ことのはアムリラート感想文


自分自身の尺度で相手の気持ちを勝手に推し量って、「つまり君が言いたいことはこういうことだよね?」という意見を押しつけるのはコミュニケーションでは無いよね。相手が何を訴えかけているのかに耳を貸さずに、自分が理解可能な鋳型に流し込む。日本語が過不足無く伝わることにあぐらを欠いて、異質な他者を理解したような錯覚に陥る。
普段使っている言葉が通じなくなるだけで、他者の異質さが浮き彫りになる。根本的に自分とは違った、何を考えているのか、本当に言葉の意味が伝わっているのかということを確かめられない他者と、意思疎通を図らなければならない。
純百合語学アドベンチャー『ことのはアムリラート』が私たちに提示するのは、コミュニケーションの切迫性だ。自分の喋った言葉が間違っていて致命的な過ちを犯すかもしれない。言葉を間違って解釈して相手を傷つけてしまうかもしれない。私が理解していることは根本的に間違っていて、偏見や印象によって相手を都合良く解釈しているだけなのかもしれない。

言葉の通じない異世界に迷い込んだ主人公であるリンは、その世界で使われている言語を学ぼうとする。言葉が本質的に誤解によって他者を傷つける危険性を孕んだものであるから、壊れやすいものを扱うように言葉に接する。間違って振り回せば自分だけでは無くて、身寄りの無い自分に親身になってくれたルカやレイさんに迷惑を掛ける。
その世界でリンが学ぶのは、異世界の言葉に習熟することだけでは無い。正しい発音と文法で言葉を喋ることよりも、いちど自分自身の判断を保留して、相手の言葉を真摯に理解しようとする態度のほうが、コミュニケーションの本質に近い。
自分の気持ちを理解してもらいたいと、慣れない言葉を前に格闘すること。相手の言葉を間違えずに理解したいと思って耳を傾けること。その二つの態度の間にしか「ことのは」は生まれない。語彙力や文法、リスニングが優れていても、目の前の他者を理解しようとする意思がなければ何も伝わらないし、伝えられない。

登場人物は「いま私が恋をしている人」という意味で恋人という言葉を使ったり、「私はあなたを渇望している」という台詞を本当の意味もわからないままに喋る。言葉が不自由であるが故に意味が欠落していたり、反対に過剰になってしまう。
言葉が不自由な二人でも互いを理解し合えるのではない。いつも使っている言葉が役に立たなくなった二人だからこそ、慣れ親しんでいた方法とは異なったコミュニケーションのチャネルを自力で立ち上げなければならない。これまで使っていなかった筋肉を動かすようにして、異質なものを理解しなければならない。その意思がリンとルカをつなぐ「ことのは」になる。
日常で使っている定型的な言葉ではなくて、異質なものを前にしてフルスクラッチでコミュニケーションの方法を築き上げなければならない。意味が伝わらないだけでは無くて、中途半端に伝わるせいで致命的な誤解を引き起こすかもしれない。その切迫した状況下で、相手の心に近づかなければならない・自分の気持ちを伝えなければならないという意思だけで、リンとルカはかろうじてつながっている。


・ことのはアムリラート雑感

すてきな作品なのだが、言語を学ぶには尺が短すぎる。学習曲線的に考えて一週間後には言葉を忘れている可能性が高い。言語学習は頭で理解するのではなくて、反射神経に言語を馴染ませていったほうがいい。日本語を思い浮かべて、ユリアーモに訳しているのではことのはアムリラートの世界には近づけない。シャドウイングやリーディング、暗記などを駆使して、日本語を介さずにユリアーモを話せるようになって真の訪問者になれるはずだ。
『NHK語学テキスト エスペラント語』として、一年間を通してがっつりとことのはアムリラートの世界に入り込みたかった。語学学習はゆっくりと身体に言葉を馴染ませていく時間が必要なのだが、ことのはアムリラートはユリアーモを学ぶにはあまりにも短すぎる。もっとルカちゃんとお買い物に行ったり、海水浴に言ったり、ハロウィンで仮装するなどの日常系萌えアニメあるある展開を通して、日常で使えるフレーズを勉強できるような構成なら良かった。でもこの世界には夜が無いから、夏祭りで打上げ花火が見られない。