政治的な旗幟を鮮明にする話。


 残念なことに、ここでは政治と宗教の話をする。
 他人の政治的・宗教的信念に触れないままで、かりそめの人間関係を構築するのに疲れてしまったからだ。
 日本社会でつつがなくやっていくためには、政治的な旗幟を鮮明にしてはいけない。私たちは繰り返し、そう教えられて育ってきた。人との軋轢を最小限に抑えるために、自身の政治的・宗教的な立ち位置を隠して、当たり障りなく振る舞うのが社会常識だ。
 公の場でデリケートな話題を口にすると、十中八九面倒くさいやつだというスティグマを刻まれていきていくことになる。意見の違いを表面化させないように、政治宗教の話には触れないようにする。しかし、そうやって振舞っている間に、日常生活の中でアンタッチャブルな話題が増えていき、最後には何も喋れなくなる。

目の前の人間が与党支持か野党支持か、神を信じるのか無神論者か、改憲か護憲か。穏便な話が通じる奴か。どのような思想に傾倒し、どのような神を信じているのか。政治的中立を装っていても、実は過激思想に片足を突っ込んでいたりするのではないのかという、疑心暗鬼に苛まれながら生きていくことになる。それは私が望む社会の形ではない。
 もしなんからの信念上の対立が明らかになり、互いに自分の信念を変えるつもりもなければ、聞く耳も持たない、妥協点を探そうともしない。そんな人間関係であれば、今すぐにゴミ箱に投げ捨てて着信拒否にしてしまった方がいい。

 これから語るのは、主に言葉の話だ。言葉が異なった価値観を架橋するためではなく、互いを分断させる道具として使われている。そのような言葉に疑いを抱かずに使っている限り、私たちは言葉を交わすほどに相互理解から遠のいていく。
 私たちの世界に蔓延しているのは、下記のような種類の言葉だ。
 断絶の言葉、定型的な言葉、世界を単純化する言葉、顔のない言葉。
 これらの言葉は、私たちの世界観認識を荒く、貧しいものにしていく。見ているものを歪め、単純にし、矮小化し、現実とは似つかない幻影を生み出す。政治的・宗教的な議論をして、共通の基盤を生み出す作業に取り掛かる前に、まずは自分たちが使っている言葉に対して自覚的にならなければならない。
 原子力技術に対してどう思うか、戦争責任をどう捉えるのかという込み入った話をするのは、その後だ。

※センテンスによって僕とおれ、私が混在しているのは仕様です。文章を書いた時のテンションで変わります。予めご了承ください。

断絶の言葉

 まず第一に、敵か味方かでこの世界を分断するような視点を捨てる必要がある。
 この世界を白と黒に色分けをするような言葉が日常的に使われていることに、僕は強い危機感を覚えている。「我々は正義で、あいつらは敵だ」といった断絶を生む言葉が広がっていって、対話を重ねれば重ねるほどに「こいつらとは理解し合えないんだ」という確信だけが深くなっていく。
 距離を縮めるためではなくて、お互いの不和を悪化させるために言葉が使われている。それは政治主張の右左に限った問題ではなくて、誰しもが断絶の言葉で喋っている。まずはこの断絶の言語を捨て去ることがおれの政治的スタンスの第一歩となる。
 正論を主張した結果としてお互いの溝が深まるような言葉や、自分とは意見の異なった他者を排除するための言動、相手への誹謗中傷やレッテル貼りなどの、何も喋らないほうがいいと思えるような言葉遣いが、断絶の言葉だ。
 政治に対して何かしら意見を述べようとした時に、僕たちは無意識のうちに他者との断絶を広げるような言葉を選んでいる。自分たちは正義だ。間違っているのはお前たちだ。間違っている人間に対しては、デマや汚らしい罵りも、蔑称も、どのような攻撃も許される。
 保守とリベラルのどちらの陣営に属していても、自分の正しさを主張して、それ以外の異物を否定することしかできない。
 僕が一時期、政治経済の話を見聞きできなかったのは、それが互いの相互不理解を深めるためのものだったからだ。どちらかの陣営に属して、敵対陣営を攻撃する。そんなものに関わるぐらいならば、政治的アパシーを選びたいと思ってしまうぐらいには、僕たちの社会に流通している言葉は醜悪な代物だった。
 僕たちは完全ではない。それなりに筋の通った部分もあれば、適切ではないところもある。それは相手も同じで、100%正しいものも無ければ、完全に間違っているものも存在しない。お互いが持っている、それなりに正しい部分を寄木細工のように組み立て合うプロセスの中にしか、断絶の言葉を越えうるものは無いように思う。
 話し合えば理解し合えると信じられるほど、僕は純粋ではない。対話を繰り返したあとで、自分たちは理解し合えないことが明らかになるだけなのかも知れない。もしそうなのだとしたら、僕たちは僕たち自身の間にある溝をこれ以上深くするような振る舞いや態度、言葉を捨てる必要がある。

定型的な言葉。

 おれは政治の話が嫌いなのではない。嫌いなのは定型句になった言葉で、誰が喋っても変わりがないようなコピー&ペーストの主張だった。残念なことに現代のインターネットには既読スキップも無ければ政治的発言ブロッカーもない。同じような話に出くわすたびに、その言葉の正否よりもコピーアンドペースト政治思想人間に対する嫌悪感が強くなっていく。
 ある特定の政治思想に関する言葉に触れたり、それを自分の口から発声すると、この言葉が寄生虫みたいに自分の脳味噌を食い荒らしていく感じがする。自分で考えたことではない、出所不明の言葉が、さも自分自身の所有物であるかのように脳内に奇声する。最後には奇声された言葉を、自分自身のオリジナルな主張だと錯誤して、寄生虫に操られているのにも気が付かないで、所構わず政治的な主張をし始めるようになる。それはおれが望むところではない。
 どうしてあらかじめ設定された論点で、前もって準備された切り口とフレーズを使って、政治を論じなければならないのかが理解できなかった。おれが政治経済について嫌悪感を示すのは、その内容ではなくて老朽化した視点だったり、語り口の方だ。「アベ政権を許さない!」とか「○○は反日だ!」とか「Times紙は新アサド政権だ」とかいった、この世界を単純な言葉でぶった切るような言葉遣いが溢れている。
 ネット上に流通する言葉に触れれば触れるほど、おれたちの視点と言葉は均質化していって、誰が何を喋っても似たようなことしか言えなくなる。まるで全員がユニクロのフリースを着ているみたいな嫌悪感を覚える。フリースの品質が良いのか悪いかと、皆が同じ服を着ているのかどうかは全く別の問題だが、それをごちゃまぜにしてしまう。ユニクロのフリースが嫌なのか、それとも何の批判的精神も持ち合わせずに同じ格好をしてしまう自分たちの行動パターンが嫌いなのか分からなくなってしまう。おれたちを取り囲んでいるのは、これと似通った問題なのかも知れない。

 そういう意味で、SNSというプラットフォームは言葉を定型句に近づけていく作用がある。
 常々からおれは、twitterは人の知能指数を20ぐらい下げる。また政治的発言をする場合にはさらに30下がると主張している。その結果として言葉と視点は単純化し、現実を斧で荒く切断するような言葉が流通するようになる。この世界を140文字に収まるように解釈してしまうという誘惑に常に晒されている。

 twitterは自分の頭がよく思えて、反対に他者が馬鹿に見えるような作りをしている。自分は文字制限にとらわれずに思考できるが、他者の思考は140文字に収まっている。この非対称性ゆえに、自分と意見を異にする相手の場合、氷山の一角しか見えないままで否定することになる。
 表面しか見ていないと、他人が馬鹿に見える。海面に浮かんでいる氷山の一角だけを見て、それが全てだと勘違いをする。自分の知らない分野であればあるほど、海中に隠れている氷山の存在に気がつけない。
 しかし他人が馬鹿に見えるときは、おれもまた他人から頭が悪く思われているに違いない。
 何十年も国際情勢を分析してきた知識人の言葉と、その場の思いつきで語っているおれのような人間の言葉が、140文字しか伝えられない空間では同じ価値を持ってしまう。言葉は細切れになり、都合のいい部分だけがリツイートされるとなると、長文で真に力を発揮するタイプの知識人は扇情的な言葉には勝てない。民衆のルサンチマンと感情と、短絡的な価値観を肯定するおれのような反知性野郎の独壇場である。
 というか、なんでリベラル派の知識人は未だにtwitterを使っているの?という単純な疑問がある。わざわざ相手と同じプラットフォームに立って、同じ言葉を使っている。SNSに最適化された定型的な短文で自己主張をしているが、単著でぶん殴って、細切れの文章しか吐き出せないインターネットの有象無象を圧倒的な知で押し潰すのがインテリの役割では?と思う。

世界を単純化しない態度

『脳の右側で描け』という本はただの絵画技法書ではない。
 私たちの脳はこの世界を記号で単純化している。リンゴの絵を描くときにも、目の前のリンゴを見ているのではなくて、頭の中にある記号化されたリンゴに引きずられている。頭の中にある「赤くて、丸い」記号的なリンゴから逃れて、目の前にある言葉には還元できないリンゴそれ自体を見なければならない。そういう内容の本だ。言葉では伝えられないので、まずはこの本を読んでくれとしか言いようがない。
 どうしてこの本について話すのかというと、おれたちはこの世界を不当な方法で単純化しているからだ。あらゆる情報が過剰になると同時に、個人に認知能力では社会問題の全体像を俯瞰できなくなってしまった。もし可能だとしても、多大な労力と時間を浪費してしまう。もうおれたちはこの世界の複雑さに耐えられない。
 社会問題を考える際に求められる前提知識のハードルがいきなり上がってしまった。原子力発電やエネルギー政策について考えるときには理系の知識や教養が必須になる。経済、歴史、地政学、憲法など、議論の基盤となる共通知識が欠落して、客観的な事実を積み重ねていくという議論に必要な土台そのものが機能しなくなってしまった。
 その結果として、議論の前提となる知識を共有しなくても社会情勢について語れるような風潮が生まれた。
 理系の知識や教養が必要な問題に対しても、そんなことを勉強している暇が無いから、理系的な教養が無くても語れるようにする。科学的知識が欠落した反原発ムーブメントが生まれ、自分にとって心地よい世界観だけに閉じこもった歴史修正主義が幅を利かせるようになった。例としてあげたこの2つは政治的には対極の位置にあるけれども、思考停止した結果として生み出されたものとしては瓜二つだと思っている。

 世界が複雑になればなるほど、おれたちは見通しのいい単純な世界観モデルを採用したがる。ある特定の悪を排除すれば、私たちの世界は以前のような世界に戻る。ある単純な課題を達成できれば、すべての問題を解決できる。そういう風に思考停止に陥って、世界を矮小化してしまう。
 少なくとも私は思考停止か、それに等しい状態に陥っている。自分では思考停止したくないと思っているが、時代遅れのCPUを100%で回していても、プログラムが要求する処理をまったく完了できていない。この文章は思考停止している他者を批判するものではなくて、自分の頭が冷静さから程遠い状態にあることを認識するために書いている。
 思考停止かそれに等しい状態に陥った脳みそが採用するのは、「この世界を自分にとって理解しやすいものへと矮小化する」という戦略だ。問題を始めから無かったことにするのか、もしくは自分の頭に負担がかからない範囲で、問題を意図的に矮小化するという落とし穴に嵌まる。
 ただ残念なことに、言葉の定型化と世界の矮小化は相性がいい。言葉が定型化すると同時に世界は矮小化し、世界が矮小化するとそれに伴って言葉も痩せ衰える。その無限ループに巻き込まれている。

単純化の危険性

 「若者はもっと政治に関心を持たなければダメだよ」と言われたときに、「そんな空気の濁った場所には近寄りたくない」と反発するような奴は正常な感性をしている。事実、政治経済クラスタの空気は腐っているからだ。一方的にそれぞれの主張を吐き捨て、自分と同じ価値観の仲間にしか届かない言葉を喋り、そのことを疑問に思わないまま何年も同じことを続けている。まともな言語感覚を持ち合わせた人間なら、思わず吐きたくなるに違いない。
 しかし政治経済で使われている言葉が歪んでいるのではない。私たちが使う言葉それ自体が使い物にならなくなっていて、言葉に頼らざるを得ない政治経済という分野で、その病状がことさら強く発症しているだけに過ぎない。政治や民主主義の危機なのではなくて、自分たちが使っている言葉それ自体の問題だ。
 私たちの言語世界は「単純化する力」に晒されている。
 本当なら白黒を8色に、16色に、256色に……と精緻化していくために言葉を費やさなければならないのだけれども、実際にはこれとは正反対の力が働いている。世界を単調な色彩に置き換え、複雑な色の混じり合いを単色で塗りつぶして、最終的には白と黒の二色に近づけていくような言葉の使い方をしている。
 現在の日本で流通している言葉を読み聞きしていると、どうしても色数の少ない言葉を避けては通れない。1600万色を256色に、256色を16色に、16色を白黒に単純化していくような力が働いている。私が政治の話題に関わり合いになりたくないと言うのは、そこで使われている言葉の色数が極端に少ないように感じられるからだ。

言葉の指紋。

 改憲や廃炉だとか財政健全化と言った話は、社会に流通している言葉が健全になったあとにすることだ。そのためには自分たちの言葉に固有の指紋を取り戻さなければならない。
 指には指紋があり、声には声紋がある。それと同じように言葉にも、その人自身の個性を強く刻印する生の言葉がある。だが定型句を口にすることで、私たちがもともと持っていたオリジナルの感情が均質化されて、指紋のような言葉の固有性は失われてしまう。誰が言っても同じようなことしか言えなくなる。
 おれはある酒の席で、反原発おじさんと出逢った。twitter風に言うのなら反原発・即廃炉・安倍政権即時退陣!みたいな人だったのだが、よくよく話を聞いてみると、家畜用の牧草が放射能で汚染されて高い金を出して外国から輸入しなければならない。このままでは生活ができないというようなことを聞いた。おれはそれまでその人が語っていた定型的な反原発の言葉よりも、そっちの個人的な事情の方に言葉のパワーを感じた。けれどもそれが単純な反原発の言葉に置き換えられるとき、おっさんの持っていた生の感情は消し去られてしまう。
 誰しもが抱えているはずの言葉の指紋が、個人的な事情が、感情が、定型的なフレーズによって押しつぶされて死んでいく。聞き飽きた言葉にも、もともとは言葉の指紋があったのかもしれない。でもSNSを通して聞こえる声には、その指紋が完全に消し去られている。

 定型的な言葉の切れ端だけで、他者を単純な鋳型に押し込めるわけにはいかない。そう反原発おじさんから教わった。
 ある特定の政治的な見解だけで、他者を乱暴にふるい分けたくなるときがある。「まとめブログを引用しているからこいつは自民党支持のネトウヨだ」とか、「こいつはヒステリックな左翼だ」とか、他人を勝手に既存のカテゴリーに分類するような傾向が自分にはあった。それは自分の思考に掛かる負担を軽減したいだけで、正しく世界を解釈しているわけではない。
 そのような雑な思考を繰り返して、「つまりお前はこういう人間なんだね」と決めつけるのはあとで大きなしっぺ返しを食らう。
 そうなるとおれは自分の頭の中に、想像上のネトウヨだとか左翼を作り上げるようになる。それは人間ではなくて、極端に記号化された想像上の生き物だ。想像上の邪悪な安倍晋三、想像上の反日勢力、想像上の貪欲で自己中心的な中国人、想像上の反知性的alt-right支持者、想像上のヒステリックで感情に流される反原発派の左翼、想像上のマナーの悪い高齢者に、想像上の若者。
 それぞれが肉体と喜怒哀楽を持った個人であるという事実を忘却して、自分の頭の中にしか存在しない想像上の何かと戦い続けることになる。

おしまい。

 当初、私は自分の政治的なスタンスについて書こうと思っていたのだけれども、その前に使われている言葉をどうにかしなければならないと思ったのでこのような話になった。この文章を読んで「で、結局どちらを支持するの? 味方なの? 敵なの?」と思った方に言いたい。
 そういう風に世界を敵と味方に切り分けて、単純化するような思考を拒絶するためにこの文章を書いている。
 強いて言うのならば、お腹が減るのと睡眠時間が足りないのと十分な時間が無いのはよくない。空腹のままだとイライラして人を傷つけるし、睡眠不足のままでは判断力が鈍る。
 まずは美味くて安い飯を食べて、ぐっすり眠ることから始める。太陽の光を浴びる。悩んだりするのはその後だ。にゃーん!! それがおれの信じている政治思想だ。