壁に叩きつけよう! ポリティカルイデオロギーオンライン!


 本日紹介する新作SNSゲーム、ポリティカルイデオロギーオンライン(以下PIO)は、世界的に流行していているクソゲーだ。これは自陣営と他陣営に分かれ、互いを誹謗中傷し合って自陣営の意見を押し付けあうという限りなく非生産的なゲームである。
 日本では保守陣営とリベラル陣営に分かれて争うのがスタンダードになっており、歴史問題、エネルギー政策、憲法などをバトルフィールドにして、日夜激しい戦いが繰り広げられている。言うまでもなく不毛極まりないゲームなのだが、妙な中毒性があり多数の廃人を生み出している。
 たとえば教育勅語バトルフィールドでは、「教育勅語とは近代日本を作り上げた素晴らしい思想だ」と言う右側と、「天皇への服従を押しつけて日本を戦争へと駆り立てた原動力だ」と主張する左側が互いに殴り合っている。ゲームの最終目標はそれぞれが理想とする世界を築きあげることだが、まだ誰もゲームをクリアしたことがないという由緒正しきクソゲーである。

◆ステータス

 このゲームをプレイヤーには、それぞれ知能レベルと論理レベル、知識レベル、影響力レベルなどが設定されている。
 様々なテクニックを駆使してノンポリを自陣営の色に染め上げていき、勢力を拡大するのが何よりも重要である。必ずしも高い知性や道徳心が求められるわけではなく、むしろそんな能力に恵まれていないほうが、思い切ったラフプレイを敢行しやすいのが特徴だ。どのようなプレイヤーにもPIOを楽しんで欲しいという設計者の配慮を感じるゲームデザインである。貧乏で学歴が無く誇れるものが何一つとして無くても、PIOは楽しめる! 持たざる者を極端に偏った思想に傾倒させるのもPIOでは立派なテクニックだ。
 ここ数年間はスマートフォンの普及にともなって、インターネット上の至るところでバトルフィールドが形成されているので、目にしたこともある読者も多いだろう。
 twitterのプロフィールが「日本を愛する普通の国民です」や「反原発!反TPP!打倒安倍政権!」だったりするのは、彼らがPIOプレイヤーだからだ。

◆「思想ウェポンを装備して殴り合う」

 思想ウェポンシステムが、PIOの大きな特徴だ。
「キリスト教」「イスラム教」「右翼」「左翼」「資本主義」「社会主義」などの豊富な思想ウェポンがPIOには用意されている。「キリスト」と「資本主義」を同時に装備すると『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』などの相乗効果が得られる場合もあるし、「東南アジア」+「社会主義」からポル・ポト政権を合成できたりするので、実際のウェポン数は無限であると言えるだろう。
 さて、PIOに巻き込まれた初心者の場合は、どの思想ウェポンを装備するべきか迷うかも知れない。これまでの人生でドロップした思想ウェポンを、何の疑いもなく装備し続けている場合も多いだろう。しかし、ひとつの思想ウェポンばかりを使い続けていると原理主義化が進んで、攻撃力が高くなる代わりに視野ステータスが低下してしまう。
 そもそも初心者に向けて思想ウェポンを配るような人間は、積極的に自陣営の戦力を増やそうと活動しているため、渡された思想ウェポンを無闇やたらに装備するのは危険がともなう。思想ウェポンが呪われている場合には死ぬまで手放せなくなることも多い。
 筆者のおすすめは、メディアリテラシー系スキルにステータスを全振りである。特にメディアリテラシー系スキル「教養」「常識」「論理的思考」「理系知識」「文章読解力」は、これからのPIOライフを大きく左右するものだ。
 これらのステータスが著しく低い場合には、他者の思想ウェポンの影響を受けやすくなってしまう。メディアリテラシー系スキルを上げておけば、得体の知れないtwitterユーザーが叫ぶ「【緊急拡散!】フクシマ原子力陰謀の全容(アメブロ)」、「人工地震兵器は政府利権保護のために隠蔽された!」あたりの妄言を無効化できるようになる。
 RPGで例えると、防御力を高めて、状態異常を防ぐアイテムを装備するようなものだと考えればまず間違いはない。
 ただあまりにも懐疑的なものの見方に慣れ親しんでしまうと、斜に構えるというステータス異常が発生する可能性もあるし、日和見主義に徹するとどの陣営からも敵扱いされてしまうのがデメリットと言えるだろう。
 参考までに筆者が愛用しているスキル構成は「シモーヌ・ヴェイユ」「禅」「チベット仏教」「まんがタイムきらら」だ。
『安定だけが力を砕き去り、力を無とする。社会秩序とは、さまざまな力の安定にすぎないのかもしれない』『社会がどちら側において安定を欠いているかを知ったならば、軽すぎる方の皿に分銅をさらにのせるためにできるだけのことをしなければならない。その分銅が悪であったとしても、安定を取り戻すという意図でそれを扱うならば、おそらく自分を汚すことはあるまい』(『重力と恩寵』ちくま学芸文庫 279p)である。
 なぜ筆者がこのような文章を書いているのかというと、右と左から思想ウェポンによる攻撃を受けたからだ。酒の席で人畜無害そうなおじさまから、「ネットで政治の勉強をしているんだけれどね、今の憲法ってのはGHQの占領政策の一環なわけだよ」と言われたり、左側の人から「自民党は不正選挙をしているに違いない」と主張された状態に陥ったのが原因だった。
 筆者は筋金入りの日和見主義者であるので、「ま、まぁ……今の日本もアメリカ合衆国日本州みたいなもんっすね……」とか「不正選挙かどうかはわからないっすけど、与野党のバランスが取れている方がいいっすよね……」と言わざるを得なかった。
 筆者ははからずしてPIOに巻き込まれたのだ。
 PIOは完全にクリア不可能な膠着地点に入り込んでいた。建設的な対話ではなく、不毛な争いだけが続いている。これまでに私はPIOを終わらせようと思ってきたが無駄だった。この文章も中立を装っていながら、PIO中庸主義者のプロパガンダなのではないのか? 私たちは自分たちにとって都合のいい概念を他者に吹聴するだけの、文化的遺伝子(ミーム)の乗り物に過ぎないのではないのか?
 自分自身で冷静に思考しているように思い込んではいるが、なぜ我々はある思想を信じているのではなくて、信じさせられているのではないだろうか? PIOの解説を書くつもりだったが、もう何が書きたかったのかわからない。
 頼む。聞いてくれ。まだPIOプレイヤーではないそこのあんただ。このPIOにハマると、私たちは無意識のうちにこの世界を敵と味方、白と黒、正解と間違いという単純な枠組みでとらえるようになってしまう。でも私にはどちらが正しいのかわからなかった。政治的な中立を装ってはいるが私たちは完全な中立にはなれない。まんがタイムきららMAXを定期購読している時点で、私らは思想的に偏っているからだ。
 私たちがやっていることは、子供にコーランを暗唱させるタリバンと代わりがない。自分の価値観にとって都合のいい人間を生み出すのは、PIOの基本戦略であるのだから。
 私はPIOを辞める。小難しい話はしないで、お花さんと小鳥さんたちと戯れて生きていく。それはまだ世界が一つだった頃だ。まだPIOのベータ版がリリースされていない時代だ。私はこれから、そこに向かうんだ。おはなさんもことりさんも、みんなおともだちだよ☆