何を検索しているの?


情報を検索しているというよりも、自分が求めている情報を探しているような気がする。選択が間違っていなかったと納得したかったり、信念を強化するための情報に餓えている。真実を見出すよりも、検索エンジンに「あなたの選択は正しいのです」と言って欲しいのかも知れない。

軽い乱視を矯正するために初めてメガネを作った。
そのときに球面レンズか非球面レンズかにするかで迷った。店員に勧められるがままに割高の非球面レンズにするか、リスクを覚悟で球面レンズにするのか。松竹梅の価格設定で、真ん中にある商品を詮索させるために他の価格をおとりにするのは、初歩的な心理テクニックだ。
私は営業という人種が信じられずにいた。あれはノルマを達成するために目の前の顧客を犠牲にしても魂が痛まない生き物だ。資本主義が生み出した悲しいモンスター、営業。この職業をいちどでも体験すれば、思ってもいないことをぺらぺらと喋る詐欺師のスキルを習得できる。
うすぐらい経験により認知が歪んでいて、私は営業という人種を一切信頼できなくなった。人を信頼できない。こいつは私を騙そうとしている。何も知らない素人だと思って食い物にしようとしているという、被害妄想が広がっていく。
私は真実を知るために、現代の叡智であるところの検索エンジンに「球面レンズ 非球面レンズ 比較 デメリット」と入力した。
その時に私は、自分が探し求めているのが真実なのか、割高な商品を売りつけられたことに対する憤慨を肯定するための情報なのか、それとも自分の選択が間違っていなかったという安堵なのかわからなくなってしまった。
私がどの情報を求めているかによって、検索エンジンが提示する答えは変わってくる。見たい現実しか見えなくなるとしたら、いったい検索エンジンは何を検索しているのだろうか。真実なのか、心の奥底にある願望を映し出しているだけなのか。私は区別がつかなくなってしまった。
中世時代、眼鏡は悪魔の道具として恐れられてきた。他者を見ることで呪いにかけるという邪視の風習も、見ることが魔術的な力として扱われていた時代の名残だ。たとえ自分を監視するものがいなくても、「見られている」という恐怖によって人は行動を支配される。検索エンジンもまた、この世界を映し出すためのレンズだ。
目には乱視が入っているが、心の視野は狭くなっている。
仮に真実があるだとしても、私は真実を見分けるための知識が無い。知識が無いから検索する。目の前の知識の真偽を判別するだけのリテラシーがあらかじめ備わっていれば、わざわざ検索する必要は無い。そして真実かどうかが判別できるような情報は、検索しなくてもいい。
これが情報検索のパラドックスだ。

乱視矯正用の眼鏡ができあがった。着用するとこれまでぶれていた視界がクリアになる。はじめは、アポロ13号の宇宙飛行士が月に残した足跡だって見える!というような気分になった。が、見えることが必ずしも人に幸福をもたらすとは限らない。乱視によってぼやけていた視界が矯正されることで、電線がはっきりと見えるようになってしまった。これまではぼやけた電線が空に溶けて、あまり気にならなかった。が、あたらしい視力を得た私の目には遠くの電線が鮮明に見える。この街は電線が多くて、自分が思っているよりも景観が悪かった。気が付かなければよかった。
アポロンから未来を見る予知能力を授かったがゆえに、苦悩しなければならなかったカサンドラの気持ちが理解できる。
乱視用眼鏡を得た結果として、見えるメリットと見えてしまうデメリットの両方を受け入れざるを得なくなった。検索できることのメリット、検索できてしまうがゆえのデメリットとは何か。私が見い出したのは真実に偽装した迷妄ではないのか。