プリキュアと世界秩序について。


※おれがプリキュアと言っている箇所は、「全人類にとって普遍的な聖性のイデア」とかそんな感じの意味に置き換えて読んでください。

 政治の話とかだいっきらいなんだけれども、何か語らざるを得ないという強迫観念に突き動かされている。(※枕詞)
 おれはべつに政治経済の話に興味があるわけではない。「この世界を支えている力」と「おれたちの世界を歪め、損なっていく力」の話をしたいことに気が付いたのは最近だ。政治・経済・宗教その他諸々は、「この世界を支えている力」のサブカテゴリーでしかない。

どうしてそのような考えに至ったのかというと、キラキラプリキュアアラモードを観ていたからだ。プリキュアの敵はえぐい。大人のおれでも泣きそうになるぐらいの邪悪さを女児に叩き付けてくる。スマイルプリキュアのバッドエンド勢は人を強制的に鬱病に追い込む。今回のプリキュアアラモードの敵は、闇の力で街を覆う。すると人々は互いに憎しみあい、罵り、傷つけ合うようになる。ヘイトに満ちあふれた世界を作り上げることがノワール様の目的だった。
 プリキュア基準で言えば、おれたちの世界はすでに闇の力に染まっている。yahooニュースのコメント欄で傷つけ合う人々の姿を見れば、思わず「闇の力が溢れているペコ!」と叫ばざるを得ないはずだ。
 しかしこの世界にプリキュアはいない。ここがおれたちのスタート地点であり、神の秩序が欠落した世界で、どのように我々人間が闇の力に対抗できるのか?という課題である。これはもはや政治、宗教、経済という言葉で表せるものではない。強いていえば、サリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」とかそのあたりだ。世界の秩序を守る側につくのか、闇の力の軍勢になってこの世界を切り崩していくのか。
 ただ問題は、何がおれたちの世界を損なっていくのか?という話だ。おれが右翼なら反日の売国奴と答え、左派なら反知性主義のポピュリズムと言うだろう。
 しかしこの言葉を思い出して欲しい。「闇の力が満ち溢れているペコ!!」生命力を損なっていくものに触れたときに、それが闇に属するものかどうかを判断する感受性を手に入れる。おれたちはプリキュアにはなれないし、むしろ反対に闇の力に魅入られ、自身がプリキュアの敵になる場合もある。
 まずおれたちがするべきことは、プリキュアを思い浮かべることだ。そしてその次に自分の語っている言葉を見る。強い光の前では、影が強く浮かび上がる。プリキュアをくりかえし鑑賞することで、おれの薄汚い部分が目に見えるようになる。

 政治とプリキュアにどのような関係があるのか。しょせんプリキュアは幼児向けコンテンツじゃないか。綺麗事ばかりの女児向けアニメではないのか。こう考えるのももっともな疑問だ。かつておれ自身もそう思っていた。闇の中で生まれ育った人間は、光を知らない。光を見たあとに初めて、自分が暮らしていた場所が闇だったと気が付く。
 サンデーモーニングを30分見た後に、プリキュアに番組を変えてくれ。死んだリベラルと生きている力の違いが分かるはずだ。おっさんが安全地帯で政治について論じているときに、プリキュアはその身を削って闇の力に染まったピカリオを救い出そうとする。怒りと憎しみと自分へのふがいなさと、心の闇を受け止める。
 ピカリオのお姉ちゃん(cv.水瀬いのり)に認められたい、お姉ちゃん大好き!という気持ちが闇に染められる。キュアホイップも怒りや憤りを感じているが、それを許しへと変える。前向きな感情を裏返せば闇になり、後ろ向きな気持ちもプリキュアの魂によって濾過されれば救済への原動力になる。
 ピカリオを闇から解き放った後にキュアホイップは言うのだ。「私は本当に怒っているんだからね」そして「クッキーでも食べながら、どうしてこんなことをしたのか、話を聞かせてもらおうかな」(※台詞うろ覚え)
 これだ。この心の動きだ。慈愛に制御された激情だ。聖なる怒りだ。タロットカードの「力(ストレングス)」には獅子と乙女が描かれている。獅子が力なのではなくて、乙女が獅子を制御している状態こそが「力(ストレングス)」と呼ぶにふさわしいのではないのか、と個人的には解釈している。
 すなわち獅子=怒り、乙女=プリキュア、である。
 蹴ったり殴ったり、大立ち回りを演じることがプリキュアの強さではない。永遠に女性なるものと荒ぶる魂の調和にこそ、その力の源泉が求められる。怒りだけでは世界を焼き尽くす。許しだけでは悪に貪り食われる。この相反する2つの要素のアマルガムこそがプリキュアの本質である。

 そもそも何の話だっけ? 人間が闇の力に屈せずに、人間であり続けるためにはどうしたらいいのかという話だった。
・第二次世界大戦から学ぶべき教訓は、「次に私たちの世界に非人間的なものが侵入してきた場合、どのように身を守るべきだろう?」という問題に尽きる。核兵器を廃絶するべきだとか、独裁政治体制を未然に防ぐだとかは、副次的な問題でしかない。
 そう遠くない過去に、おれたちの世界は非人間的なものの手中に落ちた。ひとりひとりは人間だったのかも知れないが、結果として非人間的なものの片棒を担いだ。己の無知で、正義で、システムに抗えずに、理由は人それぞれだったが、誰しもが流れを傍観していることしかできなかった。
 人間を人間ではないものに変えてしまう力の存在を、おれたちはまず認めなければならない。人間に寄生して、内側から食い破る。そして人間を生きながらにして丸呑みにする。そういった非人間的な力が存在している。常にこの世界は、非人間的な力に蹂躙された。魔女狩り、世界大戦、アウシュヴィッツ、原爆投下、人間が人間と呼べる条件を満たせなかった時期は何度も訪れた。
 非人間的なものの種子を我々は持っている。それは適切な環境が与えられれば、明日にでも芽吹いておれたちを乗っ取る。自分の本当の願いだと誤認するような、邪悪で、非人間的なものだ。その力に魅入られれば、お前は抵抗ができなくなる。喜んで非人間的なものの力に仕えるようになる。それぞれの胸で芽生え始め、少しずつ大きくなっていく心の種は、思いやりだけで育っていくのではない。おれたちの呪詛も魂の腐臭も同じように吸収していく。
 我々が築き上げてきた全ての叡智は、人間が人間であり続けるため存在している。人間が人間のままでいること、非人間的なものをこの世界から追放すること。それ以外の思想であるとか、どの方法がより効率的に経済成長を成し遂げられるのかといった話はみな、ただのお喋りでしかない。
 人間と、非人間的なものの絶え間ない戦い。それは初めて人間と呼べる生き物がこの世界に生まれた時から、最後の人間が息絶えるときまで続く。それは神話として描かれ、現代ではプリキュアと呼ばれている。
 私たちの時代は超自然的なものを信じなくなった。過去に我々が悪霊や悪魔と呼んだものを、人間の生理的な反応、脳内物質、精神のあり方、組織、社会制度などの物質的なものに求めるようになった。悪を唯物論的な次元へと解体した。
 死を振りまくもの、非人間的なもの、この世界を土台から破壊していくものは存在している。プリキュアを鑑賞するというのは、これらの悪に対して思いを馳せるということだ。