政治の話をしないという政治的行為について。


 長年やめていたブログを再開することにした。2015年ぐらいから急激にインターネット上の日本語に触れるのが嫌になっていた。政治の話題に汚染されたネットが窮屈になっていた。政治の話がめんどうくさいのは認める。私自身もめんどうくさい側の人間なので、めんどうくさい話題に首を突っ込んで、めんどうくさい話をする。
 でもそれ以上にめんどうだったのは、周囲の反応をきょろきょろと見回して、何を喋るべきか、何を黙っているべきか?のラインを探る自分の行いだった。

政治的な話題に言及することだけが、政治的態度ではない。
 周囲の発言を見回して、どの話題に触れてはいけないのか、どの程度まで自分の本心を出していいのか、許容される発言と社会的な不利益を被る発言の境界線はどこにあるのか? 政治的に面倒くさいやつに絡まれないように黙っているべきか? 大多数と似たような意思を表明しているか? インターネット上で変に悪目立ちして攻撃対象にならないだろうか? 自分の発言が曲解されて、炎上して職場や学校、家庭に迷惑をかける可能性が無いか?
 ……というようなさまざまな要因を想定したあとで、得られるメリットよりもデメリットの方が多い場合、めんどうくさい話題に触れないようにする。これは表面上には中立を保っているように見えるけれども、政治的な話をしないという決断自体が十分に政治的な行為だということを失念していた。

 いままでの私は典型的な日和見主義者だった。
 ある特定の話題に対して、twitterやyahooニュースのコメント欄、はてなブックマークなどでの反応を拾い読みする。自分が一番はじめに抱いた反応が、ネット上の意見とどの程度乖離しているのか。自分の意見が、マジョリティから攻撃されるような性質のものではないか。
 私は長らくこういう風に思考をして、「自分の思考が日本社会のマジョリティ側か否か?」を測ってきた。自分の思考が正しいとはどうしても思えない。偏見に満ちた意見よりも、ネット上の集合知の方が正しいのかもしれない。ネット上の世論を過剰に信頼するのは、自分を信じられないことの裏返しだった。
 私がめんどうくさい話題をわざわざ語ろうとするのは、「周囲を見回して、喋れることとそうではないことを決める」という思考回路を逃れようと思ったからだ。あらかじめ、特定の主張があるわけではない。が、自分の利益を最大化するために中立を装ったり、意思表明を曖昧にするのは、直接的に政治の話に触れていないのだとしても、十分に政治的な営みにカウントされる。

 政治的なものから距離を置くのは悪いことではない。むしろ可能であれば、難しいことは何も考えず生きていけたらいいなと思う。けれども、政治的なものを嫌悪して距離を置いた結果、逆に政治的なものに対して免疫がなくなってしまうのではないのか? 自分では政治的に中立で、いかなるイデオロギーの片棒を担いでいないつもりでも、実際には自覚もなく差別に満ちた言葉を発して、偏見に歪められた視界で世界を見るようになるのではないのか?
 そのリスクを踏まえると、過度に政治的なものから遠ざかるのはおすすめできない。かといって既存の政治活動にコミットしろと言っているのではない。何が自分を狭い価値観に閉じ込めているのか? どうして理論的根拠もないただの慣習を無批判に受け入れているのか? それに正当性はあるのか? と、問い続けるような思考を習慣化する以外に、狭い価値観から逃れるすべはないように思える。そしてこれは途方もなくめんどうくさい。なにもかもがめんどうくさい。
 なんで私がやらなければならないんだ。何を書いても付け焼き刃か、The Guardianの受け売りにしかならない。しょせんはニセモノに過ぎない。もっと教養の深い知識人がやるべきことだ。これから私はHUGっとプリキュアを見なければならない。この話題は終わりだ。
 ここからは政治の話をするのはやめて、プリキュアの感想文ブログになる。
「なんでもできる! なんでもなれる! 輝く未来をーっ、抱きしめてッ! フレフレ、みんなー! フレフレ、わったしー! いっくよー☆」
 今回のプリキュアは『えみるとルールー、ふたりは迷コンビ?』だ。
 えみるちゃんはプリキュアに助けられて以降、プリキュアに憧れて、プリキュアの真似事をしている。キュアえみ〜るの使命は、事故が起きる前にみんなを守ることだ。ヘブライの伝説が語るところによれば、この世界が破滅しないのは、知られざる32人の賢者がいて、彼らが破局的な危機を防いでいるからなのだという。
 街に敵が現れたときにも、えみるちゃんはいても立ってもいられなくなり、現場に急行する。
 むろんえみるちゃんはプリキュアの偽物だ。「あなたはプリキュアじゃない。なのにどうして危険を犯してまで、人々の力になろうとするのか?」そう尋ねられたえみるちゃんは、いや、キュアえみ〜るは「ニセモノだからといって、街の危機を放ってはおけないのです!」と言って、逃げ遅れた子供を助けようとする!!!!!
 目頭が熱くなり、視界が滲む。ニセモノでも、まがい物でも、それが無力でも、自分にとってデメリットしか無くても、立ち向かわない理由にはならない。それを教えてくれるのがプリキュアだった。
 日本社会の戦後民主主義は自分たちの手で掴み取ったものではない。それは占領時代に与えられたまがい物だったのかもしれない。基本的人権や理念も、本当の意味で自分たちのものにはなっていないのかもしれない。えみるちゃんはプリキュアのニセモノかもしれない。おれ自身もまた、無力なひとりの人間だった。それでもえみるちゃんは人助けをしなければならなかったし、おれは自分の能力を無視してでもめんどうくさい話を書かなければならなかった。
 まともそうな文章に無理やり女児向けアニメの話題を捩じ込んでいかないと、どうしても精神的に安定しない。そういえばこれは表現の自由に関する文章だった。

 しかし誰かがプリキュアにならなければこの世界は滅ぶ。雪かきを怠れば雪の重みで家は潰れ、面倒くさいことを誰かが担わないと自由は死ぬ。しかし私たちは義務感だけで自由を守っているわけではない。えみるちゃんは「ギターは自由なのです! ギュイーンとソウルがシャウトするのです!」と語った。女の子らしくピアノやバイオリンを演奏することに息苦しさを感じていたえみるちゃんは、ギターに自由を見い出した。それはなぜか。ギュイーンとソウルがシャウトするからだ。ギュイーンとソウルがシャウトすることこそが自由の必須条件だからだ。
 周囲の意見をキョロキョロと見回して、喋れることと黙っているべきことをふるい分ける。
 一度でもマジョリティの正義に背くような発言をしたら制裁を受ける。過ちはデジタルの海に刻まれ、個人情報は暴かれ、社会から完全に抹消される。明確な犯罪を犯したわけでもないのに、危害を加えるわけでもないのに、過剰なまでにマジョリティに配慮した発言や振る舞いを要求されているのは、果たして自由なのか。女の子は女の子らしく、成人らしく、常識人らしく、自分の立場をわきまえ、分別という名の重りに繋ぎ止められる。えみるちゃんが「女の子は女の子らしく振る舞わなければならない」と言われて、黙ってしまったのと同じだ。そこに自由は無い。
 私には表現の自由があるのだけれども、それは目に見えない間に蝕まれていった。「何を言ってもいいけれども、特定の話題には触れてはいけないよ。それは自分の身のためにはならないよ」という形で、あるいは「炎上したり、面倒くさいやつに絡まれるリスクがあるから黙っておこう」という態度によって、喋れる言葉が制限されていった。めんどうくさい話題に触れるのは、デメリットしか無い。言葉を費やせば費やすほど、自分の底の浅さと見識のなさ、視野の狭さが露呈されていく。
 自分自身の利益だけを考えたら、何も書かないほうが賢明だし、誰か他の人間に任せておいたほうがいい。わざわざ自分が中途半端な知識でやるような問題ではないように思える。
 保身と我が身の可愛さのためだけに、私たちは表現の自由や基本的人権の首を絞めている。権力に抑圧されたから自由が奪われるのではない。「本心では反対していたのだが、生きていくためには仕方がなかった」「社会の空気を読んで、不本意ではあるが従わざるを得なかった」と言い訳をして、めんどうくさいことを極力避けようとするあまりに、自分の手で自由を殺してる。
 しかし表現の自由は、「めんどうくさい話題を、あえて口にすること」でしか保たれない。本心なら何でも口にしていいというのは一面的な理解だ。ある話題を口にしても不利益しか招かない。誤解される。めんどうくさいやつが集まってきて、批難される。魔女扱いされて村の広場で焼かれる。強制収容所に送られる。そういうときに自分の命を顧みずに、表現の自由を貫くことは難しい。
 自由を行使するのはこれまでの歴史においては、危険極まりないことだった。王に歯向かえば死刑になり、特高警察に目をつけられれば拷問が待っている。それがわかっていながらも、いや、わかっているからこそ抵抗しなければならない場面に直面する。
 それを怠ったり、自己保身のために口を閉ざせば、カール・ヤスパースが『われわれの戦争責任について(p119)』で指摘するところの、道徳上の罪に苛まれることになる。
 ナチス・ドイツから危険思想の持ち主だと思われないために、ユダヤ人抹殺に協力的な姿勢を見せなければならなかった。自分自身ができる範囲で、不法を和らげるような能動的行動を取らなかった。別に命を捨ててまで信念を貫けと言っているわけではない。自分ができる範囲のことも探し求めずに、安易な従属を選んだ者は、己が犯した罪に苦しむという話だ。
 自分自身が、自分の意思で、自分の保身のために仲間を見殺しにしたという事実は、簡単に消えるものではない。自分は極限の状況で他者を見捨てる人間だという烙印を、自分で自分に押すことになる。それは戦後賠償や戦争裁判が終わっても死ぬまで背負わなければならない重みになる。
 この本を読んでいて、私は自分が現在進行形で戦争責任を負っていると感じた。自分自身の手で表現の自由を殺していた。たぶん私は独裁政権に目をつけられないように、ずる賢く振る舞う人間のひとりだ。それが表面化していないだけで、これから起きるかもしれない戦争に対して、まだ起こっていない罪を犯している。輝く未来を抱きしめるどころではない。暗い明日しか待っていない。
 我々の世界にプリキュアは存在しない。善人が報われ、悪が滅びるような正義と秩序が約束された世界ではない。しかし、命を呈してユダヤ人を屋根裏部屋に匿ったり、強制収容所で自分の食料であるじゃがいもで人形を作って、子供を喜ばせる道を選んだ人間はいた。我々にはそれで十分だ。人間には人間にできることしかできない。が、人間にできることはしなければいけない。