陰府歴程篇(4)自殺サイトの底で


 逃げ続けていた精神科に顔を出したが、何も喋りたくなかったし、喋れることが無かった。
「自殺すると、周りの人間に悪い影響を及ぼすよ。だから自分から死を選ぶときには自己責任があるよ」みたいなことを精神科医から言われたのだが、自爆テロリストに「自爆すると死傷者が出るよ」と説得しているように聞こえて、乾いた笑い声が出そうになった。
『自殺って言えなかった』という自死遺族の手記集を読んだのだが、「生きている人間側の都合だ……」「おまえの苦しみは、俺の苦しみとは何一つとして関係がない」としか思えなかったし、追いつめられたら「罪悪感で苦しめ、ざまぁwww」ぐらいの捨て台詞を残して死にそうではある。
 周りに迷惑をかけるから死なないで欲しいという理屈が成り立つのだとしたら、銃を乱射するなどして他人から恨まれた後に射殺されれば解決できるはずだ。「死なないで! なんとか自殺対策」と言われても、生きている人間の理屈にしか聞こえなくなって、途端に言葉に説得力が無くなる。
 僕たちの世界には、生者の国と死者の国がある。
 この時の僕は冥界に右足をつっこんでいて、左手はまんがタイムきららに触れ、左足のつま先で地獄に立ち、残った右手の人差し指でかろうじて現実にしがみついて生きているような状態だった。

死に片足を突っ込んだ状態だと、死者の国の言葉の方が心地よく響く。
 死んでは駄目だとか、人に迷惑を掛けるとか、生きていればいいことがあるというのは全て生者の国でのみ通用する言葉で、死者の国に片足を突っ込んだ人間の耳には届かない。自殺予防のテキストを見ても、「お前等のような明るい国で暮らしているような人間に自分の苦しみが理解できるのか!」と叫びながら、googleに「自殺 方法」と打ち込んで死に方を検索し始めるぐらいにはやさぐれていた。
 ぶっちゃけるとすでに自殺方法は決めている。
 タイマー付きの延長ケーブルを改造し、銅線を露出させる。そして銅線をガムテープで心臓にくくり付けて、心臓麻痺を狙う死に方だ。酒と睡眠薬を大量に服用して眠っている間に、タイマーがゼロになって心臓に電気が流れるという方法だと完全自殺マニュアルに書いてあった。本気で死にたくなったらこの方法を使うと決めている。
 そんなことを考えながら自殺サイトや掲示板を巡っていたら、なぜか、のんのんびよりのクソコラを見つけてしまった。
 のんのんびより。まんがタイムきらら系列ではないものの、強い癒やしの力を持ったアニメのひとつだ。その作品の登場人物である越谷小鞠ことこまちゃんが、自殺サイトの一角にいた。こまちゃんは中学二年生だけれども身長の低さゆえに小学五年生に間違われる。そのこまちゃんの絵に「上手く言えないけれども、死なないでください」とメッセージが添えられていた。
 どうしてこんな物騒な場所にこまちゃんがいるんだ。
「この門をくぐるものは一切の希望を捨てよ」神曲・煉獄編で永遠の淑女ベアトリーチェに出逢ったダンテのような気分だった。地獄にも仏。自殺サイトにものんのんびよりである。
 こまちゃん、ここは危険だ! 長くとどまっていると死者の国から帰ってこられなくなる! 僕はこまちゃんの画像を保存して、彼女の手を引いて冥界から現実へと戻った。

 ここで話は変わるが、俳優のロビン・ウィリアムズと佐渡川準先生が自殺したことが未だに心に引っかかっている。
 この二人はどちらも作品が大好きで多分に影響を受けているので、彼らの自殺が未だに心にひっかかっている。以前と同じような気持ちで作品を直視できない。いまを生きるの再放送を観ていても、「自殺しちゃったんだよな」と思うし、無敵看板娘のきれっきれなギャグを読んでも「この時は鬱病では無かったと思うけれども、あまねあたためるを描いていたときにはどんな気持ちだったんだろうな……」と思ってしまう。
 作品よりも前に、自殺した人間の関わっている作品、という烙印が押されてしまい……押したのは自分だけれども……素直に楽しめなくなっている。明るかったり、希望に満ちた作品であればあるほど、自殺の影が忍び寄ってくる。
 死なないで欲しかった、と言う権利が僕にはない。何もできないし、苦痛の1パーセントも引き受けられなかったし、今更そんな言葉を投げても死者の腹を蹴り飛ばすようなものだとも思う。いい作品を作れるのに、いい演技ができるのに死ぬのはもったいないというのは、それができなくなったら生きている価値がないということの裏返しでもある。残酷な言葉だ。
 無責任な立ち位置にいて、苦しみの1パーセントも担えないのに、無責任なことは言えない。言っても自殺したがっている人には届かない。でもなー。無責任だってことがわかっていても、僕は自殺サイトで見つけた「上手く言えないけれども、死なないでください」ってセリフ以外に言える言葉がない。ほんとうにうまく言えない。