感情揺り動かしマシンとしてのメディアについて


注文を外す
 囲碁をやっているときには「相手の注文を外すこと」を考える。相手が「私がここに打ったら、あなたは受けるしかないですよね?」という手を打ったとする。こういうときに「お前の注文には乗らん。そんな魚の尻尾はくれてやる」と、相手の思惑を外す手段をなるべく考えるようにしている。
 メディアに接するときにも「相手の注文を外す」テクニックを使っている。

「このニュースを見て、こういう反応をしてください。ある特定の感情を抱いて、似たような結論を出してくださいね」という言外のメッセージに耳を傾けて、「誰がお前の言うことを聞くかよ! もっと別の切り口があるはずだ!」と、思考の抜け道を探す。
 具体的に言うと、ミサイルのニュースが報道されたときに、「仮に、この報道をそのまま鵜呑みにする。するとおれが抱く感情は不安と恐怖になる。おれが恐怖を抱くことで、得をするのは誰だろう? 恐怖のメリットとデメリットはなんだろう? 当面の問題は、自身の恐怖を過大評価して感情的に振る舞ってしまうことだ。じゃあ恐怖と不安を避けつつ思考するにはどうしたらいいんだろ?」
 短絡的な感情を抱くことにあまりメリットが無いと判断して、その思惑を外す。でも逆張りに徹しすぎると、マスコミに対して何でも批判的になってしまうのだが、それはメディアリテラシーではない。それに相手の注文を外したからといって、逆に形成を損ねるときもある。

情報に関して、後手を引かされている。
 メディアがあらかじめ設定した論点と切り口、用意された言葉を使って思考させられている時点で、私たちは主導権を奪われている。ディスプレイに映し出されるニュース、新聞記事、ネットの記事、SNSのコメント、これらの媒体が「今、あなたが議論するべきなのはこの話題です! 抱くべきなのはこの意見と感情です!」と迫ってくる。その次の日には「その話題はもう時代遅れです! 今日あなたが関心を持たなければならないのはこの社会問題です!」という風に、自分の興味関心を操作される。
 ひとつの話題を、腰を落ち着けて、息の長いスパンで考えることができない。芸能人の不倫や企業の不祥事、テロ事件なら短いスパンで処理してもとくに害はない。でも地球温暖化だとか放射性廃棄物の処理や廃炉や少子高齢化や労働問題みたいな、数年から長くても百年、ものによっては十万年のスケールで考えなければならないものまで、短い時間感覚で処理している。
 熱狂することもなく、一過性に終わらせずに思考しなければならない問題も、次々と生み出されるどうでもいいニュースに押し流されて、思考リソースを振り分けられなくなる。そして最終的に何も考えなくなる。その一連の流れが「後手を引かされている」ように感じられる。
何が考える必要の無い価値の低い情報で、何が持久戦覚悟で粘り続けて取り組んでいくべき情報か、優先順位が付けられないままで散漫に思考力を浪費している。

感情揺り動かしマシン。
 日本語の報道やインターネットで得られる情報が、事実を客観的に伝えるためのものではなくて、感情を揺り動かす装置になっている印象を受ける。この世界で起きている出来事を冷静に判断するために、情報が提供されているのではない。ある特定の感情を喚起するような仕組みや手法が多用されていて、見ていてあまり好ましいとは思えない。
 オリンピックやW杯を見ていると気持ち悪さを感じてしまう。
 競技そのものが悪いのではない。オリンピックを取り巻く環境、言葉の使い方、現実の切り取り方、そういったものの総体が、私たちの感情を一体化させる仕組みになっている。感動の暴力で殴りつけられて、感性も行動も均質化されていく訓練を受けているように感じられる。
 それがオリンピックだけで完結するのなら問題は軽微なのだが、普段のニュースや時事問題のときにも感情が均質化されている自分に気がつくことがある。オリンピックアスリートの競技を見て感動し、一体感を共有するのと同じ方法を用いて、核ミサイルへの恐怖、怒り、嘲笑、中国などのニュースを見ているときがある。
 私たちが受け取るのは情報では無い。声色と言葉、映像と音楽を駆使して、直接心と感情に手を突っ込まれて、操作されているような気味の悪さを覚える。
「次はこのような感情を抱いてください。北朝鮮の核ミサイルに対して、怒りと恐怖を覚えてください。ニュースを見た後にSNSを使って、同じ意見を持った人々と一体感を覚えてください」と、言葉にならない言葉で説得されているように感じるので、なるべく日本語のメディアには触れないように努力をしている。

 ここで自分の違和感に単純な結論を見出すのは妥当ではない。
 リベラルなら「自民党の圧力に屈した日本のマスメディアが、世論を操作しようとしている」だとか、保守派なら「反日マスコミが政治に敵対して日本人を洗脳しようとしている」と言い出しかねないポジションにいることは重々承知している。どちかが妥当なのかはここでは論じない。
 ただ、「感情や雰囲気に流されてしまい、自分たちが考えるべきことを自分で決められない」という無力感だけは、両者に共通している。