陰府歴程篇(1)自殺マン


 抗鬱剤が効かない体質だった。
 ルボックス、デブロメール、パキシル、トフラニール、アナフラニール、ドグマチール、リフレックス、トレドミンなどの数々の抗うつ薬に希望を託し、その度に絶望を重ねていた。この時は単純な鬱病だと思っていて、自閉症スペクトラムの二次障害だということに気がついていなかった。
 目を醒ましても身体が動かない。太陽が沈んだ時間帯から少しだけ楽になる。簡単な料理を口に押し込む。死んだ目で万年床に横たわり、効かない抗鬱剤を飲み続ける。そういうヘヴィな鬱病だった。当時の僕は「こたつの電源ケーブルで首でも吊るか」と思っていたが、首を吊れるほどの意欲と気力が無かった。抗うつ剤で意欲的になり始めたあたりが一番自殺しやすいと言われる所以である。
 希望の無い闇に閉ざされた世界に生きながら、13インチぐらいのブラウン管テレビをぼんやりとみていると、偶然ひだまりスケッチが映った。のちに魔法少女まどか☆マギカのキャラクターデザインを担当した蒼樹うめ先生のアニメ化作品だ。

美術学校が舞台で、主人公であるゆのっちの同居人は天然だが才能の塊のような人物だ。これはだめだ。きっと凡人と天才の差を思い知らされ、魂をへし折られるタイプの物語に違いない。芸術を題材にしてゆのっちの葛藤に焦点が当たるはずだ! こんな可愛い絵で、地獄に叩き落とされるに違いない! 信じれば裏切られる! ……と思い込んでいたのだが、魂を癒やされる日常系萌えアニメだった。
 こんな具合にして、僕はひだまりスケッチと出逢った。
 それからは街灯に群がる蛾のように、うつろな眼差しでひだまりスケッチを鑑賞していた。すでに液晶テレビが普及し始めていた頃だが、未だにVHSでしか録画できないような文明の果てで僕は暮らしていた。
 ある日、主人公のゆのっちは捨てられたスケッチブックを見つける。
 その子は自分よりも何倍も絵が上手かったが、親御さんの都合で学校を止めざるを得なかった。ゆのっちは悩む。自分は絵が下手で、才能もない。夢もまだ見つけられない。自分とは正反対の人でも夢を諦めなければならない時があるとしたら、夢を見つけられていない自分は、どうしたらいいのだろう?
「夢に向かって頑張っていても、自分の力じゃどうにもできない問題で夢が消されちゃうってこと、あるのかな?」と問うゆのっちに、宮子は「ないと思うよ」と間髪入れずに即答する。
 宮子が「夢はね、やーめたって言わない限り、ずっとここにあるんだよ」と言って、ゆのっちの胸を叩いた。僕は泣いていた。
 深夜アニメ。それは時間的な夜だけを意味するのではない。真昼間の国から追放され、魂の暗い夜を彷徨う者たちを優しく包み込む力を持っているのが、真の深夜アニメだ。インターネットでのストリーム配信が常識となっている現代の価値観からは想像しにくいが、深夜アニメは真昼間の国を追われた者たちだけがたどり着ける聖なる逃げ場所だった。
 闇の帳に閉ざされた魂に昇るただひとつの太陽! ひだまりスケッチ! 現代医学では救えなかった僕の苦しみがまんがタイムきららによって和らぎ始めていた。

 なぜ魂を病んだ人間はまんがタイムを観るのか。明確な理由は定かではないが、僕にとり憑いた自殺マンは、ひだまりスケッチを見ている間だけは部屋の隅でおとなしくしていた。
 自殺マンとは、体育座りで部屋の隅に待機している悪しき力を持った小人だ。
 普段の生活では存在に気づくことはない。しかし心が弱ったとき、体調不良の時、マイナス思考に陥っているときには、僕たちの負の感情を餌として力を蓄え、行動を始める。
 僕が一人きりになると、自殺マンはマイナスの感情を吸収して貪欲に成長し始め、部屋の隅から僕の背後に移動して、耳元で「今すぐこたつのケーブルで首を吊ろうぜ!」と囁きかける。自殺マンの喋る言葉は、自分自身が心の底から願っている言葉のように感じられ、いつの日にか僕たちの心は自殺マンと一体化してしまう。僕はこたつのケーブルを見つけるが、ゆのっちが次回予告で「ひだまり荘で待ってます。きっと見に来て下さいね!」と言う。そこで自殺マンの勢力が弱まる。僕は生き延びる。
「孤独な人に悪魔が憑く」というスリランカの言い伝えや「ブルースは死を追い払うことはできないが部屋の隅に押しやることができる」といった言葉を聞いたことがある。死とか悪魔とか、なんかこう人類社会のまがまがしいものは、部屋の隅っこの見えない場所に待機している。

『私たちが互いが協力的で、他者と信頼で結ばれ、受け入れられているような状態、つまり愛と慈悲に満ちている状態では、私たちの免疫能力はたいへん高まった状態にあるのです』と、ダライ・ラマは言った。
 これこそがまんがタイムきらら療法を支える宗教的な見地だ。まんがタイムきららが放送されている場所では、人々を死に導く力を弱められる。
「暗いぞ~ゆのっち! 美味しいおやつはみんなで楽しく食べなきゃいけないのだ~!」と宮子が喋るだけで死の軍勢が遠のいていく。
 まんがタイムきらら系アニメは生命の力に溢れている。
 ここには人を傷つけず、人を愛し、ささくれだった心に慈悲の雨を降らせるために必要なすべての力が揃っている。こうして僕は自殺マンの誘惑を振り切って鬱病を克服し、現実世界に舞い戻ってきた。
 冥界からの帰還である。