・英文ライティングの備忘録

KaiOS搭載端末についての問い合わせ英文メールを書いている間に、多少なりともライティングスキルが向上した(ような気がする)。備忘録として、役に立ったツールやWebサイトをここに書き記しておく。

ゼロからフルスクラッチで英文が書けるわけでは無いので、まず日本語で伝えたい文章を書いてから、翻訳サイトと英文テンプレートと辞書と文法チェックツールを駆使して英文をでっち上げていくという方法を取る。
多少、文法や言い回しに不自然なところがあっても、コアとなる部分が伝わればいいという方針で行く。

・おまけ
Profilers - VocabKitchen.com
文章を分析して、難易度ごとに単語を分類するツール。あらかじめ読む文章を解析して、頻出度の低い単語を洗い出すために使う。


・受け手を信頼しないと言葉が死んでいく。

週刊ポストのヘイト扇動記事騒動を端から眺めていて、批判するよりも前に「この人たちが想定する読者像は、ヘイト記事を読んで喜ぶような人たちだったのだろう」と感じた。
テレビ視聴者の知能は低いからこの程度の品の無い演出でいい。読者は馬鹿だから、適当に反韓感情を煽れば雑誌が売れる。ユーザーは愚かだから課金への導線を作って、ギャンブル依存になるようなビジネスモデルを作ろう。ライトユーザーは複雑なゲームシステムを理解できないから、派手な演出を見せて画面を猿みたいにポチポチと押し続けていればいい。あいつらはストレスのない世界でハーレム展開にしておけば喜ぶよ。今の読者は難しい漢字を読めないから、なるべく平易な表現を使わなければならないよ。インターネットユーザーは感情的に反応するだけの連中だよ。
金儲けをするためには馬鹿に基準を合わせて、上手に搾り取るためのビジネスモデルを構築するのが一番だ……というような価値観を内面化すると、アウトプットするものから受け手への信頼が失われていく。
もしその現状分析が正しいものだとしても、受け手のレベルを低く見積もることでアウトプットするものに軽蔑や諦観、嘲笑といった感情が混じっていって、作り手を弱い酸のように蝕む。
受け手の理性や善性、知性を信頼するのは綺麗事では無くて、アウトプットの質を高めるために不可欠なものだと思う。自分の言葉や考えが相手に伝わると信頼できるのか、それとも「あいつらは馬鹿だから、話をわかりやすくしないと理解できないんだぜw」と軽蔑するのかは、あらゆる表現者の分水嶺だ。
「日本人は基本的な人権感覚が無い。ここは中世蛮人国家ジャップランドだぜwww」とか、「どうせ日本人のリテラシーはこの程度だから、SNSでのフェイクニュースにすぐ騙される」みたいな言説はいっときの優越感を得られるけれども、長期的には自分の言葉を殺していく。


・地味にCSSを調整しました。横幅のサイズを狭めて、少し読みやすくなっています。


・ここ最近の投げやりな目標。

・人のためになるようなことは何一つとしてしない。
・意味がありそうなことも可能な限りしない。
・日本社会がどうなろうがおれの知ったことでは無い。
・地球の持続的発展がどうなろうが知ったことでは無い。


・普段使っている言葉の延長線上で。

政治的言説も、普段使っている言葉の延長線上にないと意味を失う。
普段からどんな映画や本、音楽に心を動かされて、何を愛して、どのような言葉遣いをしているのかという「普段の言葉」が無いと、どれだけ正しいことを言っていても、誰にも届かない。
どこの馬の骨ともしれない人間の政治的に正しい主張を見ても、「で、お前誰?」以外の感想が湧いてこない。どういう趣向を持った人間が、どのような経緯でその言葉を喋るに至ったのかという文脈が欠落していて、誰が言っても同じ肌触りの言葉になる。
SNSだと個人の顔が見えにくくて、Botやなりすましアカウント、政府によるプロパガンダの影響を受けやすい。過去ログを何週間もさかのぼれるわけでは無いから、どういう人間なのかを把握するのも難しい。
個人が特定できない言葉、指紋の無い言説、顔の見えない思想に囲まれているのは、政治的言説以前の問題だと思う。
自分の信じている思想や政策、主張に一本ずつ神経を通していって初めて、生きた言葉になると個人的には思っている。反対に「周りのみんなが言っているから、自分も何となくそう思う」という程度のものであれば、話題にならなくなれば簡単に忘れ去ってしまう。
SNSが流行していて読み切れないほどの文章が溢れているわりには、言葉それ自体がないがしろにされているように見えるのがもったいないんだよね。


・怒ったり、憎悪するなら本気でやれというお話。

政治クラスタを根こそぎブロックしたら精神が快適になったのだが、「それでいいのか?」とも思う。たしかに四六時中SNSに張り付いて批判する人も必要だけど、拳を握りしめたままの精神状態だと疲れてしまう。
いつも怒っていると、どーでもいい不祥事や事件でエネルギーを消耗して、本当に心の底からブチ切れるべき問題に対して反応できなくなる。平常時と怒りの落差が無くなって、温い怒りと温い批判に終始するようになる。
本当に怒りを向けるべき対象を見失って、気に入らないものに手当たり次第噛みついているように見えた。正しいことを言っているのは理解できるのだが、正義と居心地の良さが両立しない。
怒るのは良くないと言っているのでは無い。弱火でじっくり、とろとろと焼かれているような怒りでは満足できないという話だ。いつも不機嫌な状態でいるとそれがデフォルトになって、怒ったときに生み出される感情のエネルギーが少なくなる。怒りはいつしか嘲笑と哀れみに変わり、ただの惰性になる。
不機嫌な気持ちで怒りを小出しにしていくうちに、純度の高い憤怒を忘れる。
私たちに必要なのは、心の底からブチ切れる技術では無いのか?
もっと破壊的で、己の肉も骨も焼いていくような怒り。喜んで相手と自分の墓穴を掘って人を呪う覚悟。そういう種類の怒りとも憎悪とも区別の付かない感情を忘れて、
怒りをあらわにするのも、ヘイトを向けるのも本気でやってくれ。へらへら笑いながら「韓国とは断交すべきですよ~www」と言うような態度はおれは認めない。嫌韓も根拠の無い雰囲気の産物でしかないから、生ぬるい差別感情しか抱けない。レクリエーション感覚で口汚い言葉を喋って、匿名の影に隠れて憂さ晴らしをするようなことしかできない。
リベラルも威勢良く「安倍政権を倒す!」と口にしているのが、心の底では政権交代ができると信じていないから、あれだけ気前よく負けられる。すでに安倍政権を倒すことを諦めて、「改憲勢力が三分の二を超えることを阻止する」という地点まで戦線を後退させている。
どちらが正しいという問題では無くて、中途半端な感情しか抱けないことが不満だ。生ぬるい怒りと半笑いのヘイトだけしかないのでつまらない。
最初は「いつも怒りっぱなしなのはよくないので、穏やかにやろう」と書こうとしていたのだが、いつの間にか「怒ったり、憎悪するなら本気でやれ。中途半端な感情表現をおれは認めない」という話になった。なんでだ。


・KaiOSを巡る冒険

Kai OSを搭載した携帯電話が欲しい。コストを抑えた新興国向けの低機能端末でGoogleのサービスやWhatsappといったサービスが使える。
必要最小限の機能が詰まっているので日本でも使いたいと思っているのだが、日本だと電波帯域の関係で対応していないし、もし中途半端に使えるようになっても主要なサービスに対応するはずも無い。輸入しても送料の方が高くなるかも知れない。使えるのは西欧と東南アジアの主要サービスだけで日本市場は完全に無視されることがわかりきっているのが悲しい。
Nokiaの端末なら手に入るのだが、一万円近くなるのでコスパが悪い。新興国向けの安価な端末は日本への発送に対応していないという板挟みの状態に陥り、物欲で身を焦がしている。
決して手に入らないものが欲しい。その欲望が身を捩る。その点で言えば不老不死の霊薬を欲した始皇帝の気分だと言っても過言では無い。
もしKaiOSがほんとうに革新的な技術であれば、遅かれ早かれ市場を拡大して日本でも輸入できるようになるだろう。


・女の子同士がキスして繁殖する世界観。

女の子同士がキスして妊娠するようなオメガバースライクな百合が読みたいな-、と常々から思っているのだが、無いなら作るのがDIY精神だ。

・この世界では女の子同士がキスすることで生殖活動を行う。これを「経口生殖」と呼ぶ。
・この世界での生殖方法はひとつではない。
現実世界と同じように男性器と女性器による生殖活動を行う生き物の他に、「ゲノム情報を持った液体を口から分泌し、相手の血液にぶち込むことで生殖活動を行う」という特殊な方法を用いる生物が数多く存在する。 ・元ネタはサラマンダー。
メスしかいないサラマンダー、驚きの利点判明 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
・人間以外のほ乳類は、通常の性器生殖と経口生殖に分かれている。人類は男性という種族が絶滅して(ふたなり以外は)経口生殖だけになった。
・男性はすでに絶滅している。
この世界の雄は攻撃性が非常に強く、一説によると数万年前の氷河期時代に男性人類は残った資源を争って自滅したと考えられている。経口生殖のコミュニティのみが生き残り現代の人類になった。

・繁殖期の訪れた個体は自分自身のクローンを妊娠するのだが、その際に遺伝的多様性を保つために他者のゲノムを取り込む必要がある。その欲求がこの世界での恋愛感情である。
・生殖器官は退化していて、妊娠と排泄のためにのみ使われる。性器を刺激しても快楽には結びつかない。
・人間は口に「ゲノム分泌器官」と呼ばれるものがある。
 蛇の毒腺に相当する部分が突然変異して、「自分のゲノム情報を相手に送り込む器官」になった。
 発情期になると唾液とともに精液にあたる液体を分泌して、キスを通してゲノム情報を受け取る。同じように口には他者のゲノムを受け入れる器官が備わっている。
・味は蜂蜜のように甘い。
・ゲノムを注ぐ側と受け取る側で受け攻めの関係性があったり、両者が同時に妊娠することもある。
・経口から摂取されたゲノム情報は血液に混じって、肝臓のような特殊な臓器に運ばれてゲノム情報が抽出される。血中のアルコールが肝臓で分解されるイメージ。相手のゲノム情報が血中に残っている場合は多幸感が続く。
・抽出されたゲノム情報が子宮の卵子と結合して、二人の遺伝子が混じり合う。
・ゲノム交換が行われた後に生殖のスイッチが入り、相手のゲノム情報を反映した子供を妊娠する。
・生涯に取り込めるゲノムは一人に限られる。多くのゲノムを取り込む行為は身体に負担が掛かる。数名のゲノムを取り込むことは可能だが、突然変異や障害児の発生する可能性が高くなるため、多くは初めてゲノム交換をした相手とつがいになる。
・この世界観を踏まえたうえで「百合 キス」と検索すると幸せになれるぞ。


・高所得者向け税金ガチャ

高所得者への累進課税や大企業への法人税増税は「頑張った人間への罰ゲーム」だと言われることが多いけれども、同意が無いままに無理矢理資産を奪われるから反感を買う。金が欲しければ課金への導線を作らなければならない。 おれはタダで税金をむしり取ろうとするような鬼畜では無い。納税者と政府の両方が幸せになるシステムを構築するのが、税制の基礎だ。
そこで税金ガチャである。射倖性の高いソーシャルゲームのガチャに月何万もつぎ込むユーザーは多い。時には借金をしてまで希少性の高いキャラやアイテムを手に入れる。この魔力を国家財政に応用し、税金でガチャを回せるようにする。
高所得者しか回せない上級国民プレミアムガチャと、大企業オンリーのガチャを用意し、「【☆☆☆☆☆】日本国民奉仕栄誉勲章【激レア】」などが手に入るようにする。
国会議員は募金の季節になるとスーツに赤い羽根をつける。募金をしていない吝嗇野郎だと周囲から思われたくない一心で、彼らは赤い羽根を手に入れる。
日本人の世間体を保ちたい気持ちと、集団から孤立する恐怖を刺激して高所得者を税ガチャに誘導し、「【☆☆☆☆☆】日本国民奉仕栄誉勲章【激レア】を手に入れていない高所得者は、税ガチャをする余裕も無い恥ずかしい人間である」という意識を煽っていく。
レアアイテムを手に入れたいという欲望は、いつしか「皆と同じものを自分も手に入れなければならない」という強迫観念へと変化する。そうすれば高所得者はメンツを保つためだけに税ガチャに大金を突っ込み、日本の財政は健全化するはずだ。
定期的に【☆☆☆☆☆☆☆】日本上級国民特別名誉勲章(期間限定版)【SSR】などの新アイテムを投入したり、ランダムで天皇握手券などを封入するなどのイベントをきめ細やかに実施していけば大丈夫なはずだ。


・文章を最適化しない努力

1 以前はてなダイアリーでブログをやっていたのだけど、反応を最大化するように自分の文章が最適化されていったのよね。より多くのレスポンスが得られる話題を選んで、感情を煽る表現を使って、タイトルを過激なものにしてPVを稼ぐことが正しいと信じて疑わなかった頃がある。炎上マーケティング一歩手前だ。
PVやブクマ数の多さ以外に文章の善し悪しを決める指標が無いから、アクセス数やFav数に縋るようになる。そうすると文章を書く行為が反応の数を増やすだけのゲームと化す。
自分の文章や思考が、数を最大化するためにだけ最適化されていくのは嫌だと思っているから、このブログではアクセス数や反応を可視化する要素をすべて取り払っている。
数字が増えていくのを見たいだけならハクスラRPGかクッキークリッカーをやっていたほうがよい。

2
・ソーシャルネットワークを使っていると、人を不快にさせないような言葉遣いに徹するあまり、誰にとっても当たり障りの無い言葉しか喋れなくなる。それとは反対に、人を傷つける過激な言説に慣れ親しんで感覚が麻痺してしまうかも知れない。
現実社会だと喋る相手に対して話題を選んだり、言葉のエッジを調整したりするなど、思ったよりも複雑な言語操作をしている。共通点を持った数名から十数名の集まりならともかく、まったく属性の異なった数百万の潜在的なユーザーに対して言葉を個別にチューニングするのは不可能だ。
すべての人間を満足させられるような言葉は使えない。常に誰かを不快にさせる可能性がある。対面で話すのなら多少はオブラートに包めるような言葉が、ソーシャルでは垂れ流しになる。
どっちにしろ自分にとってはいい取引だとは思えないので、SNSの類いにはあまり耽溺しないようにしている。

3
・いまは何をするにしてもSNSで導線を作らないといけない。検索エンジンが役に立たなくなって、SNSのタイムラインからしか外部リンクにたどり着けなくなった。でも情報のサイクルが短すぎて、ログがすぐに流されてしまう。
絶え間なく情報を発信して、他者にシェアや拡散をしてもらって初めて、情報が可視化される。
営業力だとか、ネット上での人脈作りといった、アテンションを集める技術の方を求められるのは、多くの人にとってはオーバーキャパシティだ。
ひとりでコンテンツを作って宣伝するのではなくて、自然に役割分担ができる仕組みがあったほうがいい。
以前のインターネットには個人ニュースサイトというジャンルがあって、「コンテンツを作る側」と「情報をまとめて拡散する側」にいい感じに分業されていた。
アクセスのハブになる個人ニュースサイトがあり、情報の拡散力でブログ文化を陰から支えていた(と個人的には思っている)。
今では一人でコンテンツを作って、一人で人を集めて、何でも一人でやらなければならなくなった感じがする。

個人ニュースサイト史 < 佐倉葉ウェブ文化研究室


・意味の無い言葉のニヒリズム。

「選挙権を行使しよう!」とか「一人一人の国民が自覚を持って民主主義を支えなければならない」と言われても、それらの言葉には何の意味も無い。もしもそれらの言葉に意味があって、十分な射程範囲を持って人を動かすエネルギーを持っているのなら、もっとましな世界になっているはずだ。
言っていることは正しいのだけれども、何の意味も持たない、誰にも届かない。そんな言葉に囲まれているあいだに不感症になってしまった。意味の無い言葉を聞いて、自分も意味の無い言葉を喋る。それでいて、自分が喋っていることには意味があるのだと錯覚している。
そのことに対して虚無感を覚えるようになって久しい。

リベラル左派陣営やマスメディアに対して失意を抱いているのは、主張していることの是非でも、分裂と合体を繰り返しているせいではなくて、言葉に対する感性が異常に低いからだ。
テレビも新聞もインターネットも、ただ沈黙と空白を埋める梱包材みたいな言葉に満ちあふれている。主張していることは正しいし、筋が通っている文章を読むたびに、心の奥底から「で、それに何の意味があるの?」と疑問が湧き上がってくる。
言葉が手垢にまみれて、質量が失われて、意味もわからずに唱える念仏のようになる。七〇年前には平和という言葉にも切迫性や重みがあったと思うのだけれども、いつの間にかただの言葉になってしまった。
良識のある人間と中途半端な善人が、なんとなくそれっぽいだけの意味の無い言葉を繰り返している。予定調和で、何の刺激も無く、死んだ言葉が腐臭を放っているのだけれども、その臭いに慣れきっている。
そのことを憎悪するよりも前に、失意と虚無感を覚えている。
自分たちが使っている言葉は、根源的には無意味で何の効力も持っていないことへの自覚が足りない。意味が無いとうすうす勘付いていながら、意識をそらして意味があるかのように振る舞う。そうやって自分を騙している間に、喋っていることに価値があるかのように錯覚する。

絶望的な状況において、希望があるかのように振る舞うことが適切だとは思わない。紛い物の楽観で現実を取り繕ってもろくなことにはならないのだが、それがポジティブシンキングとして賞賛されるような価値観の中で生きている。
前にも言ったことだが、私たちに必要なものは適切に絶望する技術ではないのか? 八方塞がりになって、あらゆる手段が潰えて、すべての望みが失われた後に、その現実を淡々と受け入れて絶望する作法が欠けている。
わずかな可能性に縋ったり、現実を無視して「日本サッカーは絶対に勝てる!」とか「安倍政権を絶対に倒す!」と言ったり、絶対国防圏を守ろうとするのは、思想が違っていても同じ心の働きだと思う。
「そもそも福島原発の廃炉作業や汚染水処理自体が不可能なんじゃないか?」とか「物量的にアメリカに勝てないんじゃね?」といった思考が抑圧されて、臭いものに蓋をするという行動パターンを性懲りも無く繰り返しているように見えるのだけれども、それに言及すること自体がタブーになる。
悲観的になったり、後ろ向きやネガティブな姿勢が好ましくないものとして排除されて、「最後まで諦めない」「希望を捨てない」みたいなきらきらした言葉で現実が隠蔽される。
自己欺瞞に陥ったまま破滅するのはおまえの勝手だが、贋物の希望を俺に押しつけないでくれ。まずはそれからだ。


・日本語はつらいよ。

またRaspberry piのセッティングをしていたのだが、Mozcの変換精度はよろしくない。変換制度になってしまう。
日本語の文章が書けないレベルで酷いわけでは無いのだが、変換ミスのたびに思考にラグが発生して流れが断ち切られる。常識的に考えてそれはないだろうという誤変換をされると、集中力の一部が変換ミスをしていないのかどうかに割かれてしまい、文章の入力に集中ができなくなる。
アルファベット文化圏に比べると、日本語入力のコストは高い。
英文の場合はアルファベットを打つだけで文章を執筆できるので、学習コストも低ければ必要なハードウェアや技術的なハードルも低い。キーボードも英文入力を前提に作られている。
それに比べると日本語で快適な入力環境を実現するためには、適切なハードウェアとキーボード、日本語入力ソフトとキーボード配列、学習コストが必要になる。
Mozcはプログラムレベルだと良くできているらしいのだが、日本語入力ソフトに必要なのは質の高い変換辞書だ。Google日本語入力に搭載されている辞書がMozcには入っていないために、変換精度が劣っている。
日本人はローマ字入力という非生産的な方法で文章を書かなければならないし、仮に親指シフトを覚えるとしても学習コストが高い。アルファベット26文字に対して、50音+濁音+半濁音+小文字の配置をマスターしなければならない。

親指シフトもしくはそれに類する配列と、質のいい変換辞書を備えた日本語入力ソフト、日本語入力に適したキーボードがそろって初めて快適に日本語を打てるようになるのだが、グローバル社会は極東島国のマニアックな言語なんかまったく考えていない。
QWERTY配列でのローマ字入力か、フリック入力以外に選択肢が無いのは日本語に対する文化侵略に等しい。日本語に特化した入力環境を整備できるかどうかによって、日本社会の質が決まると言っても過言では無い。いますぐジャストシステムを国有化してATOKをフリーソフトにし、富士通に公的資金を注入して親指シフトキーボードを生産させ、親指シフトの習得には税金での補助がでるべきだと思っている。あとは一太郎と花子でMicrosoft Officeを追放すれば完璧だ。
前回はテクノロジー左翼だと言っていたが、日本語入力環境に関しては攘夷論を主張せざるを得ない。


・スカイリム市町村論。

Skyrimはタムリエル大陸の一地方であるというよりかは、岩手県スカイリム市だと考えた方が体感尺度にぴったりとくる。そう考えると迫り来るドラゴンの脅威も、市町村に熊が出没した的なイベントなのかもしれない。岩手県は熊が多いので、市の防災無線で出没情報が流される。スカイリム地方にも熊や狼が出たり、岩手でも空き屋に浮浪者が住み着いたりするので、スカイリム=岩手説も間違いでは無いだろう。
壮大な世界観と広いマップを駆け巡るという触れ込みにどきどきしていたのだが、歩いて行ける距離に施設があるために町を歩いている感覚になる。隣町へ交易に行くために何日も歩いたり、途中の宿場町で休憩しながら目的地を目指さなければならないというスケールを想定していたせいもあり、だいたい徒歩圏内なので「同じ市町村の少しアクセスの悪い場所に歩いて行く程度の面倒くささ」でゲームを進めていくことになる。それ故に、「もしかしてこれはスカイリム市だと思った方がいいのではないのか?」という、世界観の壮大さを根底から台無しにするようなことを思っていた。
スカイリムでは大陸で最も標高の高い「世界のノド(Throat of the World)」という山があるのだが、気分的には岩手県三陸地方でもっとも標高の高い山である五葉山みたいなものだ。
エベレストぐらいにきつい場所なのにプレイヤーは軽装のまま、ハイキング気分で登頂してしまう。リアリティを追求するほど、どこかで設定と皮膚感覚に齟齬が生まれる。これをリアリティ不気味の谷と呼ぶ。
ゲームもリアリティを追求するほど、想像で補完する余地が減っていって不自然な部分が目立つようになる。ドットゲームの場合は、隣町までは歩いて数分でも現実だと一日以上は歩きっぱなしの距離なのだろうと考えて、自分の脳内で設定や世界観を補完できるのだが、スカイリムではそれが難しい。
リアリティのある描写と、ハードスペックや開発規模の制約、縮尺で表現された世界の間に齟齬が発生し、広大な世界のはずなのに狭く感じる、という奇妙な感覚が生まれる。
しかしスカイリム市町村理論を適用すればすべてが解決する。これはどきどきポヤッチオやルーンファクトリー、ぼくのなつやすみと同系統のゲームだ。そう思い込みながら蝶々さんを捕まえたり、道に咲く野花を摘み集めたり、その辺の山賊を炎による追加ダメージ付きの斧で火だるまにしていた。


・多数派になる義務と努力のこと。

多くの人が与党を支持しているというよりも、「多数派が善であり、少数派に属することはリスクが伴う。周囲から浮き上がらないように、自分も多数派の価値観を受け入れられるように努力しなければならない」という行動パターンで動いているのではないのか?
……という発想が思い浮かんだので、とくに論拠も客観的なデータもないまま「多数派になる義務と努力」についての文章を書いていく。話半分に読んでくれると助かる。

僕たちの社会には民主主義的な価値観は根付いていない。権利を主張したり、自分の良心を優先させるような教育は受けていない。むしろその逆で、主権者としての意思を自ら捨て去るような教育を受ける。
自分の意思は横に置いておいて、校則に従わなければならない。就職活動でのルールに従わなければならない。企業組織に従わなければならない。その延長線上に、自分の意思は横に置いて、多数派が選ぶ政治上の意思決定に従わなければならないという価値観が生まれる。
多数派から外れているのは悪いことで、努力してマジョリティの価値観に適応しなければならない。多数決で皆が選んだからのだから、自分がどう思うかは関係が無い。自分一人のわがままでは変えられるものでは内のだから、多数派を支持できるようにならなければならない。
この考えを内面化している人から見ると、権利を主張しているマイノリティは「多数派に合わせる努力を怠っているわがままな人間」に見えるのかもしれない。
「私たちは多数派に属するために自己を摩耗させ、集団に尽くしてきた。それなのに少数派の連中は権利を振りかざして、多数派に属するための努力から逃れようとしている。性的少数派だか障害者かどうかは知らないが、こいつらは少数派であるが故に、多数派に属するための労力を払わなくてもいいという特権を持っている。ずるい、卑怯だ。」
……というような思考をしているから、校則に従わなかったり、就職活動や企業組織での暗黙のルール、女性はハイヒールを履かなければならないと言った慣習、野党支持者やマイノリティへの配慮を求める人間たちが自分勝手に思える。
ある種類のひとたちにとって選挙は、与党か野党のどちらを支持するのかという問題ではなくて、自分が多数派に属するか否かを確かめる儀式なのだと思う。もし自分が多数派であれば安心して、少数派になれば多数派に属する努力をしなければならなくなる。
少数派で不利益を被るのは、多数派に属するための努力を怠ったからだ。得をしたかったら価値観を改めて、多数派に属せるように自分を変えなければならない。こういった倒錯した思考で生きている人が多いような印象を受ける。
けれども自分を捨てて多数派に合わせるのは、日本社会に適応するための効果的な処世術だと思う。少数派が多数派と同じ権利を持っていると信じられている社会では無くて、「少数派に留まって不利益を被るのは自己責任だ。それが嫌なら多数派に合わせる努力をしろ」と考えている人の方が多い。
この日本社会で権利を主張することは、多数派に属する義務と努力を放棄する反社会的な行動なのかもしれない。


・従うべきルールを自分の価値観で決める。

参院選のときにインターネット選挙運動のルールを読んでいて、複雑きわまりない思った。
メールは駄目だけれども、LineやFacebookのメッセージ送信機能はいい。ウェブページや電子メール等を印刷して配ってはいけない。18歳未満はSNSで選挙活動や投票を促すメッセージをシェアしてはいけないなどのルールがインターネット選挙運動には定められているのだが、必然性や正当性があるようには感じられなかった。
この文章は当初、「なんでおれが何の必然性もないルールに黙って従わなければならないのだ」とか「制定した人間も黙って従っているやつも、脳みそが腐っているレベル」などの語気が強めの文章だったのだが、そのへんはなるべく抑えて書く。でもひじょうに感情的になっていて、なんにでもかみつく野良犬のようなテンションでいる。
倫理観に照らし合わせてアウトでなければ、ネット選挙に規制は必要では無いと個人的には思っている。自分が決めたわけでも無いルールを勝手に押しつけられて、「みんなで守りましょう!」と言われても、簡単にうなづくわけにはいかないからだ。そもそもなんでみんな、そんなに遵法意識が高いのかよくわからない。
投票所が閉まる最後の一秒まで応援する候補をネットで支援したり、中高生が「投票権が無い未成年だけど、この候補者をめっちゃ応援したいので、棄権するぐらいなら自分の代わりに投票して欲しい」と呼びかけるのは、禁止されるべきことではない。
ルールに従うか否かの判断基準を他者にゆだねるのでは無くて、自らの理性と善性に基づいて守るべきルールを決める。でも何をやっても許されるような無秩序ではなくて、己を律する内なる良心は守らなければならない。
それができないのなら、21世紀になっても「そこは白人専用の水飲み場なので、ルールに従って有色人種専用の場所を使ってね」というクソみたいな決まり事を遵守しなければならなくなる。
そういった理不尽な慣習をぶち壊していくのがデモクラシーだ。


・幸せなやつを殺したいときの気持ち。

「おまえが恵まれない環境にいるのは努力をしていないせいで、自己責任だ」と言われたら、「そうですね、あなたの言うとおりです」と頷いたのちにガソリン携行缶を積んだ軽トラックで通学途中の小学生に突っ込むぐらいしかやることが無くなるぞ。まじで。1

自己責任論は「おれはおまえを助けるために貴重な税金も労力も使いたくありません。黙って不幸なままでいて、誰にも迷惑を掛けずに死んでください☆」の言い換えでしか無い。そんなことを言われたら黙って自殺をするか、幸せな人間に害を及ぼして復讐するしかなくなる。
罪も無い子供や有能なアニメーターが理不尽な方法で殺されることに心を痛めている方も多いと思うが、何の落ち度も無い人間が無意味に殺害されて幸せな未来を奪い取られることそのものが犯罪の目的なので、その意味では理に適っていると言える。
べつに精神障害者のおっさんがホームレスおっさんのおうちをガソリンで燃やしても、社会的な反応は引き起こせない。何も持っていない人間を殺しても、すぐ人の記憶からは忘れられる。幸せな人間が突然、不幸のどん底にたたき落とされる。その落差が大きいほど犯罪の価値が高まる。
「なんで落ち度の無い人間が殺されるのか理解できない」と思うのが当然だけれども、それは「努力すれば相応のリターンがある」という自己責任論への復讐なのだから仕方が無い。
「あなたが不幸なのは、努力をしてこなったせいで自己責任だ」という社会通念に対して、「才能や環境にも恵まれていて努力を積み重ねてきたのに、社会のゴミみたいなおっさんに刺されて不幸になっちゃったね~☆ でも自己責任論によると、人間が不幸になるのは、そうなるだけの理由があるから仕方がないよね~☆」という現実を突きつけることで、自己責任論と因果応報、公正世界仮説で組み立てられた世界観を否定する。

ガソリン携行缶を軽トラックに積んで、どこかに突っ込みたくなる気持ちがわからないでもない。「おまえが不幸なのは自己責任だ。誰にも迷惑を掛けずに黙って自殺しろ」というありきたりな言説に対する反論は、「おれが不幸でいることをおまえが望んでいるのなら、こっちもおまえを物理的手段で不幸にする用意がある」ということを相手に思い知らせるしかない。
自己責任論は不幸になった人間がおとなしく自殺することを前提にしている。今になって反撃されたことに狼狽しているけれども、「幸せな人間や恵まれたやつは、幸せであるが故に殺される理由になり得る」というタイプの犯罪はこれからも増えると思う。


・山本太郎とれいわ新撰組と『夫の扶養からぬけだしたい』

この漫画は本編よりもAmazonのコメントレビュー欄が本編で、主人公が夫から言われている言葉が読者から情け容赦なく浴びせられる。そのコメントの大半が、「もっと辛い環境でもがんばっている人たちはいる。このぐらいで甘えるな。お前は恵まれている」というもので、軽い気持ちで地獄の扉を開いちゃったな、という気持ちになった。
本編を読んでみるとわかるのだが、登場人物の生活に余裕や溜めがない。子育てをする妻とブラック労働の旦那の両者がキャパシティオーバーになって、お互いを責め合う。
以前から「日本人の敵は日本人」だと思っているのだが、この本を読んでその確信を強める。強権的な独裁体制によって自由が抑圧されるのでは無くて、性根の腐った日本人同士が足を引っ張り合って坂道を転げ落ちいていく。
十年ぐらい前の『みんなで休まず、みんなで不幸になろうキャンペーン実施中w。 ニートの海外就職日記』というブログ記事を思い出した。このブログは作者の勤務元が特定されて家族に危険が及ぶ可能性があるという理由で閉鎖された。

この漫画を読んでいるときに、ちょうどれいわ新撰組の重度障害者国会議員がネットで叩かれている最中だったのだが、『夫の扶養からぬけだしたい』を低評価レビューをしている人と重度障害者国会議員を非難しているのは同じ層のような気がした。
自分は誰にも迷惑を掛けずに苦しみを一人で処理しているのに、『夫の扶養からぬけだしたい』の主人公も、重度障害者の国会議員も他者に頼ろうとする。早々に音を上げる情けないやつだ……と考えている人が自分が想定するよりも多くいて、SNSやスマホの普及とともに可視化された。
いたるところに不機嫌な気分が蔓延していて、そこから逃れようとする人間の足を引っ張って、「みんなで不幸になろうキャンペーン」に巻きこれている感じだ。

これは関係があるかどうかわからない話なのだが、正社員で働いている知り合いが会うたびにストレスで陰鬱になっていくのに対して、生活保護で暮らしている元薬物中毒のおっさんたちは施設で規則正しい食事と生活をしていているのを見て、いろいろと考えざるを得なかった。
正社員よりも薬物中毒者になったほうが幸せになれるのかもしれない。
唐沢俊一の書籍で「犯罪を犯す前はジャンクフードを食べてブクブク太っていた若いやつも、刑務所の麦飯を食べ始めてから栄養バランスが改善して健康的になった」という話を読んだ気がするのだが、それに近いものを感じる。 どちらが娑婆で、どちらが刑務所なのかわからなくなってしまったのでこの文章はおわり。


・思想と免疫。

ハイデッガーがナチスドイツの思想に同調してしまったことはショックだし、知能の高い高学歴の人たちもカルト宗教の教義を信じてしまう。才能や技術をもったクリエイターが人種差別的な発言をする。それは思想に対する免疫と知性は必ずしもイコールでは無いということなのかもしれない。
僕たちの使っている言葉の性質は、病原菌と免疫の関係に似ているように思う。屈強な身体を持った人間でも、免疫の無い病原菌に感染したら命を落とす。それと同じように、知能の高い人も耐性の無い思想をそのまま受け容れてしまう。
全体主義や独裁を警戒できるのは、これまでの歴史から学ぶことで危険な思想に対する免疫ができるからだ。だが免疫が全くない状態でファシズムのような思想に触れたときには、自分はどんな反応をするのだろう? ……ということについて考えていた。
免疫が無い以上は、病原体を寄せ付けないように手洗いうがいをしっかりして、あとは病気にならないように祈るしか無い。それ以前に、目の前の思想が害を及ぼすものか否かはあとになってみないとわからない。
そう考えてみるとある思想やイデオロギーに影響されるのは、そのときの運や環境による要因が大きいのかも知れない。その時々の運や巡り合わせで、差別主義者や社会主義者、ファシストや環境保護主義者や人道主義者になったりする。
僕たちはよく「ある政治思想やイデオロギーを持つ」と言って、思想を所有物のように見なしているけれども、それは違う。
人間が自由意思で思想を選ぶのではなくて、思想それ自体が人間をミームを複製するための道具として利用しているのではないのか。風邪を引いた人がくしゃみをして病原体を飛沫感染させるように、口からは政治的発言が飛び出すようになる。そういう風に見えることが多い。

・自分はイデオロギーという言葉を「言葉が現実を超過した状態」として扱っている。目の前にあるものをそのまま見るよりも、「AはBである」という言葉のほうを信じて、その言葉に沿うように現実認識を変形させるようになったら、どんな種類の信仰や思想を抱いていても関係がないと思う。


・ガワは西洋だけれども内面的には日本人的な感性の作品

よく西洋ファンタジー漫画や中世ヨーロッパを舞台とした漫画に、キリスト教の狂信者が出てくる。「神の教えは絶対なのデス!! 異端者は悔い改めるのデス!!」みたいな価値観のキャラクターだ。たしかベルセルクにこんなキャラがいた。
キリスト教圏ではない日本社会から、こういうタイプの狂信者のイメージが出てくるのは不思議に感じられる。外見こそキリスト教や西洋ファンタジーだけれども、この狂信者のイメージは自分たちの文化から生まれたものだ。
この種類の狂信者キャラは、宗教の皮を被った自分たち自身の影ではないのか? 所属する組織の価値観を完全に内面化して、個人として考えることを放棄するのは、きわめて日本人的だと言っても差し支えないのかもしれない。
この「神の教えは絶対なのです!」の価値観が政治主張にスライドすると、「党の教えは絶対なのです!」になる。自我を放棄するようなカルト宗教的な信仰と、自立した個人としてある特定の思想を担うことの区別がついていない。自己の判断を停止して組織の価値観を絶対視するという行動原理で動いているから、宗教も政治も同じものになってしまう。
『辺獄のシュヴェスタ』も、ガワは西洋だけれども内面的には無茶苦茶日本人的な感性なのかも知れない。展開が熱くて、6巻でまとまっているので読みやすい。今すぐ読もう!(※唐突なダイレクトマーケティング)


・せいぜいがんばれ!魔法少女くるみ

せいぜいがんばれ!魔法少女くるみの二期オープニングが熱い。ハイテンポな曲構成で開始から二〇秒後にサビに入る。ただでさえ情報量の多い魔法少女もののOPを圧縮してさらに1.5倍速ぐらいの速度でぶち込んでくるので、脳みそがオーバーフロー状態になって変な快楽が生まれる。ほとんど音と色彩の暴力と言っても過言では無い。カルピスの原液を直接血管に注射されているような視聴経験だ。
本編は魔法少女パロディ馬鹿アニメなのだが、オープニングが魔法少女ものやアクションのツボを的確に押さえているので見ていて気持ちがいい。
一期最終話でピンチのときにかつてのライバルが駆けつけてテーマソングが流れ始めるのだが、理性が展開に突っ込むよりも先に、身体が熱くなってしまう。王道展開には抗えない。
絵の可愛さとOPの疾走感とカオス展開と低予算感とパロディと得体の知れないテンポと熱量から言うと、ほとんど女児向け魔法少女アニメだ。昨今の女児向けアニメに足りないカオスなエッセンスがある。
女児向けアニメの色彩で殴られる感覚が好きなのだが、魔法少女くるみはそこから馬乗りになって追撃してくる感じだ。中毒性しかない。


・ダークゲーミング

デリケートな話題に対して、何の考えも無く「カスタム従軍慰安婦3D2」などと言い始めるのでマイクロブログが使えない。地雷原でタップダンスしていた方がましだと思えるぐらいにはリスクマネジメントができない。
カスタム従軍慰安婦3D2は好みの従軍慰安婦をキャラメイクしてF***するというエロゲーだ。若年層に従軍慰安婦問題への興味を持ってもらうために、艦隊これくしょんやガルパンと同じ戦争×萌え文化の文法を用いて従軍慰安婦を美少女化した。
プレイヤーは満州で娼館を運営して、事業規模を拡大していくのがゲームの基本的な目的だ。お客様の要望どおりの慰安婦を用意すれば、娼館の評価が上がっていく。
あまり資金が貯まらないときの攻略法は、そのへんの中国人や朝鮮人を捕まえて、ステータスを体力に全振りにしたあとに大日本帝国軍に送りつければオーケーだ。戦後に加害責任を追及されないように、資料を焼いて証拠隠滅をしないとバッドエンドになる……というような話をし始めるので、おとなしく黙っていた方がいい。
VR対応版である「VRカスタム従軍慰安婦3D2」が発表されたあと、VRを体験するために男たちが長蛇の列をつくるのが、その場面が慰安所を利用する旧日本軍兵士と彷彿とさせるなどの点で社会問題になり、速攻で脅迫電話が掛かってきて展示が中止になった。

人類史の邪悪な事件や施設を観光資源として活用する、ダークツーリズムという手法がある。それと同じコンセプトで、歴史の暗部や目を背けたい出来事をゲームにして社会的な関心を維持するダークゲーミングがあってもいいのではないの。
イラク戦争を題材にした戦争ゲーム『Six Days in Fallujah』は、遺族から非難の声が上がって開発が中止になった。

日本にいると中東の戦場や町並み、軍事行動に関わる人たちがどのような環境に置かれるのかということがいまいち理解できない。もし改憲されたあとに自衛隊が海外派兵されるようになれば、危険な職務に従事しなければならなくなる。だが、それが具体的にどのようなものなのかを自分たちは理解できない。断片的な映像や、妄想に近い中東のイメージに基づいてしか議論できない。
ゲーム内にリアリティのある町並みを再現するために綿密な取材を行っているとすれば、その部分には資料としての価値があるはずだ。
悲惨な現実をより良く理解するためのツールとして、バーチャルリアリティや戦争ゲームを利用する。それがダークゲーミングの骨子だ。書物や映像だけのメディアに頼るだけでは無くて、ゲームという媒体を上手く使う。
ゲームが戦場や暴力をイージーなものに錯覚させる面が無いとは言わない。戦争を題材としたゲームには、ユーザーに悪影響を与えるのではないのかという懸念が根強い。鉛弾で敵を殺していくのではなくて、命を大切にして育んでいくゲームがないとバランスが取れない。命を育む行為といえばエロゲーの独壇場だ。
そこまで考えて「カスタム従軍慰安婦3D2」と言ったわけではないし、ダークゲーミングのアイデア自体が後付けの産物なのだが、やっぱり何も考えないままに適当な発言をするのでSNSのたぐいからは距離を置いたほうがいい。
それはそうと、東京オリンピックで何人死ぬか賭けるギャンブルを導入することで、カジノ誘致政策を盛り上げていく案なのだが……


・正義エンジン。

僕たちには正義エンジンが搭載されていて、悪を目の前にすると簡単に正義感が動き始める。タイムラインを開いて、時事問題に正義感を刺激されて、良識的なコメントする。
正義エンジンには他者の正義感を刺激するという延焼機能が備わっている。リツイートやシェアを駆使して、他者にも同じように正義感と義憤を抱いて欲しいと願うようになる。
正義エンジンは人間にとって自然なシステムだが、ソーシャルメディアとの相性は最悪だ。ニュース記事や政治の話題は正義エンジンにとって格好の燃料になるので、正義エンジンが過剰反応しないように環境を整える。

・時事問題や最新ニュースをフィルタリングする。
政治家が失言をしたり、痛ましい事件を扱ったニュースは正義感を刺激しやすい。特にシェアされてきたニュースは他人の感情エネルギーによって炎上している場合が多い。怒りが飛び火してきて行き場の無い感情を抱えることになるので、インターネットで時事ニュースを見るのは悪手なのかも知れない。
新聞や雑誌などの紙メディアは、正義エンジンの延焼を抑えられる。情報をシェアする方法が無いので、怒りや正義感を拡散する方法が無い。

・コメントまとめ系をフィルタリングする。
2chまとめやTogetter、はてなブックマーク、Yahoo!ニュースコメント欄などの媒体は、ニュースが餌でコメント欄が本体になっている。ニュースを見ているつもりでも、いつの間にかコメント欄に目を通して不快な気持ちになる場合が多いので、コメント欄を消してしまうか、サイト自体をフィルタリングした方が幸せになれる。

・SNSをやめる。
SNS経由で回ってきた情報は、感情を揺り動かすエネルギーが高いものばかりだと考えた方がいい。人間の感情を強く喚起するトピックでなければ、広範囲に拡散されないからだ。SNSのタイムラインに集まるのは、質の高い情報では無くて、共感性の強いメッセージや感情を力強く揺さぶるものがほとんどになる。

・延焼効果を抑える。
情報に接するときに、自分の正義感がどのように刺激されるのかを観察する訓練をする。これはマインドフルネスの応用で、「いま自分が何を感じているのか?」を客観的に認識する方法だ。
ある情報を受け取ったときに、自分の感情がどのように反応するのかを観察する。それは自分にとって好ましいものか、それとも不快なものなのか、生まれた感情がどのような効果を及ぼすのかを、客観的に観察する。

・百合豚になる。
怒りを抑えるためには別の強い感情で魂を満たす必要がある。それは愛であり、慈しみであり、誰かの幸福を願う善なる心だが、それらすべての感情を人類は百合と呼んでいる。
空虚な魂を埋めるために怒りや正義感、ねたみや呪詛が入り込んでくるのだが、あらかじめ愛と慈しみで魂を満たしておけば邪悪なものが入り込んでくる隙は無くなる。悪魔が人間を誘惑するのはいつも、神への信仰を疑ったときだ。
ヘイトに打ち勝てる唯一のものはリベラル思想ではなくて百合だ。いますぐ百合豚になって自分の魂を正義感やヘイトから守ろう!


・「6÷2(2+1)」

「6÷2(2+1)」の答えを1にしてしまうのだが、「2(2+1)をひとつの数字として扱う」という計算ルールをどこで身につけたのかが気になる。プロセスの正誤はひとまず横に置いといて

……という優先度設定をどこで身につけた。
頭の中で教師が「6÷3×2という風に間違えて計算しやすいですが、2(3)は2×3ではなくて、この数式自体をひとつの数字として扱わなければなりません。もしそうなら「6÷2×(2+1)」と書いたほうが誤解が無いですよね? なので先に2(3)を計算する必要があります」と囁いていて、この優先度を新興宗教に洗脳された信者のように信じ切っているのだが、どこで覚えたのかさっぱり思い出せない。
でも自分が間違っていると思いたくないから、これまで信じていた計算方法に縋りたくなり、答えが9派を糾弾したくなってしまった。計算を間違うのは別にいいのだが、信じていることをいったん保留する行為のほうが難しいのかもしれない。
恐ろしいのは同じCASIOの関数電卓でも機種によって答えが異なるという点だが、誤解が無いようにしたいのなら6÷2×(2+1)と書けばいいだけじゃねえのか、と思ったのでこの問題はおしまい。


・お詫びと訂正

先日、このブログでの「早く家に帰って寝たい」発言が政治的扇動に当たるのでは無いのかというご指摘を受けました。資本主義社会に搾取されているという意識を国民に芽生えさせ、権利意識の啓蒙を促し、人々に反資本主義的な価値観を植え付ける社会主義プロパガンダであり、政治的中立性を損ねているのではないのかという誤解を与える可能性があるため、この発言は「十分な休息を取り、明日もお国のためにご奉公したい」と訂正させていただきます。不要な誤解を与えてしまい、誠に申し訳ありません。今後はこのような政治的に中立では無い発言が無いように気をつけていく所存です。


・テクノロジー青い鳥

ハードディスクとSSDを統合してドライブを高速化するStoreMIという技術があるのだが、思ったよりも使いにくい。よく使うファイルをSSDに移動してパフォーマンスを向上させるというメリットはあるが、デメリットも大きい。いちどディスクを統合すると別のOSからはドライブの中身が見えなくなってしまうし、設定を解除するのにも時間がかかる。ドライブを二つ使うので、片方が故障するともう片方にもアクセスできなくなる。
これまではLinux用SSDとStoreMIで結合したWindows10(SSD+HDD)だったのだが、Linux用SSD、Windows10のシステムドライブ用SSD、共用データドライブHDDのほうが柔軟性があるのではないのかと思ったので構成を変えた。
勘違いしないで欲しいのだが、StoreMIが使い物にならないという話ではない。HDDにWindows10をインストールしているときには、安価な120GBぐらいのSSDを使って手軽に高速化できる。Ready Boost的な使い方だ。
運用には気を遣うが、HDDが余っているとか、大容量のSSDを買う予算が無いというようなときにはピンポイントで役に立つと思う。金のあるやつは大容量SSDを買え。
しかし色々試したあとにデフォルト設定や最初の地点に戻ってくるのはテクノロジー青い鳥よね。いろいろとLinuxのディストリビューションをインストールしたあとに、最初に選んだLubuntuに戻ってくる。
比較検討した結果、最初に直感で選んだものが一番良かった。その確信を得るためだけに私たちは、よくわからない新製品や技術を性懲りも無く試すのかも知れない。


・ダニング=クルーガー効果を誤用して、無能さから自信と自己肯定感を得る。

・* 「無能な人だけが自分を過大評価する」は間違い、本当は平均的な人でも自分を過大評価する - GIGAZINE

ダニング=クルーガー効果は「無能な人だけが自分を過大評価する」という本来の定義を外れて、「頭の悪いやつは自分の知能に見合った自己肯定感を持つべきだ。無能な弱者が苦しんでいても、それは正しい自己認識なのだから仕方が無い」という言外の意味が生まれているような気がする。
記事のグラフから読み取れるのは、「平均的な人間も自己を過大評価する」のではなくて、「みんな自分が中の上だという幻想を持っている」だ。どんな人間でも、ちゃんと平均的な自己肯定感を持っている。
人間は自尊心やナルシシズム、自己効力感が無いと生きていけない。有能で、社会の役に立ち、価値のある人間だという幻想無しには耐えられない。知能レベルを客観的に評価できるやつは、下の中や下の下という否定的な自己認識にさいなまれて自殺してしまい、遺伝子プールからは取り除かれた(たぶん)。

かしこい人間であれば「ダニング=クルーガー効果に陥って、自分を過大評価しないように気をつけよう」と思うはずだが、この認知のゆがみを有効活用すれば、頭が悪い故に、無限の自己肯定感と自信を手に入れられるのでは無いのか。
慢性的に自己評価が低くても、「頭が悪いってことは、身の丈に合わない自己肯定感を持っても咎められることでは無いよな」と思える。
ダニング=クルーガー効果を曲解すればそうなる。客観的に自己分析をして自殺に追い込まれるぐらいなら、自分には価値があるという幻想を間違いだと知った上で信じる。頭が悪くて無能な人間だけど、ダニング=クルーガー効果を利用して身の丈に合わない自身を持って生きよう!という話だ。
これは現代の認知心理学的錬金術だ。糞から黄金を生み出すのは不可能だが、愚かさを原材料にして自信を得られればおもしろおかしく生きられる。頭が空っぽな人間が脳みそに詰め込める数少ない夢。それがダニング=クルーガー効果である。


・狂人チェック

自分の気が狂っていているのではないのか?とふと思ったのだが、気が狂っている状態を客観的に理解するのは難しい。
個人的な狂人の定義は「自分にしか通じない論理で思考を組み立てる」ことだ。狂人は端から見ると支離滅裂なのだが、頭の中には自分にしか理解できない常識と論理展開がある。社会の多数派と思考の前提条件を共有していないために、気が狂っているように見える。
気が狂うというのは思考が支離滅裂になるのでは無くて、主観的には冷静で論理的な精神状態なのかもしれない。
「実は地球は球体じゃ無くて、四角形なんだよ」と言われても、精神が健常な人間なら「そんなはずはない」と思う。統合失調症の患者が、荒唐無稽な妄想の誤りを指摘されたときの感覚はこれに近いものであるという。力尽くで妄想を捨てさせるのは、自分たちが地球を四角形だと信じるのと同じぐらい困難だ。
自分が狂人かどうかのチェックリストを作って、正常な精神状態を保とうとするのもそれはそれで狂人の一ジャンルという気もするので、他人に危害を加えない限りはすこしぐらい気が狂っていてもいっかー☆ という気持ちになっていた。 狂気から逃れることが不可能でも、すでに頭がおかしくなってとしても、人畜無害な狂人にはなれる。というか、地球は球体で間違いないんだよな? 自信が持てなくなってきた……。


・京アニ放火と承認格差社会と非モテ。

SNSの普及によって、より多くのアテンションとfavを集められる承認貴族と、誰にも見向きもされない承認貧困層の格差が前景化したのではないのかと、京アニの事件を観ながら考えてきた。
米国のインセルとか日本の非モテ論壇(懐かしいワードだ)はルックスによる格差だったのだけれども、今度は格差の基準が「人からうらやまれるものを持っているのか?」になった。そーすると京アニ社員というのは才能もあって、努力もしていて、社会から評価されているという点で承認格差社会の頂点にいるのでは? そこから引き起こされる劣等感が犯罪の原動力になったのかも……というような話。
「女はしゃっつらしかみていないので、おれの本当の良さを知らない」と言っていた非モテ論壇にはまだ逃げ道があったけれども、「おれは誰にも見向きもされない」という事実が突きつけられるSNS全盛社会はわりと冷酷ではない?
つながりが日常化することで、逆につながっていないこと、誰からもレスポンスがないこと、自分が取るに足らない存在であることのほうが浮き彫りになる。

当時は非モテ論壇を遠くから眺めていたのだが、なんでコミットできなかったのかというと、それが「自分が幸せになることを許さない思考」だったからだ。女なんかいらない!おれは.jpgで十分だ!という価値観は、自分が幸せになったとたんに崩れてしまうし、その思考に一貫性を持たせようと思えば不幸な環境に留まらざるを得ない。
当時、本田透という作家が非モテ思想を語っていたのだが、いまではWebサイトの更新が停止している。前とやっていることと言っていることが違っていてもいいから、家族とか作って幸せに暮らしていて欲しいよね。


・プリキュア選2019

・フレッシュプリキュア
作画や低予算感がいまいちだが、ラブとせつなの戦いはプリキュア史に残る傑作だ。誰だよ、ラブせつが百合だって言ったやつは!これは迷い苦しむ人間と、無限の愛を注ぐ神の関係性を描いたものだ!
欠点があるとすればラブせつの尊さの前に、すべてのプリキュアカップリングが霞んでしまう可能性があると言うことだけだ。
追加戦士キュアパッションの変身シーンが洗礼モチーフだったり、登場人物のネーミングが新約聖書から付けられているなど、何かと宗教モチーフの強いプリキュアだ。

・Go!プリンセスプリキュア
シリーズ構成がしっかりと組み立てられていて、自分が知る限りもっともバランスのよいプリキュアシリーズだと太鼓判を押せる。登場人物の数も多すぎず少なすぎず、全50話という尺のなかに必要なものが過不足無く詰め込まれている。さいきんのプリキュアシリーズはキャラや扱っているテーマが多すぎるせいで消化不良をおこしがちなのだが、プリンセスプリキュアには構成に一本の筋が通っていて、中だるみすることがない。
必要なものが必要な場所にある、という異様な感覚に襲われるプリンセスプリキュア。どの展開がいいのか、すばらしいのかというのは些細な問題だ。だって全部いいんだもん。まちがいなく女児向けアニメの最高峰だ。

・映画版プリキュア選2019
時間の無い現代社会。一シリーズ50話を追う余裕の無い人間にも、プリキュアは救いの手を差し伸べる。わずか一時間の尺に詰め込まれたプリキュアのエッセンスが、容赦なく涙を搾り取る!
初心者はこのあたりからプリキュアの門を叩くのがよいだろう。何かしら魂に響くものを感じたら、そのときにはテレビシリーズへと移行していくのだ。

映画魔法つかいプリキュア!奇跡の変身!キュアモフルン!
映画ハピネスチャージプリキュア!人形の国のバレリーナ
映画 HUGっと!プリキュア♡ふたりはプリキュア オールスターズメモリーズ



・「より感情を強く揺さぶる情報がいいニュースである」という価値観について。

地上波のニュースに占める感情の比率が高くなっているように感じられた。
京アニ放火事件や韓国輸出規制、オリンピックなどのニュースを見ているときに、「感情を過度に揺さぶられているのはどうしてだろう?」と思っていた。客観的な情報を伝えることよりも、情緒に訴えることを優先した映像構成になっている。
それはマスコミの劣化ではなくて、ニュースの質を評価する基準が変わってしまったからではないのか。
「より感情を強く揺さぶる情報がいいニュースである」という価値観が、ニュースの質を評価する基準になっている。感情を喚起して、SNS上で拡散しやすい感情的なニュースのほうが高く評価される。そのことで、現実で起きている出来事を冷静に俯瞰するための情報がないがしろにされるようになった。
自分がマスメディアに感じている違和感は、「より多くの人たちの感情を、強く喚起できる情報こそがバリューのあるニュースである」という価値観を受け入れられないからだと思う。

対処方法としては、下記の三点ぐらいしか思い浮かばない。 ・ニュースを映像で見ない。(刺激が強く、感情を揺さぶられるから)
・なるべく文字情報でニュースを読む。
・ニュースを情報と感情に分離して、感情に影響を及ぼす部分を捨てる習慣を身につける。

けれどもネット上で飛び交う反応は映像に劣らず情緒を刺激されるので、それからも距離を置いた方がいいのかも知れない。


・感情の渦から距離を置く。

京都アニメーション放火事件のニュースに反応しないように、一歩距離を置いていた。
気を抜くとすぐに感情の渦に飲み込まれてしまう。理不尽さへの怒りや恐怖、悲しみ、犠牲者を弔う気持ちがSNSで増幅されて、感情をコントロールできなくなる。 自分一人が感情を表明するだけなら問題は無い。怒りも悲しみ自体には害は無いのだが、無数の人たちが発した感情がソーシャルメディア上で互いに共鳴・増幅しあって、台風のような激しい感情の渦を形成する。
その渦に触れたときに、自分の感情がどのように反応するのかということを観察していた。感情を分かち合おうとするのは人間にとって自然な行動だけれども、死者を弔う気持ちと、ネットで増幅されたセンチメンタルな感情は別のものとして扱った方がいい。
一体感を共有するために、死者を出汁にするのは冒涜だと思っている。死者のためにという言葉を振りかざして、自らの行動を正当化するときがある。
みんなが感情的になっているときにこそ、なるべく感情の渦からは距離を置く。その行動パターンを普段から身につけておいた方がいい。理不尽な事件に対してカタルシスを求めることと、志半ばで無くなった死者の魂を鎮める儀礼は異なっている。


・アニメーションと死者の鎮魂。

この事件はアニメーターや職員、スタッフが犠牲になっただけでは無くて、京アニの作品を観ていたゼロ年代から今までの歴史まで傷つけられてしまったように思えて、他の殺人事件には感じることの無いもどかしさを感じている。
京アニも元々はKeyのギャルゲーを原作愛に溢れたアニメにしていて、「ギャルゲーのアニメ化は京アニが至高、リトルバスターズは京アニじゃないと嫌だ」という声がよく聞こえたものだった。そのときの京アニは技術力はあるけれどもオリジナルアニメはいまいちな会社だった。悪い言い方をすれば、ギャルゲーアニメ化下請け会社扱いされていた。その評価を覆すために原作ものと平行して、中二病でも恋をしたい!やヴァイオレット・エヴァーガーデンなどのオリジナル作品も手掛けていった。
ゼロ年代はエロゲーオタク向けの商売をしていたのだが、いまでは一般層にも届く作風のアニメを作っている。着実に歩んできた一歩一歩を知っているから、ただ人が殺されたのではなくて、これまで積み重ねてきたものへの冒涜に感じられた。
犯人を恨む気は無いのだが、もう以前と同じような気持ちで京都アニメーションの作品を観るのは難しい。自分と京アニ作品との思い出に泥をかけられて穢されてしまった。
どの作品を観ても事件と犠牲者のことを思い出して、純粋に内容を楽しめなくなる。「これは事故で犠牲になった人の作品だ」という意識が、スタッフがアニメに込めた想いを塗りつぶしてしまう。物理的に建物を人名を損なっただけではなく、京アニが手掛けた作品そのものにも呪いが掛けられてしまった。
その呪いを解くのはアニメーション以外にはない。
スタジオを建て替えて、新体制で作品作りをして、新しいアニメーションを制作する。その作品のスタッフロールを見終えたあとでしか、この事件に区切りをつけられない。
京都アニメーションは死者の魂を鎮魂する義務を背負ってしまった。「私たちは大丈夫です。志半ばで犠牲になったあなたたちの意思を受け継いで、これからもアニメを作っていきます。ですので安らかに眠ってください」という姿勢を示して、死者の魂を弔えるのはアニメしかない。
過去に区切りを付けるための作品を作ることでしか、「忌まわしい事件を乗り越えて元通りの日常を取り戻した」という実感を得られない。それはスタッフの話だけでは無くて、立ち直った京アニ作品を再び観るまでは、一視聴者に過ぎない自分たちも割り切れない気持ちを抱えたままになる。
何年後かに京アニがアニメの新シリーズを発表して、忌まわしい事件が「乗り越えられた過去」になるといいよね。


・SNSを使うのは極力控えています。

短い言葉で現実を雑に切り捨てる思考方法に慣れ親しむのは、好ましい言語運用だとは思えないからです。僕たちは自分の言葉を喋っていると言うよりも、フォーマットに合わせた形で自らの思考を変形させることの方が得意です。自由に思考しているつもりでも、媒体に合わせて言葉の使い方や思考、現実認識が変わっていきます。
僕がこのブログで長い文章を書くことにこだわっているのは、「わかりやすさ」に警戒心を抱いているからです。200文字程度の短いフォーマットに慣れ親しむことで、「わかりにくいものを複雑なまま扱う」思考力を無くすのはいい取引だとは思っていません。
短い文章でのアウトプットを繰り返している間に、使っている言葉は自然と感情的なものや、わかりやすく現実を単純化するものになっていきます。コミュニケーションの簡便さと引き替えに、ややこしい現実を複雑なままで受け止める力や、一言では言い切れない事柄をどうにかして相手に伝えようとする努力を失っていきます。
長くて複雑であればいいというものではないのですが、「わかりやすさ」には危険な側面があると思っています。複雑なものを整理して飲み込みやすくするようなわかりやすさであれば、問題はありません。ですが、現実の複雑な部分をそぎ落とした「偽物のわかりやすさ」がSNSの文章に多いような気がします。
それは複雑な現実をわかりやすくしたのではなくて、理解しやすいように現実を歪めているからです。短い言葉で何かを語るときには、説明のために細かい部分をはぶくときがあります。それでも、わかりやすさを優先するあまりに現実を無視してしまうのだとしたら、その言葉は僕たちにとって有害なものだと思います。


・思考と反射。

自分が思考しているのでは無くて、「ある特定の話題に、定型的な反応を返す」だけになっているのではないのか?と思うときがある。「時事問題に対して、良識的な正論を返す」という風に、思考ではなくて脊髄反射でコメントを書き込むようになっているのではないのか?と、マストドンをしながら考えていた。
自分では思考しているように錯覚するのだけれども、「Aのインプットに対して、Bをアウトプットする」という定型的なレスポンスしか返していない。ただそれだけの反応で終わってしまう。
「この話題に対して反射的に○○と反応したくなるんだけど、これでいいのか? もっと別に言うべきことや考えるべきことはないのか?」というプロセスを意識的に立ち上げないと、定型的な反応に堕してしまう。
SNSで短いコメントを大量に吐き出していても、思考したことにはならない。けれども短い言葉しか表現できないサービスを使っていると、自分の思考が140文字や数行に収まっても問題ないレベルにまでそぎ落とされるような気持ちになる。
人間の思考はフォーマットに合わせて最適化される。考えたことを表現しているのではなくて、使っているツールに合わせて思考のあり方そのものが変形する。喋り言葉、手書き、ワープロ、ブログやSNS、パソコンやスマホ、テレビなど、表現するメディアによって思考は最適化される。
自分で考えているつもりでも、使っているツールに合った形で思考しているに過ぎない。別のツールを使えば、表現の方法も出てくる結論も思考の流れも変わってしまうのかも知れない。


・合法的に摂取できるドラッグが百合しかない。

缶チューハイのアルコール度数が上がっているのを見て、破滅の仕方まで資本主義経済に取り込まれるような気持ちになる。酒を飲まなくなって、低価格アルコール飲料が脳を麻痺させて苦痛を和らげる味付き化学物質にしか見えなくなった。アルコール飲料にコスパを求めるのはよくないという気持ちがあり、オーバードーズには合成酒を使わないという掟を遵守していた。
あとはラーメンのスープはナトリウム水だと思うと、飲み干す気が無くなるのでおすすめだ。
酒もたばこも脱法ドラッグも処方剤のオーバードーズにも頼れなくなったので、百合以外に精神を安定させる薬物が無くなった。相手のことを心の底から求める渇望と、薬物の禁断症状は似ているので実質的に同じようなものだ。
以前は苦痛を鈍麻させるために薬物やアルコールに頼っていたが、百合世界に満ちた幸福に触れるためには明晰な意識を保ったままでいなければならない。百合でおんなのこ同士がいちゃいちゃしているのをみると、違法薬物の手を借りなくても精神が高揚してくる。幻覚剤に頼らなくても天国のような光景が見える。百合が違法薬物の完全な上位互換であることは明らかだろう。
ただ「ソフトな描写ならBLもいけるんじゃね?」と思い始めて、ハードコアなかんじのBL界隈に迷い込むことも多い。ゲートウェイドラッグ理論だ。


・ソドム館山にはゴモラ猫松という生き別れの双子の姉がいる。

※このブログにたびたび登場する謎の漫画家・ソドム館山先生に関する外伝。

ソドム館山にはゴモラ猫松という生き別れの双子の姉がいる。
彼女は『クマのプーさん~僕の蜜壺に乱暴しないでよぉ~』が、習近平およびに中国共産党への体制批判であると誤解され、身柄を拘束された。ちくしょう、こんなことになるのならクマのプーさん同人誌ではなくて天安門を題材にするべきだった!と思っても手遅れだ。ゴモラ猫松はウイグル地区にあるBL作家思想矯正巨大刑務所に収容された。
中国では個人出版は犯罪である。市民が表現の自由を行使するのは許されていない。体制批判もBL同人誌も中国共産党の元では等しく禁止される。
民主主義的な価値観を抱いて反政府活動に手を染めるのも、エロ同人を執筆するのも同じ思想犯として扱われる。もし刑務所から脱獄できるようであれば、政治的な主張をして捕まったと答えても間違いでは無いはずだ。
ただひとつの幸運があるとすれば、BL作家思想矯正巨大刑務所には、中国同人誌界隈の猛者たちが集っていることだった。検閲をかいくぐるためにショタBLの登場人物を男の娘にして、百合だと偽装させいてたミニョン斉藤、中国キッズ向けホビーアニメで行き過ぎた友情を描いてしまったトレミー津田山の三人は同室で反政府BL同人サークルを結成する。気分は三国志だ。
中国のエンターテイメント産業が発達し、オリジナルアニメーションを自国で製作することが可能になった。マンパワーを活かした作画クオリティでいえば日本を上回っている。コンテンツ産業が勢いを増せば、自然と視聴者の間に「二次創作がしたい!」という欲求が芽生える。同人活動や個人出版が禁じられているというフラストレーションは中国政府へと向かう。
この後の展開が思いつかないのでここでおしまい。つ・づ……かないよね?


・パソコンの技術を習得できる自然な導線が無い問題。もしくはインターネット老人会。

自分がパソコンを使い始めたときには、遊びながら基本的な操作を覚えられる導線が用意されていた。 コンビニ売りのパソコン雑誌にはCD-ROMが付いていて、フリーソフトや市販ゲームの体験版、アダルトゲームのサンプルCGが詰まっていた。
まず最初に覚えなければならないことは、圧縮されたデータの解凍だ。解凍するためには、どの形式で圧縮されているのかを把握しなければならない。そのためには拡張子という概念に触れる必要がある。DLL(ダイナミックリンクライブラリ)をインストールする場合もある。そもそもなんでWindowsってデフォルトで拡張子を非表示にしているのだろう。
キーボード入力でゾンビを倒すタイピング・オブ・ザ・デッドの体験版で遊んでいれば、タッチタイピングの基礎が身についている。PC雑誌の記事通りにソフトをインストールすれば、それなりにパソコンを扱えるようになるというのは、理想的では無いにせよ恵まれた環境だったのかもしれない。
じゃあこの時代(2019年)で、基礎的なPCスキルを楽しんで身につけるにはどうしたらいいのだろう?……ということについて考えていた。パソコン操作のお勉強ではなくて、おもちゃやゲーム機の延長線上としてパソコンで遊ぶ。
スマホでなんでもできるんだから、わざわざパソコンを使うモチベーションは湧きにくい。そもでもほんとうにPC雑誌が少なくなってしまったなーと、書店の本棚を見て寂しい気持ちになる。


・言葉の彩度について。

数年ぶりにTwitterのアカウントを取得したのだが、タイムラインに流し込まれる言葉の渦を見て吐き気を催してしまった。何人もの人間の言葉が細切れになって、脈絡も無く画面に映し出されている。そのとき話題になっていた時事問題についてのコメントがずらっと24インチのディスプレイに表示されている。文脈を欠いた言葉の断片しかない。思考の流れは断ち切られ、文章の構造を持たない感情の群れになる。そんな感覚を覚えてしまったので、タイムライン型のSNSを使いたくない。
文章にはパラグラフがあって、流れがあって、構造がある。主要なトピックがあり、最初のパラグラフで書ききれなかった部分を補足する文章があり、結論がある。ときには一つの主題を基点にして、まったく異なった話題に転調していくことも珍しくない。
文章の構造性が破壊されて、細切れになった言葉の残骸だけが残される。強い感情を未加工のままで垂れ流したような、彩度の強い言葉だけになる。言葉には色彩があるように自分には感じられる。とげとげしい感情をそのまま表現すると、言葉は彩度が高くなりすぎて調和を失ってしまう。
ぎらついた配色デザインのポスターを見ていると、目に色彩が刺さる。彩度の高い感情的な言葉を目にすると、それが脳みそに不愉快な方法で刺さってくるように感じられるので、SNSで使われている言葉にはあまり近づきたくない。
短い文章で言葉に強度を持たせるためには、どうしても感情的な言葉に頼らなければならない。皆が強い感情のこもった言葉を使うから、過度に感情的な言葉でタイムラインが埋め尽くされる。その感情の群れに飲み込まれるのは、あまり心地の良い感覚ではない。

・これから求められる言語運用スキルは、「感情の群れを操作する」技術ではないのか。
スマートフォンとSNSの普及によって劇的に変わったのは、言葉のあり方だ。これまでは一人の人間が書いた文章がメジャーなものだった。構造があって、最初から最後まで一人の人間が書いた一貫性のある文章を読んでいた。けれども、いまでは「感情の群れ」が支配的な言葉の形になった。何千人、何万人、何百万人もの人間が生み出した断片的な感情が群れになる。
牧羊犬が羊の逃げる方向をコントロールするように、インターネットユーザーの感情を刺激して、群れをひとつの方向へと誘導していく。影響力を駆使して感情を喚起し、自分が望む方向にエネルギーを動員するような言語運用スキルが重要になる。
これまでは自分の言葉を増やすためには、テレビ放送や出版の力を頼る必要があった。でもネット上で自分の影響力を増すためには、他者の感情をハックした方が早い。感情を煽り、群れを操作することで影響力を増す。
「共感が大切」だと言われるのは、それが感情をより効率的に複製できる手段だからだ。
でも自分たちは影響力を行使する側ではなくて、追い立てられる羊の方にいる。何かしらの目的のために動員される側、誰かにとって都合のいい道具の側、操作される側、マーケティングの対象になる側にいると思うのです。


・観念を外部に投影するのをやめる訓練。

※いつにも増して抽象的な話です。
生老病死に関しては逆らっても仕方が無い。生まれ、老い、病気になって死ぬ。それは避けられないことなのだが、問題はそれ以外だ。
なるべく時代の流れには逆らわないようにして生きていきたいし、変えられないものを無理に変えようとするような愚かしさからは逃れたい。でも何が変えられないものであるのかを決めるのは、自分では無い。変えられないものを抵抗せずに受け入れることと、変えられるものを諦めてしまって従属することは表面上は似ているのだが、その区別ができない。
「現実はそういうものだよ」……とはじめから諦めて、すべての理不尽を受け入れられるのならば悩まない。
「こうあるべきだ」という脳内妄想に近い理想を、世界に無理矢理押しつけるから苦しくなる。
「社会はこうでなければならない。今現在の状態は非合理的で間違っている。それゆえに正しく変えなければならない」。そう考えるのは正しいのかもしれない。実現可能性が乏しい理想像を社会に投影しているだけなのかもしれない。努力すれば変えられるものなのかもしれない。現実と理想のギャップから目を背けて、ただ理念ばかりが先行しているだけなのかもしれない。変えられる可能性がないのに、偽物の希望を抱いているだけかもしれない。
でもその区別ができない。「かみさま、私にお与えください。変えられないものを受け入れる落ち着きと、変えられるものを変えていける勇気と、その二つを見分ける賢さを」という祈りがある。神に祈りを捧げるのは、変えられるものと変えられないものを見分けられないからだ。変えられないものを変えられると錯覚したり、逆に変えられるものを前にして最初から絶望する。
「世界はこうでなければならない」や「社会はこのまま変わらない」というのは客観的な価値観では無くて、自分の観念を外部に投影しているだけなのかもしれない。自分の頭の中にしか存在しない正しさを外側に押しつけたり、反対に根拠の無いまま絶望しているのだが、自分では見分けがつかない。それらを変えられるものを変える勇気や、変えられないものを受け入れる落ち着きだと勘違いしていることも十分あり得る。
もしそうだとしたら、自分自身の判断は信用できないのでは無いのか? 頭の中の観念を外部に投影して、喜んだり失意を抱いているだけのように思ったから、自分勝手な判断で見えている世界の性質を決めつけないようにしたいなー、と思った。
何を言っているのかわからないと思うのだが、自分でもまだ整理し切れていないのでややこしい言葉遣いをしているのは理解している。
変えられるものと、変えられないものを見分ける能力が自分には無い。動かせる部分は動かすし、力を入れても容易に動かないものなら放っておく。この世界も可動範囲の中でしか動かないから、動く部分を探してそこだけを動かすことしかできない。


・存在しない人間入門

Frederik Davidsen

みんな、はじめまして! このブログの管理人をしているFrederik Davidsenです。
アメリカ合衆国の1482 Eagles Nest Drive Chico, CA 95926で暮らしている47歳です。誕生日は10月6日だよ!

Jens

この子は飼い猫のJens。ベッドの中にもぐり込んでくる可愛いいたずら子猫だ。
これらの情報はすべて下記のウェブサイトを用いて自動的に生み出されたもので、Frederik Davidsenなんて人間ははじめから存在しないんだ! みんなも架空のアイデンティティーを生み出して、インターネット上の個人情報を信頼の置けないものにしよう!


・夢日記 チャラ男と陰キャのBL。

地味な陰キャの子がサドっぽくて、チャラ男が今まで感じたことの無い気持ちを抱いてどきどきしていた。恋をしたての女子中学生のような純粋さで顔を赤らめるチャラ男が可愛かった。
これは本来ならどこかのBL作家に送り届けられるはずの夢だったのではないのか?と思っている。あるいはおれの心の中にBL漫画家ソドム館山という人格がいて、意識下に抑圧されたBL妄想を夢の中に解き放っている可能性も否めない。
みんな心の隔離病棟にBL漫画家の一人や二人監禁しているよね? ジキル氏とハイドのごとく本能だけを羅針盤に生きているような反社会性人格を封印して生きているはずだ。反社会性といえばソドム館山先生はGTAシリーズを見て「なんで通行人を無差別殺傷できる反社会性が売りのゲームなのに、敵ギャングの若頭を拉致して手籠めにするタイプの犯罪は無いんや……なんでや……」と夜中の三時にSNSに投稿していた。18歳未満は購入できないという理由でエロゲー的展開を期待していたソドム館山先生である。
このブログにときおり登場するソドム館山とはいったい何者だ……。


・『弟の夫』

『弟の夫』を読んだ。LGBT問題を扱った漫画だという触れ込みだったが、登場人物が異性愛者ではないという点を除けば、普通の漫画だった。死んでしまった主人公の弟が好きっ!という気持ちが丁寧に描かれていて、登場人物がおっさんであることを度外視すればほとんど百合漫画だった。
社会的なマイノリティである登場人物が、普通に人を好きになって、結ばれて、その人を失って、喪失感を埋めようとする。他の人とは違うあり方で、普通の感情を抱く。その普通の感情や出来事が、住んでいる場所や他者のまなざしによって異常なものになってしまう。


・インターネット砂漠

インターネットに耽溺する理由は、含まれている情報が薄いからだと思う。アプリを開いてSNSの短文を読んでも、「意味のある文章を読んで、まとまった知識を得たぞ!」という満腹感が得られない。好奇心が満たされないから、延々と画面をスクロールしたり、べつのアプリやWebサイトをぐるぐるとネットサーフィン(死語)するのだが、やっぱり好奇心が満たされなくて苦しくなる。
もはやネットサーフィン(死語)ではなくて、水を求めて不毛のインターネット砂漠をさまよっている感じだ。
ネットだけでは無くて連載漫画も、完結した作品を読んだ!という達成感が得られないまま、だらだらとシリーズものを読んでいることが多い。
読めば読むほど、見れば見るほど、乾いていく感覚が強くなる。


・囲碁日記、さまざまな個人的Tips編。

・囲碁の古本購入ガイド。古本を活用する。
囲碁は将棋に比べると棋書が格安で手に入る。囲碁がまったくブームにならないので、需要が乏しく捨て値で売られていることも多い。ブックオフやAmazonマーケットプレイス、フリマアプリなどを駆使すれば、比較的新しい書籍を底値で手に入れられる。
定石書は基本定石を活用するタイプなら何でもいいかも。自分は『囲碁 実戦に強くなる基本定石25 (大竹 英雄 )』を200円で買ってきて読んでいた。わからない定石があったら、定石ライブラリーなどを参考にする。
布石や定石は時代によって少しずつ変化していくので、あまりにも古いものは使い勝手が悪い。だが2000年以降の書籍なら十分に使い物になるし、AI布石を理解するための下地としてもいいと思う。ただ定石は、布石と絡めて理解したほうがいい。
逆に手筋や詰め碁、ヨセなどの分野は30~40年ぐらい前のものでも十分に使える。レイアウトや挿絵が昭和テイストの場合もあるが、中身は一緒だ。
・初心者~級位者向けでバランスがいいのは、NHK囲碁シリーズだと思う。

・生きる。
『山城宏の置碁戦術 序盤50手必勝法 (NHK囲碁シリーズ) 』では、「上手と殴り合いになったらまず勝てないから、なるべく早く根拠を得て生きた方がよい場面もある」ということを教わった。
囲碁で真っ先に覚えなければならないのは、根拠を得て生きることの大切さだ。置き碁をすると上手に根拠を奪われて、生きていない大石を抱えて盤面を逃げ惑う。生きたと思ったときには大差を付けられて敗北するのが、初心者にとっての日常だ。
だが根拠を持てば相手の攻撃に動じることもない。まずは根拠を持って生きることが大切だ。でも「相手を小さく生かして十分」という作戦もあるので、下手に生きながらえようとするのもケースバイケースだ。
おなじNHK囲碁シリーズの書籍には「生きようとするのは転落の始まり」という言葉もある。どっちが正しいんだ、囲碁。


・余計なものに対する執着を減らしたい。

・情報に対する執着
最新の情報にキャッチアップしなくてもいい。1、2週間ぐらい遅れても、一ヶ月後にようやく流行に気がつくような愚鈍さを手に入れたい。新しい情報をすぐさま手に入れられても、そんなに幸福感が増すわけでは無い。災害情報などの生死に関わるもの以外は、なるべく最新情報にこだわらなくてもいいし、時事問題も週に一回まとめて読むぐらいがちょうどいいように思う。

・数字に対する執着
未だに数字に対する執着を手放せない。「AMDの新型GPUアーキテクチャは、これまでよりもワットパフォーマンスが1.5倍ほど改善し、性能が上がる予定です!」とか、「前世代モデルに比べてお値段据え置きで4コアが6コアに増えます! 性能も30パーセントアップです!」と言われると物欲が刺激される。
目的地に着くのが一時間か、それとも50分になるのかという違いにこだわっている。
だけどPCには「したいこと」が「快適にできる、ストレスがたまるが不可能では無い、できない」の三つしかないので、細々としたスペックに拘泥するのは意味の無いようなことだと思った。
PCパーツ屋の従業員に「いまの時点でコスパのいいミドルスペックのマシンを一つ頼むよ。詳しいことは知らないけど、おまえの選定眼を信じる」と言って、金を叩き付けるのがいいのかも知れない。

・ジャンクな好奇心。
でもやっぱりスペック表があったら読み込んで性能を比較したくなる。昔からゲーム攻略本に書かれているステータスの羅列を見るのが好きだった。見開きに細かい文字で数字がびっしりと印刷されていて、リザードンの火炎放射の威力や命中率が書かれている。その一つ一つを知るたびに、世界の成り立ちに手を突っ込んでいるような感覚になる。それが好きだった。
時刻表を読む趣味は無いのだが、これらの無味乾燥に思える数字が噛み合って、ゲームバランスという繊細で巨大な建造物を作り上げていることに畏敬の念を覚える。ただ何事にも限度がある。Ryzenの内蔵GPUには計算ユニットがいくら積まれていると言うような情報を知る度に、好奇心を無駄に空回りさせているような感覚になった。
ジャンクフードを食べるような好奇心に振り回されて、数字に耽溺している。楽しいのはわかっているが、知らなくてもいい。そういう情報に溢れていて、本当に知るべきことから遠ざかっていく。

・必要なものを満たせるだけの欲求。
数を増やしたい、性能のいいPCが欲しいという欲望が頭をもたげてくる。それを叶えたとしても得られるものがそこまで大きいわけでは無いし、棋譜の手直しをする程度なら、そこまでマシンパワーが必要なわけでは無い。だいたいはどうしようも無い判断ミスだしね。
実の無い欲求に駆り立てられるけれども、本当に満たしたい願いのほうはおざなりにしている。当初の動機が「悪手を減らして、一子ぐらい強くなりたい」だったはずだが、いつの間にか「いい環境で囲碁AIを動かしたい」に欲望がスライドしていることに気がつくのだが、それは悪手では?と思うのです。

「水を飲んで乾きを満たしたい」が、「乾きが満たされる快楽を得たいから水を飲む」に変わってしまうのだが、本人はそのことに気がつけない。しばしば僕たちは倒錯した欲望に囚われて、非合理的な選択をする。
今の自分に必要なのは、非合理的な言動を指摘してくれる人工知能なのかも知れない。人間の行動を強化学習して、合理性をチェックして助言をしてくれるソフトウェアがあればQOLが上がるはずだ。
「あんさん、その行動は一時の感情に身を任せているだけだから、よう考え直したほうがええで。まずは深呼吸をして、判断は先延ばしや!」「いまがチャンスや!」……なぜか関西弁なのかは知らないが、技術と人間にはちょうどいい関係性があるに違いない。これがAI信仰になったら自由意志の否定だが、愚かさを客観視できるツールがあるといいと思うよ。


・パブロフのわれわれ

時事問題に反応して良識的なコメントをするのは楽な行為なのだが、思考の怠慢であるような気がした。TwitterをRSS代わりに使っているときに、通り魔事件や政治家の失言があったのだが、タイムラインが良識的な反応や悪を糾弾する言葉で埋め尽くされた。ひとつひとつの発言は些細なものなのだが、似たような言葉や反応が画面に埋め尽くされるのは異様な光景に見えた。
反応がテンプレート化しているせいかもしれない。政治家が失言をしたら全力で批難して構わない。そのこと自体に過失は無いのだとしても、自分たちの反応が自動反射に近いものになっている。
パブロフの犬はベルの音を聞いただけでよだれが出るようになってしまったが、僕たちは政治家の失言を見るだけで定型的な反応をするように条件付けられてしまった。それは思考と呼ぶよりも日々のルーティンが生み出した条件反射でしかないように思ったので、良識的な発言やテンプレートに沿った反応は控えたほうがいいのかも知れない。

・追記。
「画面が似たような発言で埋め尽くされるのが異様に思える」と書いたが、これはあくまでも個人的な感覚だ。逆に、「自分と同じ思考をしている人が、こんなにもたくさんいる」ということに安心感を覚えるユーザーの方が多いのかも知れない。


・正義感や道徳観念を失うという訓練をしていた。

正義感を持ち出して怒りに駆られたり、道徳を他者に押しつけることで苦しくなってしまうぐらいならば、そんなものは捨ててしまった方がいい。
どうせ自分が正義感を振り回さなくても、道徳心が過剰な人はインターネットをさがせばいくらでもいる。日本社会がどうなろうとおれの知ったことでは無いし、地球温暖化でこの世界に人間が住めなくなっても仕方が無い。子供が交通事故で死んでも「こんなクソみたいな世界は生きる価値が無いよね」で済ませるという案配だ。どうせ人間はそのうち死ぬし。
この発想の元ネタは(確か)ひろさちやの『仏教に学ぶ老い方、死に方』だったような気がする。道徳心に照らし合わせて、社会や他人を自分の望むとおりに変えようとするからしんどくなる。世間と道徳、他人に対して意識的に無関心になることで苦しみを和らげるのだ。
「そんなことじゃいけないよ! いっしょに社会の不正と戦おう!」というのが世俗の価値観だし、きっと正しい。でもおれは正義を振り回すこともに、正論にも、何の役にも立たないクソみたいな倫理観念にも疲れてしまったの……。
そんなときに唱える魔法の言葉は「もうどうにでもなれ」である。おれのしったことではない。どうせみんな死ぬから、日本社会も自分も他人もどうなっても構わない。すべてはむなしい。

・Everything is meaningless, but Everything in Its Right Place.

ここのところ虚無感と無意味感に支配されているのだが、仏教的にはこの感情がデフォルトであるらしい。人生は空虚かつ無意味で、何かを成し遂げても、砂の城が波に浚われるように失われてしまう。憂鬱になっているのではなくて、ようやく諸行無常が実感として身についてきたということだ。
ポジティブシンキングで前向きに生きよう!……と言われても、人は老い、苦しみ、やがて死ぬという圧倒的なリアリティの前ではそんな気分にはなれない。
諸行無常で、あらゆるものは空虚で、あらゆるものが無意味で、あらゆるものはいつか過ぎ去るのだというのはどうしようもないことだ。
しかしここでRadioheadのEverything in Its Right Placeが頭の中で流れ始める。すべてはただしい位置にある。空虚かつ無意味で、はじめから存在しなかったかのように失われるのだとしても、それはそれで正しい。
不老不死を求めたり、永遠を探すのは間違っている。過ぎ去る。意味を失う。老いる。死ぬ。そういったことを、Everything in Its Right Placeの精神で受け止められればいいなー、というようなことを考えていた。
そーなると悲しむことも苦しむことも仕方が無い。悲しむだけ無駄だって言うのはわかっているけれども、悲しいんだから仕方が無い。涙がこぼれてくるんだからどうしようもない。泣いても意味が無いとわかっていながらもそれでもなお、こぼれ落ちてくるのが涙だ。ザザ〜ン! 涙は世界で一番ちいさな海ニャ!(※スイートプリキュア 23話)


・天皇アイドル制の理路について

・はじめは天皇を処刑するべきだと思っていたが、人権の観点から考えると許容できない。
・天皇制の問題は政治権力と一体化することによって生じる。そのため、可能な限り政治から距離を置いた天皇制度を模索しなければならない。
・国民の税金で天皇制度を存続させるのは、おのずと権力者との関係が近づくので好ましくない。天皇みずからが国民との関係性の中で、活動資金を捻出していく必要性がある。
・そのためには物販やファンクラブの会費、写真集の出版、ライブのチケット販売などのアイドル・ビジネスモデルを流用し、21世紀の新しい天皇制を作り上げていかなければならない。
・天皇制が真に日本国民に必要とされるものであれば、自然と臣民(ファン)によって財政が支えられる。
・嵐やSMAP、AKBが普通にやっていることが天皇にできないわけないだろ!おまえたちの推しに掛ける気持ちがそこらへんのアイドルグループ以下だっていうのなら、天皇制なんてさっさと潰してしまえ!
……という理由により、天皇アイドル制の成立を目指す。

推しが引退して思ったのは、自分は箱そのものが好きだったのではないということだ。他のファンは箱があること自体が重要で、何の疑問も持たずに箱を推しているのだが、それをとにかく言う資格が自分には無い。でもおれは箱そのものに愛着があったのではなくて、前任の不祥事にもめげずに箱への信頼を回復させようと必死に頑張っていた推しの姿が好きだったんだよね。だから推しが引退したあとに新メンバーが加入しても、以前と同じように推せるわけでは無い。
そもそも大日本帝国とかいうマナーのなっていないファンがむやみやたらにアイドルを布教するから、GHQの手によってグループ解散の危機まで言ったんじゃねーか!という気持ちです。


・Leela Zeroと人工知能と厚みと模様。

Leela Zeroという囲碁ソフトをインストールしていたが、途中で手間取ってしまった。ビルドは問題なく成功したが、RyzenのGPUを動かすためにドライバーを入れる必要があったのだ。
Ryzenはコスパがいいけれども、Intelに比べると不測の事態が起きる場合が多い。ビルドが悪いのか、OSのバージョンか、あるいは自分の知る術も無い不具合があって起動しないのか、判断に迷う。
Linuxはトラブルに遭遇したときに労力がかかるのでしんどい。RyzenもIntelと勝手が違うので、変なところで落とし穴にはまる。こういうときにはWindowsが懐かしくなるのだが、もうマイクロソフトには戻りたくないのだ。
Leelaはalpha goの論文をもとに開発された囲碁ソフトであるという。だがモンテカルロシミュレーションで囲碁ソフトが劇的な進化を遂げた時点で歯が立たないので、そのへんはどうでもいい。
目当ては棋譜解析だ。形勢判断や解析機能があり、自分の打った悪手が一目でわかる。ダイナミックに勝率が変化していくので、どの手を打ったときに形勢が悪化したのかをあとから検討できる。
一つ問題があるとすれば、機械と人間の棋風の違いだ。人工知能はケアレスミスをしないという前提で着手を決める。ギリギリで勝てるが、糸の上で綱渡りをするような繊細さで打っているのかも知れない。
でも自分は人間だ。ケアレスミスをしたり、うっかりするなどの人間が人間であるがゆえのゆらぎを勘定に入れた上で、「多少効率は悪くなるけれども、ミスしにくい着手を選ぶ」ほうが勝率が上がるのかも知れない。
AIを否定するわけではないし、これまでにない発想の着手や定石は面白い。その成果を人間側が取り入れて棋風が変わりつつあるのも楽しい。
でもAIが人間の感性をサポートするツールではなくて、真実を教えてくれる託宣装置(オラクルマシン)になるのだとしたら、それは問題だ。AIの判断を無批判に受け入れて、絶対視するようなAI信仰の入り口に立っている。
囲碁には厚みや模様という概念がある。大きく広げて、そこに入ってきた相手を攻めながら優位を得るという戦略だ。(厳密には違うのだが、そういうことにして欲しい)だがこれは人間の弱さを計算に入れた方法論でもある。大きく陣地を広げれば、相手はやきもちを焼いて無理な手を打つかも知れない。陣地が大きく見えるかも知れない。形勢判断にしくじるかも知れない。人間は間違う。過ちを犯すのだが、それが棋風や個性になる。
AIがディープラーニングの果てにたどり着いた合理的な手と、人間にとって扱いやすい手は別なのだと思う。着手検討機能は「ここは手堅く囲ったほうが勝率が高くなります」と言っても、「間違っていても、ここは大きく模様を広げたいんだ」と感じてしまったから仕方が無い。


・感情喚起システムとしてのインターネット

現在のインターネット上に流通しているのは、情報では無くて感情のように思える。正確には感情をより効率的の喚起するための情報が好まれて、SNSは集団の感情を増幅させるための拡声装置(アンプ)になっている。
価値のある情報を共有して、より冷静になるのではない。手軽な方法で感情を喚起させるためのシステムに飲み込まれて、不当な方法でさまざまな感情を搾取されているような気分を抱く。
さあ怒りを抱きましょう! 正義感を振り回してストレスを発散しましょう! 感動しましょう! 一体感を覚えましょう! 非道徳的な振る舞いをした人間を糾弾しましょう!……というように、常に何かしらの感情を刺激される。そのことに疲労感を覚えてしまった。
時事問題に言及したり、政治、権力者の不正に対して憤ること自体は普通の反応だ。けれどもそのプロセスにインターネットが介在することで、自分自身が感情を拡散する保菌者になる。誰かの投稿した記事を見ていらだちを覚え、その情報を拡散して他者の感情を刺激する。その仕組みが不健全なものに感じられた。
感情を抱くことは悪いことではないのだが、刺激される回数があまりにも多すぎて疲弊する。
主観的な情報によってある種の感情を無理矢理引き出されている。これを自分は感情喚起システムと呼んでいる。
現在のインターネットは客観的な情報を得て、冷静な判断をうながすようなツールとはほど遠い。効率的に感情を刺激するためのシステムだ。ユーザーの感情エネルギーを原動力にして、さらに大きな感情を呼び覚ますような代物になっている。
コメント欄やSNS、スマートフォンは、より人間が感情的になりやすいように設計されている。文章を書いているときにはパラグラフの構成や論理構造に気を配る必要性があるのだが、細切れの文章を脈絡無くつぶやけるSNSでは論理よりも感情の比重の方が大きくなる。
冷静さよりも、怒りや負の感情を媒介にした方が瞬く間に情報が広がる。手軽に怒りたい、感動したい、イージーな方法で一体感を覚えたいというニーズを満たすために生み出された、効率的な感情喚起システム。それがいまのインターネットの姿だ。
自分が日本語のネット環境を遠ざけたいと思うのは、SNS上に垂れ流される感情の量に耐えられないからだ。情報ではなくて感情が流通していて、胸焼けを起こしてしまう。


・この政治BL漫画家が酷い!2019! ソドム館山編

ソドム館山先生の新作BL同人誌『従軍慰安天皇3 マッカッサー陵辱編』を購入した。
第二次世界大戦では天皇制が諸悪の根源として語られることが多い。皇国史観に基づいた侵略戦争によって、日本国民だけでは無く東南アジア全体に災禍を広げだ。しかし、天皇制に翻弄されていたのは昭和天皇自身だったのではないのか?……というソドム館山先生の歴史観から紡ぎ出される渾身の一作。それが従軍慰安天皇シリーズだ。
私の心の中にはソドム館山先生というBL漫画家がいて、トランプ×安倍晋三だったり、プロレタリア×ブルジョア、天皇総受けの18禁ボーイズラブを鋭意執筆してしまうのでちょっと困ったことになっている。天皇もエンゲルス×マルクスも、政治に関わるものならあらゆるものを同性交尾させてしまうソドム館山先生である。政治的正しさも社会正義の欠片もない、ただただ政治家同士を混じり合わせたい!という歪んだ情念のみに支配されているのがぼくたちのソドム館山先生だ!
表現の自由が人を傷つけるのは知っているが、それでも政治BL漫画を描いてしまう。これまでに何度も筆を絶とうとしてきたソドム館山先生だが、気がついたら32ページ分の原稿ができあがっているのである。
ソドム館山先生が戦っているのは、日本の男色文化を闇に葬り去ろうとしている歴史修正主義者だ。女性は国家のために子供を産まなければならないというのは、富国強兵によって国力を増大させる必要性があったからだ。とうぜんのことながら生殖に関係の無い男色文化は明治政府によって抑圧された。
性に開放的だった日本文化と男色の歴史を再評価することで、現代のいびつなジェンダーバイアスに風穴を開ける。……という目的があったのかどうかは知らないが、ソドム館山先生は日本男色国紀を執筆して日本社会に挑戦状を叩き付けた。一部ではボーイズラブ火の鳥と呼ばれている日本男色国紀だが、百田尚樹を筆頭とする保守論壇と血みどろの殴り合いを繰り広げることは目に見えていた。
なんでこんなひどい文章をなかば自動筆記の勢いで、あたいは書き殴っているんだろうな……と、理性を取り戻したのでここで終わりにします。
次回!ソドム館山先生の『狙われた姦房長官・メスイキしているというご指摘はまったくあたらない』レビュー!


・禅バックアップ

容量の少ないストレージを整理していた。ついつい8GBのSDカードをバックアップ用として使い、どこに何のファイルがあるのかわからなくなってしまうし、どのストレージに保存したファイルが最新なのか定かではなくなる。このような欠点を抱えているので、バックアップ用の記憶媒体を減らしている。
本体、バックアップ、バックアップのバックアップの三つがあれば、そのどれもが同時に破壊されるわけではないだろう……という計算で、バックアップファイルを制限する。
ただそれだと天災が起きたときなどにすべての物理バックアップを喪失してしまう可能性がある。コアが複数あるボスを倒すときには、全体攻撃魔法で均等にダメージを与えていくのが定石だ。それを避けるためにコアバックアップをGoogle Driveなどにクラウド保存する。
このデータだけは無くなった死ぬというものを15GB以内にまとめたのが、コアバックアップだ。中身をgoogleに見られるのが嫌であれば、パスワードをかけて圧縮しよう。

以前から言っていることだが、最強のバックアップ方法はすべてのデータが失われても「それが諸行無常じゃよ。人はそのときに手に入るデータを使って生きていかなければならぬのじゃ」という心構えなのかも知れない。
はかないデータに執着し、どれだけ入念にバックアップしても万が一への恐怖が消えない。記憶媒体が4TBのハードディスクになっても、数ペタバイトのMicroSDカードになっても、データを失う恐怖はたえずつきまとう。その煩悩に振り回されるぐらいなら、バックアップしなければならないデータを捨て去ればいいのでは?……というのが禅バックアップの基本コンセプトだ。


・雑な世界観認識をしている。

北欧についてはノルウェー、スウェーデン、フィンランドの三カ国を一緒くたにして、ムーミンの国だと思っている。その程度の雑な世界観認識しかしていない。日韓台湾をまとめてナルトの国扱いするぐらいの暴挙だ。
あとアフガニスタンとイラクとタジキスタンとウズベキスタンあたりもひとまとめにしている。そのうちきのこの山とたけのこの里も、「なんか山のチョコ菓子」でひとくくりにするようになるだろう。
イメージの切り分けが適当かつ曖昧で貧弱なのだが、自分の世界観認識がどの程度の浅さなのかというのは客観的にはわからない。興味が無いから解像度の低い認識のままで、解像度が低いから興味が持てないという負のループを形成している。
自分はこの世界を低い解像度で見ているはずなのだが、そのことに気がつかないままでいるのは危険なことだ。ひとりよがりな認識で、解像度の低い世界に留まったままで、それが何よりも正しいのだと思い込む。そういう種類の愚かさの中にいる。


・ディストピア・ラプソディー

名作ディストピア小説『1984』と安倍政権を重ね合わせる向きがあるけれども、いくらなんでも名誉毀損だ。1984の世界はシステマティックで高度な統治能力を駆使してディストピアを作り上げている。ディストピアを運営するには繊細さが必要だが、安倍政権はその場凌ぎの行き当たりばったりで国益を切り売りしているだけだ。ディストピアに対する不当な風評であるといえる。
安倍政権にはディストピア国家を作ろうという意欲が足りないし、ビジョンもない。共謀罪や安保法制、戦前の権威主義的価値観の復活など良い線を付いているところもあるのだが、失敗国家とディストピアは似て全く非なるものであることを忘れている。
「自由や感情が抑圧されている代わりに、そこそこ物質的な満足は確保できる」などのバランス感覚がディストピア社会には必要なのだが、安倍政権にはそのようなセンスが無い。自由も抑圧されて貧困にあえがなければならないというのは、我々が目指すべきディストピア社会とは異なる。
我々の社会はトップダウン型の独裁ディストピアでは無い。ひとりひとりの日本国民が自律的にディストピア社会を作り出すという、民主主義的ディストピアであるといえる。日本人一人一人が出る杭を打ち、足を引っ張り、幸せになろうとする人間を潰そうとする。誰に命令されたわけでも無く、日本人の骨身に染みこんだディストピア根性によって、暗黒社会が築き上げられる。これが日本独自のゆがんだディストピア社会のあり方だろう。


・思い込みの国で。

東日本大震災の経過を見ていると、問題がすでに解決したという欺瞞を共有することで無理矢理終わらせてしまったように感じられる。原発が廃炉になるまで少なくとも40年はかかるとはじめは言われてたのに、汚染水処理のめども立っていないし、廃炉までのスケジュールも遅れている。それなのに「もう終わってしまった出来事」として扱っている。
第二次世界大戦が終わったものだと信じていたけれども、東日本大震災を処理したときと同じ思考回路で「終わったことにした」のではなのかと疑っている。戦前の組織や文化風土を温存したままで、「日本は民主主義国家に生まれ変わった」と頭の中で思い込むことによって、戦前から訣別しようとした。
それ自体は悪いことでは無いけれども、ソフトウェアの改善だけを追求して組織や風土、国民性、教育、法制度などのハードウェアをそのまま温存した。ある特定の価値観を国全体で共有することで「現実をそういうものだと思い込む」システムは、日本の近代史を貫いている。
日本は大東亜共栄圏の宗主国であるべきだ、日本は反戦平和を掲げた民主主義国家であるべきだ、日本はGHQの軛(くびき)から逃れ憲法改正とともに真に美しい国を目指すべきだ。これらの主張は思想的に真逆だけれども、どれもがハードウェアを欠いた思い込みの産物という点では大きな違いは無い。
ハードウェアをどう変えるのかよりも、「こうあるべきだ」という理念の方が優位になる。 憲法9条は「戦争をしてはならない」というソフトウェアだけれども、「日本はすごい!」と思い込むのと、構造としては同じものだ。
日本社会は「皆があるひとつの物語を心の底から信じることで、あるべき現実の姿を形作る」という手法によって築かれている。民主主義的なプロセスを通じて民主主義国家を成り立たせるのではなくて、皆が「日本は民主主義国家である」と思い込むことで戦後日本社会を作り出そうとしてきた。
その「日本は民主主義国家である」という思い込みの力が徐々に弱くなっていて、それとは別の「日本はアジアの中心で輝くすばらしい国である」という価値観が徐々に勢いを増していく。不用意に日本語メディアに接していると、この種類の思い込みが補強されるように感じられる。


・えろまんが☆フォーチュンテラー

昔、おれはえろまんが☆フォーチュンテラーの技術を学んでいた。
これはコーヒーカップの底に残った痕で未来を占う技法のえろまんが版だ。性器モザイクの大きさや扱われている題材、和姦と強姦の比率、年齢分布などの要素から未来を占う方法だ。
えろまんがは社会の空気や政治情勢、未来への恐れ、無意識の表現規制などの影響を受ける。最先端のクールジャパンカルチャーであるえろまんがを正しく解読する術を身につければ、日本社会の未来を予知できるとするのがえろまんが☆フォーチュンテラーのコンセプトだ。
社会が不安定になれば性器モザイクが大きくなり、権力が強くなりすぎればらぶらぶ和姦が増える。このような傾向から、これから生まれるであろう未来の萌芽を感じ取るのだ。


・無思考主義。

日本社会が右傾化したとか、歴史修正主義者が増えたみたいな思想の話では無い。なるべく思考を使わずに済むようにして、知的負荷が掛からないような現実認識を作り上げる。その行動を繰り返した結果として今の惨状がある。
偏見や差別があるのは明確な差別意識を持っているからでは無くて、偏見で処理した方が楽だからだ。
実際にどうなのかを調べるよりも、自分がどう思うのかを参照にした方が負荷が掛からずに済む。歴史問題を考えるときも、すでに頭の中にある歴史観を使って済ませる。生活保護の話題には「働かざる者食うべからず。不正受給絶対反対!」と罵り、ジャーナリストが国外で拘束されたときには「政府に迷惑を掛けるな!」という言葉を発する。左派も「安倍政権打倒、オスプレイ反対、原発廃炉」というフレーズを繰り返す。
思考のテンプレートを使えば、それ以上考えなくてもいい。
右傾化と呼ぶのは適切では無い。「難しいことを考えなくてもいい言説」が好まれているだけだ。地球の平均気温が一度上がったときに世界経済が被るであろう影響に思いを馳せるよりも、「地球温暖化は中国が先進国の競争力を削ぐためにでっち上げた陰謀論だ!」と言い切った方が、それ以上何も考えなくていい。
現状のままでいい。難しいことは考えなくていい。自分にとって気持ち良くなれることだけを考えていればいい。私の言うことを信じていれば、すべては良くなる。余計なことは考えるな。
ポピュリズム以前に、「頭に負担がかからない思考や思想」が好まれるようになってきたように感じられる。民主主義の反対は独裁制では無くて、「余計なことを考えるな。いいから黙って言われたことをやれ!」主義だ。
考えるべき社会問題が多岐に渡っていて、すべてに対して思考リソースを費やすのは不可能になっている。経済と原発と国防と地球温暖化と憲法と戦争とその他諸々について、同じレベルで論じるのは不可能だ。どうしても「頭に負担がかからない思考や思想」を使って、思考リソースを節約してショートカットせざるを得なくなる。
そもそも情報が氾濫して人間に扱いきれない量になっているよね。


・異常なものと戦うときに、自らの異常さが露呈する。

「A3」というオウム真理教のノンフィクション小説がある。これはオウム真理教という異質な集団と対峙する過程で、日本社会の歪みが浮き彫りになっていくという内容だ。オウム真理教について取材をしていたはずなのに、「オウム真理教に対して、異常な組織だというレッテルをはりつけて排除しようとする日本社会」の異様さに問題意識の焦点が移っていく。
レイプ犯が不起訴になったり、政治的な発言をした芸能人が激しいバッシングに遭ったり、権利を行使した労働者を同じ立場の同僚が「会社に謝れ」とたしなめたり、公共の電波でヘイト発言が垂れ流されたり、外国人労働者が奴隷同然として扱われる。枚挙にいとまの無い事例にいちいち反応するのが疲れてしまった。
暴力的な組織が権力を振りかざして、思想と言論を抑圧するのならまだ納得がいく。だがそれとは違って、同じ立場の人間から「目をつけられるから黙っていろ」と口を塞がれる。その空気が気持ち悪くて、日本人にも日本社会にも関わりたくねえなと思っていた。

解剖 加計学園問題――〈政〉の変質を問う | 朝日新聞加計学園問題取材班 |本 | 通販 | Amazon

『 解剖 加計学園問題――〈政〉の変質を問う』をざっくり気味に読んだ。
ただの「モリカケ」や忖度の問題ではなくて、内部告発制度や公文書管理、特区制度、国会の形骸化、マスメディアの反応などの病理が浮かび上がる事件だった。起きた出来事を俯瞰して見るのでは無くて、「モリカケ」という言葉で矮小化・風化してしまう。本としてまとめられていなかったら、自分も終わった出来事として忘れ去ってしまっていた。
野党はモリカケ問題に有権者がお灸を据えるのか否かを選挙の争点にしていたけれども、汚職や忖度だけの問題ではない。汚職としてのわかりやすい側面と、多岐にわたる日本社会の構造的な問題が絡み合っているので、本質がわかりにくくなっている。


・過現実

SNSを触るのが嫌になり、ゆいいつできるのがマストドンぐらいしかなくなってしまった。Twitterは人との距離が近すぎる。
テレビなどのマスメディアから発信された情報が、SNSを通じて更に増幅(アンプリファイ)される。そしてネットの反応にマスメディアが影響を受ける……というサイクルを「過現実」と呼んでいる。
マスメディアとネットがそれぞれ独立した世界では無くなって、歪な形で融合してしまった。SNSはテレビや時事問題、ニュースのコメント欄のようになり、マスメディアと一体化してしまったように見える。
マスメディアを中心とした現実媒体と、パソコンでのネット文化、ガラケー文化がそれぞれ混じり合わなかった時代に生まれ育った。現実で流行しているものと、ネットで流行っているものは異なっていた。一つの国に、現実が複数ある。これは「複現実」と呼ぶことにする。
マスメディアが嫌になればネットに逃げれば良かったし、ネットが嫌なら現実に触れるという風に、二つの世界を行き来できた。それがいつの間にか、ネットが現実を補強する要素の一つになってしまった。別れていたマスメディアの現実とネットが融合して、現実=インターネットになった。ネット以前の単・現実では無くて、複数の現実が統合されて生み出されたものが「過現実」だ。 ゼロ年代までのネット世界を理想化している部分もあるけれども、インターネットはかつて異世界だった。現実社会こそが主流で、ネットで流通しているものはアマチュアかセミプロのお遊びか、既存の商業ルートでは流通し得ない訳あり品だった。
それが現実に取り込まれて、価値観も流通している言葉も単一化・平板化した。あるいは反対にネットで生まれたいびつなものが、現実を侵食する。それに未だに馴染めずにいる。
たぶんインターネットにサードプレイス的なものを要求していた。日本社会で気軽にアクセスできるサードプレイスがゲーセンかインターネットぐらいしか無かった。それがいつの間にか、他者から攻撃されないように緊張していなければならない場所になってしまった。


・急なフル勃起に!ペニスシボムン錠、新発売!

男性の性欲が社会的に規制されないのか不思議に思っている。
テレビのCMなどで「満員電車内での急なフル勃起! 新しいフニャチン有効成分が強制的にあなたのペニスを鎮めさせ、性欲を抑えます! ペニスシボムン錠!新発売!」みたいな薬品は販売されない。バイアグラは速攻で認可されるのに、あまりおちんちんを小さくすることには関心が無いように思える。逆に奔放な性欲が推奨されているように感じられる。
だいたいの社会問題と犯罪は、男に抗男性ホルモン剤を摂取させてふにゃちん状態にさせれば解決すると思っている。強姦犯罪が不起訴になったり、 アルコールに睡眠薬が混ぜられてレイプされたり、#Metooが政治イシューになったり、恋愛感情をこじらせてストーカー殺人が起きるのもぜんぶ、社会的に規制されていない男性の性欲が悪い。地球の人口が幾何級数的に増えて資源を食らい尽くすのも男の性欲が悪い。ニコチンやアルコールと一緒に規制するべきだし、思春期になったら定期的にペニスシボムン錠を服用した方がいい。女性も男性と酒を飲むときには、こっそりペニスシボムン顆粒を酒に混ぜるぐらいの警戒心があってしかるべきだ。

男性の性欲を野放しにしたMetoo運動では生ぬるい。その過激思想は後に#NOMOREPENIS という政治運動に発展していき、おちんちんを捨て去ることがリベラル派の流行になる。女性ホルモンを注射してかわいいおんなのこになるのが二十一世紀中盤の政治情勢だ。勃起と性欲をコントロールしない男性は社会マナーの無い犯罪者予備軍として扱わるようになる。我々が今生きている現代社会は、性欲が規制されない野蛮な時代だと子供たちに教えられるに違いない。
かつて奴隷制を支持する南部と奴隷解放を訴える北部が対立し、アメリカ南北戦争へと発展した。二十二世紀初頭にはペニスに固執する旧勢力と、ちんちんからの解放を訴える勢力との間で第三次世界大戦が引き起こされるはずだ。


・児童の性的搾取について。

・国際的には児童との性行為を習慣的に妄想している時点で正常ではない。
児童の性的搾取問題をどう考えたらいいのかわからん。日本だと「ただの絵だし、現実と虚構の区別はしっかりとつけている」で片付けたくなるのだが、国際的には「対象が架空の児童でも、そういったものに性的興奮を覚えるのは倫理的ではない」という価値観がベースになって表現規制が進んでいる。文化にギャップがあること気がつけないまま、「ただの絵だから問題ない」という日本でしか通じない言い訳をするのは、話がこじれるだけなのかも知れない。
『笑ってはいけないエディ・マーフィー』では日本人が黒人に扮していたが、黒人差別的な内容が批判された。日本ではスルーされることが、諸外国では人種差別の問題になる。児童の性的搾取問題と『笑ってはいけないエディ・マーフィー』は、国内の常識と国際感覚にギャップがあるという意味で相似形だ。
「登場人物は18歳以上だ」「高校ではなく学園なので問題ない」と身の潔白を訴えるのは、「直接店で換金しているわけではないので、パチンコはギャンブルではない」と言っているのと同じだ。いくら文章で「この漫画は18歳未満の児童との性行為を描いたものではない」と表記しても、実際に小児性愛的な内容を扱っている。小手先の言い逃れをするのは見苦しい。
Twitterの規約変更で「児童の性的搾取について妄想したり、そうした行為を助長する」という文章が追加された。内面の自由にまで踏み込んでくるような文章だが、国際的には児童との性行為を習慣的に妄想している時点で正常ではない。 現実と空想の区別をつけているかどうかというレベルの問題ではなく、児童との性行為を妄想しているが、空想でとどめておける良識ある人間というものは存在しない。児童との性行為を妄想している時点で正常ではないからだ。
現実には一切関係の無い18禁漫画やイラストを守ろうとするのなら、「児童との性行為を妄想している時点で異常者だ」と信じている人たちを説得しなければならない。価値観の違いを理解せずに表現の自由を持ち出すのは筋が悪いように思う。不用意に目が触れないように、徹底的にゾーニングするしかない。


・政治の話はしたくないけど表現規制だけは反対!……というのは都合がいいのでは?

表現規制はただポルノ画像を禁止するだけではなくて、女性や児童の性的搾取とセットになっている。日本は後進的な男尊女卑社会で、女性がレイプされても泣き寝入りするしかないし、女性の政治参加比率が先進国で最低だし、男女間の賃金格差も高い。日本の男性には人権意識がなくて女性をものとして扱っている。
その延長線上に「漫画やアニメでの性的な表現」がある。決してフィクションだけが狙い撃ちされているわけではない。「日本人は権利意識に乏しいので、カートゥーンでも女性を搾取対象としてみなしている」と思われている。
表現の自由を守るだけは不十分で、このへんの男尊女卑的な価値観を変えないといけない。そうして初めて「現実とフィクションを切り分けて、性的な表現を受け取っている」と主張できる。
「現実世界の子どもを救おう」と主張するのなら、「現実の女性と児童の権利も守ろう」と言わないと筋が通らない。そうなると政治的な話題は避けて通れなくなる。
そのためには「フィクションでは性的搾取な表現を消費するけれども、現実社会では児童や女性の権利を守り、男女平等を主張する政治家や政党を支持しています」と言えるようにならなければならない。そうやって初めて、現実と空想を切り分けているというアリバイが得られる。
「表現の自由を守れ!」と主張することは簡単だけれども、それが「おれたちがエロ画像でオナニーする権利を守れ」としか受け止められないようなら、表現規制はこれからも厳しくなる。
表現の自由を守るためには、「あいつらは私に天使が舞い降りた!のエロ画像をPawoo.netで垂れ流しにしているキモオタだけど、現実では女性や児童の人権を守ろうとしている。平等に対する意識が高く、男女間の社会格差をなくそうとしている」と思われなければならない。そうではなければただ二次元美少女でオナニーしたいだけのキモオタにとどまり、社会的な影響力は持てない。


・自分の力ではどうにもならないものを求めるのはしんどい。

ソーシャルメディアでフォロワーを増やして影響力を高めよう!この時代はセルフブランディングが大切!積極的に自分を売り込もう!というのは正しいと思うのだが、下手をすると自我が肥大化しやすい環境にあるのかも知れない。他者からの評価は自力ではどうにもならない。それが欲しいとなると自分を実寸以上に見せようとしたり、他者からの評価を過剰に求めるようになる。他者からの好意という自分の力ではどうにもならないものを、どうにかして手に入れようとするのは苦しい。
自分の力だけでどうにかなるものと、自力では絶対にどうにもならないものの区別できなくなって、どこまでも「他者の好意」みたいな不確かなものを求め続ける。ある程度は努力と相関する場合もあるけれども、他者の気持ちを自分の都合がいいように利用したいと思ってしまうのは、あまりいい心の状態では無いような気がした。
わたしをみて!評価して!もっとスポットライトを当てて!いいねを押して!わたしをもっと見て!見て!見て見て見て!……という、承認を求める地獄にいるみたいで、他者の評価を求める餓鬼のようになっている。
自己充足する方法を忘れてしまって、他人から好ましく思われるために特別な自分を手に入れることに執着する。そのままの自分を肯定するというのもだんだん難しくなってくるし、何か他者から評価されるような、価値のあるものが欲しいと思ってしまう。
この感情に振り回され始めるとしんどいし、自分がどう思うのかでは無くて、他者がどのような反応をするのかが評価軸になってしまう。それは精神衛生上良くないと思ったので、なるべく自己完結、自己充足、自分がおもしろいと思うのがいちばん!という自分ファースト主義を心がけるようにしている。


・インターネットダンジョン攻略編

インターネット上での政治的な発言からは距離を置いている。それはなにもおれがノンポリの政治的アパシー野郎になったわけではない。敵と距離を置いて近接戦闘を極力回避することが、ローグライクダンジョンおよびにインターネットで生き残るための攻略法だからに他ならない。
インターネットとは現代社会の迷宮である。ダンジョンにはどこの馬の骨とも知れない魑魅魍魎が跋扈しているのが習わしだ。大切なことはいかにして迷宮に蠢くモンスターどもから逃れるのかであり、真っ正面から戦って勝つことでは無い。
ローグライクダンジョンにおいて、敵との距離イコール寿命である。頑張ってレベルを上げれば敵を倒せるというようなゲームバランスにはなっていない。雑魚を一匹殺すごとに満身創痍に追い込まれる。いかにして戦闘を回避して敵をやり過ごすのかがユーザーには求められる。
インターネット上での政治的な話題も、同様の戦略が採用できる。インターネットダンジョンを彷徨するユーザーの多くは、長年にわたって政治的な発言を繰り返すことによってモンスターと化している。さまようよろいのように自民党政権を攻撃し、くさったしたいのように口から民族差別ヘイトをぶちまける。戦いになれば仲間を呼び、フェイクニュースの魔法を使って幻影を生み出す。論戦を挑んでも勝ち目は無い。アンデッド属性のモンスターを殺せないのと同じように、イデオロギーの亡霊に取り憑かれた人間を論破することは不可能だ。戦っている間に自分自身がインターネットダンジョンを徘徊するモンスターの一匹になってしまう。
長いことインターネットに接していると、魂を蝕まれ、人間の形を少しずつ喪失していく。始めはSNSなどで政治的なシェアやリツイートが増えていき、最後には敵を殲滅するまで止まらない狂戦士と化す。それだけではなく、IT企業に注意力(アテンション)を奪われて広告を見せられるだけの養分になったり、ソシャゲー中毒になったり、Facebookに個人情報を吸収されたり、フェイクニュースで混乱させられる危険性があるという点では、インターネットはダンジョンであると断言できる。
我々の目的はモンスターと戦って勝つことでは無く、地下からイェンダーの魔除けを持ち帰ることだ。汝らの武運を祈る。Don’t Panic!


・メルカリ無間売買地獄

下手にメルカリやラクマなどで売ろうとすると余計な気苦労が発生する。
売れるまでのタイムラグ、値下げ要求のクソコメント対応、発送、入金待ち、ちゃんと商品が届いたのかどうか。取引が終了しても銀行に振り込むまでは自分の金ではない。「じゃあ売上金もできたし、何かお得な商品はないかな?」と思って新着商品を眺めていると、また無駄遣いをしてしまう。そして振出しに戻り、商品を出品する。これがメルカリ無間売買地獄である。
でもメルカリで売り買いするのはゲーム感覚で楽しいのも事実だ。交渉による値下げ攻防、売れるはずが無いと思っていたものが売れたときの快感。人間は元々ものが欲しくて交易を発達させたのでは無くて、取引それ自体が楽しかったから経済活動が活発になったとも言われている。ものを売買するのは中毒性がある。不要なものを売っていたはずが「ものが売れるのが楽しいから、そこまで不要ではないものでも出品する」という倒錯した価値観を抱いていたときもあった。
不要品を処分するには便利なツールだが、あるていど不要品が処分できたらアンインストールしたほうがいい。「メルカリならこのぐらいの値段で処分できるだろうから、無駄遣いしてもいいや」と思って財布のひもが緩み、安いだけのゴミが増える。
メルカリ無間地獄の住人になり、ゴミを買い、ゴミを売り続け、一割の手数料を運営に搾り取られるだけの亡霊になる。ものを売り、服を売り、素っ裸になった後には髪や歯、臓器を売り、最後には魂を売り渡すのがメルカリユーザーの末路だ。


・ヘイトについて。

これほどまでにヘイト発言が蔓延して、カジュアルな差別が横行するのは、それが「なんらかのメリットを得られるから」だと思う。なるつもりはないけれども、ヘイトスピーカーになったらたのしいはずだ。一体感や、ストレス解消、安全な場所から人を攻撃できる優越感などには中毒性があって、ヘイトジャンキーになっているのかも知れない。
そうなると規制では無くて治療の方が重要では無いのか?と思う。ニコチンやアルコールと同じような位置づけだ。
制度でヘイトスピーチを規制するのもひとつの解決策だけれども、ヘイトが成立するまでにどのようなプロセスをたどるのかを知らないと、差別が生まれる構造が温存されてしまう。
アメリカでの黒人差別とドイツでのユダヤ人差別と日本での韓国人差別を、おなじヘイトスピーチで雑にくくってしまっていいのかわからない。差別が根付いた歴史的経緯を無視して、一様に規制するのは弥縫策でしかないのでは?
日本社会では韓国へのヘイトに比べて、韓国発の情報が少なくてアンバランスに感じる。とにかく韓国側の情報が入ってこない。韓国の社会問題を知るためには国外メディアに頼った方が手っ取り早い。
「保守系の○○紙はこんな論調だけど、リベラル寄りの××紙はそれとは逆の主張で、韓国の世論調査では△△%がこの問題には反対しているぞ。韓国のネットメディアで人気になっているエントリを和訳しておいたから読んでやー」ぐらいの交流があってもいいと思っているが、文化が断絶している。そもそも第二次世界大戦の植民地政策の残した傷跡でもある。
文化が断絶しているから、架空の情報に基づいて架空のヘイトを培養するという負のスパイラルに突入しているように見える。日本の狭い言語環境の中で、妄想的なヘイトが凝縮されていって、より醜いヘイトスピーチが育まれる。客観的な情報に基づくのではなくて、妄想が歯止めを失って暴走している。


・アイデンティティ不詳問題

自己の流動性は、自閉症スペクトラムの人に多く見られる現象です。本書に登場する自伝作家の全員、それに小説の作家の多くも、流動的で可塑性のある自己という感覚をもっています。
私が教えているASの学生のひとりは、約10種類のアイデンティティをランダムに使い分け、そのことを“世間に向ける鎧の交換”と呼んでいます。(p231)
『作家たちの秘密: 自閉症スペクトラムが創作に与えた影響』

まず念頭に置いて欲しいことがひとつだけある。私は明確な自我観念が乏しい。これはアスペルガー症候群に特徴的なもので、自分が何者なのかという感覚が流動的になるというものだ。とくにメインパーソナリティとなる自我観念が無いので、エントリごとに人格を変えられるブログ形式で文章を書くのはここちよい。書く文章に合わせて自我をその都度でっち上げるつもりでやると、楽に文章を書ける。ただし人間としての一貫性は保てなくなるので、文章ごとに人格やパーソナリティが揺れ動く場合もあるし、場合によっては一つの文章中でも一人称やキャラクターが変わる。
そういう事情があるので、アイデンティティ不詳問題については大目に見て欲しい。 自我を固定するよりも、アイデンティティ拡散を極めた方が好ましいのでは無いのかと思っている。ただそれを追求するとなると、人間不詳に拍車がかかり、いまよりももっと得体の知れない生き物になる。それもやむをえない。


・最近の陰謀論界隈は変わってしまった。

最近の陰謀論界隈は変わってしまった。いぜんは夢が溢れる陰謀論が多く、古代核戦争で滅びた先史超文明を想像して楽しんでいたものだった。陰謀論職人たちは互いに切磋琢磨し合い、一見すると関係の無いできごとをつなぎ合わせてひとつの壮大な陰謀論として成り立たせる技術を競い合っていた。現実に存在するものを材料にして、あるはずのないファンタジーを生み出す。それが陰謀論職人だったはずだ。
インターネットの普及で陰謀論界隈は堕落した。広告収入目当てに雑な陰謀論が量産されて、SNSにばらまかれるようになった。ほんらい、陰謀論とは作者と読者の高度なコミュニケーションが要求される。作者側が「読者のリテラシーなら、この程度の詭弁は見破ってくれるだろう」と信じることによって、陰謀論が成り立つ。そんなことあるはずがないとわかっているが、もしかしたらあるのかも知れない。世界経済を牛耳るユダヤ人秘密結社という言葉を聞いて、高鳴る胸の鼓動。そのときめきが陰謀論である。
何も知らない人間に東日本大震災人工地震説を吹聴したりするのは、陰謀論職人では無い。無知につけ込んだただの詐欺師だ。はじめは『天皇は宇宙人だった! 日本人洗脳統治計画の全容!』という特集に目を輝かせていた青少年が、リテラシーを身につけて私たちをいかさま野郎だと軽蔑するようになる。その成長が私たちにとって何よりもの喜びだ。そのうちの何人かが、初めて陰謀論に触れたときのときめきを忘れられずに陰謀論職人の道へと足を踏み入れる。そのときに求められるのは、理性と常識感覚だ。現実と空想の間できわどい綱渡りをするのが陰謀論職人である。
現実に偏りすぎれば「ロジカルに考えればありえること」になり、空想に偏重すれば「ただの絵空事」になってしまう。その中間にある「あるはずねえだろ!と思わず突っ込んでしまうが、心の底では存在していて欲しいもの」のラインを追求するのが、理想の陰謀論職人だ。サンタクロースや、家の隣に住んでいる幼なじみの美少女は国民的アイドル。そういう種類のファンタジーだ。
ちかごろの陰謀論職人たちは小銭を稼ぐためだけに質の悪い陰謀論をでっちあげている。これはGoogleやFacebookの策略であり、最終的に脳に小型のモバイルデバイスをインプラントして人類を操り、GAFA世界政府を建設するための布石に過ぎない。


・Google合理思考

Google合理思考では認知が歪んでいる人類に代わり、Googleのディープラーニング人工知能が合理的な判断を下します。作業支援用ウェアラブルスーツを装着して肉体への負担を減らすのと同様に、代替思考エンジンを用いることで、人間の不確かな理性に頼ることのない、より冷静かつ合理的な判断を行えるようになります。

Google合理思考をインストールしてみたけれどもこれはやばい。初めて眼鏡をかけたときに「世界はこんな風にくっきり見えるものなのか!」と驚いたことがあるが、「合理的な思考で世界を眺めるのはこんな感じなのか!」というカルチャーショックを受けた。今までしらふだとばかり思っていたが、ビール二、三本空けた状態で思考していたようなものだ。ただGoogle合理思考の無料版は広告が消せないので、思考中にたびたび企業広告が挟まれて、それを自分の思考だと勘違いしそうになる。それに自分の思考ログがGoogleに送信されているのも気持ちがいいものではない。


・なんとなく、ポリティクス。

明確な差別意識や保守思想よりも、「みんながそう言っているから、そうなんだろうな。よくわかんないけど」という、なんとなくの雰囲気の方が怖い。荒らし(トロル)や極端な意見をもった人は全体の1%程度に過ぎないと言われても、それが全体の空気を支配しているように見えるのだとしたら、「ネトウヨなんて少数派に過ぎない」とは言っていられない。
特に激しい差別意識を持っていなくても、「なんとなくあいつらは悪い奴ららしい」「なんとなくあいつらは叩いても許される」「なんとなくマジョリティに迎合する」という空気に影響されて、なんとなくの軸がシフトする。
これまでもなんとなく民主主義が大切だと思ったり、なんとなく平和がいいと思ったり、なんとなく原発は危険っぽいし、なんとなく憲法は守った方がいいと思っていたわけで、物事を深く考えていたわけではなかったから仕方がない面もある。
空気や雰囲気が少数の手によって操作可能なほどに脆いもので、あらゆるものがなんとなくで動いている。なんとなくで考えていることが平和主義なら他者に害は及ぼさないのだが、なんとなく攻撃的になってしまうのはよくないことなのかも知れない。
そろそろなんとなくがゲシュタルト崩壊を起こしてきたので、なんとなく文章を終えたい気持ちになってきた。


・マインドフルネスと『大家さんは思春期!』と女子中学生のブラジャー回

『大家さんは思春期!』というまんがで、女子中学生がブラジャーを探しに行く回がある。発育のいい女の子が周りから大きな胸を見られるのが嫌だという理由で、小さいブラジャーをつけているのだが、「自分に合ったブラをつけないと駄目だ!」ということになり、体型にあったブラジャーを見いだすまでの物語だ。おれはこのエピソードを読んだ後にマインドフルネスの書籍をひもといたのだが、必要な事柄はすべて女子中学生のブラジャー回に書かれていた。
人から評価されるために自分自身を大きく見せようとしたり、反対に自信が無くて自らを不必要に卑下したりする。そうすると本来の自分を押し殺して、心を締め付けてしまう。それは胸が大きく見られたくないが為にサイズの小さなブラをつけっぱなしにしたり、反対に貧乳が嫌でパッドをつけるのと同じことだ。
魂は外的な圧力や環境によって抑圧される。そのことで本来の形を歪められ、間違った形になる。自分のおっぱいにあったブラジャーをつけるように、自分自身の魂にあった振る舞いを身につけることこそがマインドフルネスの極意では無いのか?……というようなことを考えていた。女子中学生のブラジャーという変態的な話にしなければまともな文章になったはずだが、おれが『大家さんは思春期! 第三巻』のブラジャー回にスピリチュアルの本質を垣間見たというのは動かしがたい真実なので仕方が無い。
さいきんでは男でもブラをつけるのが流行しているが、おれもはじめてのブラデビューのためにイメージトレーニングを積み重ねておかなければならない。やっぱりスポブラから始めるのかどうかはわからないが、自分のおっぱいにあったものを身につけなければならない。それが禅だ。
それと大家さんは思春期!は二分アニメでは無くて、30分アニメとしてリメイクして欲しいと心の底から思っている。


・「おれのことが嫌ならブロックしろよ」ドクトリンを採用する。

人間として面倒くさい側に属するので、ある程度の距離感を保って交流した方がお互いに精神衛生上好ましいだろうと思っている。他者のタイムラインに発言を放り込むのは少々気が引けるときがある。ゆがんだ思考がフォロワーを襲撃するのは忍びない。せめてRSSを登録してもらって、気が向いたときにアクセスしてくれた方が気が楽だ。

フォローを解除する、ブロックするなどの行動は「縁を切る」という意味合いを帯びてしまう。人間同士のつながりが密になったために、「あなたのマイクロブログの購読をやめる」ではなくて、「私はあなたとの縁を切る」だとか「あなたの発言には価値が無い」と誤解される。
ある層にとって相互フォローはLINEで友達になることと同じものとして受け止められている。その価値観の中では、フォローを外されることが人間性に対する攻撃になってしまう。
人間はネットでの言動を深読みしすぎる。メッセージの返信が無いのは私がなにか悪いことを言ったのではないのか?私のことを嫌っているのではないのか? ……と、いくらでも悪いように解釈ができる。
言外の意味に振り回されてしまうのは、インターネットの欠点だ。テキスト情報だけでコミュニケーションをするのは不完全で、事務的な情報を伝達する以上のものを乗せると、その重みに耐えられなくなって機能不全を起こしてしまう。
それを解決する方法が「おれのことが嫌ならブロックしろよ」ドクトリンだ。マイクロブログは人間との距離感が近すぎる。あのきちがいは檻の外から眺める分にはいいけれども、同じテーブルで会話をするのはつらい。そのようなニーズに応える魔法の解決策だ。
失うものは何もないという気持ちがおれたちを強くする。自分のような人間に関わって時間を無駄にする必要はない。ここはおれに任せて先に行け。もっと価値のある人間をフォローしてくれ。
でもあたいたち、来世は友達になれるといいね……。


・理解しなくてもいいですよ。

LGBTを理解しよう、日本で暮らす外国人の文化を、発達障害を、聴覚過敏を、病気を、社会的ハンディキャップを、性的少数者を、自分たちとは異なった人たちを理解して、寄り添いましょう……という言葉をよく聞くけれども、理解のキャパシティが足りるのかどうか不安になってしまった。
理解しましょうという言葉だけが先行して、結局理解が根付かないままになるような気がして、それは結局無視しているのと違わないのでは無いのか。
「別に理解してもらわなくてもいいし、寄り添わなくてもいいのだが、いちいち余計なことで口を挟んでくるのはやめろ」という気がしないでも無い。べつにおまえに理解して欲しいわけでは無くて、なんでおれが骨を折っておまえたちに理解してもらう努力をしなければならないんだ。ちくしょう!という気持ちを抱く。
身体が欠損している肉体障害者がうらやましいよなーと思うときがある。別に説明してもらわなくても欠落を理解してもらえる。欠けている部分が目に見えるから、わざわざわかってもらう必要が無い。それとバリアフリーが配慮されるかどうかは別問題なのだが……。
でも成人知能検査を受けた結果、ある特定の分野に関する知能指数が知的障害者すれすれのレベルで低いです、というのはすぐには理解されない。おれが発達障害の診断を受けたときには、医者は「思い込みかも知れないけれどとりあえず検査の予約はしておくね。最近そういう人が多いからさー」オーラを全快にしていたのだが、検査結果を見たら「まちがいなく発達障害だね」と言った。検査で客観的な結果を叩きつけない限り、専門医にもそれっぽく見えないのだとしたら、おれはいったいどうしたらいいんだ……。
『放浪息子』という名作漫画で、女装癖のある男の子が女子の制服を着て登校するシーンがある。女の子が学ランを着て登校しても問題にはならないが、男が女子の制服を着るのは異常視される。それで職員室に連行された主人公が、教師に「なんで?」と理由を尋ねられる。この「なんで?」という言葉が嫌いだった。なんでおれがおまえに理解されるように、自分が置かれている環境を説明しなければならないのだ。どうしておまえに納得されるように話さなければならない義務を担わなければならないのだ。なんでおれがおまえに……という気持ちでいっぱいになってしまった。
精神科医が代わるたびにいちいちいちいちいちいちいち自分が置かれている状態や困っていることや配慮して欲しいことを「理解してもらう」ことがストレスになる。じゃー、もう理解されなくてもいいや☆勝手に死ぬか、そのうち刑務所のお世話になるか生活保護を受けるからよろしくね☆……という投げやりな気分になっている。
『亜人ちゃんは語りたい』というまんがには羨望のまなざしを向けている。何がうらやましいのかというと、困っていることがわかりやすいからだ。首が取れたり、雪女だったり、ヴァンパイヤだったりする。ただサキュバスだけは、人を催淫しないように人里離れた場所で暮らなければならないことが多いので、見た目の割にはしんどい障害だと思った。
「理解してもらう」というコストをなんで自分一人が背負わなければならないんだ、ころすぞと思っていて、何から何まで自分でやらなければならない。理解するとか寛容とか寄り添うとか、お気持ちの問題はどうでもいいので金だけよこせ!それが理解だ!という気にもなる。


・Digital colonialism is threatening the Global South

アルジャジーラのオピニオン記事。巨大IT企業によるデジタル植民地と、カウンターとしてのオープンソースソフトウェアの話。オープンソースソフトウェアは「巨大企業による搾取から逃れる武器」であり、「少数の利益のためでは無く、世界中の人々にとってのテクノロジー」を実現するためのものである……というような内容。
日本だと分散型SNSは技術者の楽しいおもちゃという感じが強いのだが、かつての植民地主義に現状を重ね合わせ、オープンソースソフトウェアを通じて民主的なインターネットを実現していこうぜ!という潮流が生まれている。( #deletefacebook など)
「権力が一極に集中することを許さない」のが西欧民主主義の基本コンセプトだ。分散化SNSも三権分立も、別々のものでは無くて歴史的な文脈の中でつながっている。インターネットは常にdemocraticなものと並べて語られる。日本でいういわゆる民主主義とは毛並みが違うし、言葉が使われている文脈が異なる。


Linuxの超軽量ブラウザーDilloは「インターネットの民主化」を目的にしている。

三年おきにパソコンを買い換えなくても、ウルトラモダンな機械を使わなくても、遅い回線でも、情報時代のメリットを享受できる。それがインターネットの民主化である。その正反対にあるのが、マイクロソフトのように企業利益のためのハードウェアの要求が絶えず上がり続け、ソフトウェアや機械の買い換えを促されるインターネットである。
この文章を読んだときにしびれてしまった。日本で使われている「民主主義」とは、まったく別の文脈と文化、歴史的経緯を持った「democracy」に触れたと感じた。日本の野党が選挙前に訴えるような空疎なフレーズとしての民主主義ではない。
米松(ダグラスファー)は立派な巨木に育つが、ヨーロッパの特定の地方に植樹をしてもうまく成長しない。土壌に大量のマンガンが含まれているせいで、土が合わなくて枯れてしまう。言葉も植物と同じで異なった環境ではうまく育たない。西洋の文脈から切り離して、無理矢理に異なった土壌に植樹したような民主主義は、土が合わずに死に体になっている。


・図解 はじめて学ぶ みんなの政治 | 晶文社

これを読んでいた。基本的な知識が簡潔にまとまっているので、入門や復習にはちょうどいい。
おれは敵味方に分かれて激しく罵倒し合っている政治クラスタが好きではないのだけれども、そーいうぎすぎすした雰囲気が嫌になってしまった人こそ読んで欲しい。現在の日本では、政治的な活動にコミットすることが、敵陣営と不毛な言い争いを続けることと同意義になってしまった。朝起きたら安倍晋三を非難したり、お花畑のクソ左翼を嘲笑したりする行為が「政治的なこと」だと思われている。最初に触れる政治的なものが、品を欠いた誹謗中傷の域を脱し得ないのだとすれば、誰だってこんなクソみたいな界隈に関わりたくないと思う。おれも正義を振り回して、罵り続けるような場所にはいたくない。
この本のいいところは「政治とは意思決定のプロセスである」という当たり前のことを思い出させてくれる点だ。合議形成し、権力が一カ所に集中しないようにして、マイノリティの意見が反映されるようにする。
自分はどうしたいのか、他人は何をしたいと思っているのか。異なる意見がそれぞれ適切に反映されるようになるためにはどうしたらいいのか? 「自分は何をどうして欲しいのか」を積み重ねていくことに政治的プロセスの本質がある。
「憲法を変えるべきか否か」や「地球温暖化をどうするべき」、「小さな政府と大きな政府のどちらが好ましいのか?」について論じるときにも、自分の意思がないと意味が無い。「そんな難しいことなんて知らねぇよ。おれは疲れているんだ。長時間労働しないで定時で帰りたい」としか思えないのだとしたら、そこから始めなければならない。それがその人にとってもっとも優先度の高い意思だからだ。
「自分がいま置かれている現状をどのように変えたいのか?」という基本的なことから目をそらして、大きな問題について論じるのは好ましいことではない。何を論じるにせよ「自分ならどう思うのか?」を念頭に置かないと、政治的なトピックが自分とは関係のないものになってしまう。
たとえば原子力発電政策や沖縄の基地問題でも、それを自分の生活に直接関わる問題としてとらえられない限り、自分とは関係の無い場所で起きているどうでもいい出来事になってしまう。「意思決定のプロセス」なのだから、まずはじめに自分の意思がないと始まらない。異なった意思がぶつかり合ったときに、それをどう調整していくのかを考えられるようになって初めて、政治的なものが立ち上がる。
逆に言うと、意思表明を行うよりも集団の和を乱さないことを優先する文化と、政治的なものの相性は悪いのではないのか?と思ってしまった。意思決定のプロセスに入る前に、自分自身の意見を押し殺してしまう。そのような環境では政治的なものは根付かないのかも知れない。


・ホワイトリスト的寛容性について。

「障害者やLGBTを差別してはいけない。私たちと変わりの無い人間なのだから、日本社会の成員として受け容れなければならない」という言葉には違和感を覚える。
元々根底に排他性や無知から来る偏見があるのだが、それを無視している。「このマイノリティは悪いやつでは無いので、日本社会のメンバーとして受け容れてもいい」というホワイトリスト的な発想で少数派を受け容れる。
その態度があまり好きでは無い。異質なものが疎まれるのがデフォルトになっている限り、新しいマイノリティが現れる度に多数派にお願いをしてホワイトリストに追加してもらわないといけない。
同質性を前提とした社会設計なので、異質なものを受け容れる余地が少ない。多数派で正常な人のために制度が設計されている。障害物は多いし、建築物は男女別に分かれている。それを無視して、マイノリティに理解があるように振る舞うのは自己欺瞞に思った。
差別意識を無くすだけでは不十分で、制度自体を変えないと差別を撤廃したことにはならない。
「女性同士の結婚? うん、私は応援するよ! 性的指向は自由だよね! 日本は女性の賃金格差が激しいので、女性同士のカップルは経済的に困窮する場合が多いから支援して欲しい? でも自分たちで選んだんだから、その辺は我慢しなよ」みたいなのはダブルスタンダードだと思う。
「○○(新しいマイノリティー)を理解しよう! 社会に受け容れられるように手を差し伸べよう!」という言葉に感じる違和感は、結局他人事だからなのかも知れない。 自分のことでは無いから関係ないし、もし自分の生活圏内に入ってきたときには排除すればいい。そう思っていながらも、表面上は「寛容性と理解は大切だよね」と言える。自分のことじゃないから、理解しているような素振りがいくらでもできる。


・消耗品としての本

紙の書籍は物理的な寿命が長い。ページが汚れても日焼けしても文章が無事ならいつまでも読める。その一方で書かれてあるコンテンツの方が先に死んでしまう。食べ物は胃に入れたらなくなってしまうけれども、書籍は物理的に消費されるということがない。だから本の貸し借りができたり、かつてのベストセラーがブックオフで捨て値で売られたり、読んだ本をそのままフリマアプリで転売できる。
電子書籍はある意味で「本を商品として最適化する」試みだ。端末とコンテンツをひもづけて貸し借りできないようにする。中古で手放せないようにする。長編マンガのような場所を取るコンテンツを消費しやすくする。
メルカリの「借りるように本を読めるようにしたい」発言、ツタヤ図書館、人文学を軽視する風潮は、書物と商品を同一視しすぎた上での当然の結論だ。短い時間で読み捨てられて、次々と新しい商品を買ってくれればいい。情報をストックする必要なんてない。企業収益を最大化する本がいい書籍だ。
「本なんて消耗品でいいじゃん。読んだらそのまま読み捨てるなり、売り払うほうが効率的じゃん」という価値観が、言葉の端々からにじみ出ている。「人文系?そんな役に立たない知識よりも、すぐに企業収益に結びつくコスパの高い知識を学生に教えろよ」
こういうコストパフォーマンスを偏重するような価値観に慣れ親しむと、文化はやせ細っていく。
メディアミックスしたマンガを十何巻も買って、何回か読んだ後に置き場所がなくなって捨て値で処分する。これを何度か繰り返したあとに、自分が本もマンガもコンテンツも大事にできていないと思った。
本は消耗品じゃなくて建築材に近い。煉瓦をひとつずつ積み重ねていくように、本棚に本を並べていく。そうすると本棚が引き締まっていくし、ほんの少しの時代の流れには左右されない頑強な本棚ができあがる。人文学的教養というのは、その煉瓦を積み重ねて作られた城塞都市のようなものだ。
それを成り立たせるためには耐久性のある文章を書かなければならないのだが、それは読み捨てられる書籍を漫然と消費するよりも困難なことだ。

・追記。

また公立の博物館や図書館について、観光資源やまちづくりの拠点として活用しやすくするため、所管を都道府県と市町村の教育委員会から自治体の観光政策課などに移せるようにすることも盛り込みました。

このニュースを読んだときに驚いた。図書館が市民の知的成熟に資するものではなくて、ただの観光施設としてしか捉えていない。図書館はただの公共貸本屋で、観光資源として人を集めるのがいいという倒錯した価値観をあらわにしている。ここまで言葉や記録を軽視する態度も病的だと思うよ。


・権力分散型社会

独裁政治と民主主義の対立ではなく「中央集権か分散型か?」という枠組みで社会を捉えたほうがいい。
インターネットではTwitterやFacebookといった中央集権型SNSへの反感が強くなり、サーバー分散型のSNSが生まれた。これはただテクノロジーだけの問題ではない。「権力は一極化するべきか? それとも分散したほうがいいのか?」という問題意識は現実の社会構造にも適用できる。
権力を集中させた方が意思決定の速度が上がるが、しくじったときの反動が大きい。権力を分散させると合議を形成しなければならなくなってスピード感が失われるが、致命的な失敗は避けられる。効率性とリスクヘッジを天秤にかけて、どちらがより自分たちのためになるのかを決定する。民主主義はすばらしいものではなくて、低リスク低リターンな組織の意思決定だ。それを支えているのは「アホに強大な権力を与えるとろくなことにはならない」という経験知だけだ。独裁で痛い目に遭った経験が忘れられてしまえば、民主主義はただの非効率的でスピード感を欠いた意思決定方法でしかなくなる。
民主主義社会にとっての危機は「独裁のデメリットを実感できなくなること」だ。戦後民主主義社会を支えていたのは理念ではなくて、「戦前の強権的な体制に比べればマシ」という皮膚感覚だった。それが失われたときに、「有能な人にエンパワーメントをして意思決定の速度を上げたほうが効率的ではないのか?」という発想が生まれる。リスクヘッジを重視するよりも、効率性や生産性に重きをおいた価値観が優勢になる。

 松下幸之助さんは「会議室で7割が賛成する意見はもう古い。7割の人に反対されるくらいの意見で丁度いい」なんておっしゃってたし、ドラッカーの本にも「満場一致なら決定するな」みたいなことが書かれてる。突出した会社や発明の多くはすごく優秀な人が強いリーダーシップでいろいろなことを決めたからああなってると思います。
小籔千豊 「行きすぎた民主主義よりは独裁のほうがええ」|NEWSポストセブン

この記事で違和感を抱くのは意思決定の例として松下幸之助やドラッカーといった企業の事例が持ち出されることだ。独裁国家ではなくて株式会社が、民主主義社会の対として扱われている。政治での意思決定と、営利企業にとっての意思決定を同一視している。効率的に社会を運営するためには、企業のような組織が望ましいと考える。内田樹はそれを「日本社会の株式会社化」と呼んでいる。

「株式会社化」というのは、「すべての社会制度の中で株式会社が最も効率的な組織であるので、あらゆる社会制度は株式会社に準拠して制度改革されねばならない」というどこから出て来たか知れない怪しげな「信憑」のことである。
大学の株式会社化について - 内田樹の研究室

利潤を追求する企業と、国民全員を食わせていかなければならない国家を同じ尺度で論じるのは、公平ではない。企業は四半期ごとの業績によってその良否が判断されるが、国家は何十年も先を見据えて運営されなければならないからだ。
しかし「軍事政権だって、いいじゃない」という学生たち:朝日新聞GLOBE+という記事では、「もし絶対的なリーダーがいて、正しい道を分かっているのなら、その人に任せた方がいいのかなと思います」という女子学生の意見が語られる。

「軍政が良いという学生は、5年前ならクラスに1人か2人だった。でも今は、『どちらかといえば』も含めると、半数近くになってきました」 舛方氏はこう付け加えた。「もちろん、その後に、軍政の悪い側面を強調して伝えると、『やっぱり民政の方が良いですね』と前言を翻す学生もいます。ただ、現在ブラジルで広がりを見せる右派ポピュリズムも、軍政のネガティブな側面をできるだけ伝えず、ポジティブな部分を強調する傾向にあるので、日本の学生たちが軍政がよいと直感的な印象を受けた割合も、あながち間違いではないかもしれません」
「軍事政権だって、いいじゃない」という学生たち:朝日新聞GLOBE+

より効率的で、意思決定が速いシステムを求めた結果、独裁制や権力の一極集中を肯定してしまう。それを右傾化や全体主義という言葉だけで片付けるのは、思考のサボタージュだ。左派は民主主義プロセスを無視した安倍政権の政権運営を非難するけれども、自民党支持者には「マジョリティの意見を大切にして、意思決定のスピードを上げる効率的な政権」に見えているのかも知れない。強権で少数派を押しつぶすのは欠点ではない。部分的に痛みを強いるけれども、最終的には国益になることだから我慢しなければならないこととして受け止められる。
自民党支持者が求めているのは独裁制ではない。「少数を犠牲にする代わりに、国のパフォーマンスを上げられる効率的なシステム」だ。それを無視して、民主主義を守ろう!と言っても誰も耳を貸さない。左派の訴える民主主義は「皆を大事にした結果、国のパフォーマンスが発揮できずに共倒れになってしまう」非効率的な制度だからだ。
日本全体のパフォーマンスを最大化するために、少数派には我慢をしてもらう。この論法に日本国民は慣れ親しんでいる。労働者が権利を過度に主張すれば、日本経済に悪影響を与える。沖縄県民が基地移設に反対すれば、国防政策にほころびが生まれる。自分たちが我慢をすれば、全体のパフォーマンスが上がり、回り回って自分たちにとっての利益になる。犠牲になりたくなければ、集団内でうまく立ち回らなければならない。ただ反対するのは集団の和を乱す不穏分子だ。
民主主義は面倒くさい。が、その面倒臭さがリスクヘッジシステムとして機能する。面倒くさいと思ったのなら、民主主義は正常に機能している。けれどもその面倒くささをメリットとしてアピールできていない現状を見ると、民主主義も死ぬしかないとも思う。物事を決めるための制度では無くて、致命的に邪悪なものが力を持ち得ないようにするものだからだ。
それは民主主義社会と呼ぶよりも、権力分散型社会の方が実態に即している。


・無知ゆえに人を裁く。

価格コムでマザーボードの評価を見ていたときに「何もしていないのに壊れました!」という書き込みがあった。辛辣なコメントがついて袋だたきになっていて、「おまえの自己責任」だとか「何もしていないわけないでしょ? どんだけ雑に扱ったの?(笑)」みたいな書き込みで溢れていた。情状酌量の余地がない暗黒インターネットだ。
でもね、 Intel SkylakeのCPUの一部はCPUクーラーの重みで曲がることが判明! - VR中心、雑記ブログ という記事によると、Intel SkylakeのCPUは基盤が薄くなっていてちょっと力加減を間違うとソケットが曲がるらしい。怖い。
時期的にも壊れやすい規格に当たった可能性を除外できないので、一方的に自己責任扱いにするのにはデータが足りない。
無知な人間の誤りを、また別の無知な人間が袋だたきにするのも、地獄のように思えた。無知ゆえに人を裁く。無知ゆえに相手の陥っている環境に思いをはせられない。むしろ自作PCで失敗した人は自らの過ちを聞いてもらって、慰めて欲しいだけだよ。がんばったね! むしろ自作PCなんてマザーボードぶっ壊したりピンを折り曲げてからが本番みたいなところがあるよね。経験をお金で買えてよかったね!ぐらいのおおらかな気持ちでいたい。


・『民主主義の死に方』を読んだ。

『民主主義の死に方』によれば立憲民主主義の社会を支えているのは憲法でも無ければ法律でも無い。相互的寛容と自制心だ。
競い合う政党がお互いを正当なライバルとして受け容れるという相互的理解。組織的特権を行使するときに政治家は節度を保たなければならないという自制心。この二つの不文律によってアメリカの民主主義社会は機能してきた。本書ではこれを「民主主義のガードレール」と読んでいる。独裁者やポピュリストが国政のハンドルさばきを間違っても、ガードレールの強度が十分なら、脇道に脱線せずに済む。
しかし社会が二極化することでガードレールが弱体化し始めた。異なる立場の人々が互いを敵対視し始めることや、政治家が「合憲・合法的だがあまりにも道義に反したラフプレー」に手を染めることで、民主主義を成り立たせていた二つの不文律が機能不全に陥ってしまった。

この本を読みながらなぜかアイカツのことを思い出していた。アイカツはアイドルをモチーフとした女児向けアーケードゲームおよびにテレビアニメだ。現在ではアイカツフレンズが放送されている。このブログを読むような人間にはわざわざ説明する必要の無い項目だ。
アイカツの世界観にはライバルはいるが敵はいない。
敵に勝つために上履きに画鋲を仕込んだり、権謀術数を巡らせて相手を陥れるような展開は無い。勝つために手段を選ばないという発想が、アイカツの世界には無い。勝つにしろ負けるにしろ、互いの人格を認め合って真っ正面からぶつかる。それがアイカツだった。

「『アイカツ!』って、悪いことを考える人が1人もいない。敵がいないんですよ。邪悪な心に支配されて、悪役に変わるような作品もあるじゃないですか。それも好きなんですが、『アイカツ!』はそれがない。みんないい人なんですよ」

政治的な話題に言及する度に、我々は互いを敵対視する文化に飲み込まれていく。立ち位置が異なる人間が共存しなければならない同胞ではなく、排除するべき敵になる。政治は合議形成のためのプロセスでは無くて、敵対する相手を罵り、中傷し、完膚無きまでに叩き伏せる胸くそ悪いものになる。
その価値観が内面化する度に民主主義の脱線を防ぐガードレールが弱体化していく。民主主義を守ろう! おれの気に入らない糞野郎を叩きのめせ!……という言説それ自体が、守ろうとしているはずの民主主義を衰弱させていく。それでは我々はアイカツの世界から遠ざかるばかりだ。
『アイカツフレンズ』の主人公・友希あいねは、どんな人間とも友達になれる。「目指せ友達百万人!」と、「どーんとこい!」を口癖にしている。無敵というのは、敵対する相手をすべて力で叩きのめすことでは無い。敵を作らないことだ。敵がいなければ戦う必要は無くなり、あらゆる力は意味を失う。
民主主義社会から相互的寛容と自制心が失われている。そう言われても、失ってしまった感情がどのようなものなのかを我々は思い出せない。それが残っているのはアイカツかけものフレンズだけだ。人間とけものもフレンズになれる時代だが、人間は人間を生きたまま丸呑みにする。
我々が今問わなければならないのは、「どうやって民主主義を守るか?」ではない。「相互的寛容を自制心をどうすれば取り戻せるのか?」だ。言い換えれば「どうして我々はアイカツの登場人物のようにまっすぐ生きられないのだろう?」ということでもある。その問題の糸口を探るために、アイカツシリーズを観るのがもっとも手っ取り早い解決手段だ。
しかし問題はアイカツの量である。アイカツシリーズは一年分のシリーズを追うだけでも、25分×約50話=20.8時間かかる。無印アイカツシリーズ、アイカツスターズ、アイカツフレンズを一気に視聴すれば、一週間あればなんとか追いつける計算だが、これはおすすめしない。一週間に一度アイカツを見るというリズムに身を浸し、生活とアイカツが一つになる経験が我々には必要だからだ。
それに比べれば『民主主義の死に方』は300ページぐらいしか無いのですぐに読める。「全世界独裁者カタログ」、「アメリカのネトウヨ・クソサヨク列伝」「ドナルド・トランプ観察日記」みたいな内容だ。

※追記

それはそうとアイカツ!の再放送が始まるのでまだ観ていない人類は要チェックだ。魂の救済は金では買えない。しかし一週間に30分のアイカツ!鑑賞は、いつかおまえを導く光になる。


・言葉が現実を超過する。

ニュースや新聞を見ていてると「言葉が現実を超過した状態」がときおり現れる。現実がどうなのかよりも、頭の中だけで築き上げられた脳内現実を、そのまま現実世界に投影する態度を「言葉が現実を超過する」と呼んでいる。目の前にあるものではなくて、脳内で作り上げられたイメージしか見ていないのに、自分では現実を客観的に把握していると勘違いをする。
言葉が現実を超過する状態は、珍しいものではない。聖書が絶対的に正しいと信じたり、不完全な社会主義思想をそのまま現実に押しつけて大量の餓死者を生んだり、大東亜共栄圏を作り上げなければならないと盲信して戦局が見えなくなる。これらはすべて、脳内世界が暴走してしまった結果だ。
保守やリベラル、思想や信仰で物事を分けるのでは無くて、「言葉と現実のバランスが保たれているか?」に注意を払った方がいいのかも知れない。 僕たちが暮らしている世界は二つある。ひとつは「自分たちの意思にかかわらず、ありのままで存在している世界」で、もう一つは「自分の頭の中に築き上げられた世界観」だ。
どんなに客観的に振る舞っていても、僕たちは自分の脳みそを通してしかこの世界を把握できない。見えている現実は、自分の小さい脳みそで理解できるレベルにまで、圧縮・劣化したものでしかない。それを忘れてしまうと、脳内世界が現実をねじ曲げ始める。


・グローバルスタンダードな視点の絶望的な欠落について。

カルロス・ゴーンの長期拘留や、テニスプレイヤーの肌を白く描いたことが白人優越主義だと諸外国から非難されるニュースを見ていた。実際に起きている出来事よりも、それがグローバルスタンダードな価値観に反していると気づけないことの方が深刻なのでは?
日本国内の価値観では問題にならないような事柄が、他の国では人権侵害や侮辱、非常識なものとして扱われる。自分たちのしていることが国際常識からかけ離れているという病識を持てないまま、差別的な発言や日本国内でしか通用しない価値観を全世界に向けて発信してしまう。
よくTwitterのユーザーが、自分の友達しか自分の投稿を見ていないと思い込んで公序良俗に反した写真をアップロードしてしまうことがあるけれども、問題はそれに似ている。日本国内では問題にならないと思って発言したことが、西欧の価値観に照らし合わせると人権侵害になったりする。日本国内向けに発信された表現に国際的な基準を当てはめるのが正しいのかどうかはわからないが、すくなくとも「全世界に公開」になってしまう。
ネットがインフラになるにつれて、グローバルスタンダードな価値観で評価されることが避けられなくなる。日本国内でなら不問になる偏見が国際問題になり、小規模な集会で口を滑らせたことが日本中に拡散されてヘイトスピーチとして扱われる。インターネットの隅っこで流通していた過激なポルノも、スマートフォンがあれば一クリックでコンテンツにアクセスできる。
ゾーニングができなくなった結果、不快なものを含むあらゆる情報にアクセスできるようになってしまった。嫌なものをフィルタリングしたりブロックするのではなくて、存在そのものを許せなくなってしまう。不必要な情報に触れて、本来なら抱くはずが無かった怒りを抱く。
内輪でわいわいと騒ぐことが標準で、グローバルスタンダードな価値観を前提に置いて言葉を発しなければならないというのは、僕たちにとっては不自然な行動なのかも知れない。
僕たちの使っている言葉は潜在的にマインスイーパーで、どのような発言も人生を吹き飛ばしてしまいかねない可能性がある。自動車を運転しているときにはハンドルを切り違えると死亡事故につながりかねない。それと同じように、判断力が落ちているときに発言した言葉で、今まで積み上げてきたものを台無しにしてしまう。
その可能性が常に横たわっているのは、好ましい言語環境だとは言えない。
自分の言っていることが政治的に正しくないのは百も承知だけれども、「何を言っても社会的にお咎めの無い空間」が必要ではないのかと思う。無制限に人を中傷していいわけでもないし、犯罪行為を容認しているのでもない。
「もしかしたら自分の発言が炎上してしまうかも知れない」という意識があると、自由に発言できなくなる。「この発言は公序良俗に反したものではないか?」と、常に脳の何パーセントかを自己検閲のために使ってしまう。この習慣は、思考を非効率的なものにしていく。環境に適応するために誰から見ても角が立たないような言葉を使うようになっていき、最後には毒にも薬にもならないことしか喋れなくなる。それは言葉を殺していくことに等しい。


・ヤク中☆フレンズ!

有名人の薬物乱用がニュースになるたびに、「ようこそ!あたらしいともだち!失敗してももういちどやり直そう!」という気持ちになる。これもおれがアルコールと処方薬を乱用していたときに先輩のヤク中から受け取ったものだ。おれは生きるのに耐えられなくなって睡眠薬をアルコールで流し込んで、病院に運ばれていた。そのあとにばつの悪い気持ちのままヤク中ミーティングに顔を出す。どのように責められるのか怯えているのだが、ヤク中の先輩たちは「生きてて良かったね!また一日ずつ、薬に頼らなくてもいい日々を重ねていこう!」と優しく接してくれる。これはいたたまれない。駄目な人間だと罵ってくれた方がマシなのだ。
これまでおれはミーティングに出席するヤク中どもを見下していた。シンナーやコカイン、覚醒剤、脱法ドラッグに比べれば、アルコールと処方薬でらりっているおれはよっぽど真人間だ。おれはおまえらみたいに落ちぶれちゃいねぇ。そう思って内心見下していたのだが、一番最初にリラプス(再び薬をやること)したのはおれだった。
誰が一番の屑かどうかを決めるのは無意味だ。どんな薬物に耽溺していたとしても、自分ではどうにもならなくなってしまったという点ではみんな平等だ。
ヤク中はみんなフレンズ!である。そういう心境なのでピエール瀧も田代まさしもアスカも、薬物を使ったやつはみんなともだち! 辛いけど一緒にがんばろう!……という気持ちになる。だがこの感覚は健常者社会では一般的な感覚では無いらしい。違法薬物をやったというスティグマの押された人間は、自分たちの同胞ではなくなる。はじめから存在しなかったかのように作品は回収され、映像は放送休止になる。
ペストに罹患した人間を広場で焼いて、自分たちに害悪が及ばないように焼却処分しているような感覚になった。不健全な部位を切り落とせば、私たちのコミュニティがこれ以上汚されることはない。そうやって患者は社会から切り離されて、寂しさを紛らわせる唯一のフレンズが薬物だけになってしまう。そうなってしまわないためにも、「おまえのフレンズは薬物じゃねえ!おれたちだ!」と言えるようなヤク中☆フレンズ社会の方が人間には優しいに違いない。


・高校野球の投球制限について。

高校野球は一部の人間に過剰な負担がかかる構造的な欠陥を抱えているから、いますぐこんな競技はやめさせろ。私からは以上だ……というわけにも行かないので、もう少し詳しく説明する。高校野球は組み体操ピラミッドと同じで、一部に過剰な負担を強いる。一番下でピラミッドを支える生徒と、球を投げ続けなければならない投手は常に怪我をするリスクに晒されている。
感動や伝統、あるいは高校野球という娯楽を続けるためにだけ、一部の人間が過剰な負担に晒されるのは非倫理的であると思う。それは高校野球や組み体操に限ったことでは無い。便利だからという理由でコンビニエンスストアに24時間営業を強いたり、日本の国防のために必要不可欠だから沖縄に基地負担を押しつけるのと同じだ。
一部の人間を犠牲にすることでしか成り立たないシステムであれば、それは非倫理的なものだから無くしてしまっても構わない。伝統だからそう易々とやめるわけにはいかないだとか、国防のためにはやむを得ない負担だったとしても、それはマジョリティ側の理屈なので、犠牲になる側からすれば知ったことでは無い。


・BL大陸・闇の奥。

千と千尋の神隠しに出てくるカオナシが、風俗嬢のストーカーになって本番要求を繰り返したあげく、最終的に出禁になる悪質客にしか思えなくなったあたりで自分の心が汚れていることに気がついた。闇金ウシジマ君で似たようなエピソードがあったよね。
このような視点でアナと雪の女王を観ると、腐女子の隠れオタク姉妹の話になる。エルザは物心ついたときに悪い魔女の呪いによって週刊少年ジャンプのBL同人アンソロジーを手に取ってしまい、BLが無ければ生きられない身体になってしまった。それを世間に知られないようにエルザは自らの性癖を隠して生きる。一般ピープルとして生きられるかと思った矢先に、エルザは性癖を暴かれてしまい、自室に引きこもる。
わたしにはBLマンガがあればいい。ここにいればありのままの自分でいられる。触れたものをすべて受けと攻めにカップリングしてしまう呪いが掛けられた、忌まわしい存在。それがありのままの私だ。消しゴムにシャープペンシルの芯を突き刺しながら、芯×消しゴムのBL妄想に耽るエルザだ。消しゴムはどれだけ自分が汚されても気にしない。「怖がらなくていい。どんな間違いもおれが消してやるから」最後には小さくなって消えてしまうというのに、消しゴムはシャーペン芯の過ちをすべて受け容れるのだ。
エルザは自室に引きこもってAmazonととらのあなからBLを買いあさる日々が続くのだが、二階の自室に溜め込まれたBLマンガの重みによって床が抜けそうになっていた。 なんかそういう話として理解してしまった経緯がある。BLで理解ができないのなら、「小学生の乳歯をコレクションする性癖のある女」でもいい。
俺もはじめはボーイズラブ界隈には偏見が入り交じっていた。あいつらすぐにホモセックスさせるんだぜと思っていたのだが、ボーイズラブの大陸は広い。
BLでは性描写が精緻に書かれているわけでは無い。男性向けエロまんがでは性器や汁が写実的に書かれていて、可愛らしい女の子と薄汚いおっさんの雄々しいペニスの対比が一つの見所でもある。しかしボーイズラブの性描写はあっさりしている。精液じゃ無くて蜂蜜でも出しているんじゃ無いのかってぐらいの綺麗で透明な性交渉をする。百合で言うと女の子同士でプラトニックなキスをするみたいな感じで、純粋で混じりけの無いものをぶつけ合っている。ケツの穴から血が出るとか、先っぽに糞がつくとか、そういうのとは無縁の世界だ。
男のエロマンガは射精することが至上目的になっているのだが、ボーイズラブものでは射精描写に対するこだわりがあまりない。男性向けエロマンガはだいたいラスト2ページぐらいでクライマックスを向かえる。野郎は出すものを出せばそれで終わりなのだが、腐女子には射精をする器官がない。そのために彼女たちは精神的な満足を得るために射精の先に行こうとする。それがボーイズラブの魔境であり、我々が目指すべき闇の奥だ。

おっさんがボイスチェンジャーを駆使して美少女ボイスを出そうとするあまり、女の子よりも女の子らしい女の子の境地にたどり着く。それと同じ原理で、腐女子が理想のホモセックスを空想し続けた結果、想像だにできなかったものがこの世に受肉する。 まるがつばつにち。インフルエンザが快方に向かいつつあるときに、私は美少女ボイスを出そうと試行錯誤を繰り返していた。タミフルの副作用である異常行動かも知れない。
美少女ボイス練習をしていたら、天から少女のソウルが降りてきた。自分が僕っ娘だという設定で声を出したときに、下記のストーリーが一瞬で生まれた。
–百合妄想ここから–
僕は昔は男の子っぽいって言われていた。夏になるといつも都会から綺麗な女の子が遊びに来て、僕はいつもその子みたいになりたいと思っていた。僕は少しでも女の子らしくなりたいと思うのだけれども、次の夏が来るたびに**ちゃんは想像していたよりもずっと綺麗になっていて、僕は嬉しくなって、でも少しずるいと思う。
でも**ちゃんは僕の方が綺麗だと言った。**ちゃんは自分のことが綺麗だと知っている。その美しさを利用する方法も、それが自分にとってどうプラスに働くのかを理解している。だから**ちゃんは、綺麗になるたびに醜くなっていくのだと私に言った。
–百合妄想ここまで–
上記のテーマは「自分がまだ美しいと気がついていない頃の少女だけが持つ、打算の無い美しさ」だ。バーチャル美少女ボイス受肉とはよく言ったもので、魂の底に長らく眠っていたアニマが産声を上げ、私はその苗床になった。
おそらくボーイズラブにもこれと似たような原理が働く。性器を失った連続殺人強姦魔は、挿入の快楽を得る代わりに死体にナイフを何度も突き刺すことがある。おにショタ強姦BLを執筆しているときには、ペニスをショタアナルにぶち込む代わりにコミスタを走らせ、ペンタブレットでショタアナルを執拗に攻める。人は自分が欠落しているものの代償を求めるために、闇の奥に足を踏み入れる。
闇を見つめている過程で、いつの間にか闇の住人になってしまう。深淵をのぞき込んでいるつもりが、自分自身が深淵の一部になって人間を見つめている。いまならコンラッドの『闇の奥』で、クルツが「恐ろしい、恐ろしい……」といっていた理由がわかる気がする。恐ろしい、恐ろしい……。


・ダンジョン道

ダンジョン道はローグライクダンジョン・不思議のダンジョンシリーズへの愛から生まれたテキストだ。ローグライクはゲーム芸術である。たったひとつステータスを変えただけで全体のバランスが変化する精密機械のような構造をしている。
私はダンジョンについて語り始めるとちょっと普段より増しで気持ち悪くなってしまう。ダンジョンは芸術であり、人間の無意識領域へと足を踏み入れることと同義なのだ。

・風来のシレンにおけるゲームバランスの取り方
風来のシレンはゲームバランスを取るときに「ひとつ敵を強くしたら、味方が有利になる要素をひとつ増やす」という風に、全体のバランスに気を遣っている。それが明白に現れているのが、「敵の強化とシャッフルダンジョンの導入」だ。
天馬峠や瀑布湿原、ムゲン幽谷では、敵を強くしたりやっかいな特殊能力を持った敵を出す代わりに、視界を広げてバランスを取っている。
ローグライクダンジョンは通路でいきなり敵と鉢合わせする恐怖を感じながら、前に進む。だが「見えない恐怖」とは別に「遠くに敵が見えるからこそ感じる恐怖」を作り出すのは、ゲームに緊迫感を与える。

・風来のシレンのノロージョはセルアーマーとセットになっている。
盾を呪って外せなくなる能力と、盾を弾く能力の二つを併せてゲームバランスを取っている。しかしリメイク版だと呪いの仕様が変わって、このバランス調整が意味を失っている。
不思議のダンジョンシリーズでの呪いは「装備をつけるときに新しい力を得られるのか、それともデメリットアイテムが呪われて外せなくなるのか?」というギャンブル要素だ。リメイクシレンでは「呪われていたら特殊能力が発揮できない」という仕様だが、これは意味が無いどころか不思議のダンジョンに対する冒涜だろ、と思うのです。そもそも呪いの新仕様によるアイテム欄の圧迫と、帯電によるアイテム欄の圧迫は効果として重複しているよな?
呪いのデメリットは、装備付け替え権の喪失による戦術バリエーションの低下だ。重装の盾を戦闘中にだけこまめに付け替えたり、満腹度を節約するために道中は皮の盾を使うなどの選択権の消失がする。それで呪いフロアを抜けた後にはご丁寧に盾をさび付かせるゲドロがでてくる。
「どれだけ盾が消耗しても捨てられない苦しみ」シチュエーションを用意して、ようやく呪いの本領が発揮される。こういう風にトータルでバランスを取る感性が好きだ。

・呪いのギャンブル性について。
トルネコの大冒険の場合は、呪いが「腕輪装備ギャンブルのスパイス」になっている。
トルネコの大冒険の場合は、もっと不思議のダンジョンに出現する腕輪のうち、11種類中3つがデメリットアイテムだ。なおかつ25%の確率で呪われている。だがシャナクの巻物やパンの巻物があるので呪いを解除する手段は多い。
「リスクを覚悟のうえで早めに腕輪を装備して、戦闘を有利に進められる可能性に賭けるかどうか?」という選択を常に迫られる。リスク・リターンを自分の意思で選択できるゲームデザインだ。

・徹底的なリスク・リターン選択制
トルネコの大冒険や風来のシレンに特徴的なのは、「自分の意思でハイリスクハイリターンな戦略を選べる」という原則を徹底している点だ。呪いのリスクとアイテムの効果を比較して、装備するかどうかを選べる。殺されるリスクを天秤にかけて、店からアイテムを盗める。寝ているまどうしを倒すかどうかを決められる。
シレンになると「ぼうれい武者が敵をレベルアップさせる」ことがあるのだが、これは完全に自分の意思では制御できない。ぼうれい武者を逃がしてピンチになる場合もある。
「自分の意思でピンチに飛び込んでいったのだから、死んでも自己責任だ」という納得感を生み出すゲームデザインだ。

・フェイの最終問題を巡る冒険。
その旅では透視の腕輪も分裂セットも出なかった。
見切りとやまびこの盾を早期に合成できるものの、その後の引きは悪い。30階でようやく強化の壺が出るが、これでは盾の強化が間に合わない。36階からは敵の攻撃力がカンストする魔の階層だ。それまでに盾の修正値をすくなくとも40程度にはしておかなければ死ぬ。それが初代シレンだ。
36階以降は使い捨ての盾を装備し、ブフーの杖でパコレプキングを肉にしながら進む。開幕モンスターハウスで死を覚悟するものの身代わり連打で切り抜けて、50階まで凌ぎ続けた後に盾の強化に成功する。ただいまだに透視の腕輪は出ない。一難去ってまた一難。三方向からアークドラゴンの炎が吐かれる中を回復の腕輪と背中の壺を頼りに進み、途中で復活の草を消費する。
ドキドキしながら90階台を進みつつクリアする。バランスブレイカーとなる透視の腕輪や分裂セットが出ない状態でクリアしたことにこれまでにない達成感を覚えた。

・透視の腕輪はゲームバランスを崩す。
不思議のダンジョンシリーズにおいて透視の腕輪は強力すぎる。どのシリーズも攻略法が「透視の腕輪を手に入れる」に集約される。それが駄目なら気配察知の腕輪になる。敵の位置情報はローグライクダンジョンにおいて値千金だ。
透視の腕輪は削除するか、あるいは大幅に弱体化した方がいい。透視の腕輪は敵の位置確認、先制攻撃、モンスターハウスや店探知機などに使えるのだが、これらの機能は別アイテムにした方がいい。
以下は個人的な改善案だ。
・透視の腕輪の下方修正→例・たいまつの腕輪
 視界を周囲三マス程度に広げる。敵に先制攻撃されなくなる点と、部屋に入る前にモンスターハウスかどうかを確認できるだけでも状況を有利に進められる。
・マップ表示に回数制限をつける→例・透視の壺
「押すと透視の腕輪と同じ効果を発揮する壺」を導入し、強力な効果に回数制限をつける。ただアイテム数が多くなりすぎるので良くない。風来のシレンは合成システムのせいでアイテム欄が圧迫される。壺があれば緩和されるが……


・国際感覚を養うためのニュースサイト巡回先

・遠ざけよう!日本語のインターネット!
ここ最近ツイッターで見た情報は「アウシュヴィッツは存在しない」という捏造論と、それを否定する言説だった。貴重なリソースが古典的なフェイクを退けるために使われているのは、終わりの無い消耗戦に見えた。こんなクソみたいな捏造論は無視していいのだが、放っておく訳にもいかないので対応せざるを得ない。そのうち地動説捏造説や地球空洞説が出てくるに違いないと思っている。
・問題はどうでもいい情報でインターネットパワーが消耗させられることだ。何の栄養も無い情報に振り回されて時間を浪費する。価値のある文章や言説はまったくない。ずいぶん前にそう気がついたときにインターネットを遠ざける決意をした。
これから書くのは日本語のインターネットを遠ざけて、より質の高い情報を得るための戦いの記録だ。

・このあたりのニュースを巡回先に加え、国際感覚を得る。

ポイントは「日本国内と海外を切り分けるような視点を無くす」ことだ。
日本国内のニュースや新聞では、国内とその他海外の出来事が分断されている。国内で起きたことはあくまでも日本だけのニュースとして処理され、海外で起きた事件は対岸の火事として報道される。海外のニュースが「自分たちには関係の無い外側で起きた出来事」になり、国際感覚が疎くなっていく。
それを克服するために、「アジア環太平洋の国々の一つである日本」という視点を養うのを目的にする。海外のニュースサイトにはAsia Pacificというカテゴリーがあって、日本のニュースは韓国や北朝鮮、中国、ベトナムやシンガポールと一緒に扱われる。日本人がシリアやアフガニスタンを中東の一国だと認識するように、日本も東南アジアの一国として見られている。


・魚類ファースト対二足歩行党

政治の話をする。現時点での地球に存在する政党を大まかに分けると、昆虫のための選択肢、魚類ファースト、自由二足歩行党の三つである。私は魚類ファーストの過激な支持者であり、我々を乱獲する二足歩行陸上生物に対する差別主義者であり、魚類優越主義者だった。
二十一世紀中盤。過度な海洋資源の乱獲に心を痛めた人々と魚類たちによって、魚類ファーストの前身である「魚の党」が創設された。これは人類と魚類の共存を掲げた穏健派環境政党だったが、日本人が平和条約を一方的に破棄してうなぎを食べてしまったことにより、過激派が勢力を増した。人間と魚の共存を目指す穏健路線の魚の党とは別に、人類を劣等種としてこの地球から消し去ろうとする極魚(きょくぎょ、far-fish)運動が活発化した。そして暴力も辞さない過激な魚(うお)イズム政党である魚類ファーストが誕生したのだった。
人類が垂れ流した汚染物質を蓄積した魚が人間世界の食卓に紛れ込み、食中毒を起こすというケミカルテロリズムが蔓延し、スシはアンチフィシュライト(反魚権)運動のシンボルとなった。スシを食べるという行為は魚類社会正義に反し、SNSにスシの写真を投稿するものは差別主義者としてアカウントが削除される。
スシ・レストランでは社会的悪の象徴となったスシが提供される。この世界でも数少ないアンダーグラウンド料理店である。
スシとは何か。拉致監禁され、切り刻まれた魚の肉を、ライスの上に乗せる料理である。これがいかに非魚道的な食べ物であるのかは、薄く切った人肉をパンで挟んで食べる料理の魚版を想像してもらったほうが早いだろう。古来より奇習に染まった日本人は、魚を食べると賢くなると信じていた。当時はアフリカで、アルビノの脳を食べるとエイズが直ると信じられていた迷妄の時代であり、魚類もまた呪術的な迷信の犠牲になっていた。
人類によるうなぎの絶滅計画が進められる中で、うなぎたちは手をこまねいているだけではなかった。うなぎという種が存続するためには、人間による漁獲量制限に頼るだけでは不十分だ。うなぎ自身の手でうなぎを守らなければならない。それが民間防衛の基礎だ。武装せずにうなぎ社会を人類の手から守れると考えるのは理想論であり、ドードーやステラカイギュウの二の舞いになるだけだ。
そして世界中のうなぎ社会は立ち上がった。交配を続け、バイオテクノロジーを活用し、自主的な品種改良に努めた。漁船に対抗できるように巨大化し、厚い外殻で身体を覆った。現在ではシーサーペントうなぎやリヴァイアサンうなぎという、空母を撃沈しうるほどの打撃力を備えたうなぎが世界中の海で散見されるようになり、人類はうなぎを食べることが不可能になった。一説によればネス湖のネッシーは巨大化したウナギであるという。適切な環境であればウナギは巨大化する可能性があるのだ。
うなぎの進化により人類の活動領域は縮小した。輸送船が破壊されるために経済活動は停滞し、地球温暖化による海面上昇によってすみかを奪われつつあった。これまで争いを続けていた人類は国境を撤廃し、二足歩行党による世界政府が設立された。残された資源と人口を一つに束ねること以外に、魚類社会と戦う術は残されていなかったのだ。人間はあくまで霊長類の長であろうとした。二足歩行を始めたために動物には戻れない。陸に上がったせいで海にも戻れない。たとえその先に絶滅が待っていようとも、このまま二足歩行の奇形進化した猿として生きなければならないのだ。
終焉の危機を迎えた人類と武装うなぎたちとの最終決戦が始まる……!


 

・アテンションの過剰消費でインターネットは回る。

・注意力(アテンション)争奪地獄に巻き込まれている。
コンテンツの供給量に対して、人間側が支出できるアテンションや時間、労力は有限だ。このアテンションという希少な資源を互いに奪い合って、利益や満足感にコンバートしている。ネットはテレビに比べると視聴率に振り回されなくてもいいから、より本質的でクオリティの高い情報を手に入れられる……と言われていたときもあるけれども、実際には注意を引きつけなければクリックすらされない。クリックされないものはどんなにクオリティが高くても存在しなくなる。
アテンション争奪原理主義市場になり、収益や金銭の取引以前の問題として、注意を引くこと、存在を認知させることに多大な労力を費やさなければならなくなる。

・フラット化する情報とアテンションの過剰消費。
新聞の場合には情報がどの面にのっているのか、記事の大きさはどの程度か、文章は長いか短いかを指標にして、直感的に情報の軽重を判断できる。一方、ネットでのニュースは見出ししか表示されないので、情報の軽重がフラットになってしまう。一面のトップニュースも三面記事も同じ扱いで、数少ない指標がコメントやブックマークの数、SNSでバズっているかどうかぐらいしか重要性の指標がなくなる。
マイクロブログは情報が細切れになってしまう構造上の欠陥を抱えていて、まとまった情報を得るためには、過剰に労力を消費してしまう。
まとまった文章や書籍であれは、目次やパラグラフの構成、見出しなどによって、文章の構造を把握できる。これはアテンションの節約に役立つ。
インターネットが人間のアテンションを過剰に消費して成り立っているのではないのかと思っている。見出しもない。構造もない。重要性が高いかどうかもわからないフラットな情報が絶え間なく流れ続けている。
情報を得ることは簡単になったけれども、得た情報の価値を理解するのは逆に難しくなっている。
アテンションと時間と労力を際限なく飲み込むことでしか継続し得ないのであれば、インターネットは有害なのかも知れない。仮想通貨を維持するためには多大な電力が消費される。取引が改ざんされていないか確認するために高度な計算を必要とする。仮想通貨システムを保ち続けるためだけに環境に負荷をかけるのは倫理的に好ましくないと個人的には思っている。インターネットは電力だけではなくて、私たちの意識と時間を食いつぶしながら動くようになってしまったように見える。
適正な労力で、適切な量の情報を得られるものではなくなって、注意力を奪う寄生虫に等しい存在に変わり果てる。
「一週間か一ヶ月に一度、パッケージ化された情報をチェックすればいい」という従来のモデルではなくて、時間があるときにはスマホやPCの前に張り付かないといけなくなる。

・低アテンション消費のインターネット
アテンションを争奪し合わなければならない現在のネット環境が不完全だと思っている。一週間か一ヶ月ぐらい置きに更新をチェックすれば、何が起こったのはだいだいわかる……という構造にしないと、いつかインターネット疲れを起こしてしまうのではないのかと思う。
家電が低電力になってエコロジーに配慮しているように、ネットも低アテンションなメディアが求められるのではないのか。それは広告を見せて収益を得るというビジネスモデルとは真っ向からぶつかり合うものだけれども、そっちのほうが人に優しいインターネットになる。
現在のSNS、マイクロブログ全盛のインターネットはあまり好ましい場所ではない。情報が整理されていない環境は健全だとは言えない。マストドンなどの非中央集権型SNSは理念としては好ましいのだが、アテンションを過剰に消費するTwitterの設計を引き継いでしまっている。既存サービスのクローンでしかない。
そうではなくて、「人間にとって優しいインターネットとは何か?」と問うべきだと思っている。「低アテンション消費のインターネット」は、人間にとって優しいネットの一つのあり方だ。


・「理不尽で無意味なことへの強制」を武器とする権威主義について。

権威主義では理不尽な命令に従わせる方が、上下関係をより明確にできる。誰もが納得できる妥当な命令では相手を服従させたことにならない。命令が理不尽かつ危険で、意味がないものであればあるほど、強制が意味を持つようになる。
小学校の組み体操だったり、敬礼をしているようにはんこを傾けたり、辺野古の基地移設を強制したりするのは、「それが理不尽で意味がないことだから」という理由に尽きる。「私は理不尽で意味のない行為を相手に強制できるぐらいの権力を持っている」という形で、自らの全能感を確かめようとする。対話を通じて説得できるような合理的な命令では、自分が強い立場にいると実感ができないからだ。
命令する側は「理不尽なことを強制できる」全能感を、服従する側は「理不尽なことを受け入れざるを得ない」屈辱と無力感を与えられることで、支配-被支配関係がより強固になる。服従するたびに「私はこのような理不尽な命令に屈せざるを得ないほどに無力な人間である」という風に無力感を学習するか、あるいは「自分のやっていることは正しいのだ」と自己欺瞞に陥って認知不協和から逃れる。
けれども理不尽で無意味なことを使って支配構造を強化していく間に、社会は非効率的になっていく。合理的かつ効率的で、意味のあること、対話を通じて説得できるものが重要視される社会では、支配構造は崩壊してしまう。「私とおまえは対等な人間ではない」ということを常に思い知らされるような社会でなければ、権威主義は効果を発揮しない。
「私たちは対等な人間である」という意識が芽生えたら、理不尽で無意味な権威主義は意味をなさなくなる。権威主義は単純な上下関係ではなくて、複雑な階層構造になっている。支配者対被支配者という二元論ではなくて、きめこまやかな尺度による日本国民ランキング制度みたいなものがあるような感じだ。
自分よりも上位の人間には服従しなければならないが、下位の人間には尊大に振る舞っても許される。被支配者でありながらも、誰かにとっての支配者になれるという共犯関係が築かれる。
人間は平等だという理念よりも、「私とおまえは対等な人間ではない」とか「分をわきまえろ」という社会的なメッセージの方が強い。自分よりも下だと思った人間にはどれだけ辛辣に接してもいい。これを「ランキングカースト制度」や「ランキング権威主義」と呼んでいる。
現在のいじめやスクールカーストは異常な現象では無くて、日本社会で生き延びるための極めて実践的なカリキュラムだ。ランキングカースト制度で、他者よりもいいランクを獲得するために上手く立ち振る舞う。システムを変えるのでは無くてルールの中で適応する。こういう社会だと「私たちは対等な人間である」という意識は育ちにくい。
人間は平等だという理念は実態には即さないけれども、人間は不平等で優劣があるという価値観は権威主義や差別を生み出す温床になる。


・フィジカルの欠けた言葉

戦後の「人の命は地球よりも重い」と、戦前の「命は鴻毛より軽し」という言葉はセットなのかもしれない。極端から別の極端に揺れ動く。そこには命に対する観念だけがあって、フィジカルな重さがない。実感がないから自分や人の命を粗末に扱える。ブラック労働も自殺も人権軽視も、道徳観の欠如であるというよりかは命を重さのあるものとしてとらえられない副作用だ。
フィジカルを欠いた言葉を使うことに慣れ親しんでいるので、あらゆるものが軽薄になって、重みを持たなくなる。言葉が実体を持ったものであると言うよりも、人間側の都合でいくらでも都合よく現実をねじ曲げられるものになる。言葉が先にあって、現実は言葉に従属する。言葉で表面を変えてしまえば、本質そのものが変質するものだと思っているから、いくらでも言葉を軽く扱える。

・理路の一貫性について。

2017年の総選挙の時に「自民党が圧勝したが、比例での投票数は約1億0609万人 のうちの約26,50万人でしかない。自民を支持している国民は四分の一に過ぎず、民意を正確に反映しているわけではない」という言説が野党側から語られた。
それから一年と四ヶ月ぐらいたった後に2019年の辺野古基地移設の是非を巡る沖縄県民投票が行われたのだが、そのときには基地容認派から「反対派が圧勝したが投票率は約52%であり、沖縄県民でも反対しているのは四割に過ぎない」という言葉が聞こえてきた。
どちらが正しいのかはここでは問題にしない。
沖縄の県民投票が民意だと主張するのなら、自民党の圧勝も民意だということにしないとつじつまが合わない。反対に自民党の圧勝が民意を正確に反映したものではないと主張するのなら、「基地移設反対派もたかが住人の四割程度で大多数ではない」というロジックを受け入れないといけない。
使っている言葉や論理展開、思考の筋道に一貫性がないから、自分の主張を押し通すために都合のいい言説を選んでいるように見えてしまう。


・情報の循環が滞っている。

SNSで情報収集せざるを得ないときがあるのだが、Webサイトやブログに比べると情報の循環が滞っているような気がする。googleなどの検索エンジンが使い物にならなくなって、TwitterやYahooリアルタイムで検索することが多くなった。検索エンジンはある程度知りたいことがらがわかっていてピンポイントで検索するときには役に立つのだが、ざっくりした情報を探したり、知らなかったことを知りたいという用途には適していない。かといってSNSを検索しても情報が断片的になっている。
ニュースを読むときでも機械のアルゴリズム任せか、フォローしている人のリツイートやシェア、ソーシャルブックマークのバズに頼っている。こういう環境に身を置いていると、自分がデジタル盲目になってしまったように感じる。見通しが悪いウェブのなかで、手探りで情報を探している。データを俯瞰する見取り図がないままでいる。構造的な無知の中に放り込まれているようで居心地が悪い。
インターネットが狭いと感じる。自分が検索できる言葉と、フォローしている相手、回ってくる情報、巡回先の中に囚われている。そのフィルターバブルの外側にいくのが難しい。書店の本棚を眺めいているときに、ふと周辺視野に写った本が気になって買ってしまうというようなことがない。探すつもりがなかったものを見つけてしまうという偶発性がない。「あなたのおすすめはこの商品です」と関連する商品が表示されるのでは足りない。リンクが張られていないととっかかりがなくなってしまって、目の前にあってもアクセスできない。その構造が窮屈に思える。ネットが巨大な閉架式の書庫になって、探している情報にしかアクセスできない。自分が知りたい情報以外を知るのが難しくなる。偶発的に新しいものが入ってこない状態が息苦しく思える。自分が知りたいものではなくて、知るつもりも興味もなかったものが知りたい。それが構造的に不可能になっているので不満だった。
それでなるべく雑誌を読むようにしているのだけれども、今度はその情報を効率的に共有する方法もない。わざわざポストしたり紹介するわけでもない情報は伝播しない。常に情報を発信し続けないと、膨大なログに埋もれて存在が忘れられる。アナログ世界なら本棚に指しっぱなしにしたり、雑誌をテーブルにおいておくだけで「在る」という情報が伝わるのだが、ネットは「在る」ということを告げるためにもアクションが必要になる。それはコストパフォーマンスが悪い。


・情報技術左翼

海外メディアを読んでいると、情報技術の発展と、巨大IT企業が社会や資本主義、民主主義のあり方を根本から変貌させてしまうのでは?という視点の記事が多い。けれども日本だとそこまで危機感が伝わってこない。
Facebookのスキャンダルが起きたときには、新聞がコンピュータ雑誌みたいになっていたので楽しく読んでいた。本邦の地方新聞では、ようやく天声人語的なコラムの担当者がスマホを買ったことを報告していた。この落差に絶望感を覚えてしまった。情報技術に対して後手に回っているどころか、何が危機なのかを把握できていない。この温度差がひどい。
保守化したリベラル(という言葉も矛盾している)は、情報技術やコンピュータに対する感度が低い。本来なら「インターネット民主主義! 大企業の支配から逃れろ! 自宅に建てるmastodonサーバー!」とか「国家権力の検閲と戦うための暗号アルゴリズム入門!」「世界のネット検閲ルポ」みたいな記事があってもおかしくなかった。
現在のインターネットは危機に瀕している。GAFAによってネットワーク空間が植民地になり、情報技術と国家権力の結託によって自由が抑圧され、民主主義がポピュリズムに飲み込まれる。企業は個人情報を収集し、資本主義はより効率的に人々の欲望を刺激できるように進化する。
リベラルもそういうのと戦うの大好きじゃないの?と思うのだが、そこまで意識が育っていない。日本共産党あたりが自前でMastodonインスタンスを立ててもいいんじゃないのか。
情報テクノロジーだーい好き☆という気持ちがないとアーリーアダプターを引きつけられない。なんかこう世界の最先端を突っ走っている感がいまの左翼には足りない。100年前の社会主義思想はもっと輝いていた。思想の最先端を突っ走っていた。啓蒙主義が王政のくびきから人々を解き放った。南北戦争が奴隷制を打ち砕いた。その延長線上で、資本主義の鉄鎖からプロレタリアは解放されるはずだった。実際に共産主義国家を作ってみたらどこも圧政と欠乏が支配する全体主義国家になってしまったのは残念だが、ゼロ年代(※1900年代)の社会主義思想はきらきらしていたよね……。
「理性に導かれて合理的な社会を作り上げれば人類は幸せになる」という理性への信頼が近代社会なのだが、そこまで人間は理性的ではないことが明らかになってしまった。合理的な社会を作れば幸せになれる。確かにそれは完璧なプランだ。非合理的な人間には不可能だと言うことに目をつむれば、だけれども。

・捨てようぜ、自由意志!
個人的には人工知能技術が人間の代わりに思考してもいいと思っている。眼鏡をかけて視力を補正するみたいに、人工知能が非合理的な思考を矯正してくれるような仕組みがあってもいい。
眼鏡も中世時代は悪魔の道具だった。人工知能も現代社会では恐怖の対象として見なされるときがある。たとえ機械に頼りすぎて思考が萎えてしまうようなことがあっても、テクノロジーの力を借りて合理的な決定をできる方が好ましいんじゃね?と思うのです。捨てようぜ、自由意志!


・知らないでいいことを、知らないままでいるために。

自分が自然に知ることができる情報だけで十分なのかもしれない。何かを過剰に知ろうとするのは、無知でいることへの不安が大きいからだ。すべての事柄を知るのは不可能だけど、満足するまで知りたいものを調べられる。知ると同時に知らないものの量が多くなりすぎる。
情報収集するよりも、適切な無知にとどまっていることの方が難しい。何も知らずにいることはできないけれども、際限のない情報に振り回されてしまうのも健康ではない。必要な情報を、適切な分量だけ見聞きする方法を学ばないと、情報量の多さに押しつぶされてしまう。
食べ物を食べれば満腹感が得られるけれども、知ることには満足感はない。物理的に満たされることがないまま、脳がより大きな刺激を追い求め続ける。自分がまだ調べていないところにすばらしい情報があるのかもしれない。そう思って新しい情報を探すのは、スロットマシーン中毒になってしまったネズミと変わりがない。
知りたいときに、知るべき最低限のことを、知ることができる。知りたいのはその方法だ。


・失敗すると自分を責める。

パズルゲームをやっていて失敗するとムキになって成功するまで続けることがよくあるのだが、無意識のうちに「失敗する=自分が低能であることの証左」と考えてしまう。「そんな簡単なこともできないのはおまえが低能で頭が悪く、人間としての価値がないからだ。さっさと死んだ方がいいよ、マジで」ぐらいの感覚を抱く。その観念をふりほどくために成功するまでチャレンジをして、「いやおれはできるんだ。人間としての価値があるんだ!」と自分に言い聞かせようとする。この思考の歪みはやっかいなのだけれども、どう対応するのが正解なのかわからない。
「自分はできる!」という自己効力感と、「やっぱりおれは人間のくずだ……こんな簡単なこともできない……」という無力感の間を心が激しくスウィングしていて、休まるときがない。失敗はただの出来事ではなくて、無能人間証明書が発行されているに等しい。
俺の中に住み着いているネガティブマインドが、些細な失敗をあげつらっておれの自己効力感を切り崩しにかかってくる。ほんの些細な失敗でもいいので、常に攻撃材料を探している。
この強敵に打ち勝つためにはLSDを服用して、おれをほめてくれるおねえちゃん(CV.沢野ぽぷら)の幻聴が聞こえるようになるしかない。幻聴も薬で治そうとするのではなくて、対話をすることで徐々に幻聴と仲良くなっていくと症状が軽くなるらしい。

問題は自己肯定感がいちじるしく低いことだ。簡単なことで自分を責める。完全にこなすか、一つでも失敗したら全部台無しかの極端な思考をしていると思う。「細かい部分でしくじったけど、死ぬわけではないからだいたいおっけー!」……みたいなざっくりとした思考ができない。てっとりばやく自己効力感を得られる娯楽に手を出すと楽なのだが、それではインスタントな自己効力感ジャンキーにしかならない。
自己肯定感を高めればいいとよく言われるのだが、むしろ屑な自分でもいーじゃん!という気持ちになった方が早いのかもしれない。自己効力感を高めるというのを、できないことができるように努力した結果、自分を肯定できるようになる……という風に思っていた。自分のことが好きになれない?だいじょーぶ!どんなにんげんも最終的には死ぬから、そんなことは悩むだけ無駄な問題だよ!


・求められているのはTwitterの代替品であって、分散型SNSではない?

オープンソースソフトフェア文化の理解がないままに脱中央集権型のサービスを利用するのは片手落ちだ。Twitter社が運営するTwitterからPixivやドワンゴが運営するMastodonに移住しても一抹の不安は残る。私企業の思惑に振り回される側であることに変わりは無い。
求められているのはTwitterの代替品であって、分散型SNSではないということを頭の片隅に入れておかないと、Mastodonは人が少なくて機能が貧弱なTwitterの避難場所にしかならない。規制が緩くなればMastodonにとどまっている理由はなくなる。なんだかんだ言って企業製サービスのほうが便利だし使いやすいし、リモートフォローの仕組みも面倒くさい。
ニコニコ動画かPixivが作ったTwitterの代替品なのか、分散型の理念に根ざした自由なインターネットの一角なのかをはっきりさせないと、MastodonインスタンスはAmebaなうやはてなハイクと同じ轍を踏むかもしない。
PawooはPixivとの連携機能が便利だけれども、そのことで連邦制SNSの一部になるのではなくて企業サービスに囲い込まれる可能性がある。連携の便利さと、ほかのサービスとつながるのが不便になることは表裏一体だ。
「もしサービスが無料で使える場合、あなたはユーザーではなくて商品なのだ」という言葉があるが、無料でMastodonを使うために支払っている代償は何か? この問題に答えられないのなら、まだ自分はユーザーではなくて商品の段階にとどまっている。


・SNSのサブウェポン的運用について。

・この文章を読んでいるやつはいますぐにSNSをやめろ。
……というのも不可能なので、マイクロブログサービスを補助的に使う方法について検討していく。
マイクロブログはサブウェポンだ。使い勝手のいい短剣のようなポジションだが、デメリットも多い。数日分しか過去ログをさかのぼれない。長文は細かく寸断されてしまう。見出しもつけられない。面白いことを言っている人を見つけても、過去のコンテンツを閲覧するのは容易ではない。
いついかなる場所でも簡単に投稿できるというメリットがある一方で、情報をまとめて摂取する上での効率性が悪いという致命的な欠陥がある。SNSを社会のインフラにしたり、情報収集とアウトプットのメインツールにするのは非効率的だ。そう考えているがゆえに「SNSのサブウェポン的運用」を提唱したい。
具体的にはブログを開設する。それが難しいならdiaspora*というFacebookのマストドン版みたいなやつを併用したり、別のWebサービスと組み合わせて、情報のストックと一覧性の確保に気を配ればいい。

・面倒くさい発言はマイクロブログを使うな
文脈を踏まえる必要がある話題や、発言を切り取られたら誤解を招きかねない文章、人によって見解が異なる話、政治に対する言及、コメント欄が荒れる可能性が高い話題はマイクロブログで扱うべきではない。
マイクロブログは交流には向いているが、議論や対話の基盤にするにはあまりにも脆弱すぎる。自分の歪んだ価値観を言いっ放しにして、気に入らないやつをブロックするぐらいしかやることがなくなる。
スマートフォンの小さな画面とマイクロブログやSNSの不便な設計は、民主主義社会とは相容れない。スマートフォンは高度なテクノロジーなのだが、冷静な議論や、信頼の置ける情報収集を行える技術ではない。そもそもスマートフォン自体がパソコンのサブウェポンとして生まれた(※要出典)。主力はパソコンであり、スマホはあくまでも外出先でインターネットを閲覧するものだった。「パソコンの前にいなくても、別の部屋や外にインターネットを持ち出せる」というところから、モバイルインターネットの世界が始まったことは留意しておくべきことだろう。
Twitterも当初はパソコンの前で使うものだった。スマートフォンの無い時代のTwitterと、誰しもがモバイルデバイスを持つ現在のTwitterは全く別のツールだと思っている。
スマホやマイクロブログ自体はツールとしてはおもしろい。しかしそれだけに頼り切るのは愚の骨頂だ。スマホやマイクロブログのサブウェポン的特性を活用することと、サブウェポンでは不便なときにはパソコンやほかのサービスを使い分けるITリテラシーが求められる。
上記の文章のような理由があり、マイクロブログはあくまでもサブウェポン的な運用を心がけることにする。


・パブリックな言葉遣いのルールについて。

パブリックな言語空間を形成するためには、言葉遣いにもルールがあったほうがいい。自分がパブリックな場所で発言をするときにはルールを定めて、その規則を遵守するように心がける。
・落ち着いた言葉遣いをすること。
・人格攻撃をしない。(批判するのは人ではなくて内容にする)
・レッテルを貼らない。
・詭弁を弄さない。
……などなどの当たり前のルールを常識にしないと、言葉への信頼性がなくなっていく。
詭弁を弄する、レッテルを貼る、人をけむに巻くタイプの言説。これらのラフプレーは明確に咎められるわけでは無いのだけれども、それなりのペナルティを与えていかないと、言論それ自体が成り立たなくなってしまう。
「相手は自分に伝えたいことがある。精一杯、持てる語彙を使って言葉を伝えようとしている。だから自分は耳を傾けなければならない」という暗黙の了解のうえに、対話は成り立っている。
その暗黙の了解に泥を塗りたぐるみたいに、詭弁を用いたり、論点をすり替えたり、延々と関係の無い話をしたり、質問に答えなかったりするような言葉遣いを、個人的には評価したくない。「あいつの言葉には耳を傾けても無駄だ」という形で、言葉を信頼できないものに変えてしまうからだ。
でもSNSの性質上、レッテルを貼ったり、人格攻撃をしたり、論拠の定かではない言説を垂れ流したり、断定的な口調で現実を歪めるような言葉の方が消費しやすくなっている。それは消費しやすいが、パブリックな言葉ではない。


・暴力の人類史

 暴力の人類史を友達から借りてきて読んでいた。
 科学が疫病に打ち勝っていったのと同様に、社会システムの改善によって人類は暴力を押さえ込んできた。人間の内なる善性も、まだまだ捨てたものではないと言う人間賛歌である。
 三十年戦争の犠牲者の方が、第一次世界大戦よりも多かったというのが意外だった。第一次世界大戦は写真メディアや映像メディアに記録された最初の戦争であり、それ以前の映像として記録されなかった戦争に対しては、当時の状況を想像する材料が与えられていない。
 本書によれば、この世界から暴力を取り除くために重要とされる要素のひとつが、女性化であるという。

 すなわち、暴力はおもに男によってなされる、ということである。子供のころから、男性は女性よりも暴力的な遊びをし、暴力的な娯楽を消費し、暴力犯罪の大部分を担い、罰と復讐に喜びを覚え、愚かしい危険を冒してまで侵略的な攻撃を仕掛け、好戦的な政策や指導者に投票し、ほぼすべての戦争とジェノサイドを立案遂行する。(p558)

 もともと男性は女性への性的アクセスを巡って競争するインセンティブが強く、女性は自分の子供を孤児にしないように、危険に近づかないインセンティブが強いのである。(p560)

リスクを積極的に取る男性に社会の舵取りを任せるのか、それとも危険を避ける女性が国政に参加した方がいいのか。アイスランドでは全63議席中30議席が女性議員でしめられている。(確か2016年現在のデータだ)
フェミニストではないのだが、男性的な価値観だけが支配的になってしまうのはリスクヘッジとしてよろしくない。成長しなければならないとか、経済競争に勝たなければならないというのは男の子文化みたいだよね。


・おれはアニメオタクではないのでプリキュアとか熱心に観ていない。

そんなアニメオタクでは無いのだから、プリキュアとか熱心に観ていない。おたく野郎がみんなプリキュアを観ていると思ったら大間違いだ。
最近のプリキュアはどうしても、プリキュアという構造に足を引っ張られているように見える。敵が襲ってきて、変身して、戦闘シーンがあり、必殺技バンクがある。この一連のノルマが脚本を回すうえでの障壁になっている。Aパートで足早にドラマを進めて、Bパートで戦闘。ゴールデンウィークやクリスマス商戦、劇場版公開といったしがらみの中で、脚本が不完全燃焼を起こしている。
アイドルアニメは最後にライブシーンを脈絡無くぶち込めるので、プリキュアに比べたら自由度は高い。しかしプリキュアは戦いに尺を奪われて肝心のドラマを描くリソースが奪われる。題材としてはいいものがそろっているのだが、限られた枠で消化するには不十分な場合が多い。感動的になるはずだったシーンも登場人物の心の動きをなおざりにして無理矢理進めるので、感情移入ができないときがある。
そして我々は禁断の問いを発することになる。「プリキュアである必要なくね?」と。バトルが足を引っ張りすぎて、物語の快楽が薄まっている。
韓国の魔法少女アニメFlowering heartはその辺をわりと上手く解決していて、「様々な職業に変身して、みんなの力になるよ☆」という方向でシナリオを回している。野球選手として助っ人に入ったり、コンビニ店員がオーディションを受けられるように、変身してシフトを埋めたりするのだ。お仕事スイッチオンである。おれがハグプリに期待していたものでもある。
ようするに昨今のプリキュアはおおくのものを背負いすぎている。ドラマもバトルもこなし地球を救い、人間関係の問題を解消し、バンダイの販売戦略もやってのけ、政治的に正しいメッセージを発する。それはプリキュアにとって酷なことでは無いのか。彼女たちはまだ女子中学生だ。自分たちが多様性を口にできないからといって、プリキュアに変わって言ってもらうのであれば、彼女たちは英雄ではない。世界平和のために捧げられる生け贄だ。おれたちがプリキュアを頼れば頼るほど、彼女たちは孤独に戦い続けなければならない。そんなことをおまえはプリキュアから教わったのか?という話だ。


・デミちゃん感想文というタイトルの人生が辛かった日記

 別に自慢でも何でも無いのだが、言語IQが116ぐらいで記号処理IQが127ぐらいある。高校を中退するときにも知能指数が120ぐらいあるから辞めるなと言われたのだけれども、簡易的な知能検査で計測できないジャンルが壊滅的に駄目だった。後に成人知能検査を受けたときに、聴覚から入ってきた情報を処理する機能が軽度知的障害すれすれで、短期記憶が弱いことが明らかになった。
 発達障害のひとは知能のバランスが悪いのだ。
 長時間座って人の話を聞いていなければならない授業が本当に駄目で、耳に入ってきたことがらが反対の耳からすり抜けていく感じがある。やる気が無いと言うよりも、脳の構造的に不可能だった。この世界が俺以外の正常な人間向けに作られているような気持ちにもなる。  でも聴覚では無くて視覚情報を中心にした勉強方法に切り替えたら良かったよ☆ 問題はそれをあと十年早く教えてもらえば良かったんだけど……。
 そんな感じのアンバランスな脳みそを持っているので、亜人(デミ)ちゃんは語りたい!を見ると涙が出てしまう。このまんがの世界はファンタジー障害者が適切に配慮されている。そのため、「亜人でもここまで人権が配慮されるというのなら、おれは何だ? 人外か? 非人間か?」……としばしの間、思い悩んでしまった。
 この作品で一番の空想生物はバンパイアでも雪女でもデュラハンでもなく、理解力のある落ち着いた大人だった。
 デミちゃんの世界を見ていると、首が取れたり、日光に弱かったり、熱いものが駄目だとというのは欠点では無いように思える。周囲の環境や人間がそれを疎ましいものだと思ったり、本人が生まれ持った性質に後ろめたさを覚えた瞬間にそれは障害になる。
 デミちゃんも最初は亜人であることの悩みと社会適応についてのエピソードが多い。でも巻が進むと別にデミちゃんである必要性が無い話も増えてくる。登場人物が普通の高校生として、普通の日常を送ることがこのマンガのゴール地点だ。
 発達障害も一般人に比べて劣った生き物みたいなニュアンスがあるから、デミちゃんみたいな呼び方ないかな。まず障害という字面がえぐい。発達障害という文字も脳かたわとか知能奇形児という表記と似たようなものだ。もう健常者じゃ無いからデミちゃんでいいだろ。ラテン語でdīmedius(中央から外れている)という言葉が語源だし。おれがデミちゃんだ!


・言語世界

ヒンドゥー語には与格という文法があると聞いた。これは日本語だと「私はあなたを愛している」と表現するものが、ヒンドゥー語では「あなたへの愛が私に宿った」という風になる。
また英語は行為そのものに重きが置かれる一方で、ドイツ語のネイティブスピーカーは出来事を全体論的に表現しようとする傾向があるという研究結果がある。

研究を行ったランカスター大学の言語学者、パノス・アサナソプロスは、被験者に、自動車の方向へと歩いている人物の動画を見せた。その様子を言葉で描写させたところ、英語を母国語とする人の多くは「人が歩いている」動画だと答えたのに対し、ドイツ語を母国語とする人の多くは「自動車に向かって歩いている人」の動画だと答えたのである。
つまり、ドイツ語を母国語とする人は、人物の行為だけでなくその目的も一緒に描写する傾向があるのだ。なぜなら彼らの言語は、出来事を全体において考察する、全体論的観点をもつ言語だからである。これに対して、英語を話す人は、行為そのものだけに注意を集中させる傾向を持っているようだ。
使う言語が「世界の見え方」を決めている:研究結果|WIRED.jp

僕たちの認識は言葉によって分節化されている。言語というレンズを通してしか現実を解釈できない。言葉は自分の思いを自由に表現するための道具では無くて、僕たち自身が言葉を伝達する乗り物(ヴィークル)になる。保菌者がインフルエンザウイルスを伝染させていくように、言語活動を通して他者に言葉を感染させていく。
じゃあ日本語を通じてどういう世界が見えているのかを自覚するためには、どうすればいいのだろう?


・日常の言葉と政治の言葉

日常の言葉と政治の言葉のあいだには深い断絶があって、その二つがうまく混じり合わないと感じている。「あらやだ。消費税が上がったらしんどいわ」という言葉と、「消費税増税絶対阻止!安倍政権を倒せ!」という言葉の間には埋められない溝がある。同じことを主張しながらも、全く違った性質の言葉になってしまう。
日常の言葉は「どうやって生きよう?」という生活に根ざした言葉で、政治の言葉は「どうやって敵に勝つか?」という戦いの言葉になる。
政治的な言葉に違和感を覚えてしまうのは、それは日常に根ざしていたはずの言葉が、いつの間にか「どうやったら政敵を倒せるのか?」という話になってしまうからだと思う。
日常で使っている言葉の延長線で、社会の言葉を語れるようになる。そうならない限りは、政治的なものは日常とは相容れないのではないのか?という問題意識を持っている。
自律神経は外敵と戦うときに刺激される交感神経と、リラックスするときに働く副交感神経に分かれているのだけれど、政治的な言葉を使うと戦闘モードを司る神経が過剰に刺激されてしまうように感じる。これがいままで政治的なものを遠ざけていた一因だった。
流通している既存の言葉を使うと、どうしても戦いの言葉を使って喋らざるを得ない。そうすると政治的なトピックに触れる度にアドレナリンが放出して、身体が戦闘モードになる。拳を強く握りしめて、叫ぶような言葉を多用するようになる。それは自分の望むところでは無い。


・メディアの印象過多について

テレビで白血病の闘病記を見ていたのだが、チャンネルを変えたくなってしまった。写真や映像で見た場合の印象が鮮烈すぎて、闘病の苦しさを受け止められなかった。これが文章だったら印象が和らぐのだが、映像として見るのは刺激が強い。東日本大震災の津波映像も、テロや銃撃事件の現場で取られた映像も、児童虐待のニュースも、生々しすぎて神経が耐えられない。
世界中の悲惨なことを映像で報道できるようになった結果、それがあまりにも印象過多になってしまう。その結果、ネガティブな世界観を自然と遠ざけている……ということがあるのかも知れない。
文字情報だけなら「世界にはこんな酷いことがあるんだね」で済ませられることが、ニュースになると精神が削り取られて憂鬱になる。そうして悲惨なことを目にしたくなくなって、楽しいことしか興味関心を払わなくなる。
政治的な関心が無くてテロやシリアの空爆などの国際問題に興味を持たないというよりも、激しい映像を見るのが心に堪えるというだけの理由かも知れない。
戦争報道やニュースは18禁バージョンを作るべきだといつも思っている。朝やゴールデンタイムは表現がマイルドになった全年齢向けニュースで、深夜のニュースになるとモザイクが掛かっていないままの死体が映し出される。たまたま目に入ってくるのでは無くて、「悲惨なものを自分の意思で見るのだ」という決意を持って、世の中の邪悪さを受け止める。視聴中には人間が信じられなくなったり、うつ気味になったり、吐いたりする。
あるジュブナイルSF作品で、「先人から過去の記憶を受け継ぐのだが、それがあまりにも辛すぎるので前任者が自殺した」という話がある。内容がネタバレなので作品名は伏せる。
メディアが映像で現実の悲惨さを伝えられるようになっても、自分たちの精神は社会の暗部に耐えられない。そのせいで表現をマイルドにして現実から目を背けている。メディアの表現力が上がったせいで逆に実態からは遠のいていく場合もある。


・「何が市場を独占するのか?」という発想を捨てろ。

よく「○○という新サービスは第二のFacebookになるのか?」という記事をみるときがあるけれども、この発想は好ましいものではない。次にどのサービスが市場シェアを独占するのか?という発想は、勝者が市場で一人勝ちする世界を肯定してしまっている。
「様々なサービスが互いに共存するためにはどうしたらいいのか?」を考えるべきだ。FacebookでもTwitterでもmastodonでもtumblrでもmixiでもInstagramでもマイナーなサービスでも、市場シェアなんて気にせずに好きなサービスを使って、更新情報だけを別のアプリで一元的に管理するような未来になって欲しい。ちょうど、ブログやウェブサイトの更新をRSSで管理するような感じだ。
あまりにもタイムラインに縛られていて、他のサービスとの連携がうまくいかない。ただ更新されたコンテンツを手早く確認できればいいだけなのに、いちいちアカウントを登録して、フォローして、タイムラインを見るという手順が求められる。
企業の都合や市場でのシェア争いに巻き込まれて、ユーザーには不便さが押しつけられている。べつにTwitterでもMastodonでもdiaspora*でも、更新されたコンテンツを効率的に閲覧できる仕組みがあればいいだけなのに、「市場でのシェア争い! 次のプラットフォーマーになるのは誰だ!?」という言葉にまどわされて本質が見えなくなっている。マイクロソフトを倒してもGooleが覇権を握り、Googleが倒れてもまた別の企業が市場の覇者になるのでは困る。そのへんがもうちょっと自由になるといいのだが、反対に企業はサービスの囲い込みに向かっているので不満なのだった。


・Wall Gardenのインターネット

企業サービスに囲い込まれて、インターネットが不自由になっている。「知り合いと連絡を取りたいですか? Facebookに実名を登録してください! Lineの認証には電話番号の紐付けが必要です!」という、アカウントと個人情報を結びつけるサービスが常態化しているのを快く思っていない。
インターネットを利用しているのでは無くて、企業サービスの中で飼われている。SNSにはマストドンなどの分散型の代替サービスがあるのだけれども、あまりにもユーザー数が少ないので、市場を独占している企業サービスを使わざるを得ない。見せかけの選択肢は多いが、実際にはひとつしか選べない状態が窮屈で仕方が無い。
ブログやメールアドレスみたいに異なった企業がサービスを提供しているのではなくて、一つの企業が一つのサービスにユーザーを囲い込む。Twitterはマイクロブログのひとつではなくて、もうTwitterという巨大なコミュニケーション圏になってしまったし、Facebookも同様だ。同じサービスに登録しない限り、内部にいる人と交流できないというのは、インターネット独裁だと思う。けれどもそれに対して異議を唱える潮流が全くないものだから、企業サービスに屈しなければならなくなる。Facebookは嫌いだが、知り合いと連絡を取るために使わざるを得ないという状況に追い込まれる。これは自由とは正反対だ。
インターネットはもっと自由であるべきだ。好きなサービスを好きに選んで、好きにハイパーリンクを張る。国内法が嫌なら海外サーバーにデータを置けばいいだけだ。企業サービスが嫌なら自分でサーバー立てて運営するよ……という独立独歩の精神がインターネットだと思っていたのだが、そういう時代では無いらしい。
羊みたいに柵の中に囲い込まれて、企業サービスを使わざるを得ない。検索がノイズまみれになって役に立たなくなる。ユーザー数の多いSNSが一人勝ちする。企業のシェア競争に巻き込まれて、不当にユーザーの自由が奪われている。ネットを利用しているつもりが、いつの間にかサービスに縛り付けられている。不満を覚えても、それ以外に選択肢が無くなっているから、使わざるを得ない。代替サービスはあるけれども、使い物にならない。
インターネットの自由というと政府による言論統制やトロルによる荒らしなどを連想してしまうけれども、言論の自由だけが自由のありかたではない。現実に住所移転の自由があるように、使うサービスを変える自由もある。オンラインでの活動が不当に制限されない自由もあるし、サービスを利用するときに個人情報の提供を拒否する自由があってもいいと思う。
自由になるためには自分が何に拘束されているのか。その結果としてどのような不利益を被っているのかを認識する必要がある。が、まだ「他に選択肢が無いから仕方なくこのサービスを使う」という段階に止まったままでいる。


・プライバシーのない世界で。

個人情報を売り渡して、自分たちがIT企業の商品になっている自覚があまりにも欠落しているので、「まあ便利だし、無料で使えるからいいじゃん?」という意見も出てくる。けれどもそれは危険なことだ。
私は誰なのか? 誰とどのような交友関係を持っているのか? 電話帳のアドレスには誰の電話番号が保存されているのか? 今、どこにいるのか? 一日の行動範囲は? どの単語で検索したのか? 何に興味を持っているのか? 性的指向は? どの政党を支持するのか? 収入と購買行動はどのような傾向か? 性格は? 書いた文章を分析してどの程度の知識や教養があるのか? 推定される言語IQは? 何にコンプレックスを持っているのか? 人種は? 信じる宗教は?
……といった「私が何者であるのか」という個人情報を、絶え間なく企業に送り続けている。時と場合によっては国家権力が閲覧できるようになるかも知れない。「電話帳をアップロードして、友達を探しやすくしよう!」と「テロリストとの交友関係が無いかどうかを調べるために、Facebookや企業が保存している個人情報を国家権力が利用する」という出来事は地続きになっている。
どういう風にプライバシーをコントロールすればいいのかという問題意識が無いまま、個人情報が収集される。情報技術の発展にリテラシーが追いついていない。その空隙を突くようにして、抑圧的なもの、自由を奪うもの、プライバシーを侵害するものが日常生活に入り込んでくる。
悲観的な見方をすると、僕たちのプライバシーは徐々に蝕まれていく。たとえば、政府に批判的なデモの映像から、顔認証技術を使って参加者をリストアップすることは技術的には不可能なことでは無い。それがデータベース化されて、就職活動のときなどに「この応募者は三年前のデモに参加しているようです。採用はやめときましょう」といった判断材料にされるかも知れない。
このぐらいプライバシーや自由が侵害される社会がやってきてもおかしくないと思っている。問題は個人情報が収集されるリスクをあまりにも低く見積もっていることだ。


・SNSの単一アイデンティティー制

自我観念が希薄なせいかはわからないけれども、アイデンティティーを固定する感覚がいまいちわからない。ネット上でSNSのアカウントをつくるたびに、どのアイデンティティーないしはペルソナを選択したらいいのかわからなくなる。Facebookは実名制を採用しているけれども、主要なSNSサービスのほとんどが単一アイデンティティー制であるように思える。一つのアカウントにつき、一人のキャラクターしか選べない。もしペルソナが分裂するようであれば、その数に応じてアカウントを複数作らなければならない。
その日の気分で私、俺、僕、あたい……といった一人称を使い分けたくなる。おれの気分の時もあれば、あたいで押し通したいときもある。常に確固とした「I」があるわけではなくて、流動的な性質を持っている。そのせいで、自分の自我観念を固定するのに労力が必要になる。キャラがぶれる。
ブログはエントリごとに一人称を変えてもいいような気がするので気分的に楽だ。求められているものがテキストであって、キャラクターではない。けれどもアイコンとテキストが強固に結びついているSNSは、文章よりもキャラの比重が大きいように感じられる。何を喋るのかよりも、キャラの振る舞いが一貫しているかどうかの方が重要になる。あたいの目からはそういう風に思えるのよね。考えすぎかしら。
まず「自分はこういうキャラで、こんな言動をしようと思います」という制約を自分に課して、その範囲内で振る舞おうとする。言いたいことよりも、キャラとして一貫性があるかどうかを気にするようになると、言葉が死んでしまうように感じてしまった。
自分をキャラ化することがいまいち受け容れられない。キャラ化は逆に言うと、「キャラではない言動」が禁忌になってしまう。他者に理解されやすくなる代償に、それ以外の部分が切り捨てられる。おれのキャラじゃない? うるせえ、てめえにおれのなにがわかる。自己の秘密は永遠の謎であり、自らにも解き明かされることは無い。でもねっ☆そんなむずかしぃーこと気にしニャいでさ♪ あたいとたのしいことシよ?☆ミ☆ミ☆ミ☆ミ☆ミ


・健全な魔法少女アニメは、健全な社会に宿る

……のかどうかは知らないが、少なくとも魔女に対するイメージは社会の変革とともに大きく変化した。悪しき魔法使い、キリスト教の秩序に叛逆する邪悪な魔女というイメージは、当時の男尊女卑的な社会構造と女性嫌悪によって生み出されたものだ。デモクラシーによって男女平等が叫ばれるのと平行して、オズの魔法使いに出てくる東の善き魔女のような、善良な魔法使いのイメージが徐々に社会に浸透し始めていく。フィクションがそれ自体が現実と独立しているのではなく、現実で女性がどのように扱われているのかを反映する。
そこで忘れてはならないのがハリー・ポッターシリーズのハーマイオニー・グレンジャーだ! 彼女は近代社会の成立とともに生み出された、善き魔女の特徴が詰まっている。優しい、賢い、可愛らしい! ……というような内容の記事を読んでいた。ガーディアン紙のやつだ。リンクのありかを忘れたので残念ながら記事は貼れない。
では日本の魔法少女ものはどうなっているのか。ここでは女児向け魔法少女アニメと、オタク向けの魔法少女文化を分ける。魔法少女まどか☆マギカやゆゆゆ、艦隊これくしょんに代表されるような戦闘美少女ものは、おれのなかではカミカゼ魔法少女というジャンルに分類されている。これは外見こそ魔法少女ではあるが、システムの犠牲者でしかない。魔法少女というよりかは、祭壇に捧げられる人身御供のような扱いを受けるのがカミカゼ魔法少女の特徴であると言える。
世界やシステムを守るために無限の献身を要求されるのが、カミカゼ魔法少女の特徴だ。ガンスリンガーガールもまどか☆マギカは言うまでも無く、プリキュアも自己犠牲の罠に陥りそうになるときがある。
ひとくちに魔法少女ものといっても、それを支えている文化的なバックボーンを無視すると本質を見失う。


・アルコールが飲めない。

アルコールが大好きで、ひどいときには朝に目が覚めた瞬間に飲んでいた。でも酒を飲んで思考を麻痺させなければ、安らぎが得られなかっただけの話だ。シラフのままでいると、頭の中にいるゴーストが自分を責め始める。意識がある状態に耐えられない。自分を殺したいという気持ちと、大嫌いだという感情が頭の中をハウリングし続ける。アルコールを飲んで難しいことを考えられなくなっているときには、自己嫌悪のスパイラルが止む。酒と精神安定剤、睡眠薬を混ぜれば一層効果的だ。詳しくは「ご注文は自殺未遂ですか?」を参照して欲しい。

その後、アルコールが飲めない身分になった。飲んでもいいのだが、精神科医には「次に酒を飲んで病院に運ばれてきたら閉鎖病棟に入れる」と釘を刺されている。それに薬物依存治療のミーティングで再発(リラプス)しましたと報告しなければならない。おっさんにハグされて、「大丈夫だよ。もういちど、一歩ずつやり直していこう!」と励まされるのだが、この優しさが逆にきつい。責められるのであれば心を閉ざして聞き流していればいいのだが、許されるとなるとどうしたいいのかわからなくなる。
これらの経緯を一言で人に説明できないので、健康上の理由で医者に止められているという体裁にしている。ドクターストップは嘘じゃないし。
アルコールと処方薬依存になった自己嫌悪スパイラルは、アイカツ!シリーズを鑑賞している間に落ち着いた。苦悩に満ちた魂を救うのはアルコールではなくてアイカツ!だ。アルコールをやめてアイカツ!を鑑賞しよう!
困ったことがあるとすれば、酒の力に頼らないと人間関係を処理できないことだ。酒を飲めるようになって十年程度の間、アルコールの勢いだけで生きてきた。酒を飲めば理性が弱くなって陽気になるし、すこしおちゃめ(※婉曲表現)になる。酒のノリで大目に見られることもあり、酔った状態で見知らぬおっさんとアルプスいちまんじゃくをしたり、楽しいことが目一杯だった。
アルコールは人間関係の潤滑油だが、ペペローションで足を滑らせて死にかけたことがある。潤滑剤に頼るあまりに、アルコールなしでどうやって他者と関わればいいのかわからなくなってしまった。シラフのノリでこの世界を渡っていくのは難しい。これまでは酒を飲むことがメインで、それに伴う人間関係は酒の肴と同じカテゴリだった。「酒が飲める場所ならだいたい行く」が信条だったが、もはや酒を飲めない身体になったのでどこにも行けない。鳥かごに囚われた小鳥も同然だ。鳥と言えば、アルコールが入っていない状態で唐揚げや南蛮チキンを食べていても、何が楽しいのかさっぱりわからなくなっていた。鶏肉と衣を脱脂綿にして油を吸わせたような食い物にしか思えなかった。あとNHKの演歌番組は、アルコールに心の居場所を見つけようとする歌が多い。


・NHKで一汁一菜特集がやっていた。

自分で清貧を選ぶ分にはいいのだが、「これからは清貧がブーム!みんなで質素な生活を!」と大々的に宣伝されると、それはそれで嫌なものだ。「贅沢は敵だ! 白米に大根を混ぜて食え!」と強制されているような気がする。NHKの公共放送で一菜一汁を勧められるぐらいならば、欲望に身を任せた退廃的なグルメ番組を流してもらった方がましだと思った。
「共働きで時間が足りない現代人は、昔のように手間暇を掛けて料理をしている暇も時間も無い!これからは時短レシピで効率化だ!」……みたいな考え方が賞賛されていて、おれは純粋に気持ち悪さしか感じなかった。調理にかかる時間は短い方が好ましいとか、こんなに女性の調理時間が長いのは日本だけだとか、疑問を持たないレベルにまで内面化された効率化信仰がおぞましい。
効率化やシンプル・イズ・ベストのかけ声といっしょに、生活の小さなディテールが削ぎ落とされていく。これまでとは少し生活が不便になったり、お菓子や小麦粉の量が減るなどのごくささやかな変化から始まっていく。それ以外は普段の生活と何も変わらないように思える。慣れてしまえばどうってことはないが、緩やかに世界が削ぎ落とされ、軽量化し、不便になっていく。贅肉を削ぎ落としているのか、それとも筋肉を分解して栄養に回しているのか、一見すると区別が付かない。気がついたときには全身がやせ細っている。


・個人情報闇市

2020年代も後半になると、インターネットの大地は炎上によって焼き払われてしまった。ソーシャルネットワーク焼夷弾効果と呼ばれる現象により、どのような発言をしても炎上を免れることが事実上不可能になってしまった。
保守的であれば左側に殴られ、リベラル的な価値観を表明すれば右から罵られる。中立を保てば「日和見主義者め!」と責められる。リルリルフェアリルに言及すれば「貴様は失われたジュエルペットが悲しいとは思わないのか?」と難癖をつけられる。例えるならば、何万人もの人間が参加する麻雀である。どの牌を切っても誰かにとってのロン牌になる。インターネット末期戦においては、口にした言葉が片っ端から炎上していくような地獄絵図となり、人々は長い沈黙を強いられた。終戦直前には、疑心暗鬼に陥った人々が「炎上させられる前に、他の誰かを炎上させる!」とばかりに火をつけた。「どうして生きているんですか? 死んでいる人に対して不謹慎だとは思わないんですか?」というクソリプの砲火が全方位から飛んでくる。炎上すれば個人情報が暴かれ、これまでに積み重ねたものをすべてうしなう。そんな有様だった。
炎上から個人情報が掘り返されることを恐れた我々は、自らの個人情報を投げ捨てざるを得なかった。何をどうしても個人情報を漏洩させられる末期インターネットにおいては、自分自身を消し去る以外に選択肢は無かったのである。私たちが個人で無くなれば、個人情報は漏洩しようがない。そのような理由で、私たちは個人であることを放棄した。
そして、ようやく終戦を迎えたのである。

焼け野原になったtwitterの跡地に闇市が開かれる。
私は失われた自分の記憶を取り戻すために、個人情報闇市に赴いた。ガラの悪いgoogle社の男が「日本人の個人情報1万人分! ここでしか手に入らない活きのいいデータだよ!」と大声を張り上げて、個人情報を売っている。日本とはかつては繁栄を謳歌していた極東の島国だったが、すでに存在してはいない。
闇市では個人情報を喪失して、誰でも無くなった者たちで溢れかえっていた。私たちにとって最も優先順位が高い個人情報は名前とアイコンだ。実写アイコンが望ましいが、手に入れるのは二十万Gsが必要だった。個人情報闇市で流通している貨幣は検索履歴である。googleの検索欄に入力された情報が、1Google検索。略して1Gsだ。
私は個人情報闇市で買った情報をもとに、新しい自己を手に入れた。中には闇市に陳列される膨大な個人情報から、失ってしまった過去を探し出そうとするものたちもいた。instagramに上げた食べ物の写真、twitterの日常ポスト、それらを眺めて過去を取り戻そうとするが、その試みのほとんどは徒労に終わる。
私は漏洩した個人情報の残骸を組み合わせて、新しい私を手に入れた。それらの情報は矛盾しているが文句は言えない。生年月日よりも前に私は高校に進学していたり、住所が埼玉県世田谷区になっていたりする。私の個人情報が漏洩してしまうために、詳しく明かすことができないのが残念だ。


・正義感疲れ

政治のニュースを読んで不必要に正義感が刺激されるので、そのサイクルから脱却することを心がけている。正義感は取り扱いが難しい。不正がなくなり、公正さが実現されることでしか正義感は満たされないので、欲求不満になりやすい。正しいことを言っているが、いつも怒っていて不機嫌そうになる。その状態にとどまっているのはおもしろくない。
逆に、正義感を安易な方法で発散するのも問題がある。叩きやすい悪、わかりやすい不道徳、汚職、でっち上げた仮想的を殴って、偽物の正義感に浸るのは醜悪だと思う。自分の正義感を満たしたい、正しい側にいると確信したいという点では、社会の不正義を追求している側も、ヘイトスピーチを叫んで不逞外国人を排除しようとする人たちも、正義を向ける対象が違うだけで同じ行動をしているのかも知れない。
正義感が刺激される環境そのものから遠ざかった方がいいのではないのか?と思い始めた。四六時中、正義感を刺激される情報を浴びるのはいい環境では無い。
こういうことを言うと「社会の不正から目を背けるのか!」と批判されるに違いないのだが、ちょっと待って欲しい。適度な正義感を持って、疲れない範囲でゆるゆるやろー♪と言っているだけの話なので、邪悪さに対して鈍感になることとは違う。


・明日の戦争責任

第二次世界大戦から日本が学んだ教訓は「軍部と大本営発表に騙されていた。私は無辜の民だ」と言えばすべてが許されると学習してしまったことだ。それは事実だったかも知れないが、その言葉を口にすることで自らの戦争責任から目を背けられる。
たぶん第二次世界大戦も、戦争責任についての総括をする前にあらゆることがあやふやになって、どうでもよくなって、本来やるべきことを宙ぶらりんにしたまま70年以上も経ってしまったのではないのか?……と疑っている。福島第一原発事故みたいに、気分としてはもう賞味期限が切れたニュースだけれども、未だに放射能廃棄物も汚染水の処理も終わっていない。それと同じように、戦争も一応は終わったことにしたけれども、実際には何も終わっていない。戦前戦中のシステムが未だに継続している。
戦中と戦後に大きな断絶があるという認識自体が間違っていて、まだ第二次世界大戦が残した負の遺産は、現在と未来に影響を及ぼし続けている。
安倍政権が終わった後にマスメディアが中立性を取り戻しても、「あの頃は反対できる空気では無かった。本意では無いが、権力に従わざるを得なかった」という言い訳が用意されているので、簡単に現状に追随できる。そしてその言い訳を僕たちは受け入れるか、スルーする。権力に屈したという責任を背負う人はいなくなり、何の反省も対策も無いまま平常時が取り戻される。


・時事問題を追うのは週一回でいい。

時事問題を追うのは週に一回でいいと思っている。リアルタイムで知るのは生死が関わる防災情報だけでいい。それ以外の情報をニュースや新聞、ネットなどで読むのは情報過多になる。目を覚ました直後に新聞を読んだり、テレビニュースを観たり、ネットのニュースアプリを起動するのは望ましい習慣ではない。
最新情報にキャッチアップしているという安心感を得られるが、芸能人のゴシップや犯罪、断片的な情報を得られるだけで、実のある情報はほとんどない。
文藝春秋の日本の論点を二、三年分纏めて読むと、コアになる問題はほとんど変わっていないし、それらに対する議論がまったく進んでいないことに気が付く。問題は解決しないまま忘れ去られ、また新しい問題が議論される。


・Yahooニュースのコメント欄的パーソナリティー

日本社会に関わるのが嫌になってしまった。日本人の大多数が抱いている価値観はだいたいYahooニュースのコメント欄だと思っているのだが、あそこのコメントを見て共感するボタンを押すような価値観を持っている人間が大半だと仮定すると、もうおれは日本人でなくてもいいかなと思い始めてきた。
日本人を相手にする上での心構えは、日本人が十人いたら半分は政治経済に興味が無く、そのうちの4人は安倍政権支持者で、残りの一人か1.5人ぐらいがまっとうな人権観念を持ち合わせた左翼ぐらいではないのか?と思っているのだが、実際に確かめたことは無い。
Yahooニュースのコメント欄的パーソナリティーを持った人間が自分の周りに潜伏しているのかと思うと、おちおちFacebookも開いていられない。そういえばおれがFacebookのアカウントを削除したのも、「小保方はSTAP細胞を発明して、医療産業の既得利権を無くそうとしたから失脚させられたんだ!」という陰謀論をシェアしてくるやつが知り合いにいたからだ。ここも直に虚偽と憎悪の腐海に飲み込まれる……と思ってアカウントを閉じた。いまごろ、どんなフェイクニュースをシェアしているのかしら……。

・異質なものを消化する。

Yahooニュースのコメント欄的パーソナリティーを持っている人間に対しては、話し合っても無駄だと思っている。感情に流されて冷静な意見をシャットダウンするような連中だ。安全な場所を確保して、一方的に相手を否定する。自分は考えを変えたくないが、相手には悔い改めて欲しい。そんなやつらに投げかける言葉は無い。
けれども「あいつらとは話し合っても無駄」と思うこと自体が断絶を広げていくので、一方的に偏見をぶつけるのもいいことではない。だけど実際に建設的な議論を積み重ねるのは難しい。コミュニケーションが事実上不可能となると、話し合っても無駄としか考えられなくなる。そして意見の異なる相手をブロックして、心地のいいフィルターバブルの中に閉じこもる。ストレスから解放されるのと引き替えに、異質な他者を失ってしまう。
異質なものを消化して自分の一部にしていくプロセスがない。相手を完全に屈服させるかそれとも敗北するか二択になってしまう。ブロックすることで異質なものを遠ざけているのはわかっているけれども、消化できない量の異質なものが押し寄せてくるからどうしても遮断せざるを得なくなる。
対話するためのキャパシティが足りないし、その作法も学んでいない。相手の言い分を否定して、自分にとっての正義を押しつけるだけに終始する。それは対話とは真逆の行いなのだが、それ以外の方法を知らない。
猫は信頼している相手の前だと、仰向けになっておなかを見せる。「腹を割って話す」という言葉は、自分の中でもっともナイーブな部分を相手にさらけ出すことを意味する、おなかを見せても大丈夫な相手がいないと、腹を割って話せない。逆に、しっぽを立てて、威嚇して、攻撃体勢を保ったままで言葉を使っている。それは対話では無くて、自分の意見を押しつけ合うだけの戦いでしかない。
インターネットを通じて自己主張をする限り、戦いから逃れられないように思える。自分が喋る言葉、見聞きする言葉のすべてが断絶を深める材料になる。
Yahooニュースのコメント欄的パーソナリティーを持った人や、歴史修正主義者や差別主義者を否定したい気持ちは山々なのだが、これも対話じゃなくて攻撃のための言葉でしかないよなーと思って自己矛盾に陥る。一回休み。


・日本人の方が怖い。

中国人や韓国人よりも日本人の方が怖い。目の前にいる人間が何を考えているのかわからない。普通に見えるけれども、差別的な価値観を許容するのか。国籍などの条件で他者の扱い方を変えてしまうのか。生活保護に辛く当たるのか。
差別意識そのものよりも、ある条件次第を満たせば、他者を自分たち側と外側に分けられるメンタリティが恐ろしい。自分たち側に属している者には人間らしい扱いをするが、もう片方は人間として扱わない。
何が差別されるのかも明確な条件があるわけではない。自分がいつ、排除される外側の人間になるかどうかわからない。
反韓も日本国籍を持った外人アスリートも外人スモウレスラーも生活保護も沖縄の基地問題も、あらゆるものが、自分たち側に認定した人間には同胞として振る舞うけれども、外側の人間には辛く当たるという価値観が共通しているように見えた。
村社会のメンタリティを国家規模にまで拡張して、よそ者か否かしかの判断基準しか無い。近代国家ではなくて国家規模の村。
自分が日本人だと周囲から認められる限りは日本人として扱われるけど、一度でもその枠組みから外れてしまった非国民になる。その判断基準には客観性がなく、雰囲気で決まってしまう。
そう考えると、どのような状況でも人権をワイルドカードとして使える社会はいいな! 目の前の人間を人として扱う義務が発生することと引き替えに、自分を人間として扱ってもらえる。個々の人間が生まれつき人権を天賦されているのでは無くて、人間同士が相互に「あなたを人間して扱うから、私も人間扱いしろ」という契約を結ぶ。
たとえば表現の自由があるから何を喋ってもいいのではなくて、相互に人間扱いするというルールに反しない範囲で表現の自由が許される。他者を人間扱いするというルールがまず基盤にある。権利を行使した結果として他者を非人間として扱ってしまうのは、言動が矛盾してしまう。
おれもなるべく他者を人間として扱うから、おれのことも人間扱いしてくれ。


・素朴な正義感とヘイトの境界線。

正しそうなことをそのまま喋るのはあまり好きでは無い。正しさが言動を正当化する免罪符になって、それを理由にして自己の行いを顧みなくなってしまう。
誰しもが素朴な正義感に振り回されているように見える。おれはクソサヨクなのだが、安倍政権の不正を許せないという感情がある。それは素朴な正義と民主主義、人権などを材料にして正当化を行っているように感じられる。
自分の感情を正当化するために、都合のいい思想や価値観を持ち出して自己欺瞞に陥っていないのかと思い悩むときがある。悪い相対主義にはまり込んでいるのかも知れない。
民主主義や人権、憲法といった言葉を振り回していると、自分が正しい側にいると錯覚してしまう。これらの価値観を否定しているのでは無い。疑いようのない正しさを手に入れたときに、「私は正しい側にいるのだから、手段を選ばなくてもいい」と考えるようになるのが怖い。
現在(二〇一九年)の外国人ヘイトは、根拠の無い偏見と無知に支えられている。これはまだヘイトスピーチとしては穏健な方だと個人的には思っている。偏見が根底にある差別に比べて、明確な理由が与えられる差別は簡単に自らの言動を正当化できる。
ユダヤ人の差別問題でおぞましいのは、「優生学の観点からいって彼らは劣った人種であり、差別されるのは仕方が無い」という科学的な根拠が与えられた点だ。現在ではそれをエセ科学だと一蹴できるけれども、歴史的、宗教的、科学的、政治的な根拠に支えられた差別意識というものを僕たちはまだ経験したことが無い。
ゴキブリや害虫に向けるのと同じ眼差しを人間に向けて、なおかつそれが正義であり神の意志だと信じられるような差別体験をしたことがない。ヘイトは必ずしも反社会的なものではなくて、素朴な正義感を刺激するものとして現れる。そして周りの人間がヘイト発言をするから、自分も同じような言動をしていいんだ、という空気が瀰漫して、徐々に行動のたがが外れていく。
十五年ぐらい前ならネトウヨがいても少数派だった。匿名掲示板の隅っこで反韓的な書き込みをしている人がいても、「また変なやつが騒いでいるけど、荒らしはスルーで」ぐらいの扱いだった。
どうせすぐにおとなしくなるだろうと軽く見ていたのだが、徐々に勢力範囲が拡大していった。最初はまとめサイトが先にヘイト発言に染まって、それがSNSに浸透して、最後には現実社会を侵食しはじめるというホラー映画みたいな展開になっている。
問題はそれが素朴な正義感に支えられている点だ。
反韓感情を抱く人々の多くは、「日本人のために使われるべき税金が、別の怠惰な人間のために使われている」と思っている。おにぎりを食べたいと書き置きを残して餓死した日本人に寄せる同情は偽物ではない。悪意よりも、日本を良くしたいという善意が強い。
傷つかない場所に隠れてヘイト発言をするのではない。素朴な善意と正義感、異質ものを遠ざけて安心したいという当たり前の恐怖から口にした言葉が、ヘイトスピーチになってしまう。そういう種類の人が増えた印象を受ける。
正義とヘイトのあいだにある境界線が徐々に曖昧になっていて、その二つが区別できなくなる。いまでこそそれをヘイトスピーチと呼べるけれども、10年後にはどうなっているのかわからない。
憎悪(ヘイト)という表現を使っているけれども、正確な表現では無いように感じる。ボタンを掛け違えた正義感と、相手を人間ではないものに見なす偏見のアマルガムみたいな感情だ。
おそらくそれは「ヘイトスピーチをやめよう」という言葉では止められない。「私は正しい側にいる」という素朴な正義感に疑いを持ち続けられるかどうかだと思う。


・言葉が現実に追いついていない感覚。

言葉が現実に追いついていない感覚がある。周囲で起きている出来事に前例が無い場合、手持ちの言葉では適切に現実を解釈できなくなる。言葉はウイルスに対する抗体に近い性質を持っているのかも知れない。身体にウイルスが入って初めて免疫ができるように、壊滅的な出来事が起きてから言葉が作られる。もしそうだとしたら、一番はじめに起きた出来事はどうやって言葉で捉えられるのだろう?
ファシズムという概念が無かった頃に、どうやって目の前の現象を言い表していたのか。まだ生起したばかりの出来事をどの言葉で言い表すのか。現実を把握するための適切な言葉を欠いたままで、目の前でまだ名付けられていないことが起きる。ある出来事に名前が与えられるまでのタイムラグの中にいる感覚がこそばゆい。
第二次大戦もある程度俯瞰的な情報を得られたのは戦後になってからだと思う。そのときには自分たちが何に巻き込まれているのかもわからずに、翻弄されていた。手探りのまま、どういう状況にいるのか、後世に置いて自分たちのしていることがどんな意味を持つのか。
そういったことがまったくわからないままに、昨日までの言葉を使って現実を解釈するしかなった。今目の前で起きていることを、これまでに慣れ親しんでいる言葉を使って理解しようとする。それは全く新しい出来事が起きているときには悪手になる。
リベラル派は「安倍政権は戦前回帰だ」と言うけれども、これは昨日までの言葉で現在を解釈する典型例だ。もしかしたら世界史上で前例の無い出来事が起きているのかも知れないけれども、第二次世界大戦時の言葉でしか現実を解釈しようが無い。善し悪しの問題では無くて、そうせざるを得ない。あるいは1984などのフィクションを持ち出して現実を理解しようとする。
昨日までの言葉に頼ることでしか現実に起きていることを解釈できないのだが、それは現時点では不適切なのでは? 情報技術が急激に発展して民主主義の基盤をむしばんでいるような現在において、昨日までの言葉だけに頼るのは危険な行為だ。
現実認識で常に後手に回っていて、言葉で捉えられたときには手遅れになっている。現実が言葉で表現できる範囲から一歩も二歩も先に進んでいて、何が起こっているのかもおぼろげにしかわからない。そういう状態に巻き込まれているのだが、何か変わったことが起きているという実感も無い。
地球温暖化は緩やかに進んでいくので、人間の時間感覚では危機感を持てない。それと同じような、言葉で捉えない限り存在していることにも気がつかないような危機の中にいるような感覚がある。
自分の気が狂っているのかも知れないし、考え過ぎなのかも知れないし、正常性バイアスに飲み込まれているのかも知れない。異常なものを異常だと認識するセンサーが鈍くなっていって、現実を適切にレビューできなくなっているのだが、感覚が使い物にならなくなっていることに気がつかない。


・チーターから逃げる努力

「わざわざ政治の話題に関わっているやつは人生を無駄にしているアホwwww 賢いやつは上手く立ち振る舞って、自分が犠牲にならないポジションを確保しているから関係ないし、もし今のお前の生活が苦しいのだとしたらそれはすべて自己責任wwww」みたいな空気を感じているのだが、これってどこからきているんだろうな。日本社会全体にこの不健全なマインドが行き渡っているような気がして気持ちが悪い。
「チーターから逃げるには動物よりも速く走る必要は無い。一番足の遅いやつよりも少しだけ速く走ればいい」というジョークがあるのだが、皆が「チーターから逃げるマインド」を過度に内面化しているように見える。
カーストの最下層に落ちないように必死になって、自分では無い誰かを犠牲にする。
なるべく鞭を打たれないように適切に主人にこびを売る奴隷や、保身のためには仲間を打って生き延びようとするアウシュヴィッツ収容所のユダヤ人の立ち振る舞いに近い処世術が骨の髄まで染み入っていて、本人はそれを「いい具合に立ち回った」と思い込んでいる。それに近しいマインドが、頭のいい人間の振る舞いからだと見なすような価値観が広がっている。反対にシステムに反抗する人間や、異議を唱えて目をつける人間が、非合理的なことをしているアホに見え始める。
そこそこシステムと折り合って支配者にしっぽを振ることを覚えれば、それなりにおこぼれに預かれる。それが最善では無いことはわかっているが、無理にリスクを冒して苦しむ必要は無い。それってある意味ではトリクルダウンだ。
そういう風に振る舞うのが賢いと思っている人間にとって、デモをしたり、異議を唱えたり、現状を変えようともがき苦しんでいる人間は目障りに映る。あいつらと同じだと思われたら、今まで通り甘い汁が吸えなくなくなる。権力者に寵愛を受けられる立場が崩れ去ってしまう。
努力すれば報われるというのは、頑張って死ぬ気で走ればチーターの餌食にならずに済むということと変わらない。「チーターにかみつかれた? それはもっと速く走らなかったお前の自己責任だ。他の人は食べられないように必死になって走っているんだ。甘えるな」という言葉がまっとうに聞こえるぐらいに、この価値観が自明なものになっている。

・気が狂っている話

自分の抱いている考えがどこまで現実に即していて、どこからが妄想なのか区別ができない。絶対的に正しいと信じていることでも、そう思い込んでいるだけなのかも知れない。でも気が狂うことの何が恐ろしいのかというと、自分の頭がおかしくなっていると気がつけないことだ。
そしてこの世界で完全な正気であろうとすることは狂気の一種だ。多かれ少なかれ狂っている状態が平常運転なので、普通に見えても狂気が表面化していないだけなのかも知れない。自分でもどういう風に思考をしているのかわからん。


・言葉の性質が閉じたものになっていく。

Facebookなどのサービスは「壁に囲まれた庭(walled gardens)」型と言われていて、登録しているユーザー以外にはコンテンツが見えない。
日頃、自分が見聞きする言葉の種類が、閉じたものに変わっていくような感覚を覚える。自分と同じ価値観を持った人を囲い込んで、小さな箱庭の中でだけ通じる言葉を使う。違和感を覚えずに、耳障りのいい言葉だけを好んで聞く。フィルターバブルに埋没している中で、自然と閉じた言葉を使っていることに気がつかない。
ハイコンテクストで、文脈を理解するための情報が必要で、コンテンツの内容を理解するためには、小さなコミュニティのメンバーにならなければならない。壁に込まれた庭の中で、自分たちだけの言葉を喋る。
その言語運用の行き着く先は「あなたは私の言葉を理解しなくてもいい」だ。同じ価値観を共有している人間以外にはわからなくていい。理解できなくて当然だ。そういう風に喋っているのだから仕方が無い。不快に思うのなら、ブロックでもフィルタリングでもすればいい。
でもそれはオープンなインターネットでは無いな? よくホームページを開設すれば世界中に情報発信ができるとWindows98が主流のOSだったころには耳にたこができるほど聞いたのだが、インターネットのアーキテクチャーが、開かれたものであることを要求していた。
ブログをするうえで「情報にアクセスするのに、特別な資格はいらない」ということを意識している。ログインしなければ読めないとか、フレンドにならなければならないといった制限はない方がいい。万人に開かれた場所で、開かれた言葉を使うのがWWWだ。……というのは理想論かも知れないけれども、閉じた言葉が好ましいことだとは思わない。


・トラック運転手の夜間運送を望む罪

インターネット通販を利用したときに、「トラック運転手が真夜中も荷物を運ぶだろうから、だいたい明日の午後ぐらいには届くだろう」と考えてしまうのが嫌なんだよな。トラック運転手や運送業に関わっている人に生活リズムの逆転した長時間労働に従事することを、当然と見なしてしまう。もし仮に「従業員のQOL向上のために夜間の運送はしません。荷物の配達はこれまでより1~2日遅くなります」という風になったら、不便だと思う。翌日か翌々日ぐらいに荷物が届くことが当たり前になって、のんびり待てなくなっている。元々配送って時間が掛かるものだが、便利を支えるためだけに誰かや何かが犠牲になっている。24時間もコンビニが開いているのは便利だけど、従業員にとっては不便だ。何かを便利にする度に別の部分に労力がしわ寄せされる。


・極東蛮人国家ヤーポネ見聞録。

・ヤーポネの歩き方。ヤーポネ見聞録。
極東蛮人国家ヤーポネは民主化に失敗して、自由民主主義や人権などの価値観が根ざさなかった極東の国家だよ。戦前の社会構造や非近代的な風習がいまだに温存されているのに、自分たちが先進国の一員だという誇大妄想にとりつかれているよ。
ヤーポネ政府の基盤は戦前の社会体制を流用していているよ。兵隊を育成する精神論がいまもなお、学校教育での部活動や企業社会のなかで生き延びているよ。いまだに警察や検察は戦前の憲兵隊や思想警察時代の慣習から脱せずにいるよ。そのために高圧的で国民を国民だと思わない人権侵害的なアプローチを採用していて、そのたびに諸外国から非難を浴びているよ。人権感覚は中世ヨーロッパとおなじぐらいだよ! 暗黒国家だね!
・ヤーポネには人権意識がまったく根付かなかったので、人間の命はとても軽いよ。ハラキリ、カミカゼ、カロウシ、ジサツなどといった自分の命を軽く見る思想が社会一般に行き渡っていて、自分にも他者にも厳しい態度で接する人が多いよ。
ヤーポネ国民は政治的無関心が美徳だと信じられていて、権力者に黙って服従することが素晴らしいことだと小さい頃から教え込まれているよ。
ヤーポネでは政治と宗教の話題に触れることは社会的禁忌とされていて、政策に対して反対を表明した芸能人が追放されるなどの制裁が一般的になっているよ。
ヤーポネでは「個人が自分の意見を持っていい」という価値観が無いよ。「周囲の人たちを観察して、悪目立ちしないだけの意見しか持ってはいけない」という訓練を初等教育の頃からたたき込まれるので、自分の意思を主張する前にコミュニティから浮かないかどうか?をひどく恐れるよ。これは四方を海に囲まれたヤーポネの地理に起因するもので、昔のヤーポネ人は所属するコミュニティから排除されたら行く場所が無かったんだ。だから正しいことを主張するよりも、己の信念を曲げてでも集団に所属することを最優先にしなければならないという本能が遺伝子に刻まれているのかも知れないね。
・よくヤーポネは和の国(ランド・オブ・ハーモニー)と言われているけれども、これは集団の凝集性を維持するためなら、簡単に法律も人権も善性も道徳も人間らしさも投げ捨てることを意味しているよ。和を保つことは善き人間であることよりも重要だよ。
・ヤーポネ国民は生存のために自我を殺さなければならないという抑圧の元で生きているので、ストレス発散のためのスケープゴートを必要とするよ。社会が敵と見なした人間はどこまでも傷つけていいという残虐性を持っていて、制裁を加える過程でブレーキがきかなくなってしまうよ。
ヤーポネの社会で暮らすときには、出る杭を打つタイプのゆがんだメンタリティをもった人間からいかに逃れるのかが喫緊の課題になるよ。この種類の人間は社会のいかなる場所にも潜んでいて、戦前は非国民をあぶり出し、反権力的な人間を密告することで卑小な優越感を満たしていたよ。ヤーポネ国民にとって一番の敵はヤーポネ国民だと言われるゆえんだよ。
ヤーポネ国民は極めて差別意識が強くて、少しでも異質な人間が混じると全力で排除しようとするよ。
個人主義という概念を理解できなくて、政府のプロパガンダによって簡単に行動を左右されてしまう程度の情報リテラシーしか持っていないよ。教育制度がずさんで理科離れを引き起こし、偽科学やフェイクニュースに対する免疫が無いまま大人になってしまった人たちが多いよ。
儒教から影響を受けた権威主義と、閉鎖的な島国根性と、勉強不足からくる国際常識の無さと、情報技術の発展によって煽られた排外主義が最悪の形で混ざり合って、極東アジアの平和を脅かすリスクになりつつあるよ。


・気分の国。

日本人が何を考えているのか全くわからなくなってしまった。目の前にいる人間がどのような価値観を持っているのか、ヘイト発言を許容するのか、まとめサイトを見て差別的な言動を肯定しているのか、どういうスタンスの歴史観を持っているのか、理解できなくなってしまった。
「まー、建前や綺麗事かも知れないけど、人権とか平等があったほうが生きやすい社会になるやろ」と個人的には思っているのだが、それを自己責任論で片付けられてしまうと困ってしまう。
すでに社会の土台となる価値観それ自体を、共有できなくなっているのかも知れない。10人中7~9人が肯定するような価値観を喪失してしまい、共有している前提条件が無くなる。建設的な議論を重ねようにも、そのスタート地点にも立てない。

・Yahooニュースのコメント欄で支持を得ている感想が、だいたい日本人の民意だと見なすと暗鬱とした気持ちになる。こういうことを考えている人間に合わせて何か喋らなければならないのなら、チンパンジーと会話する方がまだ生産的だ。
根拠の無い気分だけで生きている連中が大半なのが現代日本社会で、その傾向はインターネットを通じて増幅される。ネットがあれば膨大な過去のアーカイブにアクセスできるようになって、人々のリテラシーが向上すると期待されていたけれども、実際には過去の情報にはアクセスする方法が無くなってしまった。
一週間前に何が話題になっていて、何を考えていたのかということにアクセスするために、延々とSNSをスクロールしなければならない。何ヶ月か前のバックナンバーを本棚から取り出すというわけにはいかない。
過去にさかのぼる方法が貧弱になった結果、私たちの時間感覚は現在しかなくなってしまった。
その結果として「過去を持たない人間」が生まれる。彼らには参照できる過去が無い。今の気分に行動を左右されて、過去は気分を支えるための都合のいい材料になる。
二〇一九年現在の日本人は、過去を持たず、気分に左右されるだけの生き物だと思った方が納得がいく。国粋主義や右傾化は思想であるというよりかは気分に属するもので、「いまのおれは韓国なんかに謝りたくない」という気分を補強するために、様々な言説を持ち出す。
テロリストが暴力の口実のために共産主義思想を持ち出すようにして、気持ち良くなりたいという欲望を満たすために細切れになった思想を利用しているだけだよ。
いい感じの気分になることが最優先になるので、思想としての一貫性や客観性、厳密さは求められない。その瞬間だけ気持ち良くなれる言説、歴史観、政治思想の切れ端のようなものだけを消費する。
リベラルな価値観は貧困や戦争犯罪などの、いい気分とはほど遠いものへの直視を求められるから疎まれる。せっかく心地いい気持ちでいたのに、現実を見せつけられて水を差されるのは興ざめだ。
国粋主義的な保守思想は聞いている側をいい気分にさせる。冷静に考えると検証に堪えないような言説が支持を得るのは、それが聞いていて気持ちいいからだと思う。ニュースや歴史、思想の形をしてはいるけれども、それらの分野から「気分が良くなるエキス」だけを抽出したドラッグのようにも見える。
憎悪に駆られてヘイトスピーチをするというよりも、他国を見下しているのは気分がいいというだけの理由でヘイトを口にしている。
すべてが気分に奉仕するようになって、「その情報は私をいい気分にさせるのか?」以外に評価基準が無くなる。オリンピックも徴用工問題も明確な思想のバックボーンがあるのではなくて、「オリンピックはいい気分になるが、徴用工の問題は嫌な気分になる」というだけの単純な思考回路で動いているのではないのか? そして国粋主義的な価値観は人々をいい気分にさせることに関しては右に出るものはいないのでは?


・暗黒バックアップ神話

フォルダを同期してバックアップするという概念が無い人の外付けHDDを整理していたが、頭がおかしくなるかと思った。
同期というシステムがあること自体知らずにいるので、撮りためた写真をそのまま外付けHDDにコピーしている。そのため同じフォルダや微妙にリネームされたファイルが大量にある。
重複した写真を消してすっきりさせればいいだけだったので、重複ファイル管理ソフトで一括削除をすればすぐに終わると思ったのが運の尽きだ。ハッシュ値の比較が途中でフリーズする。
なぜかというと、Windowsの更新時に作成されるバックアップデータをマイドキュメントごとコピーしていて、そのファイルが複数ある。ファイル一つにつき8GBから20GBという重量級サイズだ。これは途中で止まるのも仕方が無い。
そして地味に邪魔をするのがVAIOのコンテンツ管理ソフト。これは写真と取り込むたびにhogehoge.jpg.filesというファイル(フォルダ?)を大量に作成する。ファイルの総数が写真の枚数×2になるため、重複ファイルを比較するときに処理が重くなる。しかも隠しファイルなので気がつくのは時間を浪費したあとだ。
おっさんが手動コピーで重複ファイルを増やす×VAIOのコンテンツ管理ソフトが余計なファイルを増やす×Windowsがバックアップデータの仮想HDDファイルを増やす。主にこの三つが相乗効果を発揮して、実際のファイル数と容量を天文学的な速度で増やしていくという暗黒クエストだった。
さらに追い打ちを掛けるのがパソコンを新調したときに買い増しした外付けHDDで、データ移行用に古いパソコンのマイドキュメントがそのままコピーされている。最近の家電量販店はサービスがきめ細やかだが、完全に後ろから刺しに来ている。
昔、王様と将棋を指した男は「私が勝ちましたら、米が欲しいのです。ひとつのマスに米一粒、二つ目のマスには二粒、三つ目のマスには四粒といった具合に、将棋盤が埋まるまで二倍ずつ増やしていくという取り決めはどうでしょうか?」という条件を持ちかけた。
王様は謙虚な願いだと思ったが、それは見当違いだった。将棋盤に置く米の数は天文学的な勢いで増えていく。
1 2 4 8 16 32 64 128 256 512 1024 2048 4096 8192 16384 32768
将棋盤の二段目でこの数だ。81マス目だと1.2089258196146292E+24になる。おれが戦っていたのは数学の神秘とコンピューターリテラシーの生み出した魔物だった。これ以上重複ファイルを増やさないためにはおっさんをテクノロジーから遠ざけるしか無い。絶望的な戦いだ。


・終戦記念日の小学生。

テレビやネットでシールズ(変換するのめんどい)の演説を聴いていたときに、終戦記念日に作文を朗読する小学生を連想してしまった。すくなくとも自分には「民主主義を守るために立ち上がった勇気ある若者」ではなくて、「大人の書いた作文を読ませられる終戦記念日の小学生が、そのまま成長してしまった人」に見えてしまった。
高橋源一郎との対談を読むとそれがただの一方的な先入観でしかないと気がつくのだが、どうして終戦記念日の小学生っぽいという印象を抱いてしまうのかが気になって仕方が無かった。
自発的に行動した経験が無いと、他人の行動が別の誰かに操られているように見えてしまう。産経新聞を読んでいると、よく「中国人は中国共産党に洗脳されている」というフレーズに出くわす。この文章は味わい深くて、「政府は国民を簡単にコントロールできるし、国民は自発的な意志を持ちようが無い」という人間観が滲み出ている。
個人が自由意志を持っていて、自発的に行動できるという人間観が欠落しているから、シールズは左翼の手先だとか、沖縄の住民運動は中国の差し金という風に、常に裏側で操っている誰かを想像してしまう。自発的に行動するという価値観が無い以上、黒幕がいるに違いないと思い込む。



  1. 文章読解力の不自由な人間のために補足しておくと、これは犯罪予告では無い。あくまでも仮定の話だ。 [return]