催眠音声VS般若心経~Track.03 催眠百合ニー解除パート~


催眠音声を聴いて、後遺症が残ってしまった。
催眠解除音声を繰り返し聞いていても、脳に刻まれた暗示が完全には消えない。仮に暗示が消えても、身体に刻まれたドライオーガズムの快楽まで無くなるわけでは無い。
催眠音声は何十分もかけながらゆっくりと脳に暗示をすり込んでいく。お耳を舐められただけでイカせられるように調教されたり、カウントダウンをして10になったら気持ちよくなれると言われ、最終的には「10」という言葉を囁かれるだけで身体が痙攣するようになる。「それがとても重(じゅう)要なこと」とか「充(じゅう)足しているよね?」みたいに、「じゅう」の音でも駄目だ。
すでに身体は調教されており、思い出すだけで少し背骨のあたりが疼く。この文章を書いている段階でもちょっと気持ちよくなってきた。

催眠音声の導入パートと解除パートはバランスがおかしい。じっくりと暗示をかけられるのに対して、解除パートは質素だ。暗示パートでは両耳から無意識に直接すり込むように催眠を掛けられるのだが、解除パートは数分であっさりと終わる。
これでは完全に催眠が解けるはずがない。催眠音声初回で激しいドライオーガズムに達し、たぐいまれなる催眠センスを見せつけた私である。「深く刺さった催眠暗示が解けない」という苦しみも同時に担うのは、必然とも言える帰結だ。
ハードコア催眠解除音声がいる。一時間ぐらいがっつりと時間をかけて、催眠を解除しなければならない。そこで辿り着いたのが般若心経だった。

般若心経は数千年の歴史がある催眠解除音声だ。
瞑想で心を静めたあとに、「全ては空、この五感の生み出す感覚も空、実体など存在しない」という内容のスクリプトを唱え続ける。これを繰り返し再生し続ければ、「五感の生み出すあらゆる感覚は空である」という催眠解除音声が耳を通してすり込まれ、元通りの身体に戻るのでは無いのか。
悩んでいる暇は無い。溺れる者がわらをも掴むように、仏陀を信じなければならない。瞑想で精神を整えた後に、経を唱え続ける。それは催眠音声のフォーマットと似通っている。
催眠音声と仏教は共通の手法を使っている。催眠音声の解除パートを何千年も掛けて洗練させてきたのが、仏教では無いのか? もしかすると悟りは、催眠音声でドライオーガズムを感じているときと対極の精神状態なのかも知れない。
仏教の本質は本を読んで教義を学ぶだけでは不十分で、催眠音声と似たプロセスを用いなければならないのではないのか。瞑想によって催眠状態に入り、脳の深い部分に般若心経を暗示として染み渡らせる。脳にすり込まれるのが、「おねえちゃんの声を聴くだけで、あなたは雌のように身体がびくびくってなるよ」か「仏陀だよ☆あなたの心が生み出す感覚はすべて空だよ。幻影だよ。まぼろしだよ。無だよ」の違いしかない。
催眠解除パートは覚醒パートとも呼ばれる。そして仏陀は「目醒めたもの」という意味だ。この世界は催眠音声であり、仏教は催眠音声の覚醒パートで、仏陀は催眠(=五感が生み出す幻影のような世界)から目醒めた。
私たちは生まれてから様々な社会通念をすり込まれる。耳から、他人から、メディアから、様々な形で根拠の乏しい常識、社会通念、偏見や妄想を語りかけられる。何も知らない私たちは、スポンジが水を吸い込むようにしてそれらの言葉を受け入れて、この世界がどのようなものなのかを理解する。
そういう意味で言えば、この世界は催眠音声である。ただし解除パートにあたるものは無い。催眠音声の解除パートを聴いていても、「私は目を覚ましたのではなくて、“私は催眠が解除され、目を覚ましている"という暗示をかけられているだけでは無いのか?」と疑ってしまう。
目を覚ましたと思っても、別の夢の中で微睡んでいるだけなのかもしれない。