カツ丼にまつわる言説が嫌なのではなくて、不適切な方法とタイミングでカツ丼情報をタイムラインに流し込まれるのがストレスになっていた。カツ丼への知見を深める情報を得たいだけなのに、「あのカツ丼屋の店主はクソだ」とか「あんなカツ丼を食って喜んでいるやつは、本物の味を知らないアホ」といった、怒りや負の感情に満ちた情報が目に触れてしまうのは、感情汚染のように感じられるのです。
いい悪いではなくて、疲れていて消化のいいものしか食べたくないときに、カツ丼大盛りが運ばれてくれる。ぼやーっと受動的にどうでもいい情報を消費したいときに、情報リテラシーや思考力を求められる話題が流れてくるようなものだ。
いまは軽い食事がしたいというニーズを無視して、「カツ丼食べないとだめだよ。そんな栄養のないジャンクフードばっかり食べていないで、カツ丼食べよ!カツ丼おいしいよ!」とカツ丼をごり押ししているあいだに、カツ丼嫌いの人間を増やしているんじゃないのかなー、と思うことがある。
思考するときに気をつけていること。
このエントリでは、言葉を使うときや思考するときに気をつけていることについての文章をまとめています。自分が行いがちな思考の癖を言語化して、意識的になることを目的として書かれています。
・多数派になる義務と努力のこと。
多くの人が与党を支持しているというよりも、「多数派が善であり、少数派に属することはリスクが伴う。周囲から浮き上がらないように、自分も多数派の価値観を受け入れられるように努力しなければならない」という行動パターンで動いているのではないのか?
……という発想が思い浮かんだので、とくに論拠も客観的なデータもないまま「多数派になる義務と努力」についての文章を書いていく。話半分に読んでくれると助かる。
僕たちの社会には民主主義的な価値観は根付いていない。権利を主張したり、自分の良心を優先させるような教育は受けていない。むしろその逆で、主権者としての意思を自ら捨て去るような教育を受ける。
自分の意思は横に置いておいて、校則に従わなければならない。就職活動でのルールに従わなければならない。企業組織に従わなければならない。その延長線上に、自分の意思は横に置いて、多数派が選ぶ政治上の意思決定に従わなければならないという価値観が生まれる。
・素朴な正義感とヘイトの境界線。
正しそうなことをそのまま喋るのはあまり好きでは無い。正しさが言動を正当化する免罪符になって、それを理由にして自己の行いを顧みなくなってしまう。
誰しもが素朴な正義感に振り回されているように見える。おれはクソサヨクなのだが、安倍政権の不正を許せないという感情がある。それは素朴な正義と民主主義、人権などを材料にして正当化を行っているように感じられる。
自分の感情を正当化するために、都合のいい思想や価値観を持ち出して自己欺瞞に陥っていないのかと思い悩むときがある。悪い相対主義にはまり込んでいるのかも知れない。
民主主義や人権、憲法といった言葉を振り回していると、自分が正しい側にいると錯覚してしまう。これらの価値観を否定しているのでは無い。疑いようのない正しさを手に入れたときに、「私は正しい側にいるのだから、手段を選ばなくてもいい」と考えるようになるのが怖い。
現在(二〇一九年)の外国人ヘイトは、根拠の無い偏見と無知に支えられている。これはまだヘイトスピーチとしては穏健な方だと個人的には思っている。偏見が根底にある差別に比べて、明確な理由が与えられる差別は簡単に自らの言動を正当化できる。
ユダヤ人の差別問題でおぞましいのは、「優生学の観点からいって彼らは劣った人種であり、差別されるのは仕方が無い」という科学的な根拠が与えられた点だ。現在ではそれをエセ科学だと一蹴できるけれども、歴史的、宗教的、科学的、政治的な根拠に支えられた差別意識というものを僕たちはまだ経験したことが無い。
・低い自己肯定感を埋め合わせる道具としての政治思想について。
「自虐史観を排して、日本人の誇りを取り戻す」という言葉を、保守や右翼の人たちはよく口にするけれども、「誇りを取り戻したい」という言葉には実感がこもっているように聞こえた。
それは彼らが主張するようなGHQの洗脳による自虐史観の産物ではない。左派的な価値観であれば、平成の失われた30年の間に産業競争力が削がれ、実質賃金が下がり、ブラック労働が横行する中で人権と尊厳が損なわれていると言うかも知れない。
右派は「あなたの自己肯定感が低いのはGHQや左翼のせいだよ! あなたは何も悪くないよ」と言って、左派は「あなたは自分のことを無価値だと思い込んでいるけど、人間を消耗品として扱う資本主義のせいだよ。君は悪くないよ」と主張する。
自分は自虐史観には与しないけれども、自虐的な価値観や思考回路に染まっているとは思う。政治思想の左右を問わず、日本人の自尊心や自己肯定感は低い。日本社会の中で生きていると、自尊心や自己肯定感が低くなってしまう。
・嫌韓ヘイト本のコストパフォーマンス。(もしくは政治TCGの可能性について)
ちょっと思うところがあって嫌韓ヘイト本を読んでいたのだが、「論戦をするときに効果的なフレーズを読者に提供する」という点では実用性が高い。「従軍慰安婦は売春婦だ」「植民地支配ではなくて併合だ」といった、単純だが取り回しやすい言説が押さえられている。
将棋の棒銀戦法のようなもので、対策を知らない人間に対して高い破壊力を発揮する。冷静に反論するためには受ける側に知識が必要になるのだけど、準備をしていない状態で「従軍慰安婦がいたという客観的な証拠を出せ」と言われても対応は難しい。
リベラルはヘイト本を低俗なものだと忌避する傾向が強いが、ネット右翼を促成栽培する点では侮れない。「この話題になったら、このフレーズを言えばいい」というテンプレートがあって、嫌韓以外だと「日本はアジア解放のために戦った」とか、「GHQによって反日左翼が日教組を占拠した」といったネット右翼促成栽培パッケージが一通り揃っている。そう考えると、ネット右翼的な言説はコストパフォーマンスの高い政治思想ではないのかと思う。
・『自由からの逃走』とソーシャル家畜化。
AndroidのGoogle Play StoreやApple Storeを眺めていたのだが、「自分が欲しいものでは無くて、誰が買わせたいと思っている商品が多い」といつも思っている。新しくて、売れ筋で、人気があるコンテンツがトップページに表示されていて、話題の作品を適当につまんでいるだけでもそこそこ時間を潰せる。その一方で消費行動が受動的になっているように思えて、あまりいい気がしない。
インターネットが全体的に「誰かが決めたルール通りに遊ぶことしかできないおもちゃ」になっている。AndroidやiOSはオペレーションシステムであると同時に、企業のエコシステムにユーザーを囲い込むためのもので、消費行動を促す導線が巧みに仕掛けられている。
・Lubuntuに向けた愛の歌。
古いノートパソコンをSSD化してWindows10にアップグレードしたのだが、もう8年以上前の機種なので動作が緩慢で、入力に対する反応が常にワンテンポ遅れる。使えるといえば使えるものの、細かい部分で少しずつストレスが溜まっていく。
我慢できなくなったのでLubuntuを入れてデュアルブートにしたら、実家に帰ってきたような安心感を覚えた。Netbookを使っていた頃からのつきあいである。以前のLXDEはデザインが垢抜けていなかったが、LXQTになってからはスタイリッシュになった。
Lubuntuは触っていて気持ちがいい。機能の豊富さや対応している周辺機器の多さではWindwosには勝てないが、ボタンを押したときにすぐさまレスポンスが返ってくる。Windows 10は動作のたびに「よっこらせ」という声が聞こえてくるような反応だが、Lubuntuは「ご主人さま!了解しました!」という感じだ。
・ちんちんぴろぴろりーん♫教の祈り。
・バカは黙っていろの空気
あるスーパーのコンサルタントが「一番売れない商品を処分して、経営を効率化しましょう!」と提案した。店主は「それはいいアイディアだ。早速その商品を処分しよう……で、コンサルタント君。次に一番売れていない商品は何かね?」
一番売れない商品を処分したら、二番目に売れていなかった商品がワーストになる。それと同じように、役に立たない障害者をこの社会から排除したら、次には生産性が一番低い人間になり、その人たちもいなくなったら次は生産性が二番目に低かった人々が排除の対象になる。
・現実ディズニーランド
ある特定の政治的な立ち位置を採用することに違和感を覚える。
昭和から変わっていない老朽化した左翼思想、戦前の価値観を現在に当てはめようとする懐古的な国家主義、文化の違いを無視して無理矢理日本に輸入されたリベラルや民主主義、「そんな難しいことなんて考えていても答えなんて出ないんだからさー、オリンピックや万博を楽しんで盛り上がろうよ!」という無気力・無関心。
そのいずれかに安住の地を見つけられれば、少しは楽になるのかも知れない。現状に疑問を抱かず、思考停止して、集団の話を乱さないような言動をする。どうせ考えても答えなんか出ないし、デモや投票に行っても何の意味もないから、何も考えないで楽しんだ方がいいよねー☆ いえーい! 日本サイコー! 感動をありがとう! 御国のために死にます!
もし情報テクノロジーとアルゴリズムとIT企業が人々の行動に影響を与えて、民主主義の基盤を切り崩していくような時代でなければ、そういう風に生きたかった。前例のない地球温暖化が破滅的な影響を地球に及ぼし、核兵器が生殺与奪を握っているような時代でなければ、鼻水を垂らして何も考えずに暮らせたはずだ。
答えが出ないまま宙吊りになって、これまで慣れ親しんでいた価値観や思想、宗教をそのまま当てはめるだけでは不十分になっている。それなのにそれ以外のオプションを持たないから、なじみ深い価値観をそのまま2020年以降の世界に当てはめようとする。その行為が思考停止に感じられるので、特定の政治的立ち位置や価値観に対して不信感を覚える。
民主主義、人権、戦前の父権的な社会やマルキシズム、キリスト教。これらが現代でもそこそこ使い物になるものだとしても、考えることを拒否して古い価値観にしがみついているだけなのだとしたら、それは間違っているのだと思う。