自分自身で世界の形を作っている。


 パソコンで映像や音楽を扱うときにはコーデックに頼る必要がある。
 あるデータを読み込むときには、符号化されたデータを解釈するためのプログラムを使う。映像を扱う場合には膨大なデータを圧縮して容量を軽くして、そのデータを再生するときには圧縮されたデータを元通りにする。厳密な定義とは違うのだけれども、複雑なものを扱いやすい形に変換したり、読み解いたりする仕組みだと個人的には思っている。
 データを扱う時だけではなくて、この現実社会を解釈するときにも私たちは似たような方法を用いている。現実に存在しているデータは複雑で、そのままでは人間の脳で処理できない。そこで自分の脳が受け入れられるように現実を圧縮したり、単純化して理解する。そのときにどのような方法で世界を解釈するのかというコーデックが存在しているように感じるときがある。

ある出来事を保守的な世界観でデコードするのか、あるいはリベラル的な価値観で読み解くのか。それは自分がこれまで選んできた価値観、読んできた本、得てきた知恵、出会ってきた人に大きな影響を受ける。自分が観ている世界は、ほんの少しの初期条件の変化で歪んでしまうぐらいに脆いものなのかも知れない。

 この世界を解釈する方法は幾通りもあるのだけれども、そのうちたまたま生きていく間に形成された解釈方法で、この世界を歪めて見ていると思うようになった。自分が解釈した現実が絶対的な正義であり、それ以外の受け取り方をしている人間は間違っている……と言うつもりはない。
 偏見や先入観でもって、この世界を自動的に、無意識に解釈している。そして、自分にとってそれが真実だと納得できるような世界観解釈をその都度生成する。その世界観にそぐわないものが紛れ込んできたときには、世界観解釈の整合性を保つために、なかったことにしたり、イレギュラーなものとして扱う。
 これまで自分が頼ってきた解釈の仕方では、この世界を理解できなくなった時に私たちはフリーズしたり、不合理な解釈方法に頼ってしまう。

 その中でもっとも私たちを危険に晒すのは「この世界の出来事には因果関係がある」という認知バイアスだ。公正世界仮説とも呼ばれている。
 Aが原因となって、Bという結果が起きる……という秩序の保たれた世界を私たちは居心地がいいと思う。そして何が原因になってある出来事が起きたのかが理解できなくなったときには、無理矢理にでも理由を探そうとする。「怠け者だったから生活保護に頼ることになったんだ。自業自得だ」、あるいは「男を誘惑するような格好をしていたから性的被害に遭う」といった**〜だったから**の思考法に絡め取られている。
 これは理不尽に起きた出来事に対しても、因果関係のある理由や原因を探してしまう。たまたま、なんの理屈もなく、理不尽に生起した出来事を、私たちは受け入れがたいと感じてしまう。旧約聖書のヨブ記でも「どうして神は私をこんな理不尽な目に遭わせるのか?」と疑問を投げかける。人はそこに因果関係を、善行には報酬を、悪行には罰を期待するような認知バイアスが働いてしまう。