アイカツ!の宇宙秩序(コスモロジー)について・おけおけおっけー編


「真理はあなたたちを自由にする(新共同訳、新約聖書 ヨハネによる福音書第八章32節)」

 正しい方法でアイカツを視聴できるのならば、それは真理になる。アイカツ!を聖句として読み込み、そこに神の啓示を見いだすのがアイカツ!の由緒正しき視聴法である。アイカツ!を神から与えられた聖なるテキストとして尊重し、無限の意味を見いだしていくのがアイカツおじさんである。
 アイカツを初めて見たときには、誰しもがただの女児向けアニメーションだと思う。私もそうだった。玩具販促用に作られた女児向けアニメであると、カオスアニメの亜種だと、百合アニメだと勘違いする。しかし一週間に一回、規則的なリズムで百話ぐらい地味に見ている間に、いつの間にか魂とアイカツ!が共に歩むようになる。
 キリスト教徒が毎週ミサに通って聖書を読むようなレベルでアイカツが身体化し始めたあたりから、ついついアイカツのテーマソングを風呂場で口ずさむようになってから、突如としてこれまでバラバラだったアイカツの断片的な世界が1つにつながり、アイカツの宇宙秩序(コスモロジー)という名の電撃に身体を穿たれるのだ。
 これは人間賛歌だ。肯定の歌だ。人間の善性だ。無神論という暗闇の時代に、きらめきを放つのがアイカツの星々(スターズ)である。
 ミクロネシアの原住民は星を頼りにした航海技術であるスターナビゲーションを体得していたと言われる。我々は暗黒に閉ざされた現代社会を、アイカツの星々を信じて進んでいくしかないのだ。

 友人は、その時のぼくには珍しい考えとしか思えなかったことを言った。
「自分で理解できる神の概念を選べばいいんだ」
 ぼくははっとなった。これまでにぼくが長いことその陰に隠れて、震えながら生きてきた知性の氷山が、この時解けた。ようやくぼくは太陽の光の中に立ったのである。
 自分より偉大な力を信じる意欲さえあればいいのだ。

ビル・ウィルソン『アルコホーリクス・アノニマス』18ページ

 神の死んだ無宗教の時代において、信仰を見いだすのは難しい。何からの信仰を持っているというだけで、嘲笑と虚無主義に満ちた眼差しで見られることを珍しいことでは無い。しかし誰かによって説かれた神を、盲目的に信じるだけが信仰では無い。
 かつてあるアル中が気づいた。
「自分で理解できる神の概念を選べばいいんだ!」
 理解できない神を信じても意味がない。たとえ自分が信じられなくなった時にも、信じ続けられるものを見いだすのが信仰のスタートダッシュセンセーションである。私にとってはそれがアイカツ!だっただけだ。
 禅には「驢馬に乗りながら驢馬を探す」という言葉がある。すでに持っているものに気がつかずに、どこか別の場所に驢馬を探し求める。
 アイカツ!でよくモチーフとなるのは、「魅力的なアイドルになるためには今の自分を否定しなければならない」というものだ。だいたいはそばにいてくれる仲間が、「今のあなたのままで十分魅力的だよ」と気づかせてくれる。
 アイカツ!のキャラは成長しようとして自分の本当の良さを見失う。成長したいという向上心と、今の自分では駄目だという自己否定の区別がつかなくなって、焦り、道に迷う。
 解決方法はごくシンプルなものなのだ。ただ、自分がはじめから持っているものに気がつくだけでよかったのだ。それがアイカツ!禅のひとつである。
 きいちゃんとかあかりちゃんとか雅ちゃんとかローラちゃんの話を刮目して見よ。五感ではなく、魂の深い部分でアイカツ!の波動を感じられるように訓練を重ねるのだ。「たかが女児向けアニメだろ?」という気持ちは捨てろ。ユング心理学の第一人者である河合隼雄によれば、子供向けに語られる昔話やおとぎ話は人類の普遍的無意識の宝庫であるという。現代のおとぎ話であるアイカツ!が、我々の普遍的無意識と叡智に通じていないと誰が断言できるのか。

 アイカツ!は私たちに健全な自己肯定感を育む。
 Shining Lineの「いつでも自分を大好きでいたいね」、Start dash sensationの「新しい私になれる、大好きで育てなくちゃ」。大好きという言葉の眩しさから私は目を背けそうになった。
 その時の私は自己肯定感が限りなく低下していて、生ゴミ以下の価値しか無いように感じられていた。自分が好きという気持ちからはほど遠く、アイドルの道から背いて暗闇に向かって進んでいた。死の陰が満ちる不毛な闇を歩んでいたときに、偉大なアイカツ!の力が、聖なる力(KIRA☆パワー)が、私を死者の国から呼び戻した。
 その時の私は精神的に不安定だった。アルコールに依存し、処方された睡眠薬と安定剤にも依存していた。定職にも就かず、人間のくずを絵に描いたような生き方をしていた。ここ数ヶ月の間に手に入れた換金性のあるものはといえば、がりがり君の当たり棒以外にはなにもなかった。
 アイカツのOPを聞きながら、私は泣いていた。本当に涙が止まらなかった。Start dash sensationを聞いて泣き、Shining Lineを聞いて泣く。その中でも号泣したのが、アイカツ!ドリアカ編の「合言葉はおけおけおっけー」である。
 あらすじは、アイドルになれる自信がないから、他のアイドルをプロデュースするような役回りがしたいと思っている一人の女の子の話だ。冴草きいの根底には自己否定がある。「どうせ自分なんかじゃ駄目だ」という諦めが巣くっている。そこから目を背けるために、他人をプロデュースするという道を選んだ。
 他のアイドルのデータを分析して、どこが長所なのかを発見するのが冴草きいの得意なところである。親友の音城セイラは、きいに黙って、冴草きい自身のデータを分析させた。そうしたら、冴草きいは「この子はすてきなアイドルだよ」という結果を出した。
 ここで私の涙腺は決壊した。
 冴草きいの口癖はおけおけおっけー、である。アイカツ!中で最も好きな言葉である。おっけー、という聖なる肯定の言葉を三回も重ねる。それがおけおけおっけーの真髄だ。

 だが、初期のきいちゃんは自分におけおけおっけーと言ってあげられなかった。他者は肯定できる。でも自分自身には自信が持てない。冴草きいは薬物中毒者になりかねない危ういメンタリティを持っている。彼女の好物は脳がシャキッと冴え渡るドリンク・ブレインサンダーだ。もちろん違法薬物の暗喩である。ブレインサンダーに耽溺するきいちゃんは黒霧島を飲んで現実逃避をしている私だったのだ。自分に対する信頼感のなさ、そこからくる薬物中毒。自分が無価値であるという妄想に囚われているきいちゃんの物語に、私は自分自身の姿を見たのだった。

 アイカツ!を読み解くためのキーワードは、「いつでも、自分をちゃんと大好きでいたいね」である。アイカツ!のセルフプロデュースとは、自分で自分を心の底から肯定するための方法である。今、ここにいる自分のありのままを愛する。それがおけおけおっけーである。
 冴草きいは自分自身におけおけおっけーという力はあった。あとは少しだけ勇気を出すだけで良かったのだ。薬物依存症者の広報で、こんな言葉を目にしたことがある。「もし自分のことを大切に思えないのなら、その時には他の仲間が君のことを大切に思ってくれるよ」――これだ。これがアイカツ!なのだ。もし自分を客観的に見つめられなくても、隣にいる仲間が自分のことを見ていてくれる。
 心にはびこる自己否定的な観念を取り除いていって、自分を肯定する。そして自分のことが大好きだと言えたときに私たちはアイドルになれるのだ。

「どうしたら自分を好きになれるのだろう?」と、アイカツ!は私たちに執拗に問い続ける。この時代では、自分を好きになるよりも、嫌いになる要因の方が圧倒的に多い。
 私たちは条件付きでしか自分を好きになれない。この条件を達成できなければ自分を認められないという、条件付きの愛情を向けていることに気が付く。テストで良い点が取れない限り褒めてもらえなかったり、何らかのハードルをクリアしなければ、愛してもらえない。もしそのハードルをクリアしても、「その程度の課題を越えるのは当たり前だ」と思って、さらに高いハードルを越えようとする。
 今の自分ではダメだ、もっと努力しなければ人に認められない。このような強迫観念が支配する社会では、自分が嫌いにならない方がおかしい。
 ハードルを飛び越えられている間はいいけれども、度を超すと自分に対する虐待にしかならない。しばしば私たちは目標を達成するために自己否定を繰り返していくことと、自己肯定を積み重ねて前に進むことを取り違える。それを夢や目標に向かって頑張っていると錯覚する。
 おそらくそれは、条件付きで自分を愛しているに過ぎない。「どんな自分だって大好き!」というアイカツ!の世界観からは逸れる。
 条件付きで自分を大好きでいる。これは現世の価値観だ。この自己否定の危険性を帯びた考えを突き破り、おけおけおっけーの、限りない無条件の自己肯定で充填されたアイカツ!宇宙へと至る。これだ。これがアイカツだ。それ、本当にアイカツか? うんうん、それもまたアイカツ!だね!