能登麻美子改憲草案について
おれも改憲草案を考えたから、国会で議論してくれ。
トップダウン方式で改憲するのではなく、ボトムアップで民衆の知恵を積み上げていくが民主主義というものだ。「護憲派は反対ばかりで対案を出さない!」というのが保守派の言い分だが、その批判には一理ある。自分自身の手で、新しい価値を築き上げていくのが国民主権だ。努力を放棄して、反対と叫び続けているだけでは国民の義務を果たしているとは言えない。よっておれは自分自身の手で改憲草案を作り上げることにした。
それが「日本国憲法お姉ちゃんが、あなたの人権を守るよ☆ボイス・バイノーラル(CV能登麻美子)」だ。
この新憲法の画期的な点は、能登麻美子ボイスが人権理念が優しく語りかけることにある。
「あなたがどんな思想や信仰をもっていても、お姉ちゃんはあなたのことがだーい好きだよ☆ もしそれが理由であなたを悪く言ったり、差別するような人がいても、お姉ちゃんはぜったいにあなたの味方だよ! お姉ちゃんにまかせて! あなたの人権をふみにじるようなわるい人は、お姉ちゃんが懲らしめてあげるから♪ だからあなたは悪くなんてないんだよ☆」
全編、能登麻美子の癒やしボイスで人権理念が優しく囁かれる。
「ね? お姉ちゃんといっしょに、人権を行使しよ? しあわせになろ? あなたはこれまでに人権が踏みにじられて、それで自分には価値が無いって思っているけれども、そんなことないよ。あなたは誰よりもすてきだよ。幸福追求権っていうと少し難しいかも知れないけど、あなたは幸せになっていいんだよ。他の人や、あなた自身が、自分は不幸なままでいいんだ、って諦めていても、お姉ちゃんはあなたが幸せになって欲しいなって心の底から思っているよ。ね? だから、私と一緒に幸福追求権を行使しよっか?」
このコンセプトに達したとき、おれは日本国憲法や世界人権宣言に対して、無限の姉(あね)みを感じた。姉みとは、たよれるお姉ちゃんから発せられるオーラである。政治思想を超越し(脱線とも言う)、無機質な法律の文章は血の通ったボイスになった。
保守勢力は美しい日本国憲法を作らなければならないと主張する。翻訳調で自然な日本語ではない。多様な解釈を許す文章が不要な神学論争を生んできた。これらの欠点を直し、真に美しい日本語で書かれた憲法に変えなけれはならない、と。しかし何を持って美しいとするのかには、様々な基準がある。もともと日本には文字がなく、漢字文化圏からの借り物で成り立っていた。その後にひらがなとカタカナが成立したが、原・日本語は文字を持たない言語だったという歴史的経緯を踏まえる必要がある。文字として書かれた言葉ではなく、日本語はもともとは声として存在していた。
声といえば声優であり、能登麻美子である。美しい日本語を求める保守派と、人権を重視するリベラルの間でも妥協点を探れる。それに能登麻美子の日本語が美しくないというのならば、この世界でいったい何を美しいといえばいいのか。
なぜこのようなコンセプトを抱いたのかには理由がある。
おれは安倍総理の所信表明演説を見ながら、もう片方の耳で「お姉ちゃんが全肯定してくれるボイス」を聞いていた。
このボイスではおねえちゃんがおれのことを肯定してくれる。「こわいものから、おねえちゃんが守ってあげるよ。だから怖がらなくていいんだよ。おねえちゃんはあなたが頑張っているのを、ちゃんとみているよ。おねえちゃんはあなたのことがだーい好きだよ☆」というような内容のボイスだ。
つまりおれは疲れていた。18禁のアダルトコンテンツが売られている場所で、このような精神療法みたいな作品が売られている。オタク界隈も極北に足を踏み入れると、12歳の女の子をママと呼ぶ文化が発達している。
一方で日本国首相は「ミサイルなんか怖くないよ。私が全力を尽くして、日本人の安全と生活を守るよ。だから安心していいよ。あなたは駄目な子なんかじゃないよ。失われた二十年と言われて景気が低迷しているけれど、本当はやればできるよ☆」と語りかけていた。幻聴だったのかもしれないが、だいたいこんなことを言っていた。
これは所信表明演説などではなかった。日本国首相が国民を全肯定してくれる所信表明ボイス(CV安倍晋三)だった。少なくとも構造的には、おれが聞いていたおねえちゃんボイスと大差は無かった。つまりもう日本人は経済的にも精神的にも限界だった。
リベラル知識人が自民党改憲草案の瑕疵や危険性に警鐘を鳴らしているが、安倍晋三が戦っている次元は彼らとは異なっている。立憲主義や法治主義、民主主義的な手続きによる国家運営という視点にとらわれている限り、リベラルと野党は保守勢力と同じ土俵に立つことすら叶わない。
どうすればいいのかは明白だ。
立憲民主党は「立憲主義と民主主義が、あなたを全力で守るよボイス」を出し、共産党は「おしごとおつかれさま。今日もおしごと中につらいことがあったの? でもおねえちゃんにまかせて! おねえちゃんが共産主義革命を起こして、あなたの職場にいるわるいこたちを、みんなやっつけちゃうんだから」といった主張を有権者に伝えられるようにならなければならない。
我々はジョージ・オーウェルの『1984』が頻繁に引用されるような不幸な社会で暮らしている。これはおにーたま(Big brother)に支配された世界の話だ。おにーたまに対抗しうるのはおねえちゃんしかない。
しかし数少ない問題点がある。おれの数少ない心のよりどころである同人音声市場が、政治プロパガンダの新たな戦場になってしまうことだ。そうなれば必然的に声優がAlt-right運動に利用されるのは避けられないだろう。
思想統制が調教催眠音声の手法を手に入れたときに、それは民主主義社会にとって看過できない危機となる。
人間には調教されたいという欲望がある。自由を得ても、それを十分に活用できるほどに成熟していなければ意味が無い。
全てが自身の判断に委ねられている。それと同時に、全ての責任を自分で背負わなければならない。
完全な自由に耐えられる人間はそう多くはない。誰かに決めて欲しい。選択肢の多さから生まれる煩わしさから解放されたい。自由から逃避したい。そういう心の弱さに、マゾ向け調教音声の魔の手は入り込んでくる。
一人の人間として二本の足で立つよりかは、四つん這いの豚として服従したい。考えなくてもいい悦楽、飼われる家畜のための幸福を、おれは否定しない。その先にファシズムが待っているとしてもだ。
このような人間の弱点を突くように、「朕には絶対服従なのですわ!」というマゾ向け調教音声がリリースされないとは限らない。ナチス・ドイツのゲッペルスは、当時の新テクノロジーであるラジオをプロパガンダ装置として利用し、独裁を盤石なものとした。アドルフ・ヒトラーが、第一次大戦と世界恐慌で疲れたアーリア人を全肯定するよボイスである。
声優の政治利用は、人類にとってはパンドラの箱を開ける行為なのかもしれない。テクノロジーが必ずしも人を幸せにするとは限らない。核分裂反応がチェルノブイリ原子力発電事故を起こし、アラブの春の引き金となった情報テクノロジーが政府が民衆の言論活動を検閲する道具になる。能登ボイスが人類社会を破滅に導かないとは断言できないが、美しい日本国憲法を目指すのならば能登麻美子という選択肢を外すことは不可能であろう。
ここでおれの改憲草案の骨格が出揃ったので、これをベースにして議論をしていく必要がある。本当に能登麻美子でいいのか? 憲法の文章を読み上げるのは水瀬いのりの声のほうが適任ではないのか? そもそも声優を政治利用するのは、政教分離の原則に違反するのでは? 日本国憲法ボイスを能登麻美子にすれば、否応なく彼女が天皇に匹敵する影響力を持つことになる。これは極東アジアの政情不安定化の要因になるのではないのか?
おれの意見に反対するのはたやすい。そんなものは非現実的だ、妹派の視点をないがしろにしている、NO MORE 姉! 能登麻美子改憲草案を許さない! 絶対反対!
しかし反対ばかりしていないで、ちゃんとした対案を出すのが筋というものだ。