またひどい文章を書いてしまった。


 BL漫画家・ソドム館山は、安倍シンゾウとトランプ大統領のBL18禁漫画をtwitterに投稿したことで極右から身を狙われることとなった。もはやそれがボーイズラブではないことは知っているが、他にどうしようもないのだ。

『ひみつの日米首脳会談(作・ソドム館山)』
 鉄鋼よりも硬いトランプ大統領のトランプタワーが、安倍シンゾウの天岩戸をこじ開ける。粘膜の一体化(ittaika)である。日本はアメリカの揺るぎないパートナーだと思い込みたい安倍シンゾウだったが、トランプ大統領の性欲のはけ口になっているだけだった。二人の間に横たわるのは国境に建設された不法移民用の壁よりも強固で高い障壁だった。
 口では戦後レジームから脱却し、アメリカからの押し付け憲法を改憲すると強気の発言を繰り返している安倍シンゾウだったが、身も心もアメリカから離れられないことを思い知らされるのだった。
「へへへ、シンゾウ、これからは日米首脳会談のたびにおれの元に飛んできて、四つん這いになるんだ! そうしたら北朝鮮や中国からおれが守ってやるぜ! これからもおまえはおれの慰安婦として働き続けるんだ!」
 シンゾウは背後(せいご)にトランプの体重を感じながら、対米従属の屈辱と、圧倒的な力を持ったアルファオスにすべてを委ねる解放感に挟まれて葛藤していた。
 快楽に身を委ねては駄目だ。理性をアンダーコントロールしろ、シンゾウ! 美しい日本を守るために、この身を捧げなければならない。それが総理大臣の務めだ。そう思いながら、陵辱が終わるのを待ち続けることしかできない安倍シンゾウである。
「たっぷり白濁液を注ぎ込んでやるぜ! おまえの子宮(あかちゃんのおうち)はこれからホワイトハウスだ!」


 ソドム館山に特に明確な政治思想やイデオロギーがあったわけではない。男が二人並んでいれば、片方のペニスをもう片方のアヌスに突っ込んでしまうという病気に罹っていたソドム館山である。唯一、信念と呼べるものがあるとすれば、自分の欲望に正直になることだけだった。
 BL漫画雑誌で『社畜の俺と、俺畜の社長』というオフィスBLを連載していたソドム館山である。とあるベンチャー系ブラックIT企業で働くおれは社長にこき使われる社畜だった。過酷な労働環境に憤慨したおれは、社長をおれのためだけに御奉仕する畜生、すなわち俺畜(おれちく)へと調教するのだった。
 同人時代から虐げられたプロレタリアが資本階級の御曹司を手篭めにするという内容のBLを書き続けてきたが、別にマルクス主義者だったわけではない。そういう性癖だっただけだ。
 だがポリティカル・コレクトネスが荒れ狂う現代社会は、ソドム館山をそっとしては置かなかった。
 下克上BLにプロレタリア革命の息吹を感じ取ってしまった左翼や、与党を貶めたい支持者、LGBTの権利推進を訴える人々にはなぜか好意的に受け取られてしまった。リベラル陣営では、ソドム館山は表現の自由とLGBTの人権と政権批判を勇敢に行い続けるジャンヌ・ダルクのような存在に祭り上げられていた。
 ソドム館山が極右を敵に回すのも時間の問題だった。彼女は極右勢力から「トランプ×安倍ではなく、安倍×トランプのBLを執筆し、アメリカに対して優越感を抱きたい右翼を先導するのだ。そうすれば命だけは助けてやる」と脅されるものの、断固として拒否する。
 なぜならば、生まれたときから安倍シンゾウは総受けだと決まっているからだ。たとえ神が安倍×トラを支持していても、トラ×安倍を否定することはできない。自分の信じる攻めと受けを裏切るぐらいならば、舌を噛みちぎって死ぬ。それがソドム館山の矜持であり、生き様だった。安倍シンゾウは総受け!
 ソドム館山が舌を噛み切ろうとしたその時。颯爽と現れて彼女を救ったのは、右翼系百合漫画家ハシバム徳田だった!

 百合漫画家ハシバム徳田は、twitterで炎上騒ぎを起こして仕事を失った。
 まとめサイトのコピペみたいなヘイトスピーチによって炎上し、百合漫画アンソロジー『めしべ』の連載枠を失ったのである。それが左翼の工作や陰謀であると思い込んだハシバム徳田は排外主義的かつ歴史修正主義・国粋主義に傾倒し、過激な発言を繰り返すようになった。それがヘイト系嫌韓本や保守系オピニオン雑誌を刊行する「八紘出版」の目に止まり、右翼系百合漫画家として新しく再出発する。
 産経新聞の一面にまんがタイムきらら展の告知が載る時代だ。保守系コンテンツと可愛い絵柄は思ったよりも相性がいいし、アニメアイコンのネトウヨを積極的に取り込んでいくことで勢力を拡大しようとしていた。 
 八紘出版の保守系政治オピニオン雑誌『旭日』に、ハシバム徳田の連載漫画『とくあ!』が掲載された。
 普段なら「特集・核保有論 対談・日本は中国全土を焦土にする程度の核攻撃力を持たなければならない!」とか「腐りきった左翼を糺す! 非国民を焼け!」といったキャッチコピーが並んでいるおどろおどろしい雑誌だが、発色のいいパステルカラーで萌えキャラが描かれていた。中央公論やら正論やら文藝春秋に混じって、まんがタイムきららみたいな表紙の「旭日」は圧倒的な存在感を放っており、インターネット上でちょっとした話題になった。
 新連載! ゆるふわ特亜コメディ! 一見すると登場人物が韓国人の美少女であるという点では、きんいろモザイク系列の4コマ漫画に思える。
 ちょっとあたまのゆるい隣国人と、なんか有能でチートで優しくて美しくて誇り高い日本人の女の子が出てくる。ゆるい絵柄でありながらも、韓国に対するステレオタイプを補強し、日本に対する根拠のない全能感をくすぐるような内容だ。すくなくとも企画とネームの段階ではそうなるはずだった。
 しかしハシバム徳田は百合漫画家である。女の子が二人いたら最後にはキスさせてしまう。誤解は和解になり、溝は埋められる。彼のヘイト発言はありきたりのコピーアンドペーストだったが、骨の髄まで染み込んだ百合魂(ソウル)は本物だった。どれだけヘイトに染まっていても、百合漫画の文法が、身体に刷り込まれた百合文化が、百合の神が、ヘイト系萌えマンガを相互理解ゆるふわ百合4コママンガに書き換えてしまう……。
 女の子が二人並んでいれば、いちゃいちゃらぶらぶさせなければならない。それはもう思想ではなく、骨と肉と血に刻み込まれている何かだった。優越感を満たしたくてハシバム徳田の漫画を読んだ読者も、読み終わったあとにはヘイトから解放されている。中には日帝時代の植民地支配を懺悔するものも少なからずいた。
 はからずも政治百合というジャンルを創設してしまうハシバム徳田もまた、反韓感情に囚われる極右から狙われる身となった。

 社会正義とポリティカル・コレクトネスが支配する暗黒の時代、きわどい政治の話題を創作にぶち込んでしまったクリエイターは活動の場を奪われ、沈黙を余儀なくされていた。
 ハシバム徳田に助けられたあと、ソドム館山が連れて行かれたのは政治的な発言をして行き場を失った作家やアーティストを保護する施設だった。
「神風特攻で転生した俺が、異世界を魔族の植民地支配から解放する!?」のエルフ従軍慰安婦描写で社会問題を引き起こした作家、アッラーをソシャゲーのキャラにしてしまい、イスラム教過激派によって本社を爆破されたゲーム企業のスタッフ、新解釈愛国ソング「KIMIGAYO」を熱唱したポップバンド、女性天皇ラブコメ、原発擬人化マンガ……。
 彼らは皆、ついうっかり政治的な話題を創作にぶち込んでしまい、コンテンツ業界を追放された。
 日本人が必要としていたのは、現実から目を背けるための鎮痛剤だった。思想も持たず、歴史も直視せずに、あいまいな認識のまま適当に生きていたい。面倒な思想の問題なんかに関わりたくない。その気持ちを確信犯的に補完するのがコンテンツ業界だった。
 表現の自由は保証されているが、自分の政治的な価値観や信念を表明してはならない。面倒くさいことは考えてもいけないし、創作に持ち込んでもいけない。そういう種類の自由だ。
 だが心の内側に生まれたパッションが漏れ出てしまうおもらし表現者たちだ。

「神風特攻で転生した俺が、異世界を魔族の植民地支配から解放する!?」の作者も、その一人だった。当初はまともなネトウヨだった。小林よしのりの戦争論に感化され、ネトウヨの道を歩み始めた。第二次世界大戦を彼なりの視点で納得のいくものに再構築する。綺麗事と欺瞞に満ちたサヨクの反戦論ではなく、当時を生きた日本人がどのように考え、何を思って戦い、死んでいったのかを追求しようとしていた。
 彼の作風と理念は曲解された。  まず第一に異世界で大東亜共栄圏建設の焼き直しをしようとした作風で左翼から殴られ、露骨に反米感情と白人に対するヘイトに塗れている点で社会正義戦士たちから叩かれ、エルフ従軍慰安婦をメインヒロイン3に据えた時点で歴史修正主義者から批判されるのだった。
 彼の顔には失意の表情が浮かんでいた。日本人は巨乳エルフ性奴隷は求めていても、巨乳エルフ従軍慰安婦は求めていなかった。

 政治寄りアーティスト隔離保護施設では、今日も終わりのない言い争いが繰り広げられる。
 KIMIGAYOをリリースし、愛国心を煽るような不穏な音楽だと批判されたバンドのメンバーが、女性天皇ラブコメを書いていたラノベ作家をギターでぶん殴っていた。「陛下は2000年以上前から男系だって決まってんだよ!」「うるせえ! 女性天皇を認めることこそが皇室に新しい活力を生むんだ!」「なに考えているんだ! この左翼野郎!」「うるせえ! 極右!」
 もとより議論を積み重ねる習慣の無い日本人であるが故に、建設的な話ができない。そんなときにはお互いのソウルを載せた作品を作ることで、政治思想バトルを行う。どれだけ間違ったことでも、魂を揺り動かせれば勝ち。だが逆にいえば、人の心を動かさない正しさには何の意味もないということでもある。
 彼らの騒がしい思想バトルを無視して、ソドム館山はBL妄想に没頭していた。
 BL小説家ソドム館山は、国際政治の相関図を新聞から切り抜いて、延々と「受け」「攻め」、「本当は好きだけれども素直になれない」、「愛しているふりを見せるが実は金と身体が目当て」、といったことを書き足していた。金正恩もきっと幼い頃から権力者であり続け、対等な人間関係を築く機会が無かった。周りにいるのはおべっかを使うイエスマンか、失墜を狙う反逆分子でしかない。
 金正恩は人を信頼できなくなった。軍事力だけが自分を守ってくれる唯一の力だと思い込み、核実験に没頭する。一方、トランプは虚無感に襲われていた。富も権力も手中に収めたがまだ埋まらない胸の空白はいったいなんだ? どのような権力も力も自分を押しつぶすことはできない。そのことに誇りを覚えながらも虚しさを覚えていたトランプ。彼に向けられたのは大陸間弾道ミサイルである。国際社会としては東南アジアの安寧を脅かすリスクだったが、金正恩の孤独であることがトランプには理解できたのだ。
 BL。そこに理屈はない。男が二人いたら交尾させてしまう。例え思想が弾圧されようと、この世界からBLが焼き払われても、人間が生まれながらに持つ自由を抑圧することはできない。表現の自由が保障されているからソドム館山はBLを書くのではなかった。BL妄想を何の気兼ねもなく吐き出せるのがソドム館山にとっての自由の証であり人権だった。しかしこの自由は人を傷つける。実在の人間を扱えば名誉毀損で訴えられる可能性もある。
 長引く加計学園獣医学部問題のワイドショーをみながら、ソドム館山は思った。
 獣医学部、というフレーズが心の琴線に触れる。
 どうせ四つん這いになって首輪を付けられ、動物のお医者さんごっこをするんだろう。加計コウタロウが安倍シンゾウに首輪を付けて、「トランプなんかに尻尾をふるんじゃねぇ。どちらがお前の飼い主なのか、躾をする必要があるな」と言いながら調教を行う。そこに籠池ヤスノリが入ってきて三人の恋のTo Lieあんぐるは大変なことになる。私にはわかっている。男たちの悪巧みだ。

 ソドム館山は理解している。自分が考えている妄想が、政治的にも社会常識的にも正しくないというのは重々承知している。それでもBL妄想は決して尽きること無く溢れてくる。
 おのれの欲望に正直であること、それがソドム館山がBLから教わった全てだった。肉体を自由にできても心までは征服できない。奴隷の少年を買った王族がその身体を自由にするが、心の距離は縮まらない。これまで何度も読んだ展開だ。
 どのような権力に抑圧されても自由まで縛られるわけではないのだ。でも最後には快楽に溺れて身も心も捧げてしまうかも知れない。そういう意味で言えば、国家による抑圧と、言論の自由を守る民主主義はある意味ではBLの文法に則っているのでは……?
 ソドム館山は抽象的な政治観念にBLを見い出した。皆が理解してくれる自信は無いが、憲法で権力を制限するという考え方はBLなのだ。『社畜の俺と、俺畜の社長』でさんざんネクタイを締め上げる扉絵を描いていたソドム館山は、縛って自由を奪うという考えに執着していた。
 それはネクタイの話だけではなく、憲法で国家権力を縛るという近代社会のありかたにも適用される。国家攻め・自由受けは性に合わない。憲法が攻めで、権力が受けだ。それが正しいのかどうか、ソドム館山には確信が持てないが、彼女の心のペニスが隆起するのは紛れもなく権力総受けだった。

 その後も百合漫画家ハシバム徳田は各地で政治寄りアーティストを救出し続けていた。
 新しい仲間になったのは、中国の女児向けアニメ脚本家だ。
「権力の顔色を見ながらでは、真の女児向け魔法少女アニメは作れない。我々には言論の自由がなければならない」という理由で中国の民主化運動の旗手となった。中国共産党からは魔法少女政治犯として弾圧されていたが、すんでのところで日本へと亡命した。
 もう一人は韓国の彫刻家であり、従軍慰安婦像の制作を依頼された。そこまでなら良かったのだが、「戦争と性欲は切り離せない」という独自の戦争観により、グラビアアイドル体型のハイクオリティ従軍慰安婦像を作成してしまう。世界各地に彼の従軍慰安婦像が設置されるも、劣情を催すという理由で撤去されてしまった。
 ハシバム徳田は八紘出版を追われた。ゆるふわ特定アジア交流コメディ『とくあ!』は、五分間の短い枠ではあるがアニメ化した。作画は崩壊気味だが、声優の演技や主題歌がいい。この作品は政治オピニオン雑誌『旭日』の雑誌カラー自体を変えてしまった。もはや旭日ではない。せいじタイムきらら右翼!とかそんなかんじの名称で呼ばれるべきものになってしまった。
 そのままハシバム徳田はレズ矯正レイプがはびこるインドや中東など、女性の権利が剥奪された地域を渡り歩いていると、風の便りで聞いた。もう彼を百合漫画家と呼ぶのは正しくない。すでに彼はレズビアンコミックアーティストだった。
 政治は百合。それが最後に聞いたハシバム徳田の言葉だった。朝鮮半島の占領統治時代に、日本人少女と韓国人少女の交流も百合であれば、同性愛が非合法になっている国での少女たちの恋愛感情も百合だ。抗いがたい歴史の流れに翻弄されて、胸に芽生えた素朴な気持ちが暴力で蹂躪されていく。ヘイトのある場所に和解があり、戦争がある場所にまた百合がある。
 いまなら、彼が言っていたことも理解できる。
 政治が百合であるのならば、万物はBLなのだ。