陰府歴程篇(3) 暗やみだけがわたしの仲間


 いつまでも自殺未遂をしているわけにはいかない。現代医療も科学も精神療法も自分自身ですらも頼りにならないので、教会に行った。
 この教会はingressをしていたときにポータル申請をしたところで、教会の写真を撮影していたらクリスチャンのおばさまに捕まったところだ。どうしてこの時に教会の門を叩いたのかは定かではない。神に救いを求めていたわけでもない。たまたま気まぐれで入った教会で、偶然にも時間が空いていた神父様に話を聞いてもらった。

僕は神父に「自分の幸せが祈れない」と言った。
 自分は仏教徒で、今まで自分と他者の幸せを祈るというサマタ瞑想をやっていたけれども、心の底から自分の幸せを願えなくなってしまったとか、酒と精神安定剤を飲んで病院に運ばれたなどの話をした。
 このときも意識が朦朧としていたので、神父さんの語った話をほとんど覚えていない。でも、イエス・キリストが苦労人だったという話を聞いた。新興宗教サークルのメンバーからハブられたリーダーの苦労話だったような気がするが、判断力と記憶力が極端に低下していた時だったのでろくに覚えていない。
 その時は「キリストと自分に何の関係があるんです?」ぐらいのことは思っていたが、あまりにも熱心に語るものだから「キリストすげえ」という熱の部分だけが伝わってきた。
 愛しているものを語っているときにはおのずと言葉の調子が似通ってくる。
 その対象が神父さんにとってはイエス・キリストであり、自分にとってはまんがタイムきららなだけだ。迷える子羊に福音を伝える行為を、「キャラの魅力を語っている時のオタクみたいだ! これは信用できる!」と受け取ってしまった。
 10年ぐらい前はギャルゲーヒロインとキリストの区別がつかなかったが、今ではキリストとギャルゲーヒロインがどう違うのかがわからなくなった。天刑病と言われて差別されていたらい病患者に対して、惜しみない愛を注いだキリスト。現代の被差別民族であるところのキモオタに分け隔て無い慈愛を注ぐギャルゲーヒロイン。
 全世界のキリスト教関係者から、同じにするなと怒られそうな話だし、本当にこの理解でいいのか不安になる。

 そのあとに「詩編で祈る」という小さな本をもらった。
 かつてインターネットには夏の葬列という、薄暗い感情の吹き溜まりみたいなコピペを集めたブログがあったが、詩篇にも似たようなことが書いてあった。何千年も前に生きていた人々の絶望を煮詰めて作ったような魂の悲鳴だ。幸せに生きている人間に対する呪詛、出口の無い苦しみの中で救いを手繰り寄せようとする祈りとも断末魔ともつかない文章は、うつ病患者のメンヘラ日記に通じるものがあった。

詩篇88
「わたしは悪に押しつぶされ、いのちは死の国に近づいている。墓に下る者のうちに数えられ、わたしの力は尽き果てた。あなたからも見放された者のように、あなたの愛からも断ち切られた。あなたはわたしを奈落の底に、浮かぶ瀬のない暗やみに置かれた」

 詩篇の中でもとりわけ陰惨で希望がないと言われている詩篇88に、僕は共感を覚えた。その中でも詩篇88を締めくくる「暗やみだけが、わたしの仲間」という言葉に衝撃を受けた。
 今の自分がいる場所は、他の人間が何千年も前にたどり着いた場所だと言われているような気になった。相変わらず問題は何一つとして解決していない。だが、行く宛てもなく暗闇を彷徨っていたら、不意に雲の切れ目から月の光が差し込んだような気持ちになった。道なき道を歩いていると思っていたら、もうすでに誰かが歩いている足跡が見えた。