アイカツの宇宙秩序(コスモロジー)・ドリアカ編


 アイカツみんなで賞をもらっちゃいまSHOWをみたのだが、控えめに言って天使たちの舞踏だった。動く宗教絵画だった。この世のものとは思えない芸術だった。曲が終わり、熱狂がさめないままで次々と新しいステージが始まる。アウトロが終わるとイントロが始まり、またアウトロが終わるとイントロが始まる。

音城セイラと劣等感

 自分では無い何か他者になりたがったり、人の持っている者をうらやんだりすることがよくあるのだけれども、それで自分の持っているものまで無価値に思えてしまうようになるとしたら、それは悲しいことだ。自分であることがどうしようもなく耐えられなくなるときがあって、それは輝いている他者の姿を見て、自分の欠落を思い知らされるような痛みう感じる。  もともと持っていたはずのものが途端につまらなく見えて、他者と比較した時の自分はなんて価値がないのだろうと思ってしまう。

人が活躍しているのを見ると、どうしても自分の劣等感が刺激されてしまって、内心穏やかではいられなくなる。与えられている時間は同じなのに、才能や環境や努力その他諸々の使い方によって、歴然とした差が出る。その先にあるのは、これまでもっと効率的に頑張れていたら、もっとマシな人間になっていたのでは?というどうにもならない後悔だけだ。考えるだけ無駄なことだとわかっているけれども、人生を効率的にやり直したい願望が生まれるのも珍しいことではない。
 このような劣等感と不健全な自己肯定感にまみれて生きてきたので、アイカツ第二期のドリーム・アカデミー編は心に刺さった。ドリーム・アカデミーはスターライト学園に落ちた生徒でもオープンに受け入れる。一方でアイドルとして才能がなくても、デザイナーやプロデューサーなどの他の道に転向できるような異なった道が用意されている。
 ドリーム・アカデミーに在籍する音城セイラは一度、スターライト学園に落ちている。何かとアイカツ主人公の星宮いちごに対して「あなたがドなら私はレ。あなたがレなら私はミ。私は上を行くよ!」というセリフを口にして、ライバル心を顕にする。ライブバトルを何度も繰り返すのだけれども、音城セイラは星宮いちごには勝てない。引き分けが続いて、明確な負けが明らかになったわけでもない。
 ただこのときのおれには、音城セイラの「私は上を行くよ」という言葉が、向上心から発せられたものであるというよりかは星宮いちごに対する劣等感の裏返しのように思えて仕方がなかった。

 アイカツには自己肯定の輝きがあふれる一方で、その裏側には自己否定の暗い影が忍び寄っている。女児向けアニメなのであからさまに描写されるものではないが、今の自分から変わりたい!という前向きな気持ちが、今のままの自分では駄目だという否定の危うさをはらんでいる場面が散見される。
 変わりたい、前に進みたい、自分を好きになりたいといったまばゆい感情は、扱いを取り間違えると自らを自己嫌悪の棺桶に閉じ込める呪いになる。ハッピィクレシェンドでは「前向きな努力は大切」と歌われるが、逆にいえば後ろ向きな努力が存在するという意味でもある。なりたい自分になるのが前向きな努力で、逃れたい自分から逃げるのが後ろ向きな努力だ。
 アイカツ二期ドリアカ編は、才能あるものたちの物語では無い。挫折を味わって自分を肯定できなくなった魂たちが、不健全な競争心と自己否定を乗り越えていく物語だ。そして戦って雌雄を決するのではなくて、優劣を競い合わなければならない世界の呪いから解き放たれるまでの話だ。

 自分の価値を、他者との競争のなかに見出そうとする。自分が自分の価値を信じられなくても、自分が他者を上回ることができたら、そのときには自分を肯定できるようになるのかもしれない。そういう幻想に囚われる。人から評価されたい、いいねが欲しい、誰かから認められたいという気持ちは、自分で自分を肯定できないことの裏返しのときがある。自分では自分を信じられないから、他者からの承認という不確かなものを求める。
 アイカツの目的はライバルに打ち勝つことではない。自分の内側に眠っている光を掘り起こす話だ。他のアイドルと自分を比較するのでは無くて、自分の内側から溢れ出るその光を責任を持って愛するということがアイカツ!だ。それがアイカツ世界の宇宙秩序である。他者に比べて光量が小さいことはたいした問題では無い。
 自分の内側から溢れる明かりを見出したときに、人はアイドルになる。