言語性アレルギー


 言葉が炎症を起こす場合がある。
 何かコメントしないと腹の虫がおさまらない、このようなひどい仕打ちをされて声を上げずにはいられない、という気持ちにかられているときは、言語性アレルギーになっている場合が多い。そういう状態を、僕は言葉が炎症を起こしている、と呼んでいる。

言語性アレルギーというのは僕の造語だ。花粉症のときに身体の免疫反応が過剰に働いて、杉花粉を敵をみなして排出しようとする。それと同じようなメカニズムが言葉に対して働くのが言語性アレルギーだ。
 花粉症のときのくしゃみみたいに、言葉を使って、自分の心には馴染まない言葉を外側に追い出そうとしている。そういうときにはアレルギー源になる言葉から遠ざかったほうがいいのだけれども、スマートフォンやパソコンがあるおかけで、アレルギー源になる言葉から逃れられないときがある。
 ニュースやSNS、メディアの言葉は、言語性アレルギーを誘発しやすい。自分の意志で怒っているように錯覚していても、実際には他者によって意図的に怒りを抱かされているようなときがある。それは政治的に正しいかもしれないし、正義のために必要なのだとしても、過剰に反応するのは精神的に疲れてしまう。
 言語性アレルギーになると、攻撃的な言葉を使って他者を否定したくなる。
 それは悪意を持って相手を攻撃しているのではない。自分が他者の思想に染まらないように、過剰に反撃して身を守っているように見えるときがある。
 新しい意見を認めて取り入れることは危険なことだ。得体のしれない言葉を節操なく受け入れるようには、僕たちは作られていない。もしそうであれば、これまで信じていた世界観や信念が崩れ去ってしまう。その危険を冒して他者の言葉に心を開くよりも、心の免疫反応を働かせて異質な言葉を排除したほうがリスクが少ない場合がある。
 自分自身がこれまで慣れ親しんできた秩序を守りたい。これは人間にとって自然な欲求だ。
 これまでは異質な他者の言葉に触れる機会はあまりなかったのだけれども、通信技術の発展にともなって、言語性アレルギーを誘発する情報が爆発的に増えてしまった。
 僕たちは言語性アレルギー源になるような言葉に、過剰に晒されている。 
 反論をしたくなる言葉、否定しなければならない言葉、口汚く罵らなければならない言葉、論理武装して反論しなければならない言葉を使って、異質な言葉から自分を守ろうとする。そうして自分の発した言葉が、他の人にとっての言語性アレルギー物質になってしまい、ネット上がくしゃみを引き起こす杉花粉のような、アレルギー性の言葉でいっぱいになる。
 自分を含むどちらかが言語性アレルギーになっている場合には、冷静な対話だったり建設的な言説を積み重ねるのはほとんど不可能になる。自分が自分であることを守るために、相手の言っている意見や主張を否定しなければならない。それが言語性アレルギーの症状のひとつだ。これは自分の意志ではどうしようもない。
 こういった言語活動にエネルギーを吸い取られている間に、それ以外の言葉を使えなくなってしまう。
 言葉の免疫反応を抑えられない以上、一日に触れる言葉の量や、言葉の性質を控える必要がある。
 アレルギー源になるタイプの言葉に触れない。ニュースや時事問題に触れるのは程々にとどめる。(なにか一言言いたくなるため)等々。
 自分にとってアレルギー源になる言葉は、それかどれだけ社会的に許容できないものだとしても、距離を置く必要がある。
 言語性アレルギーそれ自体は悪いものではない。異質なもの、自分の価値観では許容できないものを言葉で攻撃するのは、人間としては当然だ。けれどもその免疫作用が過剰になりすぎていて、攻撃態勢を解除できないとしたら、それは異常なのだと思う。