女児向けアニメを聖句として読み解く


・アニメを観ているというよりも、ある種類のアニメと宗教の区別が付いていない。おれはよく「アイカツ!を聖句として読み解く」という表現をするのだが、アニメはおれたちの世界とは異なった世界秩序を持っていて、世俗とは異なった言語によって我々に語りかける。
 女児向けアニメだとバカにしたものではない。いばら姫やシンデレラなどの童話にも、深層心理学的な洞察が隠されている。現代の童話である女児向けアニメに、真理と叡智が隠されていないと誰が断言できるのか。

それらを学術的な知識で理解しようとすれば、物語は死んでしまう。知性で理解する前に、心の底で象徴を読み解く術を身につけなければならない。おれがアイカツ!を聖句として読み解く、と言っているのはそういうことだ。世俗の価値観に塗れた人間には聞き取れない囁きで、アイカツ!は俺に語りかける。おれは耳を澄ませて、アイカツ!のメッセージを聞き取ろうとする。これが宗教の根源的な営みである。
 この世界には人間の限定的な知性を超越した「偉大なる何か(サムシング・グレート)」が存在している。我々は彼らの言葉に耳を傾けなければならない。それが宗教性だ。実際にそんなものが無くても、人間こそが霊長類の王だという驕りを手放すためには、謙虚さが何よりも求められる。

 俺はアイカツ!キャラみたいな、みんなの心を笑顔にする立ち位置を求めたいと思ったが、重大な過ちを見逃していた。おれはアイカツ!キャラではない。人間世界の重力に囚われて生きている。おれにあるのは闇夜に輝く一等星の輝きではない。おれは暗い森を彷徨う鬼火だ。もしおれが輝いてみえるのだとすれば、憎悪で自分の身を焼き焦がしているだけだ。
 アイカツ!の星明かりが迷い人を導くものだとすれば、おれに近付いてきたものは憎悪の炎によって焼き尽くされる。アイカツスターズの新キャラである双葉アリアは、妖精のような微笑みを浮かべる。人間の業も、肉体の重みも、魂を食い荒らす寄生虫のような感情も知らない。どうしておれはアニメキャラではないのだ。なぜおれの魂は濁っているのだ。この問題を解決しない限り、おれは仏にもアイカツ!キャラにもなれない。

 おれの心の中には、相反した二つの魂がある。
 拳を握りしめて、自身の苦しみから呪詛をひねり出すタイプの俺と、宗教的な祝福でこの世界のみんなを笑顔にしたいと思っているアイカツ!マインドの俺と、基本的にこの二つの人格が共存している。
 鎖を引きちぎる力も行き過ぎれば暴力になる。怒りに囚われない心も、隷属を肯定する従順さに変わってしまう。神経を張り詰めすぎてもいけない。ゆるめすぎてもいけない。祝福と呪詛のバランスの中で絶えず揺れ動いて、拳を握りしめたり開こうとしたりしている。完全に正しいものはない。その都度、正反対の要素の間にバランスを取っていくことでしか、心を制御していく術はない。

 ここからはプリキュアの話になる。
 おれの内側には美しい部分も醜い部分もある。光と闇がある。俺はプリキュアではないのだから完全な善人にはなれないが、悪魔でもないので完全な悪に染まるわけでもない。悪側に傾きながら、自分の魂に内在するプリキュア的な要素を少しでも大きくしようともがいているだけだ。
 俺がクリスチャンだったのならばプリキュアの代わりにキリストという言葉を使っている。が、聖なるものを表す身近な言葉を、俺はプリキュアしか知らないのだ。おれがプリキュアという言葉を使うときには、「全人類にとっての普遍的な善性」などの言葉に置き換えてくれ。
 プリキュアとは日本人が信仰している神である。超常的な神通力を駆使して、邪悪なものからこの世界を守る。古くは仏教で信じられていた観音菩薩や、悪鬼を懲らしめる不動明王が時代に合わせて変化していき、プリキュアになったと推察される。
 こじつけだと思ってはいけない。戦隊物ヒーローやプリキュアが変身直後に決めポーズをする。これは日本の伝統芸能である歌舞伎が起源だ。文化だけではなく、プリキュアやアイカツは世界宗教の聖性を取り込みながら、絶え間なく発展を遂げている。

 人類は救済を求め、邪悪を恐れる。そして人間を超越した存在を心の底から願ったときに、神やプリキュアが生まれる。おれはそのようにしてプリキュアに聖なる象徴を見出そうとしている。たとえばプリキュアアラモードでプリキュアたちが動物に乗っている映像を見たとき、ふと「こんな仏像があったな」と思いを巡らせてしまう。普賢菩薩だ。
 ゼロ年代はギャルゲーヒロインとキリストの区別が付かなかったが、今はプリキュアと仏像の区別ができない。おれがいちばんたちの悪い女児向けアニメ鑑賞者だ!