LGBT+と「言葉に置き換えられない自分/他者」


・LGBT+と「言葉に置き換えられない自分/他者」

『13歳から知っておきたいLGBT+』という本を読んでいた。男女の区別だけではなくてゲイ、レズビアン、バイセクシャル、トランスジェンダー、アセクシャル、クィアと言った様々なジェンダーアイデンティティーが紹介されるのだけれども、その数が多い。バイキュリアス、トライジェンダー、ジェンダーフルイド、デミセクシャル……。LGBTがLGBTQになり、LGBTQIA+になって、ジェンダーアイデンティティーの概念がどこまでも拡張している。
彼や彼女ではなくて、性別的に中立な代名詞(Gender neutral pronouns)というものもある。性的指向と恋愛対象となる性別に違いがある場合もある。

これを読んでいて、どうして言葉で定義することにこだわるのだろう?と思った。男女という二元論をゲイ・レズビアンという概念で拡張して、さらにそこからこぼれ落ちてしまうものを新しい言葉を作って拡充する。白黒しかなかったものをグレースケールにして、それでも不完全だから彩度や色環を足す。
言葉でジェンダーアイデンティティーを定義することに囚われていて、「言葉に置き換えられない自分」をないがしろにしている。それは音楽を楽譜にしたり、絵を言葉で表そうとすることと同じなのかも知れない。私はゲイです、クィアです、ジェンダーフルイドです。そうやって自分が何者なのかを定義しても、言葉に収まりきらなかったものが手のひらからこぼれ落ちる。
あらかじめ社会的に定められた男女の鋳型に合わせて、自分を整形していけるのならば楽に生きていけるのだろうけれども、それでは「男/女らしい演技」になる。
ジェンダースペクトラムの他にも自閉スペクトラムもあって、自閉症や発達障害やADHD、アスペルガー症候群という症状名がついている。スペクトラムという言葉が使われるときは、どうしても近似値的な言葉を使わざるを得ない。理解しやすくなる代償として、正確性からは遠くなる。
ジェンダーアイデンティティを考えるときや、自分が他者を理解するときに、既存のラベルを当てはめていることに気がつく。性別、人種、国籍というラベルを貼って、ステレオタイプな人物像に当てはめて他者を理解したつもりになる。
少ない数のラベルで他者を理解するのは不十分だから、ラベルの数を増やす。でもラベルを貼る思考回路自体が問題なのかも知れない。私は男/女でもないし、黒人/白人でもないし、○○国民でもない。そうかも知れないけれども、それは私を構成する一要素に過ぎない。そんなものを貼り付けて私を理解したように振る舞わないで欲しいし、私もそれらのラベルを使って自分を理解したくない。
LGBTを理解しよう!というのは、特殊な性的マイノリティの用語を覚えたり知識を蓄えることではない。それでは男女というラベルを貼り付ける思考回路と変わりが無い。男女の代わりに、今度はゲイやレズビアン、バイ、トランスジェンダーといったラベルを貼り付けるようになるだけだ。
目の前にいる人や自分を、ラベルや色めがねを通して理解する。その思考回路が窮屈に感じられる。必要なのは理解ではなくて、言葉からはみ出してしまったものをそのまま受け入れる作法だ。「言葉に置き換えられない自分/他者」を言葉やラベル、社会的な常識に頼らずに理解する。それができないと、LGBT+用語をどれだけ覚えても目の前にいる人を理解できなくなってしまうのかも知れない。


・二元論とスペクトラム。

私たちは男女、政治の左右、自国と他国といったように、二元論をベースにして思考しているのだけれども、それはスペクトラムとは正反対の価値観だよね。自閉スペクトラムやジェンダースペクトラムには、言葉で区切れるような明確な境界線が存在しない。色彩がなだらかに変化していく虹がシンボルに選ばれるのは男・女で区切られるような簡単な指標がないからだ。
たとえば「性の多様性やスペクトラムを理解しよう! 政治的にはばりばりのリベラルです! ヘイトスピーチまみれの右は死ね!」というのは、思考回路がまだ二元論に囚われている。ジェンダースペクトラムや自閉スペクトラムだけではなくて、ポリティカルスペクトラムもあると思う。むしろ二元論に置き換えられない多様なあり方が世界の形として自然だと思う。
右や左という言葉が分断を煽っていって、右・保守らしい振る舞いや左・リベラルらしい言動が作り上げられていく。「男・女らしく振る舞わなければならない」という社会な圧力と同じ力が働いて、「自分の属する政治的ポジションらしく振る舞わなければならない」と思ってしまうかもしれないのだけれども、それはあまりスペクトラム的な言動ではない。
人間はそこまで首尾一貫した政治的立ち位置を持てない。どちらかと言えば右だけど安倍政権の運営はちょっとな……とか、リベラル寄りだけれども自衛隊じゃなくて国防軍にした方がいいよね、とか、保守だけれども戦前の日本が徴用工にしたことは謝罪するべき……みたいなポリティカルアイデンティティーもあると思う。それを口にすると、おまえはどちらの味方なんだ?と詰問されかねないから、口を閉ざしてしまうかも知れないけれども……。
雇用問題の改善に賛成すると、自動的に護憲と戦争反対と原発即廃炉と表現の自由とヘイトスピーチ反対と米軍基地反対がセットでついてくる。日本に誇りを持ちたいだけだったのに、左翼否定、韓国人へのヘイトスピーチ、自民党改憲草案、歴史修正主義、自国優先主義、女性天皇反対などのトピックにまで賛成を求められる。
自分がどの問題に対してどのよう意見を持っているのかではなくて、右・左らしい振る舞いにあわせて自分の政治思想が形成されていく。男の子だから戦隊ヒーローのおもちゃを欲しがるのが普通。女の子だからピンク色でかわいいフリルのついたお洋服が好きでしょう? 左だから反原発に賛同しないとおかしいし、右なら自衛隊の違憲状態を改善するべきだと君も思うだろう?
こういう風に鋳型にはめられていく。
ここで脈絡もなくプリキュアの話になるのだが、「女の子だって暴れたい!」というコンセプトの元に始まったプリキュアも、シリーズを重ねるごとに戦隊もののフォーマットと玩具販売マーケティングと商業主義に飲み込まれつつある。
いぜんのおれならばスイートプリキュアを見ながら、「永遠に女性なるものが我らを引き上げていく……」とつぶやきながら涙を流していたこともあったが、いまでは「これはただのおもちゃ広告だ。こいつらは正義のために戦っているのではなくて、バンダイの年間販売計画に従って世界を救っているだけだ!」という気持ちが芽生え始めてきて、信仰が揺らぎつつある。しかし免罪符を売った教会が腐敗しているからといって、人類のために罪を贖ったキリストの行為が無に帰すわけではない。
プリキュアの本質は暴力にはない。握りしめた拳を開く瞬間にプリキュアの本質が宿る。これまで拳を握りしめて戦ってきた少女たちが、その手を開いて敵を許す。堅く握りしめられた手を緩める力こそがプリキュアだ。
話を元に戻す。自分たちの思考が如何にして二元論に影響されているのかを意識しないと、簡単に物事を単純化してしまう。男・女、右・左、資本家・労働者、自国・他国、キリスト教・イスラム教というバイナリな世界観でなにもかもを理解するようになる。そうなると分断が生まれて、溝が深くなり、言葉によってこの世界が二分されていく。
ソーシャルメディアやフィルターバブル、エコーチェンバーが社会を分断していくのではなくで、その大元にある二元論的思考に疑問を持った方がいいのかも知れない。自分たちの思考や言葉が分断を好むように作られていて、テクノロジーは火に油を注いでいるだけに過ぎない。
でもここで二元論とスペクトラムを対立させると、再び二元論の罠に陥ってしまう。