狂気カテゴリ運用方針


 この文章を狂気(Lunatic)カテゴリに分類しているのは、自分の考えが正常だということについて確信が持てないからだ。一度それが正義だと信じ切ってしまうと、一面的な正しさで悪を片っ端から叩き切ってしまう誘惑から逃れられなくなる。ハンマーをプレゼントされた子供は、あらゆるものを叩きたがる。釘だけではなくて、ドライバーを使わなければならない時にも、ハンマーでネジ釘を潰してしまう。そういう類いの正義は、私にとってはどんなに正しくても狂気と大差が無いのかもしれない。

当サイトで狂気カテゴリを新設したのは、これから私が語る言葉がある種の狂気に属しているという自覚があるからだ。正義だと信じて疑わないような言葉や想念であればあるほど、それを狂気として扱わなければならない。
 フランシス・ベーコンはイデアという概念を用いて、人間の正しい認識を妨げる先入的謬見について述べた。しかし魔女狩りが行われる時代において、ベーコン自身も魔女は処刑されるべきだと信じていた。どれだけ高い知能や見識を持ってしても、歪んだ時代の見方からは逃れられない。健康に恵まれていて体力があっても、致死的な感染症に罹患してしまえば関係がない。たとえ病弱でも、病原菌から遠ざけられていれば死なずに済む。
 自分もたまたま陰謀論やヘイトにまつわる言説に感染していないだけで、あるいはもっと別のたちの悪い言説に影響されているのかもしれない。もしそうだとしても、死ぬまでその病は癒えないのかしれない。そう考えているからこそ、「頭が悪くて教養も無いから、そんな考えに騙されるんだよ」という言葉を肯定できない。

 正義というのは、ドラッグに近い性質を持っている。
 マウスや猿は薬物や脳に物理的な刺激を加えられると、容易く快楽を司る脳内物質の虜になる。それは人間も同じなのだけれども、決定的に異なった部分がある。人間は現実に存在しない観念や言葉に対して、快楽を覚えられる唯一の動物だ。ドラッグやギャンブルで活性化するのと同じ部位が、言葉や思想に触れているときにも活性化する……という実験記録を読んだことがある。
 社会正義や政治思想は、もしかしたら依存性があるのかもしれない。
 多くの場合、社会正義とされている言葉を口にしても、制裁を受ける必要がない。しかしそれは、正義を振りかざしながら、大多数の中に身を隠して他者を一方的に攻撃もできる。自分は正義の側にいるので、罪悪感を覚える必要がない。たとえそれが正しいことなのだとしても、自分の鬱憤を晴らすために正義を濫用するのは好ましくない。
 断罪されるべき絶対的な悪が目の前にいて、振るうべき正義が手元にある。そういうときに社会正義を行使せずにいるのは難しい。

 基本的に狂気カテゴリの文章では、自分が正しいと思っている事柄について書いている。だが、それが正しいという証拠はどこにもない。自分は正義だという幻想の内側に住んでいる間に、しばしばその事実を忘れそうになる。そのような事柄についての文章は、狂気(lunatic)カテゴリに分類することにする。