明日、差別主義者になったときのために。――極ウナギ勢力編――
僕たちは差別主義者になりたくて差別的発言をするわけではなくて、あるとき、急に差別主義者になってしまうのではないのか。昨日までの価値観、常識、所属していた組織では常識だとされていたこと、その話題に触れても何のお咎めもなかった発言が、いつの間にか差別発言になってしまう。
別に差別発言を容認しているわけではない。僕たちがいつか、勉強を怠って無意識のうちに差別主義的振る舞いをしてしまう可能性は十分にある。そのときにどうやって、自分が発してしまった無意識の差別発言をリカバリーするのか?ということについて考えている。
いまこの瞬間にはまったく社会問題になっていないようなことでも、一年後にはタブーになっているかも知れない。いまでこそ、うなぎを食べる画像をSNSに投稿しても炎上しないけれども、十年後にはうなぎを食べる人間はうなぎ絶滅主義者として社会的に糾弾されるかも知れない。そうなると十年前になんとなくアップロードしたうなぎの蒲焼き写真の社会的責任を問われるかも知れない。そのときに「うなぎを食べるのは悪いことではない。昔はみんなうなぎを食べていた!」と言っても遅い。自分の常識と、社会規範が致命的なまでにずれてしまった。昨日までの常識は、明日の非常識だ。
このようにしてあるときを境に、いきなり差別主義者になってしまう可能性がある。そのときに人権意識を更新するいとまも与えられずに糾弾されるとなると、差別意識は人目に触れない場所に潜っていく。ネットでウナギの話をするのはやめよう。黙ってこっそりうなぎパーティをやろう。同じように感じているうなぎ愛好家は沢山いるはずだ。これもみな環境保護主義を装った左翼の策略に違いない。
そうして社会の日の目が当たらない場所で思想は先鋭化する。『丑の日にウナギを食べて日本の美しい文化を守る市民の会』が誕生し、路上に七輪を持ち込んでウナギを焼くという過激な極ウナギ勢力が誕生しないとも限らない。
この時代においては、「ウナギは日本の伝統食」という発言で内閣総辞職に追い込まれるぐらいに政治的にスキャンダルかつデリケートな話題になっている。リベラル派知識人は過去にあれだけウナギを食べていたのに、いままで一匹のウナギも食べたこともないような面構えできれい事を言う。ウナギの味を知らない若者の不満を温床としながら、極ウナギ勢力はアジアの政治情勢を大きく揺り動かす不安材料になる。
新聞の社説はだいたい「ウナギを焼くものは、人間を焼くようになる」という言葉で締めくくられる。
なんか差別発言について書くはずだったのだが、いつの間にか未来ウナギ社会に関する部分が暴走し始めたので軌道修正する。
いまの僕たちは、昭和のロートルな価値観に染まった人々を責めていて、それを社会正義だと考えている。
一方で、そのうち平成末期のゆがんだ常識に囚われていることを断罪されるのかもしれない。そのときにどうやれば、平成末期の偏見と差別意識に塗れた常識から脱却できるのだろうか?という話をしている。