人間に、擬態するのは、もう限界。


 みなさまご存じの通り、おれはめんどうくさい人間である。どのような面倒くささかと言えば、人の気持ちを推し量れない鈍感さで他者を不快にさせるが、自意識が過剰かつ繊細で、ガラス細工のように脆い。つまり他人を傷つけるがその反動で自己嫌悪が加速する仕組みになっている。どうだ、面倒くさいだろ。
 その面倒くささを隠蔽して、対人コミュニケーションスキルを身につければ、おれは人間として生きていけるのではないのか。当時、おれは囲碁の定石を丸暗記していた。それと同じ要領で対人関係そのものを定石化・マニュアル化すれば、人間に擬態してこの社会で楽に生きていけるようになるのではないのか?と思い至った。
 おれは「これで完璧!雑談術!」だとか「コミュニケーション力を上げる会話メソッド」だとか「人を動かす」といった類いの本を買い込んで、コミュニケーション能力を底上げしようとした。これでおれもコミュニケーションの達人だ!!

雑談本やソーシャルスキルトレーニングには、下記のようなテクニックが書いてある。
「相手のキーワードをオウム返しにする(やり過ぎは逆効果なので、オウム返しにも様々なバリエーションを用意しよう!)」「相手の話題に興味を持っているという意思表示をするために、適切に相づちを打とう!」「聞き上手に徹しよう! 政治的・宗教的な信念は、自分からは話さないようにしよう!」「天気や旅行、身の回りのこと、共通の人間関係など、雑談に使えるさまざまなトピックをあらかじめ準備しておこう!」
 このような数々の対人コミュニケーション方法を習得して、マニュアル化して、人間としての振る舞いを身体に叩き込んだ。しかし対人と名前が付いているものにろくなものはない。対人地雷に対人ライフル。対人コミュニケーション能力もそのひとつだった。

 人間の言葉を覚える代償に、おれは自分自身の言葉を失ってしまった。
 他者とのコミュニケーションが以前よりもなめらかになる一方で、おれはどうしようもない虚無感に囚われていた。
 こんなやりとり、全部自動化したい……。マニュアルどおりなんだから別に俺じゃなくてもいい……。ビッグデータとか深層学習とか人工知能とか駆使して、おれの代わりに他者とコミュニケーションを取ってくれ……。ここにいるのは俺じゃない。ただの機械仕掛けの自動人形だ……。おれは人間に擬態しているだけだ。人間の紛い物だ。人間の国で暮らせるようになった代わりに、声を失ってしまった人魚姫だ……。
 本気で自分と人魚姫の境遇を重ね合わせられる男性。ある意味SSRである。でも元はと言えば人魚姫を生み出したのはアンデルセンというおっさんなので別におっさんがおっさんに感情移入しているだけだから、正常かもしれないが……。

 おれは自分の心の在り処を失ってしまった。
 対人コミュニケーションのひとつとして、「感情を交えて相手の話にリアクションを返す」というものがある。「え? 怪我したんですか?(驚きながら) 大丈夫?(心配そうな素振りで)、ああ、大事に至らなくて良かったっすね!まじで!(嬉しそうなトーンで)」みたいな感じで話していく方法だ。
 これを多用しすぎたせいで、おれが本当に驚いているのか、人を心配しているのかが分からなくなってしまった。他者への配慮がおれの本心から出てきたものなのか、それともテクニック上で仕方なく心配している演技をしているのか、自分でも理解ができなくなってしまった。
「参考になりました!シェアさせていただきます(^^)」「本日はありがとうございました。また飲みにいきましょう!(^^)/」的な言語運用ができない。いや、やろうと思えばやるのだが、(^^)←この顔文字を使うのは抵抗感がある。これは2chでは他者を煽るときに使うものだと骨の髄まで染み込んでいる人間だった。
 俺は誰だ。いまここで人当たりが良さそうに振る舞っている人間はどこのどいつだ? マニュアルによって自動生成されたにせもののの人間ではないのか。
 むろん、付け焼き刃のソーシャルスキルを駆使して喋る人格は悪くはない。問題は声を出せずに死んでいく人魚姫サイドのおれの安否だ。
「自閉症スペクトラムのわりには、正常にコミュニケーションが取れてますね」と医者のお墨付きをもらうものの、それは俺が血反吐を吐きながら手に入れたものだ。おれが人間を振りをすればするほど、魂はすり減っていった。
 おれがにこやかな表情で前向きなことを口にするときは、目の前の人間に対して完全に心を閉ざしている。マジックポイントを削って、対人能力に変換している。わざわざリスクの高い発言をする意味は無い。面倒くさい話題には触れないようにして、あらゆる社会的な時事問題に対して距離を置き、安全な立ち位置を保ち、善人面を崩さない。そうやって不必要に波風を立てないように行動できれば、おれはもう少し楽に生きられたはずだ。
 だが、それはおれにとって緩慢な自殺だった。人間の擬態が上手くなればなるほど、おれは死んでいった。
 自我を押し殺して、空気を読み、和を保ち、決して周囲から浮き出るようなことをしない人格が手に入れば良いなと思っていたのだけれども、それを手に入れてもおれは幸福にはなれなかった。仮面を被っている間に、素顔と仮面の区別が付かなくなる。いつしか仮面が皮膚に張り付いて、人間に擬態しているときの顔が素顔になってしまう。
 このままではマニュアル化人格に魂を乗っ取られ、声を失ったおれは泡になって海に溶けてしまう。
 本来であれば、おれの心はおれ自身が守ってやらなければならなったのだが、おれは自分自身を否定した。闇に葬り去ろうとした。そしてこの世界はソーシャルスキルトレーニングやコミュニケーション能力の名のもとで、おれの魂を殺そうとしてくる。
 左利きの人間が右利きに無理やり矯正されるのと同じように、異なったコミュニケーション方法を持っている人間をマジョリティ側に矯正しようとしているようにおれには思えた。おそらくおれと人間とでは、コミュニケーションのプロトコルが違う。異なったコミュニケーションの形を受け入れないマジョリティ側の人間が、マイノリティ側のコミュニケーション方法を障害扱いする。そういう世界で暮らしている可能性はないだろうか?
 片子という昔話がある。人間と鬼の間に子供が生まれた。その子供を鬼の世界から人間の世界に連れ戻したら、最後には自殺してしまった……という救いようのない話だ。そしてこれはおれの物語だった。人間らしく振る舞うためにソーシャルスキルを学ぶというのは、人間の国で生きていくということとイコールだった。下手をしたらそのうちに自殺してもおかしくはない。
 このようなめんどくさい性格をしているおれが、百合漫画に耽溺するようになるのは時間の問題だった。百合漫画のなにがいいのかって、登場人物がだいたい生きるのが辛そうなのがよい。百合豚の多くは女の子同士の恋愛を外側から眺めているだけで幸せだと聞いたことがあるが、おれの場合は違った。百合漫画の主人公に対して、感情移入する。生きるのが辛いという一点において、おれ=百合漫画の登場人物であり、百合漫画の登場人物=おれ、だと言えた。
 あと腐女子のつづ井さんという漫画を読んでいたが、これって百合漫画よね……。同じ秘密を共有して生きている限りそれは百合漫画だ。記事の内容とは全く関係ないのだけれども……。

・アスペ力(ぢから)をとりもどす。
『アルペルガー症候群はどうして生きにくいのか?』という本に、「ソーシャルスキルトレーニングをやめたら、アスペ力が回復しました!」と書いてあった。これは病でも障害でもない。確かにソーシャルスキル云々だとか社会適応がどうのを度外視すると、サウスポーと同じおれたちのパワーである。
 言葉のキャッチボールとは程遠いコミュニケーション方法だ。例えるのならばボウリング玉を両手で持って、頭蓋骨を割りに行くような感じの言葉の使い方をしている。

 しかしおれは黙ったままで海の藻屑となるような人魚姫ではない。
 サイコパスの本には「サイコパスの人間はソーシャルスキルトレーニングや他者に共感するための訓練を、人を食い物にする技術として会得する」と書いてあった。なんかよくわからない理由で目からうろこが落ちた。精神病理のケーススタディについての書物を、暮らしの手帖や主婦の友と同じレベルの情報として扱っている気がするが、それはまず棚に上げておく。
 これまでおれは完全な人間に擬態することを目標としてきたが、コミュニケーション能力はただの道具だ。なにもそれと自分を一体化する必要はない。人間とコミュニケーションをするときには、適宜人間に擬態をして対応していくことにするが、これは一時しのぎだ。一時的かつ表面的な人間関係を切り抜けるために、人間に擬態するというオプションを手に入れたと考えればいい。
 問題は人間の仮面をどのようにして被ったり、取り外したりするかだ。
 昭和の仮面ライダーも、ショッカーに洗脳された改造人間でもなければ、普通の生活を送れる人間でもない。その正体を隠すために仮面を被って悪と戦う。555のオルフェノクもそうだけれども、人間に擬態して生きていかなければならない苦しみがすっごい共感できるよね。
 おれはどうやら映画を観るときに敵やモンスター側に感情移入してしまう癖がある。バットマンシリーズの「ダークナイト」では、ヴィラン視点でゲラゲラ笑いながら見ていた。人間殺す視点だ。相棒シリーズは本能的に水谷豊を権力側の敵だと思ってしまうのであまり好きではない。(こいつは容疑者を自白させるために椅子に縛り付けて、「爪が伸びていますね〜私が切って差し上げましょう。あ、切りすぎてしまいましたね〜」と言いながら、指を一本一本切断していくタイプのサド野郎だと思っている。)
 仮面ライダーアマゾンズを観ても、「やっぱり食生活を変えないと駄目だよな。動物タンパク質をとらないと」と思ってしまった。人間の肉を食わないと生きけていけなくなった怪物たちの物語が、仮面ライダーアマゾンズだ。
 仮面ライダーの話なのかコミュニケーション能力の話なのかわからなくなってきたけれども、つまりおれは生きるのが苦手だった。はやく人間になりたかった。そもそも人間に擬態するという発想をしている時点で、おれはまっとうな人間にはなれない。
 社会にも自分にも絶望して心を閉ざしていたが、オープンマインドの精神にもいろいろある。心の開閉をゼロか100か、白か黒か、完全に閉ざすか・窓も扉も鍵も掛けずに開けっ放しにするのか。このような極端な考え方をするのは認知の歪みに他ならない。インターフォン越しに会話をしてもいいし、不安ならチェーンロックをつけたままでちょっとだけ開けてもいい。
 心を開けっ放しにしたままだと精神を止むが、換気もせずにいると酸素が足りなくなって死ぬ。
 完全な人間になれないのなら、半人間・半怪人みたいなポジションでどうにかやっていくことはできないか。それが無理なら、来世はことりさんに生まれ変われると良いな♫(※結論がよくわからなくなってしまったので、雑な締め)