他者から需要されなければならない、の呪い


「あなたは他者から需要されるようにならなければならない」という呪いの言葉を、僕たちは絶えず刷り込まれている。
 あなたは商品としての価値を高めなければならない。あなたは他者から評価されるような好ましいコンテンツにならなければならない。あなたは陳列される商品にならなければならない。その言葉は僕たちにこう語る。

人間を商品に変えてしまう圧力に晒されていて、それに抗うのは容易なことではない。
 自分がどう思うかという素朴な感情よりも、他者から見てどのように評価されるのかを最優先にして考えなければならない。常に自分の発言や行動がマジョリティに沿っているのか、人からどのように見られているのか、奇異な行動をしていないのか、社会正義に合致しているのか。そうやって周囲の空気を読んで、突出しないように振る舞う術を覚えないと、余計な批判を招いてしまう。
 逆に他者の欲望に沿って行動したときには、承認や金銭的な対価を得られる。SNSの場合だと、他者からの評価が数字になって、自分の行動が簡単に査定される。
 他者による承認と批判。この2つのアメとムチを用いて、自分の思考や行動が調教されているような気がしたので、あまりSNSを使わないようになった。

承認貨幣
 SNSサービスは承認という貨幣を発行している。僕たちがコンテンツを投稿すると、その質に応じてLikeやfav、ハートマークなどの承認貨幣が付与される。SNS中毒になると、この承認貨幣を獲得するために無償でコンテンツを作成するようになる。無から生み出された承認貨幣を餌として与えられて、コンテンツを生み出す家畜と化す。
 そうなると自分を、他者から効率よく評価されるように変化させていくようになる。
 一時期、僕はSNS中毒だった。この空間にいると、何かしらの反応が無いと自分のやっている行動も言葉もすべてが無意味に感じられる。人から何かしらの反応を得て、初めて自分の言動に意味が生まれるように錯覚してしまう。
 他者からの評価や数字が気になって、何度も画面を更新する。わざと過激な言葉を使って、反応を引きずり出そうとする。他者から褒められたくて、反応してほしくて、エゴを満たしたくて、快楽に浸りたくて、承認の貨幣を求める。そんな時期があったのだ。
 それははした金ですらないもののために、自分を安く切り売りしているようなものだった。

 自分に自信がないときには、他者の反応にすがりたくなってしまうときがある。自分は自分を信じられないけれども、他者がそれなりに評価してくれるのなら間違ってはいないだろうと、そう考える。しかしそれは自信を他者にアウトソーシングしているだけで、健全な自己肯定からは程遠い。

 自分が他者からどのように評価されるのかについて、簡単にスコアが出てしまう世界だ。
 他人から評価されるかどうかは知ったことではない。自分は自分のペースで淡々とやる。他者が自分のことを評価しなくてもいい。この世界でたったひとりでも、自分だけは自分のやっていることを肯定する。そういう信念を抱くのが難しくなってしまった。
 ブッダが言うところの「サイのようにただ独り歩め」では無いけれども、他者の視線を気にして右往左往しがちになってしまうのは好ましいものではない。
 人からどう見られたいのかに合わせて、自分の印象を自由自在に操作する。それは言葉も写真も、経験も人生も何もかもを、身を着飾るアクセサリか衣服のように扱っているのに等しい。それで人から評価されるのならば満足できるかもしれないけれども、身の丈に合わない自分を演じたままだと魂が締め付けられて息が苦しくなる。

 自分は他者から見てどう写っているのか? こんなことを言ったらどう思われるのだろう? どうすれば自分の印象を好ましいものにできるのか? 自分は他者から求められるような、好ましい人間になれているだろうか?
 下手をすると自分がどうなりたいのかよりも先に、「他者にとっての自分」を最優先にしてしまう。人から評価されるためにはは、自分を消費されやすいコンテンツに変えるのが手っ取り早い。多面的な側面を持った生身の人間ではなくて、消費されやすいキャラクターとしての自分を作り上げる。
 魚から骨を取り除いて食べやすくするように、他者が不快に感じるであろう異物を自分から消し去っていく。他者にとって自分が完全に無害化されるまで、徹底的に自分を自分以外の誰かとって好ましい生き物へと変えていく。
 それはもう自分ではない。人間ではない。ハローキティや地方のゆるキャラや切り身ちゃんと同じような、ただのキャラクターだ。切り身ちゃんはかわいいよ。
 他者から何かしらの反応があること自体は悪くはない。問題はその間隔が異様なまでに速くなっていることだ。スマートフォンの通知欄には何かしらの反応が表示される。それはすでニコチンやアルコール、麻薬と同じ依存性のあるシステムになっている。

 自分もそろそろSNSに復帰して、人間らしく振る舞わないとな……と思って、SNS愛され文章術・炎上を回避するアカウント運営テクニック!みたいな本を読んでいた。タイトルは適当だ。
「インターネット上では他者を不快にさせないように振る舞いましょう」「他者から評価されるためには、攻撃的な言葉を使わないようしましょう」「わかりやすく平易な言葉遣いを心がけましょう」「ネットは現実世界の延長線です。実生活で口にできないことは投稿しないようにしましょう」「共感を得るためには、人当たりのいいキャラクターで自己をブランディングしましょう」というような内容が並んでいて、こんな風に振る舞わなければならないのならインターネットなんてやめてやるぜ、こんちくしょう!死ね!おれは人間だ!という気持ちになっていた。図書館の本でなければ地面に叩きつけているところだ。あらやだ。死ねなんて言葉、はしたなくてよ。
 自分たちが人間であるというよりかは、コンテンツか商品か、キャラクターに近しいものになっていくことに対して違和感を覚えている。そしてそれは情報テクノロジーの普及によって加速している。情報を発信する環境を持っていることで、誰しもが人間ではなくキャラクターになる危険性を帯びている世界だ。
「他者から需要される自分にならなければ」という価値観を過度に内面化すると、僕たちは簡単に他者にとって都合のいい自分に変わり果ててしまう。