おねがい☆北朝鮮


 朝起きたら北朝鮮のミサイル特番がやっていて、「おっ、ようやく日本のどこかにミサイルが落ちて、何人か死んだか!? ついに第二次朝鮮戦争が始まったのか、おれはこれから平和主義者として振る舞うぞ! で、何人死んだの?」とドキドキわくわくしていたのだが、ただ上空を飛行して海に落下しただけだった。なんだよ誰も死んでないのかよ。人一人死んでいなくてこの騒ぎかよ、ふざけるな俺の心のときめきを返してくれ、もう一回寝るわ、と心の底から思った。
 その次のミサイル警報のときには、真っ先にFXの取引画面を開いていた。

みんなどこかで北朝鮮がミサイルを発射することを期待していると思う。
 これだけ危機が煽られると同時に、自分の関係の無いところにミサイルが落ちるのを見たい、という欲求がわき上がってくるのを認めざるを得ない。良識の観点から言うと口には出せないけれども、目を覚ましたときに北朝鮮がミサイルを撃ち込んでいて、日常が非日常に変わっていて欲しいという無意識の衝動がある。理性と善性は平和を愛し、ミサイル発射を阻止しようとしているが、心のどこかで非日常に対する強烈を渇望があることをおれは否定しない。
 サリンとか世界同時多発テロとか、東日本大震災とか、自分に直接関係の無い悲惨な出来事ってどこかわくわくしない? おれは面倒くさいという気持ちと、わくわく感と、ふざけんじゃねえ!という気持ちが混在している。東日本大震災では家が流されたが、今度は全く無関係の人間として第二次朝鮮戦争を鑑賞したい。ネットに「日本はひとつ!みんなこの国難を堪え忍んで頑張ろう!」とか書き込んで高揚感と一体感に浸りたい。
 ニュースも「次回予告! ついに北朝鮮がミサイル発射されるのか!? 朝鮮半島に向かったカール・ロビンソンの運命やいかに!?」みたいなノリで煽るので、ついついカタルシスを求めてしまう。せっかく原子力空母を派遣したのだがら、ドンパチするのが自然な流れだ。ここで何も無かったら視聴者は納得しねぇ。
 識者やコメンテーターがミサイルが撃ち込まれる脅威を心配していても、どこかで「で、いつ発射されるの?」「なんだよ、今日も発射しないのかよ」という雰囲気になっている気がする。

 不謹慎だと言われるのを覚悟で、社会正義にもとることを書いたのには理由がある。どうも映画予告の手法で国際情勢が報道されていて、おれは自然とハリウッド映画的文法でこの問題が推移するのを望んでしまっているのだ。
 北朝鮮に宇宙からエイリアンの卵付きの隕石が落下してきて、巣を張ったあとに発射された遠距離兵器でアメリカ本土が壊滅的な打撃を受けた! 型破りな大統領と日本の首相のコンビが力を合わせて宇宙侵略者をやっつけるぜ! 近日公開! カミングスゥゥゥゥン! …みたいな感覚でニュースを消費していた。
 映像の編集や恐怖の煽り方、どこか予告編っぽいような危機感の演出、そういったものが相まって、おれは確かに「朝鮮戦争カミングスゥゥゥゥン!」という幻聴を聞いた。シン・ゴジラの予告編みたいな現実を延々と見せつけられていた。
 実際に有事になるかどうかは別として、国際情勢をハリウッド映画的コンテンツとして消費するのは異常に思えた。思えたのだが、これから何か予期せぬことが起きるのではないのか?という不安と期待が入り混じった感情にドキドキしていたのもまた事実だ。
 おれたちは冷静な国際情勢の分析を求めていたのではなくて、たのしい非日常を必要としていたのではないのか? シン・ゴジラを観ている時と同じ脳の回路が、ニュース番組の映像を観ているときにも働いているのではないのか。胃がキリキリするような外交戦略を駆使して破局を未然に防ぐことではなくて、映画的なシナリオ展開と物語の着地点を求めているのではないのか。
 ぜったいに次の戦争は楽しいに違いない。
 えいが館に来てくれたおともだちにはミラクル日本国旗ライトをプレゼント! ピンチのときにはみんなでミラクル日本国旗ライトをふって、日本とアメリカをおうえんしよう! えいが上映中はミラクル日本国旗ライトをらんぼうに振って、となりのおともだちに迷惑をかけちゃだめだよ☆ みたいな感じだ。

エンターテイメント戦争
・ここからは真面目な話になるので、一人称をおれから私に変える。おれは無責任な野郎だが、「私」のやつはものごとを生真面目に考えすぎる。まじかる☆キャラちぇん♫おれ→私!!
※説明しよう! まじかる☆キャラちぇん♫とは、文脈も話の流れも完全に無視して、一人称を変えることで文章のテンションを調節するテクニックだ! おれを一人称にしているときはソーシャルジャスティスなどうんこくらえぐらいの気持ちだ。私を一人称にした場合は、インターネットという公共の場で皆が市民的成熟を高めるために、理性的な立ち振舞いをしなければならないと思っている。

 シン・ゴジラは興味深い映画だった。後に感想をまとめるとして、現実に使われたような映像や演出を用いるのは、作品のリアリティを増すための常套手段だ。だが、現実の出来事を描写する際にもフィクションの文法やカメラワーク、映像編集が多用されるのだとしたら、現実と虚構の区別は容易く侵食される。
 ディスプレイに映し出されているという点で、現実と虚構の間には明確な境目がない。仮に「この物語はフィクションであり、現実の事件とは関係ありません」と表記されていても、現実は映画のようには推移しないと理解していても、脳にとってはディスプレイに映し出されている映像でしかない。
 私たちが暮らしている世界に、現実と虚構の明確な境界線は存在していない。
 そういった意味で、私たちは極めてフラジャイルな世界で暮らしている。
 もし仮に、今後東南アジア情勢が緊迫化し、南シナ海での有事が発生したと仮定しよう。
 そのときに私たちは、エンターテイメントを消費するのと似通った行動様式で、有事や戦争を消費するだろう。「日米と東南アジア諸国VS中国」といった単純な世界観認識を採用して、サッカーワールドカップの得点に一喜一憂するように、起きている出来事を楽しむはずだ。
 私たちとは関係のないところで起こっているエキサイティングなイベントとして、有事を体験する。テレビとSNSから情報を得て、戦況を傍観者として眺めながら、twitterでリアルタイム実況する。
 SNSのアイコンが軒並み日本国旗になり、震災のときみたいに「いろいろと社会が不便になるけれどもみんなで協力して乗り越えていこうね!頑張れ日本!」といった空気に染まる。それに異議を唱える人間は、一体感に水を差す非国民として扱われる。「みんな我慢しているのにどうしてお前だけ不謹慎なことを言うんだ!」と、非難を浴びせてもいいような空気が醸成される。
 この一連の出来事はお祭りだ。
 胸がスカッとして気分が高揚し、周囲の人たちと一体感を覚え、自らの正義を確信できるような、素晴らしい体験になる。映画もスポーツも、あらゆるフィクションも絶対に提供できない究極の娯楽体験になるはずだ。
 この時点では起きているはずの有事が、戦争だと認識できない。戦争とは第二次世界大戦末期のような悲惨な状態を指すもので、現時点で起きている有事とは異なる。
「戦争らしきもの」は戦争ではない。これまでに教育されてきた戦争のイメージとはあまりにもかけ離れているので、それを戦争だと認識できない。
 南シナ海有事。南シナ海に国際秩序をもたらすための国際平和貢献オペレーション、国民の安全と平和を守るための必要最小限の措置などといった言葉で呼ばれることになる。
 これは戦争ではなく、集団的自衛権に基づいて行われる平和維持活動である。私たちは加害者ではなく被害者だ。正当な権利を守るために立ち上がる必要がある。「南シナ海に自由を!(Free South China Sea!)」と書かれたプラカードを持った人々によって大規模なデモが起きる。これまで右翼・左翼で対立してきたけれども、国難のときには仕方がないから協力し合おうね! 
 現実の脅威を目前にして、「あくまで反戦・平和を貫き通したと思っているが、自国を防衛するためならば必要最小限の武力行使はやむを得ない」という世論や雰囲気が広がっていき、自分たちを正当化する。
「これは第二次世界大戦のような悲惨な戦争ではない。私たちは被害者である。私たちは、この瞬間に虐げられている人々のために立ち上がる。仮に私たちの同胞が手を汚すにしても、先に銃口を向けたのはあいつらだ。私たちは国民の命と平和を守るために、不本意ではあるが非人道的な行為を選ばざるをえない」
 けれども、私たちがどれだけ正当化のための詭弁を重ねても、生身の人間を殺すという現実の重みには耐えられない。その罪悪感を和らげるために、戦う相手を人間ではないものに貶め始める。
「私は悪ではない。私たちと敵対する人間が邪悪なのだ」「彼らは私たちと同じ人間ではない」という論法を採用した瞬間に、人間を人間としてみなさない価値観を、私たちは受け入れる。
 その瞬間に私たち自身が邪悪さの主体になり、災厄を振りまく元になる。あとはセプテンバーイレブン後のアメリカか、ISによるテロ後のヨーロッパと似たり寄ったりの道をたどる。
 犠牲者が出たことも、悲しみや憤りを感じることも、手っ取り早く泣ける話題や美談として消費される。東日本大震災でも、マスメディアの放送にほとんど死体が出なかった。観ていて気分が悪くなるような映像はあらかじめ取り除かれ、クリーンな戦争映像だけがディスプレイに映し出される。
 私たちにはこれから起きることに対する免疫が全くないので、これら一連の出来事を上質のエンターテイメントとして消費する。
 もちろんこれは私の荒唐無稽な妄想でしかないし、そうでなければ困る。