ここ数年の間に、日本語の肌触りが変わってしまった。


数年ほどネット上でアウトプットをしない生活を送っていたのだが、使われている日本語が違う国の言葉みたいによそよそしいものに変わっていった。一見すると同じ日本語なのだけれども、言葉の流通方法も、文章を入力するデバイスも違っている。活字文化の上にパーソナルコンピュータとインターネットが乗っかっているのではなくて、テレビの周辺機器としてスマートフォンとSNSがある。活字寄りの言語から、SNSに最適化された言語にチューニングされている。

ペンで書いていた言葉から、キーボードで打つ言葉になって、更にはフリック入力や音声入力で言語を入力している。これは些細なことに見えるが、影響は重大だ。私たちは自分の考えをそのまま言葉にするのではなくて、使っている道具に自分の思考の方を最適化してしまうからだ。
文字を書くときに使う道具によって、生まれる思考は異なる。
喋るのか、石に刻むのか、羊皮紙か、鉛筆で書くのか、ワープロか、キーボードか、スマホか。使う道具によって思考は変わっていく。原稿用紙に手書きが主流だった頃の文章は、「長い間書いていると腕が疲れる」という肉体の制限を受けている。キーボードに比べて効率的に文章が書けるわけではない。そのために文章が引き締まっているように感じるときがある。逆にキーボード世代は手書きで文章を書くよりも疲れないから、その分だけ言葉の間が抜けているような印象を受ける。逆に入力速度の速さに脳味噌の方が追いつかないときもある。

デジタル化されてしまうと、粘土板に刻まれた言葉も、音声入力の言葉も同じデータ量になる。けれども、文字を生み出したときの肉体的制限はどこかに残っている。同じ活字でも、筆で書いた言葉とキーボードの言語感覚は違う。そういう意味で、フリックと音声入力から生まれる日本語が大多数になってしまったときに、言葉や思考の肌触りが決定的に変わってしまったように感じる。
私たちはスマートフォンに最適化した言語を使うようになった。フリック入力するときにストレスを感じない範囲の文章量しか打てない。5インチ程度の画面でストレス無く読める文章しか受け取れない。長文は嫌われ、言葉は断片に切り刻まれる。感情的な言葉、ある特定の印象を切り取っただけの言葉が溢れている。
このようなシステムが事実上の標準になってしまった時点で、私にとって日本語は異質な言語になってしまった。

特にインターネットの全体的なショートメッセージ化には危うさを覚えている。
スマートフォンをどのように位置づけるかによって見ている景色は異なる。携帯電話の延長線上にあるツールとしてスマートフォンを理解するのか、手のひらサイズになったパソコンなのか。前者ならスマートフォンのもたらした文化は進化に見える。だがパソコンのためにインターネットが徐々にスマートフォンのためのものに変わっていくのを眺めていた身としては、これは紛れもない退化だった。
インターネットは5インチのサイズに縮んでしまった。以前はスマートフォンでもパソコンでしか閲覧できなかったページが見られるという感覚だったが、今ではスマホで見れるものをわざわざパソコンのブラウザで見ている……という感覚になっている。
個人的にはtwitterなどのマイクロブログサービスが、社会の主要なインフラになるとは想定外だった。それに現在も言論のインフラになる資格があるとは思っていない。確かにギークのおもちゃとして見れば面白いが、社会と言論と民主主義をそのまま乗せるにはあまりにも脆弱な基盤だ。
やりとりされているのは情報では無くて、気分や情動に近い。過去ログの閲覧しにくさ、断片化した言葉、フェイクニュースの混入しやすさなど、主要な情報インフラとして扱うのはいささか心もとない。少なくとも、合議形成のためのプラットフォームとしては機能不全を起こしていて、異質な価値観を持った他者とのコミュニケーションが事実上不可能になっている。

最初に日本語の肌触りが変わってしまったと書いたが、それは近視眼的な見方である可能性もある。日本語ではなくて社会の基盤それ自体が急激に地殻変動を起こしているのを、過小評価している線も否定できない。
もしかしたら、後の歴史がSNS大分断時代と呼ぶような状況に、私たちは放り込まれているのかもしれない。
ベルリンの壁がドイツを分断したように、私たちの前にはシステムの壁がある。それは物理的な壁ではない。webサービスや情報技術によって作られる壁だ。
対話を重ねて合議形成をする、妥協点を探る、冷静になって言葉を交わす、という基本的な枠組みが機能していない。システムやテクノロジーが分断された人々を架橋するのではなく、対立と不和を生み出す要因になっている。言葉や対話への信頼感が損なわれ、使い物にならなくなっている。
そういう時代に翻弄されているのだとすれば、すでに私たちの世界は平時ではないのかもしれない。これから新・冷戦時代や第二次大戦時のようなブロック経済が再現されるだとか、軍国主義への回帰や独裁政権が誕生するなどと言いたいのではない。それらはすべて、過去の延長線で未来を理解しようとしている。
歴史は自分たちが経験してこなかったような方法で姿を現す。
グーテンベルク印刷術で教会の権威が弱まることや、革命でアンシャン・レジームが潰えることは想定されていなかった。世界大戦が始まる前には国家総力戦など想定外だった。アメリカの戦闘機が太平洋を横断して、日本本土を爆撃するとは考えられていなかった。街一つを更地にするような爆弾が実用化されるとは思ってもみなかった。数多くの「こんなことが起きるはずではなかった」という驚愕を、私たちは容易く忘れ去ってしまう。
歴史年表を見ているだけだと、その当時は何もかもが想定外だったということをつい忘れてしまう。
では次の想定外は何になるのだろう? 何十年後かに私たちは「情報テクノロジーのが民主主義を破壊するなんて、想像もしなかった」と言っているのだろうか? あるいはすでに何かが起こったあとの世界で、自分が何に巻き込まれているのかもわからずにあたふたと狼狽えているだけなのかもしれない。