定型化される現実認識について


 トランプ大統領の訪日報道を観ていて違和感を覚えた。てっきり今後の東南アジアの外交戦略や安全保障問題、各国間の関係などが解説されるものだとばかり思っていたが、「アメリカの大統領が来日! 気になる昼食のメニューは?」といった視点の報道ばかりだった。大統領というよりかはむしろハリウッドスターが日本観光にやってきたときに使われるような番組構成にするのには、理由があるのだろうか?
 まず最初に立てた仮説は、「わざと問題を矮小化している」だった。

アメリカの大統領がやってくる。その時に東南アジアの軍事的パワーパランスに言及されるのは困る。我々は第二次世界大戦の敗戦国であり、アメリカ合衆国への従属を強いられているという事実に直面せざるを得ないからだ。日本が敗戦国で従属国だという屈辱から目を逸らすために、トランプ大統領を政治家ではなくて、ハリウッドスターか、セレブと同じレベルに矮小化しまった。……という仮説だ。

 もうひとつの仮説は「あらかじめ用意されたテンプレートや番組構成に合わせて、現実を鋳型に流し込むことしかできないのでは?」というものだ。こちらの仮説のほうがより暗然な気持ちになるので、少し突っ込んで考えてみることにする。
 犯罪者の報道をするときに卒業文集を引っ張ってきたり、facebookのページを紹介したり、容疑者がアニメ好きで内向的な人間だという犯人像に落とし込んだり、8月になると同じような内容の反戦平和番組を作ったりするのと同じように、外国から訪日した有名人を報道するときのテンプレートを使ってしまったのではないのか?
 国際政治を流し込むのに適したテンプレートが無かったので、仕方なく来日した外国人タレント用のテンプレートを使うしか無かった。「あのハリウッドスターのセレブが来日! 気になる昼食のメニューは?」しか無かった。
 あらかじめ用意された報道用テンプレートに、現実で起こった事件を当てはめていく。なんとなく政権批判っぽく見えるものだったり、中立に選挙報道をしているように見える映像だったり、ニュース番組を構成するときに使っている便利なテンプレートがある。
 限られた時間の中で効率的に番組を制作するためには、テンプレートを使うのは欠かせない。それ自体は問題が無いのだが、「テンプレートにない視点や構成の番組は逆立ちしても作れない」というのであれば問題は深刻だ。
 そうなると現実を、あらかじめ用意されている鋳型に流し込んでいるだけのものを、ニュースとして視聴していることになる。
 ここで「やっぱりマスゴミはその程度だ。真実を報道してはいない」というようなことを思った方もいるだろうが、その反応は好ましくない。主流メディア=既得利権に凝り固まった悪という定形パターンを使って、現実を鋳型に流し込んでいるからだ。

 別に私は偏向報道をしているマスコミや、根拠が不確かな情報を流すソーシャルメディアを否定しているのではない。私たちが現実を解釈するときに、自分にとって扱いやすいように、あらかじめ用意された鋳型に流し込むことに懸念を示している。
 報道の自由度ランキングが下がった理由が、自民党政権の圧力や忖度が原因だと主張されることも多いけれども、むしろ定型化と惰性によって劣化していると考えたほうがいい。めんどうくさそうな話題を避けるのも、政治的な偏向が主たる原因というよりかは定型化と惰性の副産物に近い。その定型化と惰性は、日本人にとって極めて馴染み深い思考方法だと私は思っている。
 報道番組はあらかじめ用意された番組構成のテンプレートを使い、新聞はあからじめ用意された社会的に好ましい主張をしたり、与党批判という雛形にしたがって記事を作り、インターネットのまとめサイトでは野党や中国人・韓国人は国賊であるという固定した視点でページビューを稼ぐ。
 そうしてなんとなくニュースっぽいものや、なんとなく記事っぽいものができあがる。
 わざわざ現実をこれまでにない視点で分析するよりも、あらかじめ用意されている鋳型に流し込んでしまった方が楽だ。生産性も上がるし、労力も減る。効率的にメディアを作っていくためには、ある程度のテンプレート化は避けられない。もしそうだとしても、定型的な視点に依存したツケはいつか身を切って支払わなければならない。
 だからメディアは劣化しているのだ、という俗な話で終わらせるつもりはない。それこそが定型化と矮小化の罠にほかならないからだ。物事を過剰なまでにテンプレート化する力は、日本社会の至るところで働いているように見える。そっちのほうが自分で考えて、自分で責任を負うよりも、楽だし、見通しも立ちやすいからだ。
 定型的なものに頼り切った結果、定型的な思考をして、定型的な表現を使って、テンプレート通りに構成された現実を見続けることになる。あらかじめ用意されているフォーマットを無条件に受け入れるのは、長期的に見ると不利益にしかならない。

 テンプレートを上手に使えば、世界で起きている出来事をすばやくニュースとして伝えられる。その一方で定型的な視点しか使えないのだとすれば、徐々に凝り固まって魅力を失っていく。
 私がニュースや新聞記事に求めているのは、定型的な視点を破壊するような斬新な切り口や、世界の解釈方法だ。一見すると異なった出来事の中に共通点を見い出し、同じように見える現象を異なったものとして扱う。「外国人嫌悪とイスラム恐怖症は、外側から見ていると混合してしまうけれども、心の反応は全く違う」「一口に#Metooやジェンダーペイギャップと言うけれども、男性優位の社会は農業革命以降に作られたものだ。富の蓄積と定住が可能になって、権力を握った男性が遺産の相続や富の分配に関与するようになった。狩猟採集時代の場合、女性は男性が嫌になったらコミュニティを離れればよかった」という新聞の記事を読んで、こういう世界の切り分け方もあるのだなと関心することが、英語圏のメディアを読んでいると多い。
 それも一から新しく記事を作っているというよりも、日本語に比べると使えるテンプレートの数と種類が多かったり、これまでに蓄積された情報の多さによって支えられているように思える。状況に合わせて、多様なテンプレートを柔軟に活用している。それは英語圏の人口の多さと、蓄積がなせるアングロサクソンの力技だなー、と思っていた。あくまでも自分の印象なので、実際にどうなのかは知らない。
 日本のサッカー選手がフィジカルや体格の面で、外国選手と互角に渡り合えない。それと同じように、日本語や日本のメディアに海外水準を求めるのは高望みをしすぎている。問題は日本サッカーの条件で、どうやってポテンシャルを発揮して白星を重ねていくかであり、日本語で活用できるリソースやテンプレートを駆使して、現実を異なった切り口で解釈し直すことだと思う。
 ここで「日本は○○しなければならない」というような言葉で締めるのは、定型化の技術だ。別にテンプレをテンプレだと意識してあえて使っているのなら文句は言わない。でも鋳型に流し込んでインスタントに生み出されたような言葉に寄りかかるわけにはいかない。
 私たちが直面しているのは、現実世界を定型化してしまいたいという誘惑だ。陰謀論はその最もたるもので、現実を陰謀論の鋳型に流し込んで単純化してしまった状態だ。陰謀論から距離を置いている私たちもまた、極端ではないけれどもそれなりに現実を自分にとって扱いやすい形に加工している。そうしなければ、複雑すぎる現実を処理できずに脳が混乱してしまい、思考もままならなくなる。私たちが理解している世界は、認識の限界に合わせて不可逆圧縮された後のものだ。簡略化され、減色し、不完全な縮尺になったあとの世界を、あるがままの現実だと錯覚している。